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スクールガーディアンズ  作者: 雪野
第2話
13/596

2-5






     2-5




 誰だって、動き過ぎれば思考力も低下する。

 こないだの私がそうだ。

 今はもうあんな気持にならないし、体も熱くない。

 眠れずにぼんやりと天井を見つめている今は。


 ショウの試合まで、後3日。

 トレーニングの日程も殆ど終了して、この先は疲労を抜く程度に軽いスパーリングをするくらい。

 ショウが勝つのは分かっているし、それはサトミ達も同じ気持ち。

 でも私は眠れない。

 彼の勝敗と怪我は、全く関係がないのだから。

 試合が近付くにつれ、そればかり考えている。

 もし肘を痛めたら、頬を切ったら、足をくじいたら、腕を折ったら……。

 私自身大きな怪我をした事があるし、勿論彼だってそういう経験はある。

 ただそれはいつも突然の怪我であって、今回のように怪我をする可能性を待っている事はなかった。

 この間、ケイが身を挺して生徒会ガーディアンズを誘い込んだのを思い出す。

 仲間を危険に晒す不安と恐怖を。

 あの時は、それが数時間で済んだ。

 でも今は、長い夜を幾つ越えても続く。


 代われるものなら、代わってあげたい。

 もしそうなれば、その時ショウもこんな不安を味わうのだろうか。

 人にそんな気持を抱かせるのは、本人にも辛い事なのだろうか。

 分からない。

 分かっているのは、ショウが怪我をする可能性。

 そして私は、ただ願うしかない。 

 彼の勝利ではなく、彼の無事を。


 神様の存在は理解出来ないけれど。

 結局彼を守りきれない私の代わりに。

 そのためなら、私は何でもしてみせるから。

 だからお願い……。


 胸の中でそう繰り返した。

 情けないと思われてもいい、子供じみていると思われてもいい。

 それでショウが無事なら。

 勿論、返事は帰ってこない。

 所詮は、自分自身への気休めかもしれない。

 それでも、私は祈り続ける。

 偽る事のない、自分の気持ちを……。




 そんな調子でいる内に、試合はもう明日へと迫っていた。

 今日は土曜日。

 いつも通り寮のそばにあるトレーニングセンターに向かった私達は、着替えを済ませて体を解していた。

 深呼吸を終えて壁にもたれると、途端に眠気が襲ってきた。

 最近の寝不足がたたっているのだろうか。

 はっきり言って、立っていられない。

 私は床に腰を下ろし、壁に背をもたれて目を閉じた。

 夜明けまで感じていた不安は影を潜め、たまらないけだるさが体を包み込む。

 だけど今は、寝ている場合ではない。

 私は無理矢理目を開けて、床に手を付いて立ち上がろうとした。

「調子悪いのか」

 気付くと目の前にショウがしゃがみ込んで、心配そうに私の顔を覗き込んでいる。

 私は首を振り、両手で軽く目をこすった。

「ごめん、眠いだけ。ちょっと夜更かししたから」

 声のトーンを上げて、笑顔を作る。

「少し休んでろ、俺外走ってくるから」

「でも」

「いいから」

 ショウはそう言ってドアの方へ歩いていった。

 やがてドアが音を立て、その姿が見えなくなる。

 私は床に身を横たえて、腕を枕に目を閉じた。

 体には、彼が渡してくれたパーカーが掛かっている。

 そうだね、少しだけ休ませてもらおう。

 こんな状態でスパーリングをやったら、それこそ怪我の元だしショウにも悪い。

 気が緩んだのか、意識がどんどんと薄れていく。

 エアコンの音も、マットの冷たい感触もどこか遠くの出来事のように……。 



 何となく体が揺れている気がする。

 横にではなく、縦に。

 でもそれはとても心地いい揺れで、このまま身を任せていたい程。

 頬は暖かな温もりに触れ、ジャスミンのいい香りが辺りに漂っている。

 一瞬体が、大きく上へ持ち上がった。

 微かにまぶたが開き、周りの景色が見えてくる。

 うっすらと赤く染まる街路樹、薄く長く伸びる影。

 涼しげな風が、耳元を抜けて髪を揺らす。

 ふと目を横に移すと、そこには何故かショウの顔が。 

 夢、だろうか。

 目をしばたき、もう一度見てみる。

 ……間違いなく、玲阿四葉その人の顔がある。

「ん、起きたか」

 そのショウが苦笑気味に呟いて、私の体を背負い直した。

 さっき大きく揺れたのは、これだったのか。

 いや、納得している場合じゃない。

「も、もういいよ。起きたから降ろして」

「いいから寝てろ。それに、寮に着いた」

 顔を前に向けると、確かに私の部屋がある寮がはっきりと見えている。

 トレーニングセンターから、急いで歩いても10分はある。

 その間の記憶は皆無だから、そこからずっと背負ってきてくれたのだ。

「俺も起こしたんだけど、何度も「お願いします」ていうからさ。面白い寝言だな」

 寝言、か。

 ちょっと焦り気味に、しかし冷静を装って尋ねてみた。

「他には、何も言ってなかった?」

「いや。「お願いします」ばっか。何頼んでたんだよ、一体」

 これはさすがに、答えようがない。

 しばらく黙っていると、ショウもそれ以上聞いては来なかった。

 彼の背中に重りの入ったベストの感触は無く、代わりに暖かな温もりが伝わってくる。

 重さを減らすためよりも、私を背負うために脱いでくれたのだろう。

 私はショウの襟元へ回した手に、少しだけ力を込めた。


 幸いというか知り合いに顔を合わせる事もなく、私達は部屋の前までやってきた。

 そのドアの前で、私はようやくショウの背中から下りた。

「ごめん、結局スパーリング出来なくって。試合明日なのに……」

 たまらない気持で、顔を伏せる。

 ショウを助けるつもりが、却って迷惑を掛けてしまった。

 どうしてこんな大事な時に、一体私は何をやってるんだろう。

 自分のふがいなさに、情けなさに気持が沈んでくる。

 これ以上、彼の前にはいられない。

 私は顔を伏せたまま、ドアの方を向こうとした。

 するとショウが私の肩にそっと手を置き、優しい笑顔で前に立った。

「何言ってんだよ。ちゃんとトレーニングしただろ、俺達」

 その意味が分からなかった私は、沈んだ顔のままショウを見上げる。

 すると彼は口元を緩め、私の顔を指さした。

「前言ったただろ。俺の父さんが、母さんを背負ったって」

 思い出した。

 苛酷な鍛錬を積んでいたショウのお父さんがやった、トレーニングの一つ。

 でもそれはきっと山道を走りながらで、ただ私を背負って短い距離を歩いてくるのとは訳が違うと思う。

 私はショウの手伝いではなく、ただ邪魔をしただけだ。

 彼のお母さんとは違って……。

「おかげで、俺も大分気が楽になったよ。よく寝てるユウの顔見てたら」

「え?」

 戸惑う私をよそに、ショウが照れくさそうに話し始める。

「落ち着いてたつもりだったんだけど、さすがにこの何日かは気が重くってさ。プレッシャーっていうのかな」

 傍目には冷静に見えていたのに。

 そして私は、それに気づかなかった。

 ますます気が滅入る。

 自分自身の鈍さに、馬鹿さ加減に。

「そうしたらユウがいきなり寝始めて。それで思ったんだよ。もしかして、俺の事気にして寝不足になったのかなって。違ったらごめんな」

「ショウ……」

「同じように悩んでくれて、励ましてくれて、頑張ってくれて。じゃあ俺は、ユウに何をしてやれるのかなって思ったんだよ」

 言葉の間から、ショウの気持があふれている。

 私を。

 そう私を思いやってくれる気持が。


「結局あんな事くらいしか、俺には出来ないんだけど。父さんと一緒でさ」

「え?」

「何でもない。それと、明日の試合中に寝るってのは無しだぞ」

 ショウは私の肩に優しく触れ、そのまま背を向けて歩き出した。

 やがて廊下のコーナーにその姿が消え、足音がどんどん小さくなっていく。

 今日は、多分よく眠れる。

 そして、ショウもきっと。


 部屋に入り、ふと自分の格好に気づいた。

 いつのまにか肩に掛かっている、赤のパーカー。

 私が寝る前に預かった物。

 それにはまるで今日の出来事が、彼の言葉が染み込んでいるような気がしてきた。

 私はパーカーをハンガーに掛け、ベットの近くに掛けてみた。

 しばらくは、借りておこうかな……。 




 快晴としか例えようのない天気。

 空は青いし、風は涼しくて言う事無し。

 絶好の試合日和、かどうかは分からないけど気持がいいのは間違いない。

 「試合は室内だ」と突っ込まれたらたまらないので、誰にも言わないけどね。

 昨日は久しぶりにぐっすり眠れて、気分も爽快。

 何なら、前座の試合でも組んでほしいくらい。

 この、左ジャブからヘッドスリップで懐に潜り込んで脇腹に右フックを……。

「誰と戦ってんだ」

「わっ。……何だ、ショウか」

 私は繰り出していた拳を取りあえず降ろし、ショウの顔をちらっと見上げた。

 うん、元気そうだし疲れた様子もないみたい。

 そう振る舞ってる訳じゃなくて、本当に調子は良さそうだ。

 服装はふだんと変わらないラフな物。

 薄手の赤いジャケットに、すり切れた感じの紺のジーパン、足元はがっしりした感じのブーツを履いている。

「さすがに、蹴りは出さなかったな」

「当たり前でしょ。いくら何でも、これじゃ無理よ」

 胸元にちょっとフリルが付いたワンピースの裾を、軽く引っ張ってみる。

 初夏にふさわしい目にも鮮やかな純白で、最近のお気に入り。

 試合のセコンドに付く時はTシャツとスパッツに着替えるけど、今くらいはせめてね。

 それに何となく、今日は白を着たい気分だから。


「眠れたか、昨日は」

「ええ、おかげさまで」

「俺も、よく寝た。久しぶりに熟睡した気がする」

 晴れやかな笑顔で空を見上げるショウ。

 多少緊張はしているようだが、気負いは見られない。

「ご飯食べた?」

「いや、朝も食べてない。試合まで時間があるから、食べた方がいいんだろうけど」

 私は背中にあるリュックを指さし、遠慮気味に申し出た。

「スープとリゾット持ってきたから、後で少し食べたら」

「悪いな、最後の最後まで」

「気にしないで。その内、倍にして返してもらうから」

「なる程ね。じゃあ、早く学校行こうぜ」

 私のリュックにそっと触れ、元気良く走り出すショウ。

 勿論私も、すぐに走り出す。

 こうしてショウの食事を作るのも、二人っきりで走るのも今日で終わり。

 色々あったけど、それも全ては今日という日のため。

 彼に求められるのは試合の結果であり、経過ではない。

 そして、彼に付き合ってきた私の役目もここまでだ。

 ここからはショウ一人で向かわなければならない、私には立ち入れない領域。

 だからせめて。

 後少しだけは、彼の隣を走っていたい……。



 学校に着いた私達は、いつものオフィスやトレーニングルームではなく、武道館のロッカールームで一休みしていた。

 ここは格闘技系の部活の公式戦が行われる施設で、中央にはそれ用のスペースが何面分も確保してある。

 収容人数は行われる競技と席の配置によって違うが、1000人は優に越える。

 中央のスペースを中心に席はすり鉢上に配置してあり、その上には大きなモニターも備わっている。

 またここは主に決勝戦で使用されるケースが多く、格闘技系の部活にとってはそれなりに思い入れがある施設でもあるのだろう。

 またそこを試合会場にしたという事が、今回の問題の大きさも感じさせるのだが。

 でも今は、そんな事を気にしている場合ではない。


「トマト風味か。チーズは?」

「消化に悪いから駄目。勿論、私のには入ってるわよ」

 丁度スプーンに乗ったチーズを、ショウの顔の前へ突き出す。

 トマトに合うんだ、これが。

「あっ」

 この人顔を伸ばして、私のリゾットを食べた。

 しかも、美味しそうな顔をして。

 何をやったのか、自覚があるんだろうか。

「出すのよ、ほら。早くっ」

 別にチーズを食べられた事を怒っている訳ではない。

 さっきも言ったように、消化が悪いからだ。

 しかしショウはすでに飲み込んでしまっていて、野菜スープをすすっている。

「このくらい大丈夫に決まってるだろ。ほら、暴れるな」

「もう、食い意地張り過ぎなのよ」

「お互い様だ。大体、ユウは今食べる必要あるのか」

 ぐっ、痛い所を付いてきた。

 それはそうだけど、目の前でパクパク食べられて我慢出来るほど人間は出来ていないの。

 後でカツサンド食べてやる。

 もう、試合前には絶対食べられないようなくどいやつを。

 目の前でソースを、ボタボタこぼしながら。

 とにかく、あのチーズの恨みは忘れない……。


「優ちゃんいる?私、丹下だけど」

「開いてるっ」

「そ、そう。おじゃまします……」

 ドアが開き、遠慮気味に沙紀ちゃんが入ってきた。

 彼女も着替えを済ませた私と同じ、Tシャツとスパッツ姿である。

「玲阿君、調子は……。どうしたの二人とも」

 スプーンを持って睨み合う私達を、怪訝そうに見つめる沙紀ちゃん。

 理由を言うのもバカらしいので、適当に笑ってごまかした。

 彼女もそれ以上聞くのはためらわれたのか、笑顔を作って話題を変えた。

「今日のレフリーは、予算編成局の人がやるのね。どっちにも関わりが薄いからなんだろうけど」

「誰でも一緒さ。ルールなんて殆どないんだし、KOやギブアップの判定だけだよ」

 ショウの言う通り今回のルールは、ほぼ何でもあり。

 各急所、髪、指への攻撃と、武器の使用が禁じられているくらいだ。

 勝敗はKOかギブアップのみ、時間無制限の完全決着。

 非常に燃えるルールなのである。

 沙紀ちゃんは頷いて、話を続けた。

「さっき予算編成局の知り合いに聞いたんだけど、相当警備は厳重にするんだって。どっちが勝っても、乱闘騒ぎになりかねないから」

「警備か。本当なら私達の仕事なんだけどね。でも沙紀ちゃん、知り合いって誰?今日ここに来てる予算編成局の人なんて、偉い人ばっかでしょ」

「え、ええ。私は生徒会に所属しているから、みんなには言ってないんだけど」

 トーンを落として寂しそうに呟く沙紀ちゃん。

 確かに、生徒会と予算編成局の確執を考えたら無理はない。

 前回の事件では両者の一部幹部の間で密約があったとはいえ、結局相反する組織であるのに変わりはないのだろうか。

 でも私と沙紀ちゃんも一度は戦って、その後仲良くなれた訳だし。

 だから生徒会と予算編成局が、もう少し良い関係になる時が来るかもしれない。

 そうすれば沙紀ちゃんも、その知り合いの人を隠さなくて済むようになるんだけど。

 自分達ではどうにもならない問題だけに、すぐには難しいんだろう。



 少し空気が重くなっていたところに、またもやドアがノックされた。

「入るわよ」

 沙紀ちゃんのように待とうとはせず、いきなりドアを開けるサトミ嬢。

 この辺は、付き合ってる年数の違いを感じさせられる。

 私がサトミでも、同じ事をするけどね。

「丹下ちゃん、久しぶり」

 入って来るや沙紀ちゃんに手を振るサトミ。

 おい、私達だって久し振りだ。

「そうね。遠野ちゃんが彼氏の所へ出張してたから、全然会えなくて」

 明るく笑って手を振り返す沙紀ちゃん。

 そうそう、もっと言ってやって。

 するとサトミは、何とも気まずそうな顔をして視線を彷徨わせた。

 む、怪しいな。

「聡美、走らなくてもいいから」

 開けっ放しのドアから飛び込んでくる男の子。

 非常に見慣れた顔ではあるが、こっちは穏やかな雰囲気の人。

「あ、丹下さん久しぶり」

 そう言って沙紀ちゃんに手を振るヒカル。

 つまり、ケイのお兄さんでサトミの彼氏。

 だから、私達だって久し振りだっていうの。

「ええ。私は、ね」

 サトミは拗ね気味に顔を逸らして、ヒカルの後ろに逃げ込んだ。

 ちっ、結局はそうか。

「よく分からないけど、みんな元気そうだね。それに、ショウも」

「まあな。それで、お前のレポートはどうなった」

「やっと終わったよ、聡美のおかげで。明日からは、またみんなの所へ戻ってもらうから」

 サトミへ向かって、優しく微笑み掛けるヒカル。

 彼女もはにかみ気味に、それを受け止める。 

「そういうのは、帰ってからやってよね。ここには、試合を控えて緊張している人がいるんだから」

「優ちゃん。それ、ひがみにしか聞こえないわよ」

 沙紀ちゃんが、笑いながら私の後ろを指さす。

 まだ暖めていないタッパから、直接リゾットを食べているショウを。

 しかも、チーズばかり狙って。

「美味しそうね、それどうしたの?」

「ユウが作ってくれた。このチーズがいいんだよな」

「僕も食べていいかな」

「食え食え」

 スプーンを回しあって、冷えたリゾットを食べるサトミとヒカル。

 ショウはのんきに、野菜スープをすすっている。


 ……何か、もうどうでもよくなってきた。

 非常にやるせない気分になった所で、ため息を付いて椅子に腰を下ろす。

 いつの間にか沙紀ちゃんまで加わって、わいわい騒ぎながらリゾットを電子レンジで温めている。

 ショウがリラックス出来てるし、こうしてみんなで楽しむのは悪くないけどね。

 いや、一人足りないか。

「ケイって何やってるの。沙紀ちゃん知ってる?」

「昨日も学校で誘ったんだけど、忙しいとか言って。こうなったら、仕事なんて放っておけばいいのに」

 苛立った感じで視線を落とす沙紀ちゃん。

 私も何度か連絡を入れたが、電源切ってるみたいで通じなかった。

 試合にはずっと反対してたから、ここに来るのもあまり期待はしていなかった。

 ただ、さみしくはある。

 たとえ陰気でやる気のない子でも。何を考えてるのか分からなくて、変な事ばかりしてる子でも。地味で、冴えなくて……。

 とこんな事考えてても仕方ない。

 死んだ子の年は数えないって言うし、あんな子の事もすっぱり忘れてしまおう。

「いいじゃない。顔だけは同じ人がちゃんと来てるんだから。ねえ、ユウ」

 私の気持を悟ったのか、サトミが笑い掛けてくる。

 そうだね。

 弟の代理として、今日は頑張ってもらおう。

 この子もある意味弟以上に問題がある事は、この際気にしない事にして……。


 それから少しして、ショウも服装をTシャツとスパッツに着替え終えた。

 試合ではこれにナックル部分を覆うグローブと肘当て、それにレガースを付ける。

 今はヒカルを相手に、軽いスパーリングをやっている。

 動きは比較的ゆっくりで、技の感触を確かめる感じ。

 ローキックからワンツー、フックとショウが動いたところで、ヒカルが間合いを取った。

「……丹下さん、代わる?」

「パス。玲阿君、すごい威圧感だもの。疲れるし、本気になっちゃいそうで」

 椅子に座りぐったりしている沙紀ちゃん。

 それを見て頷いたヒカルが、再び構えを取る。

 早くはないが、確実かつ重い打撃がヒカルの体を打つ。

 加えて沙紀ちゃんも言っていた、対峙する者を圧倒する威圧感。

 私はもう慣れているが、初めてショウと拳を交えた彼女には相当応えようだ。

「ヒカル君は平気なのかしら。あまり辛そうには見えないけど」

「久し振りだから、結構喜んでるのよ」

 机に腕をつき、二人の動きに見入るサトミ。

 どちらかというとヒカルを見ているのは、仕方ない。

 私がショウの動きを追うのと同様に。

「……お終い。僕もそろそろ限界」

 Tシャツの胸元をぱたぱたさせて、ヒカルがショウから離れる。

 それを機に、時計を確かめる。

 もう、そろそろだ。

「そのシャツとスパッツ着替えて。試合用のやつに」

 私が声を掛けると、ショウは何故か首を振って手招きをした。

「どうかした?私達なら出てくから、気にしなくてもいいよ」

「そうじゃない。ユウ、構えろよ」

 笑顔を浮かべて構えを取る彼。

 私は着替えを抱えたまま、その構えを見つめた。

「もういいでしょ。みんなと、ずっとやってたんだから」

「ユウとは、まだだろ」

「でも……」

「俺は、最初からそのつもりだった」

 ショウの声はとても小さくて、きっとすぐそばにいる私にしか聞こえなかっただろう。

 それは私の胸へ届き、ゆっくりと時間を掛けて心の奥へと舞い降りていった。

「分かった。いいえ、分かってた」

 そんなささやきも、きっとショウにしか届かない。

 構えを取った私に、彼がゆっくりと拳を伸ばす。

 私も同じように拳を伸ばす。

 軽く触れ合う二人の拳。

 何も言わなくても、これだけで十分だ。

 ショウの気持を受け取るには、私の心を伝えるには。

 拳が離れてジャブが飛んできても、それは変わらない。

 今日までの、二人で過ごした全ての出来事を一つ一つ振り返るかのように、私達は拳を交えあった。



 長い廊下。

 弱々しい照明が、おぼろげに行く手を照らす。

 幾つもの足音。

 正面に見える扉が、ゆっくりと開く。

 それをくぐり、上から降り注ぐ目も眩む明るさに手をかざす。

 静まり返った会場。

 席は中央に敷き詰められたマットの周りだけが埋められ、彼らを上回る警備の数が目に留まる。

 階段を下り、マットを目指す。

 歓声も、怒号もない。

 ただ私達の足音だけが響く。


 下まで降り立った私は、会場全体を見渡した。

 観戦に来たSDCの各運動部部長達が、まず目に付く。

 おそらくは、格闘技系クラブが大半だろう。

 位置としては反対側のコーナーに陣取っているが、その数は100名ほど。

 部員は殆ど、連れてきていないようだ。

 さらに目を上へ移す。

 すり鉢状になっている会場はマットの周り以外は空席で、通路やドアに各組織のガーディアンが配置されている

 その全員が完全装備で、試合が行われるマットと各ドアの両方を向いている。

 マットの真上にある大型モニターは、先ほどから無人のマットだけを捉えている。

「こちらへどうぞ」

 きびきびした動きで、男の子が一人近づいてきた。

 ショウが軽く頷き、私達もその後に続く。


 マットの正面には若干のスペースがあり、医療部の先生や看護婦さんが待機している。

 またSDCやガーディアン連合、そして予算編成局や生徒会幹部の姿もある。

「……よく来てくれた」

 SDC代表代行、つまりショウの試合相手が前へ出てきた。

 服装はショウと変わらないTシャツとスパッツ。

 すでにレガースやグローブも付けている。

 ショウを頭一つ上回る巨体はうっすらと汗をかき、いつでも試合が出来る状態だ。

「一応言っておくが、まだ棄権は認めらえる」

「でもそれはあり得ない。お互いにな」

 ショウははっきりと言い放ち、また代表代行も小さく頷いた。

 すると副会長が立ち上がり、二人に向かって声を掛けた。

「初めに言っておきますが、結果の如何にかかわらず各組織とも遺恨を残さないようにお願いします。また試合結果をたてに、影響力を誇示しようなどと思わないように」

「それは、予算編成局も同意見です。SDC対ガーディアンという構図ではないと、両陣営からの誓約書もありますし」

 はきはきした口調で説明する、予算編成局の女の子。

 誰かは知らないけど、副会長の隣りに座っているくらいだから幹部なんだろう。

 その言葉は建前なのか、それともその通りに動いていくのか。

 しかし確かめる術も気持も私にはない。


「時間も来た事だし、そろそろ始めるか」

 世間話をするような、代表代行の話し方。 

 ショウは無言で頷いて、ノーロープのマットに上がった。

 ある程度のショックを吸収するマットを敷き詰めたスタイルで、広さとしてはボクシングのリング2つ分くらいある。

「三島さん、頑張って下さいっ」

「絶対勝ってっ」

「頑張れっ」

 さすがに気持が高ぶってきたのか、観客席から声援が飛ぶ。

 こっちだって人数は少ないけど、言わない訳にはいかない。

 サトミ達も同じ気持ちだったらしく、全員が一斉に叫び出した。

「ショウ、頑張れー」

「勝てる、勝てるよ」

「頑張ってっ」

 うんいい感じ。

 ショウも笑顔で手を振ってる。

 やがてお互いの声援も止み、会場に静けさが戻ってくる。

 でも緊張が少し解れたせいか、SDCの部長達は小声で会話を始めた。

「なんだ、あいつら女ばっかだな。男も細いのが一人いるだけで。あんなのがセコンドか」

 明らかに聞こえるような声で、話している連中がいる。

 ついむっと来た私は、一言言おうと一歩前へ踏み出そうとした。

「……あいつらは俺の後輩だ。文句があるなら、俺を通せよ」

 観客席の最前列に座っていた塩田さんが、立ち上がってその男を睨み付ける。

 一瞬にして静まり返る会場。

 塩田さんの怒りに、気迫に、握りしめられた拳に。

「お、俺は、そ、その……」

 しどろもどろになる男。

 塩田さんはかまわず、男の方へ歩き出そうとした。

「……塩田、その辺にしておきなさい。大体あなたは連合の代表なんだから、ここへ座るべきでしょう」

 特別に設けられた席に座っていた副会長が、空席になっている中央の席を指さす。

「そこは近過ぎて見にくい。大体ケンカなんだから、こんな大袈裟にやる必要あんのか」

 鼻を鳴らして、万全の警備体制が取られた会場全体を見渡す塩田さん。

 確かに発端は、ショウと代表代行との行き違いに過ぎない。

「それはともかく、今度あいつらに何か言ってみろ。SDCだろうが予算編成局だろうが、覚悟しとけよ。勿論、生徒会でもだ」

 最後にもう一睨みして、塩田さんはどかっと腰を下ろした。

 やった事は恥ずかしいけど、やはり嬉しさの方が上回る。

 私達が頭を下げると、親指を立てて笑っていた。

 立場があるって言っておきながら、あれだもん。


 その間にもショウと代表代行は、体を解しながらマットの上をゆっくりと歩いている。

「……時間です。両者とも中央へ」

 さっき私達を呼びに来てくれた男の子が、マットの中央で二人を呼ぶ。

 今回の試合は彼がレフリーで、機敏な動きを見ていればそれも頷ける。

 ショウと代表代行の二人が、さすがに厳しい表情で前へ進み出る。

 中央で、彼から説明を受ける二人。

 会場全体が静まり返っているので、コーナーに控えている私達もその説明が聞こえてくる。

 自ずと高まっていく緊迫感。

 睨み合う二人の気迫が、距離を隔てた私達にもはっきりと感じられる。 

 ボディチェックを済ませたレフリーが両者を分け、それぞれのコーナーへ戻す。

 早い息づかい、紅潮した肌の色。

 すでに全身に汗をかき、後ろで束ねた髪をしきりに気にしている。

 それは緊張感の現れであると共に、戦いの準備が出来た事を告げている。

「タオル、あるか」

 私は肩に掛けていたタオルをショウに渡した。

 ショウは顔を軽く拭き、そのタオルを私に放ってきた。

「……ユウ、頼む」

 勿論その意味は分かっている。みんなも、私も。

 グローブを付けた手を私に伸ばし、そのまま背を向けるショウ。

 私は何も言わず、ただその背中を見送った。

 そしてタオルを強く、強く握りしめた。



 再びリング中央で顔を合わせる両者。

 全員の視線が彼ら二人に集中する。

 わずかな物音すら聞こえず、狂おしい程に長く感じられる沈黙が続く。

 極限に達する緊張感、高まっていく昂揚感。

 そして……。

「ファイトッ」

 レフリーの声が会場全体に響き渡る。

 その途端ショウと、そして代表代行の体が後ろに吹き飛んだ。

 いや、実際には後ろへ飛び退いたのだ。

「代行が4発、あいつが2発か?」

「いや、4と3だろ」

「ああ、間違いない」

 一気に盛り上がる会場。

 ショウと代表代行は、微かに赤くなった顔をグローブを付けた甲で拭っている。

 同時に放たれたオープニングショット。

 正確には代表代行のジャブが3にストレートが2、アッパーが1。

 ショウは右ストレートのトリプルと、ボディアッパーが左右1ずつ。

 ただ、今のはスピード重視の挨拶代わりといったところだろう。

 早さはあるが、あれで倒れる程お互いヤワではないはずだ。

「玲阿君が5に、向こうが6。まだ牽制ね」

 さすが沙紀ちゃん、いい目してる。

 サトミとヒカルは、呆気に取られた顔で呆然としている。

 この二人ではおそらく無理だろう。

 彼らにとってここは、全くの別世界なのだから。

 また私達が彼らの世界に行った時は、当然立場が逆転する。

「でも、ビデオより早い。向こうも相当トレーニング積んだみたい」

「ユウ……」

「大丈夫。ショウがどれだけ強いかは私が、私達が一番知ってる」

 私はサトミの手を握り返し、距離を取り合う二人を見つめ続ける。


 上体を小刻みに動かし、前に出した腕を振って細かなフェイントを繰り返す両者。

 動きのないつまらない光景と思うかもしれないが、見る者よってはたまらない攻防戦だ。

 実際私の手の平は汗をかきっぱなしだし、隣で見ている沙紀ちゃんも目を輝かせて見入っている。

 だが戦いは、駆け引きだけで展開する物ではない。


 代表代行が大きく踏み込んで、右フックを振り下ろす。

 ダッキングでそれをかわし、バックステップで間合いを取るショウ。

 しかし代表代行の突進は止まらない。

 ショウが足を揃えたところに、ジャブの連打で体勢を崩させる。

 そして、首を掴んで膝をたたき込む。

 強引に腕を振り払い横へ逃れるショウ。

 飛んできたサイドキックを肘で打ち落とし、自分もジャブで間合いを取る。

 代表代行はそれを内回し蹴りで払いのけ、そのまま前蹴りに持っていった。

 ブロックごとショウを吹き飛ばし、さらに後ろ回し蹴りを叩き込む。

「グッ」

 息を洩らし足をふらつかせるショウ。

 休む間もなくローキックの連打が飛んでくる。

 また時折ローからミドルへの変化を見せ、ディフェンスをより難しくさせている。

 ショウの膝が落ち、上体が前に倒れ込んでいく。

「チッ」

 大振りなフックを繰り出しラッシュをかわそうとするが、代表代行は軽くあごを引いただけで間合いを取ろうとしない。

「グッ」

 強引な体当たりで代表代行へ突っ込むショウ。

 勿論それはあっさりとかわされ、ショウは転がるようにして反対側へと倒れ込んだ。

「スリップッ」

 レフリーが即座に判断を下す。

 SDCの部長達から不満の声が上がるが、素早く立ち上がったショウを見てそれはすぐに収まった。

「……熊みたいな力だな」

 赤く擦り切れた顔を押さえ文句を言うショウ。

 そして何故か腰を屈め、足元に手を伸ばしている。

「こんなのしてられるか」

 荒い息と共に、何かを投げて来た。


「……これ、パワーアンクルじゃないっ」

 思わずショウに投げ返しかけたが、どうにか思いとどまった。

 道理で蹴りを出さなかった訳だ。

 ちなみにこのパワーアンクルはトレーニング以前から付けている物で、私達全員がつけている。

 どうせ前の自分のままで戦いたいとかいう理由だろうけど、いくら何でも無茶過ぎる。

「随分甘く見られたな」

 険しい表情をして、代表代行がこちらを睨んでいる。

「前の俺で、どこまで通用するか知りたかっただけさ」

 思った通りの答えを返すショウ。

「それを取ったくらいで動きが変わると思ってるのか」 

 怒りを湛えた鋭い眼差し。

 ショウは口元を微かに緩め、小さなステップを繰り返す。

 すると代表代行が、それまでとは桁外れの早い踏み込みを見せた。

 踏み込みと同時に放たれる、唸りを上げてショウのこめかみへ迫る右フック。

 ブロックすら無駄と思えるその一撃。

 だが……。


 まるで磁石にでも吸い付けられるように上体を大きく前へ倒し、右フックをかいくぐる。

 そして軽やかに足を踏みきり、体をひねりつつその右フックへと飛びついた。

 足を代表代行の首に絡ませ、足の間に挟んだ腕を一気に引き延ばす。

 しかしすぐに手をつなぎ合わされ、腕は伸びきらない。

 マットに転がる、密着した二人の体。

 上になっているのはショウ。

 飛びつきの逆十字が無理と判断するや、代表代行の額を抑えマットに叩き付けたのだ。

 代表代行は解放された腕を頭の後ろに入れてダメージを軽減したらしく、大きく足を振り回してどうにかショウから逃げきった。

「……甘く見ていたのは、俺の方か」

 立ち上がった代表代行の声に、感嘆の色が混じる。

「俺も、ここまで軽くなるとは思わなかったよ。何せ5kg付けてたんだからな」

 会場にどよめきが走る。

 それが片足5kgと分かったら、一体どうなるか知りたいところである。

 もっともそんなに重いのを付けているのはショウだけで、私達は1、2kg程度のを身につけている。

「セッ」

 低い姿勢で突っ込むショウ。

 タックルを警戒して、代表代行が腰を落とす。

 ショウは素早くサイドステップして位置をずらし、右ストレートを連打した。

「グッ」

 顔が跳ね上がり、上体が後ろにのけぞる。

 それを見て再び沈み込むショウの体。

 上半身での攻撃を無理だと判断したのか、代表代行の膝が飛ぶ。

 さらに体を伏せてそれをかわし、スライディング気味に背後へと回り込む。

 このパターンは……。


 代表代行の尖った肘が、真っ直ぐ下へ落ちていく。

 背後に体重が掛かっている分、その勢いは早い。

 もし当たれば、骨折どころか内蔵も危ういだろう。 

 鈍い音が会場に響き渡り、マットが大きく揺れる。

「よく見ろよ、こっちだ」

 どうやっても足すら届かない位置でステップを踏んでいるショウ。

 肘打ちに合わせてカウンターで背中や膝を蹴るという、私が否定したあのアイディア。

 だがショウは、それを実行に移さなかった。

 試合が始まってから、胸が締め付けられるように痛む。

 おそらく試合が終わるまで、収まる事はないだろう。

 だけど今、微かにそれが和らいだ。 

「誘っておいて、逃げるか」

「人に心配掛けてまでやる事じゃない。それに気づいただけさ」

 代表代行に向かって放たれた言葉は、そのまま私の胸へと飛び込んできた。

 少し遅れた、あの日の返事として。


 勿論ショウはそんな素振りさえ見せず、引き締まった顔で代表代行を睨み付けている。

「……行くぜ」

 いきなりの飛び後ろ回し蹴り。

 それがブロックで受け止められると、さらに体をひねって飛び膝蹴りへと変化させる。

 沈み込む代表代行の体。

 ショウは着地するや、ガードの上からお構いなしに廻し蹴りとローキックを連打する。

 リズミカルな、そして正確な重い蹴り。

 しかし、その足が突然止まる。

「ハッ」

 ガードを解いて脇腹で蹴りを受け止めた代表代行が、そのまま足を抱え込んだのだ。

 残った足が頭を狙うが、それは途中で力無く動きを止めた。

 みるみる赤くなるショウの顔。

 膝と足首を同時に極められ、動きが制限されたまま代表代行のジャブをかいくぐっている。

 ジャブにやがてボディアッパーが加わり、動きの取れないショウはますます苦悶の表情を浮かべる。

「グッ……」

 ガードに終始して打たれるがままのショウ。

 盛り上がるSDCの部長達。

 勝利を確信した喜びに満ちた歓声。

 肉を打つ、重い鈍い音。

 どこかを切ったのか、マットに赤い雫が落ちる。

 拳が脇に、腕に、こめかみへとめり込んでいく。


 大騒ぎするSDCの部長達とは対照的に、重苦しい表情で押し黙る私達。

 しかし、誰の顔にもあきらめの色はない。

 ショウが勝つと言い切ったサトミは、歯を食いしばってその光景を見つめ続ける。

 沙紀ちゃんも、彼女の手を握りしめ目を逸らさない。

「……一つ聞いていい」

 ヒカルは私の顔を見つめ、優しく頷いた。

「私はどうすれば……」

 そこで言葉を止めた。

 どんな気持で、ショウは私にタオルを託したのか。

 何故私に託してくれたのか。

 私はこの数週間、彼の何を見てきたのか。

 そう。決断を下すのは他の誰でもない。

「ごめん。昔の癖で、ヒカルに頼るところだった。今は私がしないといけないのに」

 ヒカルは何も言わず、力強く笑っているだけだ。

 その笑顔に、私達は何度助けられた事か。

 そして、今も。


「……ショウッ」

 私は身を乗り出し、マットを激しく叩いた。

 突然の出来事に呆気に取られたのか、SDCの部長達が一瞬黙りこくる。

「頑張てっ」

 静まり返った会場に、私の絶叫が響き渡る。

 同時に失笑も。

「何言ってんだ、あいつ」

「足極められて、後はいつ倒れるかだけだろ」

「試合が見えてないんだよ。あいつも、セコンドもな」

 そんな外野の声をよそに、代表代代行は相変わらず足を極めたままでショウに拳をぶつけ続ける。

 打ち疲れるという事が無いのか、速度も重さも試合開始当初と変わりがない。

 マットが赤く染まり、一振りごとにショウの体から汗が吹き飛ぶ。

「頑張れって言ってるのっ。聞こえないのっ」

 私はかまわずマットを叩き続ける。

 笑われようと何と言われようとかまわない。

 ただ私の気持ちを伝えるだけ。

 それだけだ。

「ユウの言う通りよっ。ショウ、頑張ってっ」

「玲阿君っ。頑張ってっ」

 すると、後ろから叫び声が聞こえてきた。

 振り返るまでもない、サトミと沙紀ちゃんだ。

 そう、二人だって私と同じなんだ 



 奇跡とは思わない。

 代表代行の拳が、突然受け止められる。

 振りほどこうと肩を振るが、全く微動だにしない。

 それでも代表代行の有利は言うまでもない。

 ショウの足を極めている腕に、力がこもっていくのが分かる。

 角度が変わっていくショウの足。

 上へ上へと上がっていく。

 そう、代表代行の体ごと……。


 どよめきがざわめきへ、そして驚愕の叫び声へと変わっていく。

 おそらく100kgは優に越えるだろう、代表代行の体。

 しかも足首と膝を完全に極められている状態。

 しかしショウはかまわず足を上げていく。

 一体どれだけの力が加わっているのか。

 痛みと打たれた跡だけではない、真っ赤になったショウの顔。

「クッ」

 ついに代表代行の体が、ショウの顔の位置まで持ち上げられる。

 足の痛みはどれほどだろう。

 人一人を乗せて、さらに足を極められているのだ。

 今すぐ折れても何の不思議もない。

 それが分かっているのか、代表代行はショウの足にしがみつきさらに締め続ける。

「ショウッ」

 私が叫んだのが早いか、それとも。

 ショウの足が、すさまじい早さで床へと振り下ろされる。

 危険を察知して手を離す代表代行。

 もう遅い。

 鉈のごとく振り下ろされたショウの足は、床との間に挟まった代表代行の脇腹に奥深くまでめり込んだ。

「グッ」

 脇腹を押さえ横へ逃げる代表代行。

 ショウは痛みを感じさせない細かなステップをみせ、代表代行の行く手を阻む。

 スライディングで足元を抜けられかけるが、ローキックで肩口を蹴り上げた。

 それは代表代行も予想していたらしい。

 ショウの足に手を掛け、そこを軸に大きく横へ滑り込む。

 背後を取られるかと思いきや、ショウが一瞬早く振り向く。

 いや、相当に早く。

 ショウもまた、動きを読んでいたようだ。

 腕を伸ばしがっちりと組み合う両者。

 上のポジションを取ったのはショウ。

 体格もそうだが、体重では二人の間に相当の差がある。

 しかし代表代行を押しつぶそうとする力は、そんな差を微塵も感じさせない。

 代表代行の抵抗も空しく、二人の体が床へ向かう。


 完全に押しつぶされる寸前で、代表代行がショウの足を手で払った。

 同時に体も横にひねり、バランスを崩しにかかる。

 のしかかる体から腕を抜き、横に転がって間合いを取る。

 しかし、ショウの反応が早い。

 床に転がった代表代行の腕を取り、一気に極めに掛かる。

 代表代行は、腕の力を抜いてそれに対抗している。

 さらに上体をひねって逃れようとするのに合わせ、ショウは素早く代表代行の背後に回った。

 代表代行が足を後ろに引き、背中に廻してショウのお腹をしきりに蹴りつける。

 しかしショウは離れない。

 それどころか、逆に関節をつぶすほどに押し返してる。

 とうとう足は完全に押し出され、ショウの腕が代表代行の喉へと伸びてきた。

 つまり、この間私に対して見せた攻めのまま。


 足は代表代行の胴に回り、完全に逃げ道をふさいでいる。

 そして彼の太く鍛えられた喉元に、ショウの腕が完全に収まった。

「グッ」

 思わずうめき声が漏れる。

 頸動脈の圧迫により、相当の苦しさがあるだろう。

 私はすぐにタップして逃れたが、彼は喉と腕の間に手を差し込もうと必死にもがいている。

 しかしショウは彼の体を後ろに反らし、さらに喉を開かせた。

 同時に腕を締め上げていき、上半身の動きを完全に封じ込める。

 誰の目にも、もはや打つ手無しだ。

 それが分かっているのか、SDCの部長達が悲痛な声を上げる。

「代行、もういいですっ」

「止めて下さいっ。それ以上は危険ですっ」

「レフリーッ、チェックしろっ」

 言われるまでもなくレフリーは再三代表代行に確認を求めているが、彼があきらめる様子はない。

 あれほど赤かった顔は今や青ざめ、壊れた笛のようなかすれた呼吸音がわずかに漏れている。

 それでもショウは容赦しない。

 腕の位置をわずかにずらし、喉仏へと狙いを定める。

「グァッ」

 頸動脈だけでなく、気管への圧迫。

 常人なら数秒も持たない。

 またどれだけ首回りを鍛え筋肉を付けようと、気管そのものは鍛えられない。

 わずかに自由の利く指先が、何かを求めるように宙をさまよう。

 だがその手が、何かを叩く仕草には変化しない。

 彼の瞳には、未だ戦いへの闘志がみなぎっているのだ。


 ここから挽回するのは、どう考えても不可能。

 それは本人が一番分かっているだろう。

 しかし、彼はまだ戦い続けている。

 セコンドが止めようとタオルを何度も投げかけるが、彼の視線にその動きが封じ込められる。

 何故そこまで頑張るのか。

 分かっているのは、このまま行けばショウが勝つ事。

 そして、代表代行の気管がつぶれる事。

 それはすなわち、彼の死を意味する。

 私は迷わずタオルに手を掛けた。

 ごめん、ショウ……。


 タオルを持った手を振りかけた瞬間、突然レフリーが二人の間に割って入った。

 すかさず手を離し代表代行を解放するショウ。

 向こう側のコーナーからはセコンドが飛び出してくる。

 またレフリーが医療部の先生を呼び、診察に当たらせた。

 まさか、遅かったのか。

 一気に血の気が引いていく。

 頭の中が白くなり、視界が急速に狭まる。

 呆然とした状態で、私はマット上を見つめ続けた。


 レフリーが、片膝をついて肩で息をしているショウに近づいていく。

 そして……。

「勝者、玲阿四葉っ」

 ショウの腕が、ゆっくりと上げられる。

 ふと目を移せば、喉元を抑えた代表代行が上半身を起こしてショウに手を伸ばしている。

「SDC代表代行・三島さんのギブアップにより、ガーディアン連合所属・玲阿四葉君の勝利とします」

 レフリーの冷静な説明が、呆気に取られている会場にじわじわと広がっていく。

 その間にもようやく立ち上がったショウと代表代行は、笑顔で何か話し込んでいる。



 気づいたら駆け出していた。

 何も見えていない、ただ走っていた。

「ショウッ」

 傷だらけの顔がこっちを向く。

 私は手を広げ、宙を舞った。

 勿論、ショウの元へ。

 その胸に思いっきり抱きついた。

「お、おい」

 戸惑い気味の声が頭の上で聞こえている。

 そして、少しの間を置いて私の背中に手が掛かる。

「血が付くぞ、ほら」

「よかった、本当に……」

 ショウの言葉も聞かず、その胸に顔を埋める。

 どれだけ打たれたのだろう、かなりの熱を帯びているショウの体。

 鼓動が、信じられないくらいの早さで私の耳を打つ。 

「もう終わったよね。もうこれ以上怪我しなくていいんだよね」

「ああ、もう終わった。それに、こういうのはさすがに懲りた」

 笑いを含んだ呟き。

 ぎこちなく、そして優しく髪が撫でられる感触。

 このまま、いつまでもこのままでいたい。

 私はこみ上げる涙を堪えつつ、そんな気持になっていた。

 それが何なのかは分からない。

 いや、この間から目を逸らしていただけだ。

 自分の気持ちに……。


 ふと顔を上げると、医療部の先生が苦笑いして側にいた。

「す、済みませんっ」

 慌ててショウから飛び退くと、先生は私に軽く会釈をしてショウの診察を始めた。 

「……骨や内臓に異常は無いね。攻められた膝と足首も問題ない。打撲と擦り傷が殆どだ。一応後で医療部の精密検査を受けてもらうけど、いいかな」

 何故か私に話しかけてくる先生。

「え、ええ。お願いします」

「うん。しばらくは安静にして、あまり無理はさせないように」

「は、はい」

「応急処置をしておくから、少し手伝って」

「あ、はい」

 よく分からないままショウの顔を消毒する私。

 隣では、代表代行が看護婦さん達の治療を受けている。

 どうやら彼も、大きな怪我はしていないようだ。


「……怪我は、大した事無いようね」

「あ、サトミ」

 しっとりした声に振り返ると、ヒカルと沙紀ちゃんもいつの間にか後ろに来ていた。

 しかも、薄笑いを浮かべながら。

「どうかしたの?」

「それはこっちが聞きたいわ。ねえ、丹下ちゃん」

「ええ。いきなり飛び出したと思ったら、これだもの」

 大きく手を広げ、サトミに抱きつく沙紀ちゃん。

 ちょ、ちょっと何やってるの。

 ち、違うんだってあれは……。

「ユウッ、そこ違うっ」

「え?」

 突然叫ぶ叫ぶショウ。

 振り向いてみると、消毒を染み込ませたガーゼをショウの目の前まで持ってきていた。

「あ、ごめん。サトミ達が変な事言うから、つい」

「そうかしら。ねえ、ショウはどう思う?」

 するとショウは口を開け、その中を指さした。

「切れてるから痛くてしゃべれないって言うの。さっきまで平気で話してたのに」

「いいじゃない、遠野ちゃん。楽しみは後に取っておかないと」

 おっかない事を言うね、この人は。

 でもショウが大変なのは二人とも分かっているので、それ以上からかうのは止めてくれた。

 おかげで私もほっとした。

 後は、二人がこの事を忘れてくれるように願うだけだ。

 無理だとは分かっているけどね……。



 しばらくして、あちこちに包帯やガーゼを付けた二人が再び向かい合った。

 代表代行の計らいにより、SDCの部長達はすでに会場を後にしている。

 大丈夫だとは分かっているけど、逆恨みした連中が襲ってくるとも限らないという考えかららしい。

 また各組織から派遣されたガーディアンも、姿を消している。

 これは副会長の判断で、彼らは武道館外の警備に周り、試合の情報を聞きつけた報道部や野次馬を退けているとの事だ。

 残っているのは私達と、特別席に座っている各組織の幹部達だけとなった。

「……完敗だ」

「いや。一ヶ月前だったら、俺が負けてたさ。それと情報の差だよ。俺が戦ってるビデオなんて、殆ど手に入らなかっただろ」

「負けは負けだ」

 代表代行が差しだした手をしっかりと握りしめるショウ。

「どうなってでも勝つ気でいたんだが、君達を見ていたらそんな気も失せた」

 代表代行の細い瞳が、一瞬こちらを向いたように見えたんだけど。

 彼はすぐにショウへ視線を戻した。

「塩田が君達に懸けた気持が、俺にも分かった気がする」

「え、何だって」

「こっちの話だ。ともかくSDCは、これ以上君達に干渉しない。ただ、これからはガーディアンが優位に立つ事になるから……」

 するとショウは鼻を鳴らし、束ねた髪を無造作に撫でつけた。

「勝ったのは俺で、ガーディアンじゃない。負けたのはあんたで、SDCじゃない。そうだろ」

「この戦いには、もっと複雑な意味がある。君の発言は、それを否定する事になるんだぞ。思惑を外された者の反感を買ってもいいのか」

 わざと特別席に聞こえるような大声で話す代表代行。

 ショウはにやりと笑い、代表代行の胸元を指さした。

「そんな事気にするようだったら、あそこでドアを壊さなかったさ。俺にとっては、あの方が無茶だったぜ」

「……そうか。ただ、君が俺に勝ったという事実は残る。それに対する礼儀くらいはわきまえているつもりだ。運動部の事で何かあったら、一言声を掛けてくれ」

 そう言い終えた代表代行が、私の方を向いた。

「あ、あの何か」

「彼が、君にタオルを託した意味がよく分かった。あそこでギブアップ出来たのも、君のおかげだ」

「いえ、私はそんな」

 代表代行は慌てる私に軽く頭を下げて、そのまま私達の隣を通り過ぎていった。

 それを合図とするように、特別席に座っていた各組織の幹部も席を立つ。

「今日のは、ただのケンカ。結論はそう出ましたね」

「おっしゃるとおりです。少なくとも、私はそう認識しました」

 深く頷きあう副会長と予算編成局の女の子。

 二人の胸に、どんな考えがあるのかは全く分からない。

 おそらくそれを私達よりも知っているだろう塩田さんの姿も、すでにない。

 ショウの勝利を見届けた時点で、彼は席を立っていた。

 でも私は、それを逃げたとは思っていない。

 私達を、ショウの決断を信じての行為だから。

 私がショウ達を守ると誓ったように、塩田さんはいつでも私達を守ってくれていた。

 ショウを信頼するように、彼を信頼する気持。

 それは今も変わらない。


 少しして副会長と話を終えた予算編成局の女の子が、意味ありげに微笑んで私達をさっと見渡した。

「まさか、三島さんに勝てる人間がいるとは思わなかったわ。予算編成局としては、是非ともあなた達と一緒に仕事がしたいのだけれど。ガーディアンとしてやりたいのなら、フォースに加わる気はない?」

 フォースは名目上独立した組織だが、その指揮体系や予算配分は予算編成局の子飼いと言っていい。

 それはこうして公然と幹部の口から聞かれる事柄からも明らかだ。

「無理ですよ、局次長。。再三振られている私が断言します」

「そうそう、生徒会の誘いも断ってたのね。塩田君がお気に入りな訳よ。色々な噂も聞くし、嫌われないうちに私は帰るわ」

 私達に元気よく手を振って、局次長と呼ばれた女の子は部下らしき人達と共にドアへ続く階段を上っていった。

 予算編成局の局次長といえば、局長がいない今事実上のナンバー1。

 それにしては、妙に気さくな人だったな。

「では、私も帰るとしますか」

 最後まで残っていた副会長も、私達に軽く会釈をして局次長が上っていった階段に足を向けた。

 だが、途中まで登ったところで不意にこちらを向く。

「……玲阿君。さっきの発言は、ガーディアンにとって絶好の機会を潰す事になります。SDCを傘下に収める可能性を消すという意味で。自警局を監督する生徒会としては、かなりの問題です」

 強烈な叱責ともとれる副会長の言葉。

 おそらくSDCの代表代行に匹敵するほどの気迫が、副会長から発せられる。

 和んでいた空気が一変し、息苦しいくらいに雰囲気が張りつめる。

 重い沈黙の中、ショウがおもむろに口を開く。


「だったら、自警局に呼んで下さい。そこで何でも話しますから」

 包帯を巻かれた右腕が、副会長に向かって真っ直ぐ伸びる。

 微かに血の滲む、震える腕が。

「……止めておきましょう。自警局のドアを壊されてはかないませんから。それに試合をしたのは君です。当然、その結果の意味を語れるのも君だけですよ」

「副会長……」

「SDCのドアの修理代金は、生徒会で処理しておきます。今日の観戦料として。そうそう、予算編成局にも請求書を送っておきましょう」

 笑いながら階段を上っていく副会長。

 やがてドアが閉まる音が聞こえ、会場にはとうとう私達だけとなった。   


「最後まで格好良かったね」

「たまには俺も決めないととな……、っと」

 突然足元をふらつかせるショウ。

 支えようと慌てて手を伸ばしたら、何か抱きついたような格好になった。

 というか、倒れてくるショウに押しつぶされつつある。

 意図しないままショウの胸に顔を埋め、腰に目一杯力を込める。

「お、重いー」

「ちょっと、まだそんな事やってるの」

 サトミが醒めた声で文句を言ってくる。

 沙紀ちゃんの笑い声も聞こえる。

 確かに、端から見る分には面白いだろう。

「冗談言ってないで、誰かっ」

 ひぃひぃ言いながら叫んだら、ふっと軽くなった。

 ヒカルが、ショウの肩を抱えて引き起こしてくれたのだ。

 やっぱり頼りになるよ、元リーダー。

「二人ともじゃれてないで、早く医療部に行かないと。先生待ってるはずよ」

 手を貸してくれなかった沙紀ちゃんが、くすくす笑いながら大分上の方にある出口のドアを指さす。

 改めて見上げると、ドアまでは結構遠い感じがする。

 するとショウは顔をしかめて、ヒカルにもたれ掛かった。

「今日は疲れた。ヒカル、悪いけどこのまま上まで頼む」

「いいよ」

 嫌な顔一つせず、肩を貸したまま階段を上がっていくヒカル。

 そういう所、弟に見習って欲しいね。

「……つくづくそう思う」

「え、どうかした」

 あまり速くないペースで階段を上っているヒカルが、前を向いたまま尋ねてくる。

「なんでもない。ショウ頼むね、すぐ戻るから」

 私はそう言い残し、階段を駆け下りた。



 一旦先ほどのマットまで下りてきて、今度は反対側の階段を駆け上る。

 振り返れば、ショウ達が丁度ドアを出ていった所。

 行き先は分かっているので、今は先を急ごう。

 一気に階段を駆け上り、会場の最上部で軽く息を整える。

 照明が遠いせいか、非常に薄暗い。

 その壁際にもたれている影に向かって、私は声を掛けた。

「見に来ないんじゃなかったの」

 苦笑して、壁から離れるケイ。

 久しぶりに会うけど、本当ヒカルとは雰囲気が全然違う。

 こうして影に溶け込んで皮肉な笑みを浮かべるのが、この人にはよく似合う。

 そんな私の感想をよそに、ケイが話し始めた。

「ここだけ警備が薄いんだよね。全体の配置は悪くないんだけど、唯一死角になってる」

「どうやって入ったの」

「連合のIDを使った。俺もエアリアルガーディアンズだから、ユウ達の仲間と思ったんだろ。後は適当に見回って、ここに落ち着いた」

 面白くなさそうに鼻を鳴らすケイ。

 やっぱり、ショウが心配だったらしい。

「最初から私達といればよかったのよ。それなのに、こんなさみしい所に一人でいたなんて。どうだった今日は」

「……青春などという物を見させてもらった」

「わ、私は、試合の感想を聞いてるの」

「試合の後に飛び出てきた女の子が気になって、試合の事は忘れた」

 表情一つ変えずに語られると、却って堪える。

 どうして私は、あんな事を。

 しかも、知り合いが見てる前で。

 出来る事なら、時間を戻してあの時に帰りたい。

 だけどあの時は自分でも訳が分かんなくなってたから、やっぱり同じ事したりして。

 それじゃ意味無いか……。


「俺は、結構嬉しかったけどね」

「え?」

 気の抜けた顔を上げると、穏やかに微笑んでいるケイがいた。

 彼のお兄さんに似た、また彼自身がたまに見せる笑顔で。

「ユウとショウの事。どうもはっきりしないから、心配してたんだけど。少し安心した」

「そ、それは……」

「分かってる、別に付き合えなんて言わないって。ただ、少しは素直になってもいいとも思う」

 諭すようにささやいて、ケイは私の隣を通り過ぎていった。

「どこ行くの。ショウも待ってるわよ」

「今さら、会えた義理じゃない」

「もう、素直じゃないのは自分でしょ」

 ケイは後ろ向きのまま手を振って、暗がりの中にあるドアに手を掛けた。

「今週中には、丹下の所から戻る。まだ、俺の場所があれば」

「あるに決まってるじゃない。ショウの怪我が治るまでは」

「代役か、俺は」

 声を上げて笑いあう私達。


 私達の所へ戻ると言ってくれたケイ。

 それが彼にとってメリットがある事なのかは、私には分からない。

 もしかして、いつの日か彼は私達の元を離れてしまうのかもしれない。

 自分の才能を生かす事が出来るどこかへ。

 私達の所では決して発揮出来ない才能を使うために。

 沙紀ちゃんの所で頑張っていたケイを見てから、そんな気がしていた。

 でも今は、これ以上考えるのをよそう。

 ショウが大怪我しなかった事を、ケイとサトミが戻ってくる事を素直に喜ぼう。

「とにかく、ショウには会いに行くのよ。ヒカルも来てるんだし。後で連絡するから、それを聞いた事にすればいいでしょ」

「分かった」

 暗闇の中ドアが開き、通路の明かりが一瞬ケイを照らし出す。

 紛れもない、嬉しそうな笑顔を浮かべたケイの顔が。 

 やがてドアが閉まり、その姿はすぐに見えなくなる。

 人気のない会場の明かりが、一つまた一つと消えていく。

 すると、ポケットに入れていた携帯が微かに震えた。

「……あ、サトミ。うん、今行く。……うん、じゃあね」

 私は携帯をしまい、暗闇に溶け込んでいくマットに目をやった。



 試合後の、あの時の気持は何だったのだろう。

 何もかも忘れ、ショウの元へ飛んでいったあの気持は。

 脳裏に、ケイの言葉が蘇る。

「素直、か」

 多分、それを認めるにはまだまだ恥ずかしい。

 自分自身、本心かどうか分からないから。

 だけど、以前よりはショウの事が気になっている。

「そのくらいは、認めようかな」

 私は誰もいない会場に向かって、そう呟いた。




 







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