エピソード(外伝) 15-2 ~沢メイン・長野・フリーガーディアンズ編~
雪
15-2
曇る窓ガラス。
それに、へのへのもへじを書く男の子。
「何してんだ」
「落書き」
「子供か、お前は」
「そうだよ」
柳はにこっと笑い、赤くなった指先をだるまストーブへと向けた。
「分かったから、訓練を頼むよ。名雲君も」
「面倒だな」
「契約は契約。仕事の面でも裏切らないで欲しいね」
「ちっ。柳、行くぞ」
ストーブを抱きしめかねない柳の手を引き、部屋を出ていく名雲。
沢は端末を手にして、通話ボタンを押した。
「……沢です。……ええ、お願いします。……それでは」
「誰」
「教育庁長官。一応上司だから、報告を」
「ああ、あなた直属だものね。でもあなたを採用したのは、前の長官でしょ」
意外と詳しい池上の質問。
舞地は関心無さそうに、ガーディアン希望者のプロフィールをチェックしている。
「こちらに落ち度がない限りは、首に出来ないシステムなんだ。政権が変わるたびに入れ替えてたら、きりがないだろ」
「他のフリーガーディアンも?」
「ああ。といっても数人しかいないから、僕達の代で無くなるって話だ」
「いいじゃない。私も辞めたいわ」
かなり切実な思いを込めた呟き。
「どこかでのんびり、一日中絵を描いて過ごしたい」
「すれば」
「あなたを放っておく訳にもいかなくて」
「それは、私が言いたい」
表情一つ変えず、抜き出したリストを池上へ見せる舞地。
鼻先へ突き出したのが、せめてもの抵抗か。
「選考理由は聞かないけど、随分少ないわね」
「生徒数はともかく、希望者が少な過ぎる」
「かといって、誰でも採用すれば言い物でも無し。仕方ない、少数精鋭で行きますか」
池上はリスト片手に、卓上端末の画面と見比べ始めた。
画面にはリストに載っている生徒の、さらに詳細なプロフィールが表示されている。
「格闘技経験者が、殆どいないわね」
「それは、名雲達に任せる。元々いるガーディアンも使えばいい」
「こっちは、質がちょっとね。本当、私達を雇いたくなる気持ちが分かるわ」
素行面で問題ありとされる、何人かのガーディアン。
混乱が収束したのは、問題のあったガーディアンが退学もしくは転校したのも一因とレポートには記されている。
「ちょっと、これ見た?」
「勿論」
「問題ね、それもかなりの」
沢へと向けられる、下がり気味の大きな瞳。
「知ってた?」
「何を」
「この連中」
現在学内のガーディアン組織に所属するメンバーのリスト。
その数名のプロフィールが、沢に見せられる。
昨日、名雲達と揉めた例の連中達だ。
「レポートに書いてあるだろ」
「処分出来ないの?」
「問題行動が表面化してない。それに、有力者の子弟だ。学校も強くは出れない」
「面白くないわね。闇討ちしようかしら」
物騒な発言が聞かれ、テーブルに置かれていた警棒に手が伸びる。
「池上さん。分かってるだろうけど、自重して。渡り鳥ならそれでも良いけど、今回は公務員としての規則が適用されるから」
「はいはい。とにかく、マークはお願い」
「ああ。無理に辞めさせるより、内に留めて監視した方がいい。取りあえず、今は」
「任せるわ。でもそうなると、学校を辞めた連中も気になるわね」
再び沢へ向けられる視線。
出てくる、別なリスト。
「さっき、生徒課でもらってきた。追跡調査をすぐに行って、こちらも監視する」
「ええ。報復に来る可能性は大。傭兵を雇うかも」
「それこそ、君達の出番だ」
「言ってなさい」
鼻先で笑い、リストへ視線を走らせる。
男女が数名ずつで、こちらは格闘技経験者が含まれている。
「やっぱり、こっちの方がやっかいか。学内の連中と連携して、現在の体制を覆しにかかるかしら」
「それを防ぐのも、僕らの役目だよ」
「本来は、この学校の生徒の役目だと思う」
プロフィールをチェックしつつ、そう呟く舞地。
視線は書類に向けられたままで、二人の方を見ようとはしない。
「僕達は、余計なお節介だって?」
「まさか。ただ、全てを私達がやるのも間違ってると言いたかっただけ。あくまでも、私達はサポートに過ぎない」
「それで解決すると思ってる?」
「思わないから、私達はここにいる」
自嘲気味な笑いを含んだ返答。
書類がテーブルへと置かれ、舞地は軽く伸びをした。
「こうして私達がやってるのはいいとして、元々あるガーディアン組織は何をしてる」
「警備局、だったかな。名雲君達と一緒に、筋トレしてるさ」
「また随分、基礎的な事から始めるのね」
「組織の主流は、今回辞めていった連中。だから今いるのはその残党と、気概のある人達さ」
沢もやはり、笑い気味である。
「気概はあっても、実力が伴わないんでしょ。何してたのよ、その人達は」
「ガーディアン組織の腐敗を一掃するために、一般生徒が立ち上がったんだ。その結果主要なメンバーを追い出したまでは行ったけど、残党達とやり合って組織を維持するどころじゃないらしい」
「で、君を頼ったという訳。じゃあ、もっと頑張ったら」
「雇い主に文句を言わない」
手を振って促す沢。
池上は鼻の上にしわを寄せ、お茶をがぶ飲みして書類にペンを走らせた。
「お茶無いわよ」
「どうして僕が」
「部下が仕事をしやすい環境を作るのも、上に立つ人間の役目なの」
「舞地さんに教えてあげたいね」
素知らぬ顔でクッキーをかじる舞地を横目で見つめ、沢はキッチンへと歩いていった。
むしろ使われているのは自分ではないかという顔と共に……。
学内の体育館。
ジャージ姿で整然と並ぶ生徒達。
ただ全員が床に崩れ、荒い息を繰り返している。
真っ赤な顔と、したたり落ちる汗。
それ以外の事は、何一つ出来ないという様子。
「筋トレでこれか」
「いきなりだから」
「これくらい、どこのガーディアンでも普通にこなすぞ」
小声でささやき合う、名雲と柳。
彼等はその倍をこなしているが、多少息が上がっている程度だ。
「いいか。明日からは、この倍はやるぞ」
どよめくガーディアン達。
名雲は構わず、話を進める。
「そっちの事情や状況は、俺は知らん。嫌なら辞めるか、訓練に参加するな」
小さく上がる、不満気味の声。
顔付きの方は、さらに明らかだ。
「ガーディアンをやりたいのか、やらされてるのか。よく考えろ」
「でも」
「事情は知らんと言った。俺はみんなを、実戦レベルまでに鍛えるだけだ。今から、20分休憩。その後で格闘訓練に入る」
険しい視線も意に介さず、壁にもたれペットボトルを飲む名雲。
柳もその隣で、低カロリーの栄養補給食をかじっている。
「どれだけ残ると思う?」
「一桁残れば十分だ。何なら、全部入れ替えてもいい」
「厳しいね」
「叩き出さないだけましさ」
素っ気なく言葉を返し、ペットボトルを手の中で転がす。
柳も意見としては変わらないのか、彼にしては珍しく醒めた視線をガーディアン達に向けている。
一人、また一人と去っていく者達を。
名雲の予想通り程ではないが、一気に数を減らすガーディアン達。
広い体育館は閑散として、仲間が集まって遊んでいるような人数になっている。
また最初からここに来ていない人間の事を考えると、先の見通しが明るいとは言いづらい。
「格闘技の経験者は……」
手を挙げたのは、20名あまりいる内の数名。
ただ体格や雰囲気を見る限りは、本当に経験の言葉通りだろう。
苦笑した名雲はその数名を前に呼び、軽くフットワークをさせた。
自ら名乗り出ただけあり多少は動き、名雲の牽制気味なジャブにも対応する。
限界に近い表情は、ともかくとして。
「警棒は……、聞くまでもないか」
「これは無くてもいいと思うけど」
「だな。よし、二人一組になって」
それからしばらくの後。
身動きすらしないガーディアン達を置いて、体育館を後にする二人。
もはや不満の声も無く、閉まっていくドアから荒い息が聞こえる程度だ。
「また減るね」
「その方がいい」
「ライオンの子育てじゃないんだから」
「俺達だって、いつまでもここにいる訳じゃない。時間的な事を考えたら、このくらいやらないと」
全裸のまま、シャワーから出てくる名雲。
かろうじて、頭にはタオルが掛かっている。
それに、どの程度の意味があるのかはともかく。
「ちょっと」
「いいだろ、誰も見てないんだし」
「僕がいる」
頬を紅潮させる柳。
彼もシャワーから出た後だが、腰にはしっかりとタオルを巻いている。
何も身に付けていない上半身は相当に鍛えられていて、着やせするタイプのようだ。
「早く、温泉入りたい」
「今、シャワー浴びたばっかだろ」
「別物だよ、全然」
「あ、そう。しかし、俺も結構傷が」
鏡で、自分の全身をチェックする名雲。
小さな切り傷や、火傷の跡。
殆どが目を凝らさなければ分からない程度だが、その数は数えきれない程だ。
「ちゃんと直せばいいのに」
「傷は男の勲章って奴だ」
「馬鹿じゃないの」
苦笑して、柳は自分の姿を鏡に映した。
白い、張りのある肌。
名雲とは違い、傷らしい跡は殆ど見られない。
それは彼が治療をしている事もあるが、怪我自体の数も少ないのだろう。
「さっきは、例の連中がいなかったな」
「どうするつもり?」
「最低限、あいつらに対抗出来るまでガーディアンを鍛える。俺達がいなくなっても、問題ないように」
「責任重大だね」
Tシャツを着て、シャツに袖を通す。
さらにはセーターを着込み、マフラーを巻く。
下はジーンズだが、携帯用のカイロを太股や膝に貼っている。
「着過ぎだろ」
「名雲さんが、着なさ過ぎなの」
Tシャツにシャツまでは、柳と同じ。
ただ彼は、その上にダウンジャケットを羽織るだけだ。
「すぐ車に乗るんだぞ」
「外には出るの。早く、春にならないかな」
「今から冬だ」
ドアを開ける名雲。
廊下から吹き込む、冷えた風。
「寒い」
「外は、もっと寒い。雪国に酒飲みが多いのも、よく分かる」
「それは口実じゃないの」
「かもな。とにかく、早く行こう」
廊下を駆け出す二人。
笑い声と、軽快な足音。
追いすがる寒さを振り払うような。
彼等の所へ冬が来るのは、まだしばらく先なのかも知れない……。
「備品を増やすよう交渉して」
「僕が?」
「あなた、フリーガーディアンでしょ。それに、私達の上司じゃない」
「ああ」
何となく頷き、端末で連絡を取る沢。
池上は書類をチェックしつつ、その会話に一つ一つ口を挟む。
「ここの管轄は、中部庁だったかしら。次はそこへ連絡して」
「人使いが荒いな」
「文句言ってる間に動く」
「誰が雇い主か、考えたくなった」
それでも連絡を取り、予算の交渉と最新マニュアルと臨時職員の派遣を要請した。
「後は、学校側への圧力ね。その、おかしな連中の影響力を排除するための」
「任せるよ。……ん」
開くドア。
入ってくる、大人しそうな少年。
「どうですか」
「こき使われてる」
「え?」
笑いながら小首を傾げる彼に、沢は手を振った。
「聞き流してくれ。状況は」
「今の所は、特に。名雲君達が、訓練しますけど」
「やらせておけばいい。辞める人間が出たら、すぐ補充する」
「その人達が辞めたら、また補充ですか?」
先を読んでくる少年。
室内に起きる笑い声。
池上はマグカップを差し出し、彼に微笑みかけた。
「意外と冷静というか、鋭いのね」
「開き直ってるだけです。そうでないと、俺も入院してる所です」
「修羅場をくぐって来ただけはある訳。頑張って」
「他の人達が戻ってくるまでのつなぎです。その程度の人間ですよ、俺は」
控えめな、前に出過ぎない答え。
ただ卑屈になっている訳ではなく、彼自身そう信じているようだ。
「プロフィールしか見てないんだけど、このおかしい連中の影響力はどの程度なの?」
「議員の息子が一人。有力企業の子供達もいますからね。こういう田舎では、それなりに」
「その辺は、退学したんでしょ」
「ええ。学校も自分達にまで責任が及ぶと考えたようで。ただ復学の可能性がある分、気を付けてはいます」
冷静な判断。
気負っている分はなく、ありのままの事実を受け入れる態度。
混乱は収まらず、決して楽観出来ない状況にあって。
責任を一人追う立場にある彼は、自身を見失ってはいない。
「君は、訓練に参加しないのか」
さりげなく尋ねる沢。
少年は曖昧に微笑み、自分の胸元を指差した。
「一応、経験者なので」
「なるほど。軽く、やってみる?」
「え、ええ」
部屋の中央。
テーブルやラック、壁など。
障害物の多い、決して動きやすくはない場所。
アップライト気味に構える沢。
少年は前屈立ちで、左足を微かに揺らす。
「いつでも」
「はい」
消えるように飛び出す前蹴り。
体を開いてかわす沢。
蹴り足を踏ん張り、そこを軸に体をひねる少年。
鋭い肘が、沢の脇腹へと向けられる。
下から手をあてがい、さらに外へと回り込む沢。
それ以上は少年の体が回らない、つまり攻撃がしづらい位置。
さらには肘が固められ、体が前へと倒される。
タップする少年。
沢は手を離し、慎重に距離を置いた。
「悪くない」
「全然駄目ですよ」
「いきなりで、そこまで出来れば十分だ」
太股を手で払う沢。
少年の膝が入った位置を。
「どう思う、舞地さん」
「え、何が」
眠そうな声。
演技ではなく、本当に寝ていたらしい。
「いや、何でもない」
「そう」
すぐに伏せられる顔。
ただ気になったのか、再び顔が上げられる。
「もう一度やって」
「やらないよ」
「そう」
あくまでも素っ気ない台詞。
少年は戸惑い気味に彼女を見つめるが、その鋭い瞳に見つめ返され首を振る。
脅されたとでも思ったらしい。
「あなたは、何してるの」
「見てないから、ちゃんと見ようと思って」
「お金もらってるんだから、仕事してよ」
「人をこき使うだけが仕事じゃない」
見る所は見ていたようだ。
池上は小さく唸り、手にしていたペンを放った。
「仕事を出来る人はいないの」
「病院に行けば、何人かは」
「嫌な話ね。体力や格闘技もそうだけど、こっちもすぐには育てられないし」
思案の表情。
その細い指先が宙を動き、すっと前に出る。
「あなたの妹さんは。飛び級で高校にいるくらいだから、出来そうね」
「俺よりは」
「じゃあ、決まり。彼女を呼んで」
少しの後。
メガネを掛けた、例の少女がやってくる。
「どうして」
「強いて言うなら、雰囲気ですね」
屈託無く笑い、卓上端末へと向き合う。
点眼液による視力補正が主流となっている現在、メガネを使う者は年輩者が殆どだ。
ノーフレームの丸いメガネを押し上げ、軽く顎を引く。
「それで、私は何を」
「ファイルをまとめて、クラス順に分けて頂戴」
「全校生徒を」
「ええ、お願い」
滑るように動く指先。
視線は画面とその脇に付けられた生徒のリストを交互に移動し、散乱していたファイルが収れんされていく。
「後は、トラブルを抱えている生徒のリストを彼に」
沢を指差す池上。
少女はこくりと頷き、作業へと戻る。
「学校の、警備責任者との面談もセットして。それは、お兄さんに頼んだ方がいいのかしら」
「ええ、俺の方で連絡しておきます」
「後は、ガーディアンのスケジュール管理ね。各自に連絡して、活動出来る日時を」
「了解しました」
淀む事無く、指示通りにこなす少女。
池上はそれを見届け、退学や転校した者達の近況報告を調べ出した。
「どうぞ」
「ん、ああ」
端末の画面から目を離し、リストを受け取る沢。
一人一人の名前と顔に指が置かれ、視線が流れていく。
「暗記してるんですか」
「そう見える?」
「ええ。でも髪型や服装が変われば、見分けは付きにくいと思うんですけど」
「当然、それも考慮にいれるさ」
沢ではなく、彼女の兄が説明する。
「整形する訳じゃないから、顔自体は変わらない。出来れば動画で、癖や細かい特徴が分かれば問題ない」
「詳しいね、君は」
今度は沢がこくりと頷き、書類を彼へと見せた。
「それはともかく、リーダー格は」
「彼です」
やや太めの指が、一人の男を指し示す。
名雲達とドライブインで揉めた男。
その時も、先頭を切っていた人物を。
「知り合い?」
「いえ。勿論、話した事くらいはありますが。知り合いだと、情が絡んで辛いとでも?」
「それもあるし、後ろから刺されたら困る」
「ああ、そっちの意味で」
不信とも取れる沢の発言に、笑顔で応える少年。
鷹揚とも、鋭いとも言える微笑みで。
微かな戸惑いを見せる沢。
だがそれはほんの一瞬で、気付いた者は誰もいない。
少なくとも、この場で彼に告げる者は。
昼過ぎの食堂。
一人で食事を取る沢。
先日同様、おにぎりとみそ汁。
後は長野という土地柄か、野沢菜が小皿に盛りつけられている。
「随分、質素なんですね」
「最近贅沢してたから、節制しようと思って」
「だったら、これは余計かな」
ピンクのナプキンを広げ、小さなランチボックスを取り出す少女。
俵型のおにぎりと、ポテトサラダにハンバーグ。
アスパラのバター巻きに、鳥のつくね。
彼女の体型にあった、可愛らしい量。
「多いから、少し食べてもらおうと思ったんですけど」
「僕が?」
自分の顔を指差す沢。
ちなみに食堂にいるのは、彼と彼女だけである。
「でも、節制してるんじゃ駄目ですね」
「いや。無理にしてる訳でも」
「でしたらどうぞ」
「え。ああ」
何故か深く一礼して、鳥のつくねに箸が伸びる。
小さく動く顎。
微かに緩む口元。
少女はそれ以上に顔をほころばせ、自分も箸を動かし出した。
人に食事を勧める時、それを喜ぶ理由は幾つもない。
フリーガーディアンの訓練の一つとして、他者の意図を読む事がある。
またそういった能力のある人間が、この資格の選抜対象者になっている。
黙々とおにぎりを頬張る沢も、無論その例外ではない……。
「何してるんだ」
「え」
屋上。
凍り付くような、澄んだ空気。
空は限りなく青く、彼方に見える山々は白銀に覆われている。
ただ風は無く、日差しが溶け残った雪をきらめかす。
「私だって、たまには一人になりたい時もあるわ」
「仕事は」
「妹が頑張ってる」
前髪を流す、優雅な指先。
燐光を散らす黒髪。
物憂げな眼差しが、青空を捉える。
「自分こそ」
「お守りも疲れた。大体俺は1年で、年上の人間もいるんだぜ」
「そのくらいの気は遣ってるのね」
「馬鹿にしやがって」
軽く飛び上がり、手すりへ腰掛ける名雲。
危ぶむような、繊細な表情。
それは傍らにいる、池上へと向けられている。
「どうしたの」
笑いながら尋ねる池上。
翳りと、儚さを含んだ表情で。
「どうって訳でもないけど。お前も、女だからな」
「よく分からないわね」
「確かに」
グランドへと向けられる、名雲の視線。
昨晩降った雪がそのままに残り、雪と戯れる生徒達の姿が見える。
「惚れた?」
「いいかもな、それも」
「馬鹿」
苦笑して、池上は手すりへ手を掛けた。
それまでよりは明るめな口調。
透き通るような、消え入るような儚さはそのままに。
「別に、伊達君を引きずってる訳じゃないのよ」
自分からの告白。
名雲は目を細め、空を見上げる。
「勿論、気にはしてるけど。今でも会いたいし、一緒にいられたらいいと思う。ただ、それを行動に移す程でもないの」
「ああ」
「純情さが欠けてるのか、気持が付いていってないのか。何もかもなげうってまで、とは行かないのよ」
やるせない心は白い吐息となって、二人の間に消えていく。
前髪が揺れ、瞳を隠す。
翳りの中に、その表情も。
「それだけ、大人になったんだろ」
「え」
「突っ走るだけが、人の気持ちじゃないって事さ。ガキじゃないんだし」
少し荒い口調。
名雲は手すりから降り、冷えたそれに手を掛けた。
「伊達も、同じ気持ちだから会いに来ないんだろ」
「どうかしら。向こうは私なんて、どうとも思ってないわよ。私も恋愛感情かって言われると、ちょっと困るし」
「その辺は俺も知らんが、死に別れた訳じゃないんだ。会いたいと思えば、いつでも会える」
「そう、そうね」
ゆっくりと頷く池上。
「俺が、これを言ったら駄目なんだけど」
「お父さんの事?」
「それこそ、会いようもないし相手の気持ちを確かめようがない。ただ俺は母さんがいるから、話を聞ける」
「ああ、柳君」
少しの沈黙。
だからこそか。
二人の顔に、笑顔が戻る。
自分達が沈んではいられないとばかりに。
「駄目ね、私は。下らない事で悩んじゃって」
「悩まないよりましさ。舞地だって、親父の話になると同じだろ」
「あの子の場合は、素直じゃないだけよ」
ようやくの冗談っぽい台詞。
舞地の話題で盛り上がる二人。
翳りも、儚さもその中に含み。
彼等は、心強く生きていく……。
「クシュッ」
「風邪かい」
首を振り、鼻をかむ舞地。
池上達の噂話のせいという訳ではなく、彼等がいるのはある教棟の玄関先。
外に出で寒くなったのが、その理由だろう。
おそらくは。
「あ」
その舞地が、突然駆け出した。
「どうかしたんですか?」
「さあ、僕に聞かれても」
ただ沢は、分かっているという顔だ。
教棟の傍らにある水飲み場。
南向きにあるせいか日当たりがよく、雪は綺麗に溶けている。
わずかに生えている雑草。
その上に丸まっている、茶褐色の毛玉。
「あの」
戸惑う少年をよそに、腰を屈め猫を撫でる舞地。
表情にさほど変化はないが、いつもよりは穏やかだ。
「猫、好きなんですか」
「そうでもない」
喉を撫でながらでは、説得力はない。
「こんなの所にも、猫がいるんだ」
感嘆に近い声を出し、一人と一匹を見つめる沢。
少年も不思議そうに頷いて、ポケットをまさぐった。
「……食べるかな」
差し出されるチョコレート。
舞地ははっきりと首を振り、自分のポケットに手を入れた。
「猫は、肉しか食べない」
「はあ」
「それは、沢に上げて」
「あ、はい」
チョコを分け合う男二人。
舞地は猫と、ジャーキーを分け合っている。
「何してるんですか」
口元を動かしながら、顔を上げる4人。
少女はくすっと笑い、舞地と一緒に猫を撫でだした。
「用務員さんが飼ってるらしいですよ」
「そう」
「その内、子供が生まれるって言ってました」
何となく膨らみ気味のお腹。
「親は」
「さあ。猫が一夫一妻せいとも思えませんし」
「そう」
先程よりも、より優しく猫を撫でる舞地。
少女は立ち上がって、ブルゾンを羽織った肩を抱いた。
「今日も寒いですね」
「そうかな」
舞地並みの素っ気ない返答をする沢。
それに構わず、少女は沢に笑いかけた。
「少しは、ここに慣れました?」
「多少は」
続きにくい会話。
少女は笑顔を絶やさない。
「あ」
のそのそと歩き出す猫。
それを追っていく舞地。
ただ捕まえる素振りはなく、後を付いていくだけだ。
「どうにかなると思いますか?」
世間話から離れた内容。
沢もようやく、彼女と向き合う。
「そのために、僕は来た」
今まで同様、短い言葉。
しかし引き締まった、峻烈な表情で。
「何があっても?」
「何があっても」
重なる視線。
日差しに輝く新雪。
二人の間を過ぎていく光。
「でも」
俯く少女。
緩む口元が、ゆっくりと開かれる。
「いつかは、ここを出ていくんですよね」
応えはない。
きらめく雪が、日差しに溶ける。
「わがまま言うんじゃない」
「兄さん」
「済みません。俺達は、ここに来てもらっただけで感謝してるんです。だから」
「僕はまだ、何もしていない」
落ち着いた口調で、そう呟く沢。
その眼差しは兄妹を捉え、微かに煙る。
「俺だって、この学校にしがみついてるだけで。本当に何もしてません」
「諦めないというのは、それだけで人に力を与える」
何かを懐かしむような表情。
彼自身が、それに気付いているのかどうかは分からない。
「自分が何も出来ないと思ったら、人を集めればいい。例えば、今度のように」
「でも、自分で何もやらないのは」
「人には役割がある。勿論一人で何でも出来る人もいるけれど、そうでない場合が殆どだ。だから人は集まって、何かを成し遂げようとする。それが、どれだけ困難だとしても」
遠くなる眼差し。
二人を見ているようで、その先にある違う誰かを見ているような。
「僕にやれる事があれば、全力を尽す。例え、何があっても」
同じ言葉を繰り返す沢。
兄妹は真剣な面持ちで、その言葉を受け止める。
溶けていく雪がぬかるんだ地面を滑り、水たまりを作る。
少しずつの流れが集まり、小さな水たまりを。
それは青空を映し出し、白い雲を流していく……。
学校内にある、沢達に与えられた一室。
沢が手を伸ばし、テーブルの上にあった端末を手に取った。
「……はい。……ああ、今行く」
「どうした」
「生徒が暴れてるらしい」
「ガーディアンがいるだろ」
ドアを顎で示す名雲。
沢は警棒を腰に差し、手で彼を促した。
「彼等だけに任せるのは、まだ無理がある。それは君が、一番分かってるはずだ」
「仕方ないな」
「好きな癖に」
柳はすでにドアの前で、準備を整えて待ち構えている。
「早く」
「今行く。舞地達は」
「女性に、そんな事はさせられない」
「柄にない事言いやがって。さてと、久し振りの実戦と行くか」
一階、教棟の玄関辺り。
そこから教室へと続く廊下が、左右に延びている。
かなりの野次馬。
しかし、騒いでいる様子はない。
会話が所々である程度で、殆どは無言でその出来事を見つめている。
「何があった」
「え」
振り向いた先にある、大柄な男性の体。
声を掛けられた男子生徒は唖然としつつ、人垣の向こう側を指差した。
「その、あの。」
「心配するな。俺は、あいつらの仲間じゃない」
「雇われ組だよ」
「ああ」
ふと和む彼の顔。
それでも、口は重い。
「とにかく、関わらない方がいいですよ」
「こっちも、仕事だ。連中は、どのくらい支持されてる」
「見ての通りです」
周囲の野次馬を指差す生徒。
嫌悪感と、不安と、諦め。
ここにいる限りは、どういう形にしろ彼等と関わる他無く。
それから逃れる術はないという雰囲気。
その事が真実かどうかはともかく、ここにいる者の大半はその現実を受け入れている。
「やる気出せよ、少しは」
「はあ」
「ここで言っても意味無いか。いいから、下がってろ」
数名の男女と、それに囲まれるやはり数名の男女。
理由は定かでないが、お互いの表情を見ればその状況は明らかだ。
救いの手が、どこからも差し伸べられていないのも。
「そこまでだ」
警棒を肩に担ぎ、名雲が彼等の前に出る。
「誰だ……。お前」
「よう」
軽い挨拶。
後ずさる連中を後目に、名雲は距離を詰める。
「また会ったな」
「ど、どうしてここに」
「仕事だ。ガーディアンに雇われた」
沢に向けられる視線。
彼等は沢も知らないため、表情に怪訝さが含まれるのは仕方ない。
「馬鹿が。この学校にいたいなら、大人しくしてろ」
「随分強気だな」
「俺達がどういう人間か、調べてないのか」
周囲へ聞こえるように、大きな声でそう言い放つ男。
自分の立場。
正確には親の立場だが、それを理解した上での発言。
静まりかえる生徒達に満足感を覚えたのか、ゆとりを感じさせる笑顔まで浮かぶ。
「田舎議員の息子が、ここではそんなに偉いのか」
一笑に付す名雲。
柳は退屈そうにあくびをして、頬を指で撫でる。
「な、なに。お、俺が一言言えば」
「その前に、お前が入院してるさ。口も聞けず、手も動かせない状態でな」
「な」
「冗談だと思うなら、試してみろ」
挑発気味に動く指先。
天秤を計るような、重苦しい表情になる男。
すぐに腰の警棒に手が伸びるが、それが抜かれる事はない。
「止めた方がいい」
手首を掴む、華奢な指先。
男の斜め後ろから現れた沢は、その位置を保ち手を離さない。
「お、お前も仲間か」
「それは、自分で判断してくれ。ここで彼に掛かっていて、どうなるかも」
「な、なに」
「ガーディアンとは根本的に違う存在だと、早く気付いた方がいい」
警棒を担ぎ、軽い笑顔を浮かべる名雲。
柳は暇そうに、自分の手を見つめている。
沢の言葉とはかけ離れた態度で。
「あ、あれのどこが」
「無理に止める気はない。僕は混乱さえ収まれば、それで構わないから。誰が怪我をしようと、どうなろうとも」
低い、警告に似た言葉。
男の喉が鳴り、額に汗が浮かぶ。
「今なら君達の立場も考え、穏便に事を済まそう。ただしこれ以上何かをするようなら、こちらにも考えがある」
「か、考え」
「君達がこの学校でしてきた事を、倍にして返すという意味だ」
手を離す沢。
震える男の体。
それには構わず背を向け、名雲達の元へと向かう。
「脅すな」
「君もだろ」
「俺は笑ってるだけさ」
「僕は、何もしてません」
三者三様の答え。
ただし、周囲の視線は違う。
ここにいる男達へ向けられる視線は。
沢の言った通り、根本的に何かが違う人間。
彼等を脅し、この学校を半ば支配していた者達とは比べ物にならない威圧感。
暴力を振るった訳でも、力尽くで押さえ付けた訳でもない。
しかし彼等が男達を黙らせたのは確かであり、この静寂を生み出したのも紛れもない時膣である。
それを、何事もなかったかのように笑顔で話す彼等が。
「ちっ」
捨て台詞もないのか、暗い瞳を向け去っていく男。
仲間達も同様に、その後へと続いていく。
歓声も、怒号も無い静かな中。
それを見届け、この場を後にする野次馬達。
名雲達が助けたはずの者達は、すでに姿がない。
「挨拶も無しか。期待もしてないけど」
鼻で笑う名雲。
柳は肩をすくめ、寒そうに自分の足をさすった。
「終わったのなら、早く帰ろう」
「ああ。何にしても、面白くないな」
「それを承知で、戻ってきたんだろ。何を、今さら」
共感めいた笑顔を浮かべる3人。
誰に理解をされなくても、感謝の言葉が無くとも。
気持が通じ合い、分かりある者がいる。
生まれ育った環境も、立場も、年齢も違うけれど。
確かなつながりのもてる者がいる限り、その笑顔が絶える事はない。
「ご苦労様です」
ホットミルクを差し出す少年。
柳は嬉しそうに口を付け、息を付いた。
「寒い時は、これだよね」
「コーヒーだろ」
「僕はミルクなの」
可愛らしい、女性から見たらたまらないだろう愛らしい笑顔。
それこそ見た、見ないで、ケンカすら起きかねない程の。
本人はそれを意識していないため、無防備にその笑顔を振りまいている。
「どう思います?」
「ガーディアンに場数を踏ませるべきだね。シュミレーションでも構わないから」
「人手がいない分は」
「少なくても、実力さえあればどうとでもなる。今度のように」
窓際で騒いでいる名雲達へ視線を向ける沢。
彼にしては珍しく、微笑ましげな顔付きで。
「急造だから駄目だと言っていられる状況でもないだろ」
「ええ。それは分かってます」
「今は君が責任者なんだし、頑張らないと」
「そういう柄じゃないんですけどね」
弱気な発言はしても、諦める姿勢は見せない。
沢の元へ来る警備局の人間は、彼一人。
他の者は、殆どその顔すら見せない。
それは傭兵を恐れているのか、責任を取らされる事を嫌っているのか。
言えるのは、彼が矢面に立って頑張っている事。
「沢さん達がいるお陰で、ガーディアンの募集に応じる人間も多少は出ています。格闘系クラブからも、何人か」
「君が、柳君のビデオを見せたからだろ」
「知ってたんですか」
「彼の動きを見れば、分かってる人間は気持が動く。策士だね、案外」
否定的ではなく、どこか嬉しそうな言い方。
細い瞳はさらに細くなり、少年の瞳を真っ直ぐに見つめる。
「一人で、よくやってる」
「自分しかいないから、仕方なく。妹は、まだ中学生ですし」
「ああ」
「結局は、自分しかいないんです」
鋭さを帯びる表情。
固められた拳がテーブルに押し付けられ、微かに揺れる。
沢は無言で足を組み替え、目を閉じた。
それを避けるようにして。
「捨て石になる気か」
「え?」
「そういう言い方だったから」
「まさか。そういうタイプに見えます?」
笑う少年。
沢は目を閉じたまま、静かに首を振った。
「その判断が付くなら、尋ねていない。僕も、最期まで見届けた訳ではないし」
「何の話です」
「……いや、何でもない」
もう一度首を振り、席を立つ。
視線は窓辺へと向けられ、少年と重なる事はない。
ここを見つめる視線、過去を振り返る眼差し。
だがその心の内は、彼にしか分からない。