13-2
13-2
あくびをかみ殺し、ホワイトボードの文字を書き写す。
寝不足ではなく、退屈なだけだ。
無料で授業を受けていて我ながら思うけど、眠い物は眠い。
化学は苦手なのよ。
サトミは平気な顔で、亀の子を書いている。
化学記号とも言う。
全く、何がどうつながっててもいいじゃない。
「こんなの嘘よ」
「え?」
「だって、見えないじゃない」
目の前を指差して、鼻を鳴らす。
ショウは首を振って、私から顔を逸らした。
「何、それ」
「大昔の人間みたいな事言うなと思って」
「失礼ね。私だって、地球が丸い事くらいは知ってる」
「それはよかった」
安堵感漂う表情。
人を馬鹿みたいに言って。
というか、馬鹿だけど……。
放課後。
復習も兼ねて、オフィスで亀の子と向き合う。
「これがこうで、ここと……」
「違うわよ。Cの上がOHで、下がCa3」
「本当に?」
「嘘付いてどうするの」
ため息混じりに差し出される、化学の参考書。
そこにはサトミが言った通りの図が書かれている。
じゃあこれが嘘だ。
と、あり得ない論理を唱えたくなる。
「これって、何か役に立つ?」
「あなたが、理工系に進むなら」
「進まない」
「だったら、殆ど無意味ね」
なんだそれ。
とはいえテストは必ずやってくるので、もう一度記号を書く。
何度でも書く。
「ユウ、間違えたまま書いてるわよ」
「嘘」
「だから、嘘を言ってどうするの」
サトミが指を差した、上から3つ目。
aがCに入れ替わっている。
自分で入れ替えたんだけどね。
「あー」
弱々しく叫び、ペンを置く。
少し立ち直れない気分。
これこそ、自分で自分が嫌になる。
「ショウもやりなさい」
「俺、苦手なんだよ」
「苦手だからやるの」
差し出される記号表と、白紙のプリント。
ため息を付き、上の方から几帳面に写していくショウ。
嫌だと言っても無駄なので。
というか、この人に逆らえる人はいるのか……。
「ケイはやらないの?」
「俺も理系には進まない」
平均点くらいは取れるので、無理に勉強する気はないようだ。
それに、一応勉強は出来る子だから。
数学や物理を除いては。
「あなた、大学はどうする気?」
「心理、民俗学、日本史。出来るなら、三つとも専攻する。自分こそ」
「私は心理、国文、政経。それと、後二つくらい。出来るならね」
「よく言うよ」
苦笑しあう、サトミとケイ。
この二人は今からでも大学に進学出来る能力があるため、こういう会話が自然に出る。
何故ここにいるのかと思う時もあるし、サトミなんて大学から勧誘が来るくらい。
「卒業出来るなら、という前提だけど」
「普通にしていれば問題ないでしょ」
「まあね」
あくびをしつつ、私に視線を向けるケイ。
私は伸びをしつつ、それを避ける。
「逃げられました」
「だ、大丈夫だって。そんな退学なんて、余程悪い事しない限り。大体私達は、それを防ぐ立場じゃない」
「学校と揉めたら、って話。それはもう、俺達の行動を逆手に取られる世界だから。気に過ぎといえば、し過ぎだけど」
言葉とは裏腹に、ケイは気のない表情で雑誌を読み始めた。
「ねえ、どう思う?」
「難しいな」
真顔で頷くショウ。
そして、ため息を付く。
「やっぱり駄目だ。これ以上は、もう無理だよ」
「え?」
沈痛な表情。
振られる首。
それまで平然としていたケイまでもが、彼へ視線を向ける。
「おい、何言ってるんだ。まだなにも……」
「え、お前こそどうした」
見つめ合う二人。
微かに眉を動かすケイ。
そのまま彼の視線は、下へと向かう。
「……化学記号の事?」
「それ以外に、難しい事でもあるのか?」
「い、いや。俺が馬鹿だった。それを今、改めて知った」
「急にどうしたんだ。別にお前は、馬鹿じゃないぞ」
おおらかな笑顔でケイの肩を叩くショウ。
ケイは薄ら笑いを浮かべ、彼の肩に触れた。
見ようによっては微笑ましい光景だ。
「駄目ね、この人は」
「それだけ集中してたのよ」
一応フォローする私。
サトミは頷きもせず、化学表をリュックへしまった。
「もう終わりか?」
「ええ」
「助かった」
「本当に」
小声で呟くサトミ。
私とケイが、小さく笑う。
「何だよ」
「別に。それより、神代さんはまだかしら」
「あの子、今日も来るの?」
「毎日来るわよ。ユウも先輩として、彼女をちゃんと指導してね」
指導って言われても、何を指導すればいいんだろう。
「私はどうすればいいの」
「それを考えるのも、先輩の役目」
「じゃあ、サトミは何するのよ」
無言でキッチンへ消えるサトミ。
逃げるような足取り。
結局あの子も、分かってないんじゃないのかな。
大体今まで、研修なんて受け持ちじゃなかったし。
「でもあれだ。俺達は、塩田さんの所で研修してたんだよな」
「そうだね。モトちゃん達と一緒に。ヒカルもいたし、あの頃が懐かしいね」
「年寄りみたいな事言うな。ただ神代さんは、ガーディアンとしてもうやってる訳だから。本当、俺達は何するんだ」
「さあ」
無い知恵も絞り出せない二人で首を傾げていると、ドアがノックされた。
「こんにちは」
控えめな声と共にドアが開けられ、その神代さんが入ってきた。
慌てて席を立つ、私とショウ。
サトミはキッチンから戻ってこない。
「ど、どうぞ。サトミ、お茶。お茶、お茶」
「一度言えば分かります」
遠くの方から聞こえる声。
このまま出てこないつもりじゃないだろうな。
「それで、私は何をしたらいいんですか」
恐る恐るといった感じで尋ねてくる神代さん。
私もそれを尋ねたい。
後ろを振り返ったら、キッチンの方に影が見えた。
サトミが立っているらしい。
でも、出てこない。
「参ったな」
「え?」
「こっちの話。えーと、それで」
頭に両手を置き、室内をぐるりと見渡す。
さー、どうするよ。
何だか脇の辺りから、ひやっとした汗が出てきたし。
「玲阿君、どうする?」
俺に振るなという顔。
こういうのは私達向きじゃないんだよね。
モトちゃんなら、すっと色々指示を出せるんだろう。
そう考えると、あの子は偉いな。
みんなが彼女を慕う理由も、よく分かる。
分かったからといって、この場がどうなる訳でもないけど。
そう思っていたら、部屋の窓際に座っていたケイと目が合った。
神代さんと少し揉めたので、避けているのだろうか。
そんな彼の視線が私の目の前に向けられ、微かに顎が動く。
何だろう。
「あれ」
「はい?」
「え、えと。これ、まずはこれを書いて。次は、これの整理。面倒だけど、お願いね」
「分かりました」
笑顔で私が差し出した書類を受け取る神代さん。
それはガーディアンとして働ける日時の申請書と、私達が管轄するG棟A-2地区の要注意者リスト。
私の手元にはそれ以外の書類もあり、高校のガーディアンになった彼女にはちょうど良い物ばかり。
神代さんは集中した顔付きで、その書類と向き合っている。
「そんなの、どこにあった?」
耳元でささやくショウ。
私は肩をすくめ、それとなくケイを指差した。
彼はすぐに理解し、窓際へと笑いかけている。
「頑張ってるわね」
「あ、こんにちは」
「いいのよ。お茶どうぞ」
今頃やってきて、笑顔でお茶を出すサトミ。
神代さんは恐縮気味にマグカップを受け取り、彼女に頭を下げた。
隠れてた事に全然気付いてないな、当たり前だけど。
「中等部でもガーディアンをやってたんだから、改めて研修し直す必要はないんじゃなくて」
「あたしもそう思うんですけど、上の方からそういう指示が来たので。みなさんには、ご迷惑をお掛けします」
「それは私達の台詞よ。特にこの二人はトラブルメーカーだから、巻き込まれないように気を付けなさい」
私とショウを指差し、くすっと笑うサトミ。
神代さんはどう答えていいのか分からないといった顔で、そのまま書類へ視線を落とした。
「という冗談はともかく。私達は、本当に色々と狙われているから」
「は、はい。一応、インナーのプロテクターは身に付けてます」
「それでいいわ」
人を冗談扱いしておいて、澄ました顔で頷いている。
ただ狙われているのは確かなので、それは同意見だ。
私達を倒して名を挙げようとしている連中や、逆恨み。
場合によっては例の傭兵達の仲間がこないとも限らない。
また去年舞地さん達とやり合った場所に現れた、謎の男達。
名雲さんの推測だとあれも傭兵らしく、油断は禁物だ。
しかし改めて思い返すと、かなりひどい話である。
私は普通にやっていて、何も悪い事はしていないのに。
ただこういう事では落ち込まず、却って怒りがこみ上げてくる。
気付いたら席を立ち、拳を握り締めていた。
机を睨んでいるような気もする。
気というか、睨んでる。
「あ、あたし何かしました?」
不安そうに尋ねてくる神代さん。
目の前にいるので、自分に原因があると思ったのだろう。
私は慌てて拳、じゃなくてそれを開いた手を振った。
「違う違う。ちょっと運動しようと思っただけ」
「でも、震えてませんでした?」
「今日、寒いから」
窓から降り注ぐ、穏やかな春の日差し。
窓際にいるケイはTシャツ1枚で、私とサトミもブレザーを脱ぎベスト姿になっている。
「いいのよ、この子はたまにこうなるから」
「は、はあ」
不安と困惑の入り交じった視線。
かなり誤解されてないか?
「私は至って正常よ」
「自分でおかしいと自覚してる人なんていないわ。ちょっと見せてね」
かなり失礼な事を言って、神代さんから書類を受け取るサトミ。
「ここに載っている人間は、監視下にあるからまず問題ないわ。本当に危険なのは、こうして自警局のリストに載ってこない人間」
「は、はい」
表情を強ばらせて頷く神代さん。
机の上にある手が、震えているようにも見える。
サトミはそれとなく注意を払いつつ、言葉を続けた。
「私達だけでなく、ガーディアン自体に恨みを持つ人間は多い。それは分かってるわね」
「え、ええ」
「中学生とは違って、体力も付き武装化も進んでいる」
「わ、分かってるつもりです」
ぎくしゃくとした頷き方。
悪くなる顔色。
私が口を挟むより前に、サトミが頭を下げた。
「ごめんなさい。脅すつもりはなかったの。ただ、心構えとして知っておいて欲しくて」
「は、はい」
「心配しなくても、この子達は強いから。あなたに手を出そうとする人なんて、近付けもしないわ」
優しい、暖かな笑み。
強ばっていた神代さんの表情が微かに和らぎ、手の震えも収まってくる。
根本的な問題が解決しているかどうかは、分からないけれど。
「取りあえずその申請書を、A-1の生徒会ガーディアンズと連合に提出してきて」
「分かりました」
会釈して、部屋を出ていく神代さん。
私は足音が遠ざかったのを確認して、サトミへ顔を向けた。
「どうして、震えたりしたのかな」
「色々事情があるんでしょ。言いたかったら、本人が話してくれるわよ」
「詮索するとまずいって事か。俺は、関わらない方が良さそうだな」
「後輩の悩みを解決するのも、先輩の役目。逃げないの」
軽く釘を差すサトミ。
確かにそうだけど、事情が分からないのではどうしようもない。
「ケイはどう思う」
「さあ。あの子が優秀なら、それでいいんじゃないの。本人が、解決したいと言い出さない限り」
「醒めてるな、お前は」
「本人の問題だからさ。第一俺は嫌われてるから、その意味でも積極的になる理由はない」
ショウの言葉通りの、醒めた言葉。
神代さんのために書類を揃えた人と、同一人物とは思えないくらい。
「……外で騒いでない?」
「怒鳴ってるな」
聞こえないという顔をするサトミ達。
だがその表情がすぐに変わる。
近づく叫び声と、怒号。
激しい足音。
飛び出そうかと思っていたところに、ドアが開いた。
「なんだよっ」
入って来るなり怒鳴る、大柄な茶髪の男の子。
ここのブレザーを着ているので、おそらくは新1年だろう。
「離せっ」
彼の後ろには、例の入門希望者小谷君が立っている。
どうやら、無理矢理ここへ連れてきたようだ。
「その子、どうかしたの?」
「暴れていたので」
「仲間と遊んでただけだっ。話聞けよっ」
「今からここで聞く。いいですよね」
生真面目な表情で尋ねてくる小谷君。
睨んでくる男の子。
サトミはドアを閉めさせ、私達がいるテーブルを指差した。
「ここは尋問用の場所がないから、本当はやらないんだけど。一応、話を聞くわね」
「そんなの必要ないんだよっ」
なおもサトミに食って掛かろうとした男の子だが、彼女の視線を受けてすぐに口を閉ざした。
あの鋭い眼差しを向けられれば、虎でも逃げる。
「調書ではなくて、あなたの言い分を聞くの」
「遠野さん、でもそれは」
「何か問題かしら」
「いえ」
小さく首を振る小谷君。
男の子は舌を鳴らして、荒々しく椅子に座った。
「名前は」
「ナンパか」
「ショウ」
彼の背中越しに落ちる影。
肩に置かれる大きな手。
途端に額から、汗が流れ出す。
「意識を失わせて、IDを見てもいいのよ」
「わ、分かった」
慌てて名前を告げる少年。
サトミはペンを振り、白紙の紙をそれで差した。
「彼はあなたが暴れたと言っている。それについての反論は」
「だから、仲間と遊んでただけだ。昨日の空手の試合の事で盛り上がってて。そこに突然あいつがやってきて、仲間を殴りそうになったから俺が止めに入ったんだよ」
「窓ガラスを叩いてただろ」
「その隣の壁だ。破片でも見たのか?」
険悪な表情で睨み合う二人。
一色触発とまではいかないが、お互い譲る気は無いようだ。
「大体分かりました。あなたは帰って結構よ」
「遠野さんっ」
「点数稼ぎか知らないけど、ガーディアンだからって調子に乗るな」
よく聞く捨て台詞を残して出ていく男の子。
小谷君は顔を赤くして、サトミに詰め寄った。
「どういう事ですか。あいつは間違いなく暴れていて、ガラスを割ろうとしてたんですよ」
「あなた以外に、それを証言出来る人は?それだけ騒いでいたのだから、相当目立ってたでしょ」
「そ、その。とにかく身柄を抑えるのが先だと思って。話は誰にも聞いてません」
「だとしたら職権乱用として、あなたが逆に訴えられかねないわよ。大体その程度の事は、警告程度で済ませるはずでしょ」
サトミの冷静な指摘に、言葉を詰まらせる小谷君。
だがその瞳は何か言いたげに、彼女を捉えている。
「遠慮しないで、何でも言ってちょうだい。先輩だからって、気を遣わなくていいのよ」
「俺達は、規則に基づいて行動するんですよね。だから俺は、あいつを連れてきたんです」
「マニュアルに沿って厳密に判断すれば、確かにそうよ。でも本当にその通り動いていたら、私達は学内の生徒を全員取り締まる事になるわ。そのための自己裁量権が、私達には認められている」
「それこそ職権乱用の元じゃないんですか。規則を逸脱しないよう行動する事こそ、俺達には求められてるはずです」
かなりの強い口調。
サトミを見つめる眼差しは鋭く、力がこもっている。
熱い心の内をぶつけるように。
「あなたの考えは分かったわ。ただそれでは、これから色々大変だと思うわよ。私達みたいな、いい加減な行動を取る人間と一緒にやっていくのなら」
「いい加減だなんて、そんな」
「それとも、私達の考え方でも変える?」
くすりと笑うサトミ。
小谷君は遠慮気味に笑い、首を振った。
「いえ。俺はただ、自分の考えを言っただけで。別に自分が絶対正しいと思っている訳でも」
「私もあなたに干渉する気はないわ。ただし、自分の意見が正しいとは思っている」
冗談っぽい口調。
緩む口元。
しかし瞳から鋭い光が消える事はない。
「どうでもいいだろ、そんなのは」
何となく重くなった空気の中、軽い調子で間に入るケイ。
顔はTVへ向いたままで、手にはゲームのパットを持っている。
「それに規則はころころ変わる。昨日は正しくて、今日は駄目という具合に。適当にやってればいいんだよ」
「ですけど」
「君は考えが固いな。矢田君を思い出す」
ケイは鼻を鳴らして、ゲームをリセットした。
別な言い方をすれば、彼のキャラが負けた。
「俺達の仕事は生徒を守る事で、規則を守る事じゃないってのは分かってる?」
「ええ。ですからそれをよりスムーズにこなすために、規則があるんですよね」
「それと今言った通り、職権乱用を防ぐため。つまり、ガーディアンが暴走しないための抑止力でもある」
TVを見たまま、小谷君を指差すケイ。
再び彼の顔が赤くなり、口が開き掛ける。
「ただいま戻りました」
ドアが開き、いつも通り控えめに神代さんが入ってきた。
彼女は興奮気味の小谷君を避けるようにして、私の所へやってきた。
「あの人は?」
「私達と一緒にやりたいんだって」
「研修ですか」
「そうじゃなくて、自分から希望して」
すると神代さんは「変わってるな」と呟き、書類を整理しだした。
随分失礼な子だ。
「彼女は」
やはり尋ねてくる小谷君。
私は彼女の大きな肩を抱き、にこりと笑った。
「しばらくここで研修する事になった、神代さん」
「よろしくお願いします」
ぶっきらぼうに頭を下げる神代さんに、小谷君は「ああ」とだけ答え適当に頷いた。
「止めなさいよ」
文句を言いたげな神代さんの耳元でささやき、目線で合図する。
彼女も仕方なさそうに頷き、そのまま書類へ視線を落とした。
「仲間はどこにいるんだ」
「え?」
「君の仲間は、どこで何してるって聞いたんだ」
低い声で尋ねる小谷君。
神代さんは薄く微笑んで、背もたれへと崩れた。
「あたしに何か、言いたい事でも」
「自分の方が、よく分かってるんじゃないのか。おかしな連中と歩いてるのを、入学式の時に見たぞ」
「あれはあたしの友達よ。あなたに文句を言われたくないわね」
「人の迷惑も気にしないで騒いでるのが仲間か。連中が散らかしたゴミを誰が片づけたか知ってるのか」
矢継ぎ早に攻め立てる小谷君に、神代さんはとうとう口をつぐんでしまった。
彼の言っている事に、思い当たる節があるようだ。
「小谷、やめろ」
静かな顔で彼を制するショウ。
「ですけど、玲阿さん」
「神代さんも気にしてるから、言い返さないって気付け。間違いばかりを指摘するな」
「は、はい」
不満げな小谷君。
ショウはため息を付き、彼を指差した。
「お前の言いたい事も分かるが。短い間でも一緒にやっていく仲間なんだから、もう少し思いやりを持てよ」
「はい」
「規則規則って言ってると、本当にそれだけの人間になるぞ」
苦笑して私と目を合わせるショウ。
私は思い出したくもない顔を頭の中で消して、机を軽く叩いた。
「この話はもう終わり。二人とも、分かった?」
「はい」
「分かりました」
小さな返事が二人から返ってきたのを確かめ、もう一度机を叩く。
「まだ早いけど、今日は帰っていいわよ」
「え、でも」
「それは」
「いいから。ショウやサトミ達が言った事を、一人になってよく考えてきて。それじゃ、また明日会いましょ」
ベッドに寝転がり、手足を伸ばす。
それでも殆どはみ出さない私の体。
少し物悲しくなってくるのを我慢して、TVを付ける。
画面は見えなくて、聞こえてくるのはニュースの音声だけ。
事件や事故といった、重い物ばかり。
ヘッドラインだけを頭に入れ、チャンネルを変える。
すると打って変わって、陽気なラテン音楽が流れてきた。
スペイン語は全く分からないけれど、リズムとメロディは多少なりとも理解出来る。
それに合わせて足先を動かし、適当に鼻を鳴らす。
全然合ってないしいい加減だけど、気分はいい。
「ご陽気ね」
キッチンから聞こえてくる、ややハスキーな声。
私は上体を起こし、沙紀ちゃんに笑いかけた。
「学校生活が低調だから、せめて寮にいる時くらいはね」
「真面目君に不良少女か。揉めるなという方が無理よ」
差し出されたアスパラをかじり、程良い塩味を口の中で楽しむ。
「確かに間違ってはいないんだよね、小谷君の意見は。ただそれが、ガーディアンとしてはどうかと思うの」
「規則を重視するか、その場の状況に応じて柔軟に対応するかでしょ。勿論後者よ」
「生徒会ガーディアンズ、G棟隊長としての意見?」
「そう尋ねられると、私も答えにくいけれど」
しかし否定はしない沙紀ちゃん。
彼女自身システムマチックな考えは持っていないが、規則をないがしろするような発言は公式には出来ない立場だ。
「大体優ちゃん達の所へ来て、そういう発言をするのもおかしな話よね」
「私達だって、規則は守ってるわよ。大体は」
そう付け足して、沙紀ちゃんの発言を遮ろうとする。
しかし。
「苦情と勧告書が、新学期早々来てました。私のデスクにたまってるから、明日にでも読む?」
何とも楽しそうな笑顔。
本当は叱責されてもおかしくはないんだけど、彼女は私達の行動を良く理解しているので笑って済ませてくれる。
勿論本当に問題があるケースでは、そうはいかないが。
「もう、困ったな。暴れて済むなら簡単だけど、こういうのは苦手なのよね」
「優ちゃん達の所には、今まで後輩がいなかったから。それでも、何とかなるわよ」
「沙紀ちゃんもそうだった?」
「ええ。勿論簡単じゃないけれど、それが却ってやりがいになるっていうのかな」
はにかんだ、でも気持ちがこもった表情。
現実に大勢の人を率い、その責任感を持つ彼女だからこそ浮かべられる微笑み。
私は、思いもしなかった考え。
「やりがい、か」
「ガーディアンとして気楽にやっているのも、悪くはないと思う。ただ、責任のある立場で行動してもいいと思うわよ」
「私はそういう能力がないって、初めから諦めてるからね。サトミやケイはともかく」
肩をすくめ、自分の手を見つめる。
小さな手、短い腕。
それが届く距離は、決して広くない。
今まで多分、自分のためと身近にいる人達にしか使ってこなかった。
またそれだけの力しかないと思っていた。
でも、これからは違うのかもしれない。
はっきりとは分からないけれど。
「渡瀬さんだった?あの子は素直そうだよね」
「チィちゃんも、色々問題があるのよ。落ち着きがないし、すぐ落ち込むし」
「私みたいだな」
「もっと極端なの。元気ないと思ってたら、すぐに笑い出すのよ。付き合ってると、こっちが馬鹿みたいなんだから」
突然疲れたように、長いため息を付く沙紀ちゃん。
そうなのか。
どうも、私の親戚筋みたいな子だな。
「みんなは、なんて言ってるの?」
「放っておけばいいって雰囲気。サトミやショウは、おかしな事をしないように口で注意してるけどね」
「ただ、目の前で揉められても困るでしょ」
「そうなのよ。嫁と姑に挟まれた夫の気分がよく分かったわ」
私の下らない例えにくすくす笑った沙紀ちゃんは、マグカップを傾けて壁へもたれた。
「大体、どうして優ちゃんの所へ来たのかな」
「小谷君が?」
「二人とも。そんなシステム重視の子が、エアリアルガーディアンズに憧れるというのもおかしな話でしょ。それに編入生の研修だとしても、事務の子を優ちゃん達の所へ預けるというのも」
「サトミ達も、そう言ってるんだけどね。私としては、疑いたくない気分なの。結局甘くて」
苦笑して、ベッドに倒れ込む。
色々あっても、それは変わらない。
変えようと思う気持ちはあって、変わりたいと思ってもいる。
だけど、私はそれでもいい。
無理してまで、違う自分になりたくはない。
例えそれで苦しむ事になるとしても。
自分は自分であり続けたい。
「遠野ちゃん達も疑ってる?」
「口ではそういう事言ってる。ただあの子も、結局は人が良いから」
「すると浦田だけ」
「何も言わないから、どうかな。でも、神代さんとは仲が悪い」
「それは聞いたけど、実際の所はどうなの?」
眉をひそめる沙紀ちゃん。
私は簡単に、彼女とケイの事を説明した。
「別に、浦田は悪く無いじゃない」
鋭い眼光を帯び私を睨み付ける、沙紀ちゃんの瞳。
顔が綺麗なだけに、非常に迫力がある。
端的に言えば、怖い。
「私に怒られても」
「別に怒ってはいないわよ」
まなじりを上げたままそう言う女の子。
鏡台を指差そうと思ったけど、余計怒られそうなので止めた。
「あの子は、第1印象が悪いんだって」
「そうかな」
「沙紀ちゃんだって、最初は殴りかかったでしょ」
「あ、あれは上からの指示で、仕方なく。いや、でも……」
突然下を向き、何やら呟き始めた。
雨とか、水たまりとか。
「どうしたの」
「傷が無いのよ。首筋に」
「え?」
「はい?」
目を丸くして見つめ合う二人。
しばしの沈黙。
沙紀ちゃんは震えるように手を振って、素早く立ち上がった。
「帰る、私帰る」
「いいけど、そっちキッチン」
「冗談よ……」
「はは」と虚しい笑い声を上げ、足早にドアを出ていく沙紀ちゃん。
自分こそちゃかついてるじゃない。
さてと、私はお風呂に入って寝るとしようかな。
真夜中。
眠れない。
お風呂が熱くてお茶をがぶ飲み。
少し寝て、トイレ行きたさに目が覚めた。
それから眠れない。
本当、何をやってるんだか。
何となく、寮の廊下をうろうろ歩き回る私。
警備室には、私の怪しげな姿がコントロールカメラを通じて映し出されている事だろう。
またか、という彼女達の呟きと共に。
サトミやモトちゃん達の部屋に行ってもいいけど、今はこうして歩いていたい気分。
どんな気分だと突っ込まれると、かなり困る。
自販機コーナーにいる知り合いの子達に手を振り、そのまま前進。
眠れない夜を過ごす子はそれなりにいて、こうして歩いている間にも何人もの女の子とすれ違う。
私のように下らない理由の子はいないだろうが。
そうしている内に、気付いたらラウンジ前のロビーまで来ていた。
外にせり出した窓とソファー。
昼間なら大勢の人が集まる所。
今は人気もなく、薄暗い照明が辺りをおぼろげに照らし出している。
そのソファーに座る、一つの人影。
「神代さん?」
私の呼び掛けに、下げていた頭を上げる彼女。
Tシャツにスパッツというラフな服装。
髪を洗ったのか、いつもはウェーブが掛かって膨らんでいる髪が肩の辺りに束ねられている。
「雪野先輩」
気のない表情でささやかれる返事。
私は彼女の隣りに座り、その凛々しい顔を見上げた。
「眠れないの?」
「ええ。ちょっと、色々考えちゃって」
オフィスで会う時とは違う、ややくだけた口調。
それは彼女との距離が縮まったような気になって、私は笑顔で頷いた。
「編入したばかりだし、最初はそうよ。何か困ったら言ってきて。私は役に立たないけど、サトミ達は大抵の事に答えられるから」
「ありがとうございます」
控えめな返事。
彼女の気持ちが伝わってくるような、低い声。
「……あの子の事は、あたしも悪いと思ってます。確かに騒ぎ過ぎて、マナーもなってなくて。でもここに来てあたしに初めて声を掛けてくれた子達だから。つい、強く言えなくて」
小さくなっていく彼女の告白。
下がっていく視線。
肩が落ち、ため息が漏れる。
「ここに来たのは失敗だったのかも知れない。名門の草薙高校に入るって浮かれてたのに、この様だから」
「神代さん」
「あたしには無理だったんだよ、ここでやっていくのは。多分みんなもそう思ってるから……。済みません、変な事言って」
消え入りそうな声で謝る神代さん。
顔色は勝れず、その声に張りはない。
昼間の笑顔も、勝ち気な表情も。
あれは彼女が無理をして作っていたのだろうか。
私達に悟れないように、自分を守るために懸命に。
「あたしを必要としているからって誘われたんだけど。でも、別にあたしがいなくても誰も困らないよね。勿論、地元の高校に戻っても同じだけど」
自嘲気味な笑い声。
小さな、私の耳元にしか届かない程の。
神代さんは額を抑え、もう一度謝った。
「済みません、同情を引くような話ばかりして。本当に駄目ですよね、あたし」
席を立とうとする神代さん。
だが彼女はその場を動かない。
「雪野先輩」
彼女の手を押さえる私の手。
小さく、何の力も持たない。
でも、こうして彼女の手を握る事は出来る。
「まだ始まったばかりじゃない。神代さんがどういう人か、みんなよく分かってないんだし。これからだよ」
「馬鹿っぽい不良って思われてます。それも、否定はしません」
「じゃあ、それでもいいじゃない」
不思議そうに私を見つめる神代さん。
呆れ気味、かもしれない。
「いいじゃないって」
「誰も困ってないなから、いいって事」
「みんなに白い目で見られたり、あたしが原因でトラブルになったり」
「私達は今まで、そういう中でやってきた。だから、大丈夫」
自分には余る大きな彼女の手を握り締め、にこりと笑う。
戸惑い気味な神代さんも、微かに口元を緩める。
いつもの肩肘を張った雰囲気ではなく、普通の女の子の表情で。
「後で困った事になっても、あたしは知りませんよ。話が違うと言われても」
「後悔するのは得意だから、全然平気」
くすっと笑った神代さんが、ふと真剣な顔に戻って私を見つめる。
「あたしを信じてくれる……。受け入れてくれる理由は」
「さあ。なんとなくかな」
「なんとなく、ですか」
「気にしない、気にしない。何とかなるわよ」
明るく笑い飛ばし、大きな彼女の背中を何度か叩く。
困惑気味にそんな私を見つめ続ける神代さん。
不安、焦り、自己嫌悪。
色々な感情と、その気持ちの向かう方向。
自分の取るべき行動。
そう語った神代さん。
私は彼女に、一つの気持ちをぶつけた。
それに彼女も応えてくれた。
自分の判断が正しいのか間違っているのかは分からない。
でも構わない。
もう決めたから。
後悔はしても、今のこの気持ちは大切にしたい。
暗闇の中、一人佇む彼女を見た時に感じた思い。
守りたいという、私の心から出てきた感情。
サトミやモトちゃん達へとは違う、今までになかった思い。
私の手が、少し先まで伸びた瞬間……。
授業を終えオフィスへ来ると、神代さんが笑顔で出迎えてくれた。
「いつも早いけど、授業出てる?」
「走ってきてます」
額に浮かぶ汗と、机に置かれたタオル。
なるほどねと思いつつ、彼女の前に座る。
「今日はどう?」
「雪野先輩のおかげで、どうにか」
秘密めいた表情と共に差し出される、大きな手。
私はそれを握り返し、何度と無く頷いた。
「楽しそうね」
サトミが私の髪をブラッシングしながら、耳元でささやく。
頼んではいないが、やってもらうのは嬉しい。
「色々あって。ショウは一緒に来てないの?」
「小谷君と、自警局へ行ってる。昨日寮で、相談を受けたらしいわ」
「ふーん」
そうなんだと思っていたら、ティーポットを運んできたケイと目が合った。
「あいつは人がいいから、籠絡されたな」
「何よ、それ。あなたには相談しなかっただけでしょ」
「サトミにもね」
意味ありげな視線を彼女へと向けるケイ。
サトミはブラッシングを続けたまま、私の耳元へ口を寄せる。
「神代さんから、相談を受けたんでしょ」
「まあね。聞きたいなら、話すけど」
「プライベートに立ち入る気はないわ。ユウの決断にもね」
最後に手で私の髪を撫でつけ、両肩に手を置くサトミ。
そしてブラシが、目の前に回ってくる。
「はいはい」
「私じゃなくて、神代さんにやってあげたら」
「え、あたしはそんな」
顔を赤くして体を引く神代さん。
どうやら、照れているようだ。
顔立ちが精悍なだけに、何とも可愛らしい。
「いいじゃない。自分でもしてるでしょ」
「ひ、人にやってもらうなんて」
「嫌がってるから、俺にやってくれ」
のそっと歩いてきた男の子を手で追い払い、強引に神代さんを呼び寄せる。
「男女差別撤廃だ。これは断固として、人権擁護局に訴え出るべき案件だぞ」
「じゃあ、私がやって上げるわよ」
サトミが取り出したドライヤーを見て、すかさず逃げていくケイ。
何をされるか、想像が付いたらしい。
「結構柔らかいね。それ程痛んでないし」
「い、一応気は遣ってます」
ぽそりとささやく神代さん。
私は彼女の髪を後ろからかき上げ、上の方へ持っていった。
「アップもいいんじゃない。ねえ、サトミ」
「ええ。ユウと違って、どんな髪型でも似合うわよ」
「失礼ね。いいもん、私はショートが気に入ってるから」
「雪野先輩の髪も、綺麗ですよ」
少しぶっきらぼうな、でも気持ちがこもった言葉。
髪を上げて見えている耳は少し赤くて、膝の上に置いてある手はしきりに動いている。
それが余計私には可愛らしくて、胸の奥が暖かくなっていく。
「いっそ、ポニーにすれば。これだけ長ければ出来るでしょ」
「え、でも」
「これ使って」
サトミが差し出したゴムを手に取り、素早く髪をまとめていく。
自分ではやれないだけに、その代わりにという気持ちもある。
もう少しこの辺を膨らませて、と。
「はい、出来た」
「ええ?」
「サトミ、鏡は」
「あるわよ」
大きめな手鏡を彼女の前へ持っていくサトミ。
神代さんは顔をしかめつつ、それを覗き込んだ。
「あれ」
ふと上がる、やや高い声。
ほころぶ表情。
満足げな笑み。
「悪くないわよね」
「ええ、まあ」
曖昧な返事。
だがその嬉しそうな顔を見ていれば十分だ。
「首の辺りが涼しいです」
「今まで降ろしてたから」
「私もやってみようかしら」
そう盛り上がっていると、ペットボトルを手にしたケイがキッチンから戻ってきた。
「あ?」
突然立ち止まり、後ずさるケイ。
どうしたんだ。
「ああ」
今度は安堵のため息。
本当、どうしたんだろう。
「勘違いしたんじゃなくて」
「何が」
素っ気ない返答。
サトミは神代さんの髪を指差し、喉元で笑った。
「どうして茶髪になってるのかって。体格も同じくらいだもの」
「服装が違う……。いや、何でもない」
咳払いをしてマンガを読み始めるケイ。
いつになく、落ち着き無く。
「何かあったんですか」
怪訝そうに尋ねる神代さんに、サトミが口を開く。
「あのね」
「サトミ」
「はいはい。あの子が怒るから、また今度。すぐに分かるわよ」
「はあ」
邪魔するなという感じでケイを睨む神代さん。
サトミは楽しそうに笑っているだけだ。
「どういう事よ」
「あなたもすぐ分かるわ」
「もったいぶらないで……」
サトミの肩をゆすっていると、ドアがノックされて人が入ってきた。
「こんにちは。ちょっと書類がたまってて、浦田を借りたいんだけど」
「どうぞ。そんな子でよかったら」
「俺の意志は無視か」
鼻を鳴らし、それでもリュックを背負うケイ。
沙紀ちゃんは彼にお礼を言って、その肩に触れた。
黒髪のポニーテールを揺らしながら。
「ああ」
同時に声を出す私と神代さん。
サトミはくすくす笑っている。
「どうしたの……。あれ、あなたもポニーだった?」
「いえ、試しにやっているだけです」
「そう。似合ってるわよ、それ」
優しく微笑み、オフィスを出ていく沙紀ちゃん。
ケイは仏頂面で、その後に付いていく。
「本当ですか?」
ゴムを外し、元の髪型に戻しながら尋ねてくる神代さん。
私とサトミは一緒になって頷き、ため息を付く。
「全然、似合いませんよ」
「だから私達も困ってるの」
「何かいい考えがあったら、言ってくれないかしら」
「難しいですね。それに、困った問題ですね」
二人が出ていったドアをじっと見つめる私達。
そして、みんなで笑い出す。
色々な悩み、複雑な気持ち。
それぞれの立場。
簡単に解決は出来ないし、その手段さえ私にはまだ見つけられない。
でもこうして笑う事は出来る。
一緒に、同じ気持ちで。
それも否定出来ない。
私と彼女が、ここで同じ事で笑っている事は。
この先どうなろうとも。
自分の判断に過ちがあったとしても。
その気持ちは、いつまでも無くならない。