エピソード(外伝) 12-1 ~ユウ視点~
家族
前編
一車両の半分を占めるコンパートメント席。
洋酒が並んだ棚や高級食材の入った冷蔵庫。
備え付けの家具は素人目にも一流品で、正直触るのも怖いくらい。
「早いなー」
窓に両手を付き、流れていく光景を見続けるヒカル。
名古屋を出発してから、殆どその場を動かない。
飽きてよね。
「済みません、騒がしくて」
白いブラウスに紺のタイトスカート姿のサトミが、恐縮気味に頭を下げる。
「気にしなくていい。確かに早いから」
少し上げられる、赤のキャップ。
いつも通りの、Gジャンにジーンズ。
舞地さんは鋭い目元を和らげ、グラスへ口を付けた。
「でも、ここって高いんでしょ」
「100往復出来るくらいは稼いでる」
さらりと返ってくる答え。
あながち冗談ではないので、こちらとしては笑うしかない。
リニアは一路東を目指す。
舞地さんの実家へと。
お供は、私とサトミとヒカル。
他の人達はそれぞれ忙しくて、今回はパス。
春休みだっていうのに、何をやってるんだか。
東京でリニアを降り、今度は北へ。
風景に緑が増え始め、開けた窓からは清々しい風が吹き込んでくる。
しかし駅弁を買う間もなく、電車はホームへと滑り込む。
名古屋を出てから、まだどれだけも経っていないのに。
「少し街だね」
ホームから見える、幾つかのビル。
駅前には商店街もあるようで、それなりの活気はあるようだ。
ただ遠くに山の尾根が見えるあたり、遠くに来たなとも実感させられる。
すたすた歩いていく舞地さんについて、改札を出る。
タクシーが並ぶ駅前のロータリー。
ホームから見えていた商店街は、古くてどこか懐かしい感じ。
「ここから、どうやっていくの」
「少し遠いから、バスかタクシーで……」
そう舞地さんが言った途端、私達の前に黒塗りの大型車が横付けされた。
戸惑う私をよそに運転席から降りてきたのは、実直そうな初老の男性。
紺のスーツに、白い手袋。
まるでお抱え運転手みたいだ。
「お嬢様」
なるほど、お迎えか。
私もそう呼ばれてみたいね。
というか、そのお嬢様を見てみたい。
しかし周りには誰一人としていなく、バッグを持ち続ける私達だけ。
「こちらは、お友達の方ですか」
誰に話してるんだろう、この人は。
人違いですよと言おうとしたら、舞地さんが私の前に出た。
「そうだけど。どうしてここに」
「JL(Japan Linear network・日本リニア網)から連絡がありまして」
「余計な事を。大体個人情報なのに」
淡々と会話を交わす二人。
知り合いのようだ。
というか、もしかして。
「あの、一つ聞いてもいいですか」
「駄目」
「舞地さんには聞いてないわよ。その、お嬢様っていうのは」
「真理依お嬢様の事ですか」
胸を反らし、誇らしげに言ってのける初老の男性。
対照的に眉をひそめる舞地さん。
いや、真理依お嬢様。
そういえば、駅員さんや車掌さんが妙に低姿勢だったな。
あれはコンパートメント席を使っていたからだと思っていたんだけど。
しかし、どうも信じれない。
こうして大きな屋敷の前に立っていても、まだ信じられない。
「タヌキ御殿?」
「あなた、何言ってるの」
「春の夜の夢では無さそうだね」
小道の左右に広がる、日本庭園風の景色。
周りを囲む、高い木々。
どこからか聞こえるのは、小鳥のさえずりだろうか。
ショウの実家も大きいが、広さでは段違いだ。
「舞地さんって、お金持ちだったんだね。いや、大金持ちかな」
一人先を行く舞地さんはキャップに手を触れ、少しだけ足を緩めた。
「明治の殖産興業で財を成したとは聞いてる。今でもこの地方の大半は、何らかの形で影響を受けている。経済、政治の両面で」
「ふーん。お嬢様、か」
「それはもういい」
何となく照れ気味の口調。
再び早まる歩み。
私はサトミの耳元に顔を寄せ、小声で尋ねた。
「ねえ、本当かな?」
「あなたも人を信じない子ね。現にこうして屋敷があって庭もあって、リムジンに乗ってきたじゃない」
「ユウは現実的なんだよ。タヌキは人を化かすからね」
私もそうだけど、この人も相当だな。
しかし、いつ着くんだ……。
電車に乗っていたより長く感じたが、どうにか屋敷へと上がった私達。
広い玄関にはお手伝いさんらしき人がずらりと並び、その手前にはスーツ姿の男性が居並んでいる。
そして中央に立つ、紺の和服を着た精悍な顔立ちの男性。
隣には楚々とした雰囲気の、優しそうな女性が一歩下がって控えている。
「ただいま帰りました」
一礼する舞地さん。
私達もそれに合わせて、頭を下げる。
「とにかく上がりなさい。みなさんも、さあどうぞ」
重々しい、宣託のような口調。
きびきびとした動きで土間を上がった舞地さんに付いて、慌てて私達も後へ続く。
やはり広い、和風の客間。
大きな座卓と、床の間の掛け軸。
縁側からは先程の日本庭園とは違う、一面の芝生が見て取れる。
そこで戯れる、何匹もの大型犬。
テニスコートが何面取れるかというレベルだ。
何かもう、どうでも良くなってきた。
「さっきのが、お父さん?」
「ああ」
素っ気ない返事。
仲が悪いとは言っていないが、家族という言葉とはかけ離れた二人の会話。
少し、胸が痛む。
「他に家族は?」
「兄が一人と」
「妹が一人」
ふすまが開き、可愛らしい顔立ちの女の子が入ってきた。
肩辺りまでの柔らかそうな髪と、鋭さを湛えた綺麗な瞳。
間違いなく、舞地さんの妹だろう。
「華蓮だ。こちらは、雪野さんに遠野さん、それと浦田君」
「よろしく。姉さん、もっと帰ってきなさいよ」
「ここは遠い」
「姉さんが家を出ていってくれれば、私は財産が増えて助かるけれど」
怖い事を言い、くすくす笑い出す華蓮さん。
舞地さんは怒る様子もなく、机に置いたキャップを撫でている。
「とはいえ私は、その辺のおぼっちゃまと結婚させられる運命なのよね。ふらふら遊んでる姉さんが羨ましいわ」
「だったら、一緒に来る?」
「まさか。私みたいな世間知らずが通用する訳無いわよ。あるのはお金だけで、能力も経験も何もないんだから」
非常に冷静な自己分析。
しかし自虐的ではなく、あくまでも自分を静かに見つめているといった態度。
その辺りは舞地さんに似ているようであり、また違うようでもある。
「姉さんも、いつまでそんな事やってるの。高校は、もう卒業でしょ」
「卒業したら止める」
「何が楽しくてやってるの。お母さんも心配してるのに」
ため息を付く華蓮さん。
舞地さんは肩をすくめ、束ねていた髪を解いた。
黒髪が横へ広がり、いつもとは違う雰囲気の彼女が現れる。
「だから、こうして帰ってきた」
「いつも側にいなさいっていう意味。分かってる?」
「ああ」
強い調子でたしなめられ、殊勝な顔で頷く舞地さん。
どちらが姉だか分からないな。
「それじゃみなさん、また後で。姉さん、お父さんともちゃんと話してよ」
「ああ」
「もう。普通に返事して」
顔をしかめ、それでも私達に頭を下げて客間を出ていく華蓮さん。
息を付く間もなく、今度は精悍な顔立ちの青年が入ってきた。
左右に分けたやや長めの髪と、若干甘さが漂う精悍な顔立ち。
ノーネクタイのスーツ姿で、やや長身。
20過ぎといった所か。
「みなさん初めまして。真理依の兄で、一磨と申します」
丁寧に頭を下げる一磨さん。
私達もそれに倣い、舞地さんもうっそりと頭を下げる。
確か二人とも、玄関で見た気はする。
「名古屋と比べれば退屈でしょうけど、ゆっくりしていって下さい」
「あ、はい。ありがとうございます」
「父が田舎名士なので、多少の無理もききます。何かあったら、遠慮無く真理依か家の者に伝えてください」
どう答えていいのか難しい台詞。
困惑気味の私に気を遣ってか、サトミが薄く微笑んだ。
「先程も舞地さんから伺いましたが、北関東の舞地家といえば中央政界にも影響力のある名門。田舎名士は言い過ぎではありませんか?」
「事実ですよ。所詮は明治からの成金。金があり目端の利く人間が何人か出たから、多少の影響力があるだけで」
「ご謙遜を。私も舞地さんが、舞地家の直系だとは思いませんでしたけどね」
くすりと笑うサトミ。
真理依さんは落ち着き無げに、頬の辺りを触れている。
「そういえば、名前を伺ってませんでしたね」
「私は遠野聡美。彼女が雪野優で、彼は浦田光です」
一つ一つ頷いていく一磨さん。
「遠野さんは」
「聡美で結構です」
「……聡美さんは、成績が優秀なようですね」
「どうしてそれを」
「全国でもトップランクにある高校生なら、田舎名士の元にも情報が来ます」
座卓の上に置かれる何枚かの書類。
文面を読む限り、教育庁が作成した極秘のファイルらしい。
「情報が簡単に漏れてるんですね。プライバシー保護法も、公務員倫理法もどこへいったんだか」
「政治の貧困と官僚の腐敗。こればかりは、いつまで経っても無くならない」
「それを利用して、舞地家があると?」
「聡美失礼だよ。済みません、失礼な事を申し上げて」
真剣な顔で謝る光。
聡美も不承不承といった表情で、口元を動かす。
「いえ、構いません。仰る通りですから」
「しかしこれは面白いですね。性格分析は、いまいち甘いですけど」
「何よ、それ」
言ってる側から肯定するサトミ。
全く、仲がいいんだから。
「真理依、母さんが服を見立ててくれるそうだから行ってきて」
「服はあるけど」
「母さんの気持ちも汲んでやれ。ほら」
「あ、はい」
素直に頷いて客間を出ていく舞地さん。
少し普段とは違う態度で、ここが彼女の実家なんだと気付かされる。
「あれも、もう少しここへ帰ってくるといいんですけどね」
「はあ」
「華蓮は分け前が増えると冗談めかして言ってますが、やはり家族ですから。巣立ちするには、まだ早いと思うんですよ。……済みません、下らない事を聞かせてしまって」
「い、いえ」
一磨さんはサトミのデータが書類をまとめ、芝が見える窓辺へと立った。
「真理依がここを出ていって、もう5年になります。何不自由なく、大切に育てられてきたのに」
静かな、落ち着いた口調。
背中越しに声が伝わるだけで、彼の表情は窓ガラスにも映り込まない。
「それを気にしてか真理依は父と距離を置き、父もまた家を出ていった娘と距離を置く。これこそ、下らない話です」
「聞いていいのか分からないんですが、どうして舞地さんは家を出たんですか?」
「精神的な自由が欲しかったんでしょう。舞地家の長女として見られる生活ではなく、ただの舞地真理依として生きる人生が。辛くても苦しくても、そういう道を選んだんだと俺は思ってます」
窓を滑る指先。
上げられる顔。
今日も空は良く晴れていて、でもその日差しは部屋に入ってこない。
「子供なら、一度は夢見るような話です。俺は舞地家の跡取りという立場が頭にあったので、真理依の背中を見送る事しか出来ませんでしたが」
「そうですか……」
「ただ、母さんや華蓮は今でも心配しています。食事は取れているか、寝る場所はあるか、怪我はしていないか。それが家族なんですよね」
小さくなる声。
下がる顔。
「父も、真理依の事が心配なんです。ただあの子が自分の意志でここを出ていった以上、それを認める訳には行かなくて」
「家族では無いんですか」
強い口調で問い詰めるサトミ。
一磨さんは後ろ向きのまま、頷いた。
「みなさんには馬鹿げてる話でしょうが、真理依の父であると同時に舞地家の長でもあるんです。家で娘を心配する子煩悩な父親という絵は、難しいんですよね。特に、こういった古い因習が残る田舎では。家長は絶対であり、子はそれに従うべきであるという」
「下らない話ですね」
「聡美。済みません、再三」
丁寧に頭を下げるヒカルだったが、彼の表情からいつもの柔和さが薄れている。
「僕も舞地さん同様、出奔した身でして。ただ彼女程確かな意志があった訳ではなく、単に父を嫌っただけですけどね」
「そうでしたか」
「だから僕に意見を言う権利は無いんですが、やっぱり家族は大切だと思いますよ」
一瞬サトミの横顔を捉え、そのまま席を立つヒカル。
「済みませんが、東京の大学に少し用がありまして。僕はここで」
「急がれるんですか?」
「申し訳ありません。時間が空きましたら、また寄らせて頂きます」
ヒカルは一礼すると、慌ただしく客間を出ていった。
それを見送る事無く、遠い目付きで座卓を見つめるサトミ。
いや。
彼女の視点は、もっと先の何かを捉えているのだろう。
何なのかは私なりに分かっているが、あえて問いただす事でもない。
「彼の宿泊先は決まってるんですか?」
「大学に施設はあるし、野宿も平気な子ですから」
「面白いですね、雪野さん」
軽く笑い飛ばす一磨さん。
冗談ではないんだけど、彼はそう取ったようだ。
「誰かに送らせて、ホテルを手配します。彼の気分を害さない程度に」
「え?」
「いえ、こちらの話です」
一磨さんは曖昧に微笑み、端末で連絡を取りだした。
サトミはその間も、ぼんやりと座卓を眺めている。
私はすっかりぬるくなったお茶をすすりながら、予定外の行動を取ったヒカルの事を考えていた……。
豪勢な食事も済み、檜造りの大きな湯船に浸かる私。
舞地さんのお父さんは仕事が忙しいらしく、食卓には姿を見せなかった。
本当にそうなのか彼女を避けているのかは、分からないが。
与えられた部屋は広くて何でも揃っているし、待遇も申し分ない。
ただ、多少の居心地の悪さがあるのも否めない。
それはこの家の格式という事だけではなく、舞地さんとお父さんの事。
きっとその事に引っかかりを覚え、帰ってしまったヒカル。
未だに心ここにあらずといったサトミ。
ため息混じりに肩まで浸かり、そのまま泳ぎ出す。
プールとまでは行かないが、私一人が使うにはあまりにも大きな湯船。
勿論浴室自体も。
冗談ではなく、ここへ住んでもいいくらいだ。
「お邪魔します」
そう言うや、タオルを片手に提げた女の子が入ってきた。
「え?」
戸惑う間もなくシャワーを浴び、女の子は湯船に足を浸ける。
「ぬるいかな」
「熱いわよ」
「そう?」
朗らかに笑い、全身を浸かる華蓮さん。
舞地さんとは違って、社交的な性格のようだ。
「聡美さんは、元気が無いみたいだけど」
「あの子も多少事情がね。少し、そっとしておいてあげて」
「はい、分かりました。背中でも流しましょうか」
「お嬢様が?」
私が顔をしかめるのも構わず、人を引っ張り出して鏡の前に座らせた。
「肌のきめが細かいですね」
「体が貧弱な分、そっちでカバーしてるの」
「彼氏とかいます?」
「さあ。いるといいね」
曖昧に答え、蛇口から出したお湯で顔を洗う。
すぐ顔に出るからな。
「聡美さんと、さっき帰った男の子は付き合ってるんですよね」
「世界の七不思議よ。ヒカルには、その内天罰が下るわ。天が裁かないなら、私が裁く」
「はあ」
湯気にかすむ鏡の向こうで、戸惑い気味に私を見つめてくる華蓮さん。
殆ど初対面の子に言う台詞じゃなかったかな。
「仲、いいですよね。優さんと、聡美さんって」
「んー、中学校からの知り合いだから。私のお姉さんみたいなもの」
「へえ」
背中に掛けられるお湯が肌を伝い、その温もりが心地いい。
「ありがとう。じゃあ、私も」
「いいですよ」
「遠慮しないの。この三助にお任せあれ」
額にタオルを巻き、自分の体をペタペタ叩く。
形から入るのよ、私は。
「優さんって、いつも楽しそうですね。いえ、皮肉じゃなくって」
「深刻になる時もあるけど、長続きしないの。しかし、あなた何才よ」
「14です。姉さんと3つ違い。兄さんとは、8つ」
「私とは2つか。おかしいな」
どう見ても私以上に発育した体型。
勿論子供っぽさは残っているものの、私に比べれば何の不自由もしていない。
お金はある、名誉も地位もある、胸もある。
「何が不満なのよ」
「はい?」
「い、いや。こんないい所から出ていくなんて、舞地さんも贅沢だなと思って」
「姉さんは自立心が強いんです。それと家出した頃は、財産を巡って少し揉めてたそうです。それを嫌って家を出たのもあると、兄さんが言ってました」
なる程。
舞地さんらしいといえば、らしい。
中学生になったばかりの少女が考える発想かどうかは、ともかくとして。
「姉さんとお父さんは似てるんです。自分の意見を押し通して、でもそれを人には言わなくて。頑固というか、何というか」
「あなたは?」
「私はお母さんにかな。結構いい加減で、適当だから」
「落ち着いた感じに見えるけど」
湯船の中で激しく首を振る華蓮さん。
いいけど、飛沫がかかる。
「あの人もいい所のお嬢さんで、それの良い部分だけで出来てるんです。おおらかで、のんきで、人が良くて」
「ふーん」
「自分の親に対して言う事じゃないですけど」
少しはにかんだ華蓮さんは、お湯をすくって顔を派手に洗い出した。
だから、飛沫が飛ぶっていうの。
「ヒカルもそういうタイプだよ。さっき帰っていた男の子」
「へえ。だから聡美さんと合うのかも。彼女、思い詰めるタイプみたいだから」
「繊細なのよ。私とは違って」
「確かに体型はそうですね」
冗談っぽく笑う華蓮さん。
私も引きつった笑顔を浮かべ、湯船から上がる。
よく言えば繊細、分かりやすく言えば貧弱な体で。
「もう上がるんですか?」
「暑いの苦手なの」
「デザートを用意してありますから、食べてて下さい」
「いいのよ、気を遣わなくても。勿論、遣ってくれてもいいけど」
楽しそうに笑う彼女へ手を振り、よろめき気味に脱衣所へと辿り着く。
ビールの方がいいんだけど、という言葉を飲み込みながら。
と思ったら、ビールもやってきた。
これがまた、冷えてて美味しいんだ。
一人でぐいぐい飲んでいたら、視界の隅にサトミが入った。
まだ気だるそうに、壁を見つめている。
ご飯もあまり食べて無かったし、大丈夫かな。
「サトミ、お風呂は」
無言で前を向くサトミ。
仕方ないので、軽く肩をゆする。
「ちょっと」
「え?」
まるで、今目が覚めたという表情。
綺麗な顔が左右に動き、ため息が漏れる。
「光は、どこへ行ったの?」
「東京の大学」
「ああ。そういえば」
それすら良く分かっていなかったようだ。
「飲む?」
首を振り、グラスから顔を背けるサトミ。
私は泡を少しだけ口にして、テーブルへと戻した。
「サトミの気持ちも分からなくはないけど」
「ごめんなさい。つい」
うっすらと浮かぶ、寂しげな笑み。
綺麗な彼女には似合っていて。
似合い過ぎていて、こっちまで寂しくなってくる。
「駄目ね、せっかく遊びに来たのに」
「気にしなくていいって。それよりも、お腹空いてない?」
「大丈夫。これ、少し食べるわ」
皿に盛られたフルーツを、フォークで差して少しだけ食べる。
食べたいからではなく、私の手前といった雰囲気で。
「やっぱりみんなで来た方がよかったのかな。まさか、ここまで重くなるとは思ってなかったから」
「そうかも知れない。特に、私は」
「また、そうやって。私の事落ち込むとか言っておいて、自分もそうじゃない」
サトミは微かに頷き、フォークを置いた。
「結局引きずってるのよ。親の事を」
「その辺りは、私にはちょっと分からないんだけど」
「ユウのお父さんとお母さんは、素敵だもの」
一瞬浮かぶ、可愛らしい笑顔。
だがそれは、すぐに氷のような表情に取って代わる。
「私の親とは違ってね」
「サトミ」
「ごめんなさい。いつも、同じ事ばかり言って」
「それはいいけど。お風呂入ってきたら?」
視線を窓へと向けるサトミ。
日はすでに落ち、外の景色は全く見えない。
いつもとは違う、室内の眺め。
彼女の気分が不安定なのも、多少はそれが関係しているのだろう。
「温泉なんだって、ここのお風呂。広いしいい香りだし、気持ちいいよ」
「あまり、そういう気分じゃないのよね」
「だから入るんじゃない」
「でも」
面倒げに首を振るサトミ。
どうも、かなり疲れている様子だ。
肉体的にではなく、精神的に。
「もう寝る?」
「そうね」
「だったら」
室内にある備え付けの端末を手に取ると、赤いワンピースを着た舞地さんが入ってきた。
髪は後ろに伸ばされ、黒のチョーカーまで付けている。
「お、お嬢様」
ひっくり返って大笑いする私。
さすがにサトミもそれには驚いたらしく、私を叩きながら笑いを堪えている。
「そんなにおかしい?」
困惑気味に、膝まで出た素足を撫でる舞地さん。
「似合ってるよ。ただ、見慣れないから。写真、写真と」
カメラを手に取り、彼女が身構えるより先にシャッターを何度か切る。
これはもう、絶対部屋に飾ろう。
「本当に素敵ですよ。お母様の見立てですか」
「ああ。いくら何でも、これは無いって言ったのに」
「いいじゃないですか。お母様の気持ちは、良く分かります」
「そうかな」
しきりに襟元のチョーカーへ触れる舞地さん。
苦しいというより、慣れないので気になるのだろう。
「私はそういう記憶がないですから、余計に」
「……済まない」
頭を下げようとする舞地さんに、サトミは手を振ってそれを止めさせた。
「下らないひがみですから、聞き流して下さい。ユウなんてもう、気にもしませんよ」
「私は気にする」
「ありがとうございます」
今度はサトミが頭を下げ、少しだけ微笑んだ。
「調子が良くないみたいだけど。医者を呼ぶ?」
「いえ。そこまでは。精神的な問題ですし」
「自分で分かってるのなら、大丈夫」
優しく微笑み、手にしていたタオルをサトミへ放る舞地さん。
戸惑う彼女をよそに、舞地さんは自分が入ってきたふすまを指差した。
「お風呂へ行こうか」
暑い。
暑過ぎる。
さすがに湯船には入らなくて、大きな窓を開けて夜風を呼び込む。
外には高い植え込みがあり、見られる心配は何もない。
見られる程でもないという意見は、聞き流す。
「クシュッ」
少し冷えた。
仕方ないので、結局湯船に入る。
今日はよく眠れそうだ。
「意外と大きいんですね」
「遠野には負ける」
「またまた」
楽しげに会話を交わす二人。
私は加わる気にもなれず、湯船から上がって足だけを浸ける。
本当、隠す所がないよね……。
「舞地さんは、ここへは戻らないんですか?」
「父が、それを許さない限りは」
「でも、お母様や華蓮さん達は待ってますよ」
「勝手に飛び出したという負い目もある。こうして帰ってくる事自体、父はどう思ってるか」
苦笑気味に答える舞地さん。
サトミは湯船から上がり、私の隣へ腰を下ろした。
白い肌を滑っていくお湯の珠。
濡れた黒髪が体に纏い、言いしれない艶やかさを醸し出す。
「私は逆で親に売られた立場なんですけど、同じ立場ならもっとここへは帰ってきます。待っていてくれる人がいるのなら」
「歓迎しない人もいる」
「そうかも知れません。でも、待っている人もいるんです。その気持ちも、分かりますよね」
静かに、心を込めて語るサトミ。
舞地さんは湯船の中で立ち上がり、濡れた黒髪をかき上げた。
お湯を弾く綺麗な肌、柔らかなボディライン、赤らんだ頬。
だが表情は、窓の外にある闇へと消えている。
「分かっていても、どうしようもない事もある。私の気持ちだけでは、どうにもならない」
「そうでしょうか」
「遠野の気持ちは嬉しいし、そう出来たら私も嬉しい。でも父は、それを許していない」
自嘲気味な呟き。
夜風が吹き抜け、素肌を晒した私達を過ぎていく。
冷やしていく。
「お母様や華蓮さんの気持はどうなるんです」
あくまでも食い下がるサトミ。
舞地さんは首を振り、お湯に浮かんでいたリモコンで窓を閉めた。
「あの二人は優しいから、何でも気持だけで解決出来ると思ってる。あながち間違いとは言えないけど、私と父の間はそこまで単純でもない」
「一磨さんもですか?」
「兄さんは、父に従う。長男だし、いずれはこの舞地家を率いていく人だから。父の意見と変わらない」
「本当にそう思ってます?お父様の事も、一磨さんの事も」
言葉は返らず、窓の閉まった浴室に湯元から湧き出るお湯の音が響く。
「舞地さん」
「父に立場があるように、兄にも立場がある。だから母さん達のように、私のわがままを笑って見過ごせない」
「家族なんですよ。血のつながった」
「どの家も雪野の所のように、暖かな環境とは限らない。特に田舎で、なまじ格式のある家は」
抑えた、静かな口調。
明かりの下に見える彼女の表情は、普段と変わらない冷静なもの。
舞地さん自身の感情はともかくとして。
「私はそれ程困ってないし、こうしてたまには帰ってくる」
「そうですけど」
「遠野の言いたい事は良く分かる。たださっきも言ったように、私一人が空回りしても始まらない」
少しだけ口元を緩め、サトミの頬へ手を当てて湯船を出る舞地さん。
サトミはその頬に触れ、浴室を出ていく舞地さんに声を掛けた。
「だけど私は、家族と一緒にいるのが一番だと思います」
「そうね……」
舞地さんの呟きと共にドアが閉まる。
私も湯船から足を上げ、サトミの肩へ手を置いた。
「暑いし、もう出ようよ。舞地さんも、分かってるって言ってくれてるんだし」
「ええ」
先程までよりは元気な表情。
お風呂に入ったからか、それとも舞地さんと話をしたからか。
どちらにしろ、いい事だ。
やはりよろめく足でドアへ向かいながら、私はそう思った。
自分が元気をなくしそうだなとも思いながら……。
布団を並べ、サトミと一緒に寝る私。
別々な寝室を用意すると言ってくれたんだけど、この方が落ち着くので。
それはきっと、サトミもそうだろう。
「明日からどうするの」
天井を見上げながら尋ねてくるサトミ。
私は掛け布団の上に座り、首を振った。
「知らない街だし、特に名所もないって言ってた。ごろごろしてればいいんじゃないの」
「あなたはそれで楽しいだろうけど。私も、東京へ行けばよかったかしら」
「いいじゃない、たまには何もしなくても。美味しい物食べて、お風呂入ってれば」
「温泉旅館に来たんじゃないのよ」
仕方ないといった顔でくすくす笑うサトミ。
大分元気が戻ったようだ。
「でも、舞地さんの実家がこんなすごいとは思わなかった」
「舞地という名前は、聞いた事があったわ。北関東を中心とした財閥とでもいうのかしら。おそらく親戚が、国会の上院と下院にいるはずよ。いわば、この地方の小君主ね」
「ふーん。一平民の私には、ぴんと来ないけど」
「私もよ。舞地さんもそう思ったから、家を出たんじゃなくて」
醒めた口調でそう呟き、室内で唯一灯っているスタンドに手をかざす。
より陰影の出来る、サトミの顔。
震える程に綺麗な、今日は少し寂しげな。
「いくら権力があっても、気持まで豊かになるとは限らない。ここの人はいい人ばかりみたいだけど」
「まあね。あのお父さんはともかくとして」
「娘より家が大事、か。聞きたくはなかったわ」
「一磨さんの話?」
目線で肯定するサトミ。
微かに鋭さを帯び、私が思わず息を呑むくらいの。
「そんな訳はないのよ。人よりも、家や自分達の名誉が大切なんて事は」
「分かるけどさ。舞地さんも言ってた通り、お父さんや一磨さんにも事情があるんでしょ」
「だとしても。帰ってきた娘にろくろく声も掛けないなんて。そして、それを肯定する兄なんて。冗談じゃないわ」
お風呂へ入るまでの気だるさは完全に消え去り、青い炎のような怒りを放つサトミ。
声は抑えられていて、表情も冷静さを失わない。
だからこそ余計に、今の彼女の心境が理解出来る。
「確かに、そんな家なら帰ってこなくても正解よ」
「サトミ。言い過ぎじゃないの?」
「いいえ。光は怒って帰って済ませたけど、私はここまで出かかったわ。ふざけるんじゃないって」
冗談っぽくまなじりを上げ、喉を指差すサトミ。
私は苦笑して、布団を被った彼女のお腹へ触れた。
「怒り虫でも住んでるの?」
「何、それ」
「知らないけど、すぐ怒るから」
「怒らないし、住んでない」
そう言うや、私のお腹を触りだした。
「それよりユウはどうなの。……出てない?」
「屈んでるからよ。失礼ね」
「でも、腹筋が無いじゃない。あれだけ鍛えてるのに」
「ボディービルダーじゃあるまいし。普段はふにゃふにゃしてるの」
疑いの眼差しを向けてくるので、お腹に力を入れる。
するとサトミは「ああ」とささやいて、脇腹に触れてきた。
まだ疑ってるな。
私も体勢が苦しいので、サトミの上に乗っかる。
「ほら」
「あ、本当。ちょっと、ショックだわ」
「何が」
「私より、ウエストが細いのが」
くすっと笑うサトミ。
私もおかしくて、笑おうとした。
でも笑顔は浮かばなかった。
いつの間にか開いていたふすま。
そこに立つ、ブルーのパジャマを来た少女。
「華蓮さん」
「……失礼しました」
暗闇の中でもはっきりと分かるくらい赤い顔をして、一礼された。
勘違いしてないか、この子。
「違うわよ。ただ、腹筋があるかどうかを見てただけだから」
「その格好で?」
腰を引いてこちらを指差す華廉さん。
布団の上、抱き合うような私達を。
そう言われれば、そうだ。
しかも暗いし。
私でも疑う。
というか、勝手に信じ込む。
「それで、何か用?」
サトミの上から降り、布団の上にちょこんと座って彼女に尋ねる。
可憐さんは後ろに持っていた枕を振り、曖昧に微笑んだ。
「よかったら一緒に寝ようと思ったんですけど、止めた方が良さそうですね」
「だから誤解だって。この子は彼氏がいるし、私だって……」
「私だって?」
すかさず距離を詰めてくる華蓮さん。
嫌な子だな。
「女の子に興味はないっていう意味」
「話の流れで行くと、好きな子がいる。もしくは、彼氏がいると聞こえましたけど」
「いないって。私みたいな子供、誰も相手にしないから」
自虐的に笑い、私とサトミの間に座った華蓮さんを見やる。
私よりもふくよかな胸と、大人びた顔立ち。
2才年下というけれど、どうだ?
私の方が、でも十分通る。
「せっかく舞地さんが帰ってきてるんだから、お姉さんと寝たらどう?」
優しく促すサトミに、華蓮さんは首を振った。
「姉さんはまた帰ってくるけど、お二人はもうこないかも知れないじゃないですか」
「だからって、一緒に寝なくても。狭いし」
「あ、やっぱり」
口元を抑え、私から飛び退く華蓮さん。
何が、やっぱりだ。
「言ってなさいよ。とにかくサトミは私の所有物で、もし寝るのならあなたは私の隣り。これはもう、決まってるから」
「誰が決めたのよ。華蓮さん、構わないからこっちへ」
「はい」
嬉しそうにサトミの布団へ滑り込む少女。
自分の方が、やっぱりだ。
「何よ、もう。寂しいじゃない」
仕方ないので私も布団に入り、じりじりと二人へ近付いていく。
「ちょっと、邪魔です」
「邪魔してるのよ。あー、狭い」
「部屋が広いのに、どうして3人が固まってるの」
苦笑するサトミと、華蓮さんを挟んで寄り添う私達。
旅先での楽しい一時。
笑顔の戻ったサトミと、新しい友達との。
嬉しそうにはしゃいでいる華蓮さんの横顔。
舞地さんにも似た顔が浮かべる、彼女は見せない表情。
きっとこの子も、滅多には見せないだろう。
だけど舞地さんが帰ってきた事に、それをお父さんの前では見せられないから。
舞地さんとこうする事も、許されてはいないからかもしれない。
だからここで、笑っている。
私達に、見せてくれる。
勝手な私の解釈かも知れない。
それでも私の胸には、小さな痛みが感じられた。
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