12-3
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広い日本間に置かれた、大きな座卓。
畳には埃一つ無く、棚の上には見慣れない民芸品がいくつも置かれている。
風格を感じさせる太い柱や欄間。
私は湯飲みを置いて、一息付いた。
「もう一ついいですか?」
ナイフと共に置かれたういろを指さし、遠慮気味に尋ねる。
清楚な雰囲気の女性は、うっすらと微笑んで小さく切り取ったそれを私のお皿へと乗せてくれた。
薄茶のお皿に映える、桜色のういろ。
楊枝でさらに切り取って、口に運ぶ。
広がる春の味とでも言うんだろうか。
その後に飲むお茶の渋さが、それと相まって何とも言えない。
「美味しいですね」
「喜んでもらえて、私も嬉しいわ」
楚々とした表情で微笑む、優しい顔立ちの女性。
その隣で肩をすくめるモトちゃん。
「喜ぶも何も、ユウは大抵の物なら食べるわよ」
「失礼よ、智美」
「本当の事なの、お母さん」
薄い青のワンピースを着ているモトちゃんは、正座から横座りになって足を揉み出した。
「行儀が悪いわよ」
「正座の方が、足に悪いの。お母さんは、固いんだから」
「仕方ない子ね」
白のブラウスに紺のロングスカートという服装のおばさんは、勿論正座で背筋も伸びている。
私はモトちゃんより早く、ギブアップしているが。
「おじさんは?」
「教育庁に行ってるわ。家族団欒という言葉を知ってるのかな、あの人は」
「智美、言い過ぎよ」
「はいはい。失礼しました」
大げさに頭を下げるモトちゃん。
おばさんは困惑気味に、湯飲みを両手で持っている。
繊細な性格というか慎ましいというか、少し自分を抑えるところがある人なんだよね。
私のお母さんに見習って欲しいくらいだ。
「優さん、勉強の方は大丈夫?宿題がたくさん出ていると聞いたけれど」
「ええ、なんとか。周りが優秀なので」
隣で静かに収まっているサトミと、目の前にいるモトちゃんに笑いかける。
サトミは言うまでもなく、モトちゃんだって上から数えた方が早いレベル。
本当に、ねえ。
「私も、もう少し前なら色々教えられたんだけど」
「元教師ですものね」
サトミの指摘に、はにかむおばさん。
おじさんとの出会いも、その辺りだったらしい。
本人は、笑うだけで何も言ってくれないが。
「あー、暖かい」
庭先に出て、大きく伸びをする。
手入れの行き届いた緑と、柔らかな日差し。
これから何の予定もない昼下がり。
自然と気分も緩やかになっていく。
小さな幸せとでも言うんだろうか。
私にとっては、何物にも代え難い瞬間。
「春よね」
若葉の芽吹き出した木に手を触れ、そうささやくサトミ。
足元に咲き誇る色とりどりの花が彼女を囲み、日差しはその黒髪を輝かす。
風にそよぐ黒髪は、辺りに光を散りばめて。
「あーあ」
今度はため息混じりに手を伸ばす。
青い空と、白い雲。
私は小さいなー。
なんて、思いながら。
「どうしたの」
「別に。しかし、休みだと暇だね」
「勉強しなさい」
醒めた口調で言ってくるモトちゃん。
「してるわよ。ただ、そればっかりやっててもって話」
「分かるけど。少なくとも、ここでは何も出来ないわ」
垣根から見えるのは、果てしない田園風景。
その中に点在する、幾つかの住宅。
夜ともなればそれこそ、星が降ってくるような眺めが楽しめる。
市街地から車で20分程度の所なんだけど、郊外というか田舎というか。
モトちゃんのお父さんもお金は持ってるんだから、市内に住めばいいのにといつも思う。
大体この時期ともなると、用水の辺りに現れるし。
「あれ、何」
庭にある、小さな池を指差すサトミ。
近くを流れる用水から水を引いていて、ドジョウが泳いでいるのを見た事もある。
その淵に、茶褐色の物体が。
ちんまり座り、こちらをじっと窺っている。
「ブォー」
鳴いた。
鳴きやがった。
「ウシガエルね」
冷静に指摘するサトミだが、腰は引けている。
私も、あまり好きじゃない。
というか、好きな人っているの?
「サトミ、捕まえて」
ぐいぐい彼女を押すモトちゃん。
当たり前だけど、抵抗するサトミ。
二人がもみ合っている間に、ウシガエルがのしのしと近付いてきた。
私達よりは相当小さいけれど、迫力では負けていない。
「ユウ、あなたが捕まえなさいよ」
「どうして」
「食用だから」
訳の分からない理屈を付けてくるサトミの腕を取り、少し前へ押し出す。
「わっ」
その叫び声にだろうか、動きを止めるウシガエル。
でもそれは一瞬で、再び前足が動き出す。
太い後ろ足も、続いて。
「と、跳ばないだけ、まだましね」
「跳ぶって。私は、ここで何度も見た」
「嘘よ。跳ばない、跳ばないと言ったら跳ばないのよ」
「根拠を言いなさい。私は何度も、ここで見たんだから」
不毛な争いをする二人を放っておいて、縁側に上がり込む。
当然靴も持って。
中に入れる程大きくはないけど、乗られたら一大事だから。
「あー、やだやだ。どうして来るんだろう」
「飼い主なら責任取って」
「私が飼ってる訳じゃなくて、向こうがやってくるのよ」
「モトを慕ってたりして」
私に続いて縁側に上がってきた二人も、嫌そうな顔でウシガエルを睨み付ける。
あまり直視したい外見ではないんだけど、つい見てしまうという感じ。
「卵産んでたらどうする?」
何となく思ったので、そう尋ねる。
モトちゃんは「うっ」と唸り、腕を組んだ。
「大丈夫だとは思うけど。そうね、困るわね」
「いいじゃない。ウシガエル天国で」
「ウシガエル地獄よ……」
我が物顔で庭を闊歩するウシガエルと、なんだかんだと騒ぐ私達。
そこに、モトちゃんのお母さんがやってきた。
「どうかしたの?」
「あ、お母さん。大変よ、カエル。ウシガエルが」
「珍しいわね。この辺では、あまり見かけないのに」
そう言うや、庭へ降りていくおばさん。
そしてどうするかと思ったら、ウシガエルの側へしゃがみ込んだ。
「……この大きさから行くと、雄ね」
「卵は、その池に産まない?」
「普通は川に産むのよ。残念だわ」
その言葉通り、目を閉じて首を振るおばさん。
「でも、夕食の材料が見つかってよかったわね」
「あ、あの。お母さん、何言ってるの」
「淡泊で美味しいのよ。解剖の後とかで、食べなかった?」
楽しそうな口調。
朗らかな笑顔。
グェーと鳴く、ウシガエル。
泣いてるのかも知れないが。
「わ、私は食べないわよ。サトミもユウも、そんなのは食べない」
「美味しいのに」
「味じゃなくて、カエルなんて食べないのっ」
いつになく激しく叫ぶモトちゃん。
相手がお母さんであるのと、また本心からの叫びだろう。
「もったいないわね。戦争が終わった後なんて、色々な物を食べたのに。智美だって、美味しい、美味しいって」
「も、もういいわよ。今日は私が作るから、お母さんは休んでて」
ウシガエルを気にしつつ庭へ降り、おばさんを縁側へ押し上げるモトちゃん。
私とサトミも、すかさず手を取り引き上げる。
「そ、そうですよ。私達も手伝いますから、ゆっくりしていて下さい」
「TV、TVでも見てて」
彼女をぐいぐいと押し、リビングへと落ち着かせる。
何となく名残惜しそうにこちらを見ているけど、気にしない。
私達はキッチンへと入り、どっと椅子に腰掛けた。
「カエルだって。今まで、知らない内に食べてた事があるのかも」
娘であるモトちゃんが、頭を抱えて唸り出す。
私達もここへはたまに来るので、他人事ではない。
「で、でも、まだお父さんがいないだけましよ。あの人は、間違いなく食べるから」
「そうね。今日は東京で、泊まりなの?」
「私はそう聞いてる……」
その言葉を遮るように聞こえる、インターフォンの音。
モトちゃんの後に付いて玄関へ向かうと、天崎教務管理官が立っていた。
別名、モトちゃんのお父さんとも言う。
ダブルのスーツ姿に、アタッシュケースと紙袋。
また、へんてこな薬草でも仕入れてきたんだろう。
「泊りじゃなかったの」
「智美が来てるから、無理して帰ってきた。良い父親を演じるのも、疲れるな」
「下らない」
苦笑してアタッシュケースを手に取るモトちゃん。
おじさんは私達に挨拶して、玄関のドアを指差した。
「お母さんが庭にいたけど、どうかしたのか」
「え?」
「まさか」
「ちょ、ちょっと、待ってて」
おじさんを押しのけて、私達は玄関を飛び出した。
池の淵。
その傍にしゃがみ込む、女性の背中。
彼女の周りに集まる、色とりどりのカエル達。
ゲロだの、グェーだの。
騒がしい事この上ない。
というか、こっちが泣きたい。
「お母さん。何してるの」
「休んでたのよ」
振り返ったのは、気持ちがいい程の笑顔
周りのカエルも、一斉に鳴き声を上げる。
「お父さんが帰ってきたわよ」
「あら。随分急ね。それじゃ、私も休んでいる訳には行かないわ」
「な、何するのっ」
ウシガエルへ伸びたおばさんの手を掴み、慌てて立ち上がらせるモトちゃん。
おばさんはきょとんとした顔で、娘の顔を見つめている。
「どうしたの、智美」
「だ、だからカカエルは食べないの」
「美味しいのよ」
「もういいってっ」
うららかな、春の昼下がり。
降り注ぐのは柔らかな白い日差し。
風は暖かで、空は青くて澄んでいて。
カエルの鳴き声と共に、モトちゃんの絶叫はそんな空へと吸い込まれていった。
最近、変な物を食べる傾向がある。
さすがにカエルは食べなくて、おじさんがお土産に買ってきた米沢牛を美味しく頂いたけど。
私達が帰った今日辺りは、フライが出てきたりして。
中華では、食べるとも言うし。
とはいえ今は、そんな不安など微塵もない。
柔らかな芝と、青い香り。
降り注ぐ日差しの中で、その上に寝転がる。
閉じた瞼をくぐり抜ける眩しさに、何とも言えない幸せを感じながら。
「バウ」
聞き慣れた鳴き声。
耳元へ感じる息に、くすぐったさを感じつつ手を伸ばす。
気持ちのいい毛並みと、程良い暖かさ。
胸の中に安らいだ気持ちが広がっていく。
「こ、怖くないの」
遠くの方から掛かる声。
私は体を起こして、軽く手を振った。
「大丈夫、この子は人を襲わないから。ね、羽未」
「バウ」
大きな背中を撫で、首筋を少しも揉む。
気持ちよさそうに目を細める、ボルゾイの羽未。
こうして横になっていると、圧倒されそうな大きさ。
私が単に、小さいとも言える。
という訳で私は沙紀ちゃんと共に、玲阿家の本宅に来ていた。
「本当に、大丈夫?」
念を押してくる沙紀ちゃん。
腰はかなり引けていて、いつでも走り出せる構えを取っている。
「私、犬はちょっと」
そう言って、一定の位置から近付いてこない。
確かにこの子は大きいから、その気持ちは分かる。
サトミなんて、まだ少し怖がってるもんね。
「食うか。鍋にして」
ぽそりと呟くケイ。
私の側で、あぐらをかいて羽未を見つめている。
「何を」
「さあ」
とぼける男の子。
その細い眼差しは、羽未を捉えて離さない。
「バウ」
「何だよ」
「バウ」
ケイの横に来た羽未が、その体を横たえた。
とにかく大きい物だから、ケイが少しずれたぐらい。
「邪魔だな、どけって」
「バウ」
人が押したくらいでびくともする体格ではなく、むしろ体を押し付けているみたいだ。
「こ、この」
顔を赤くして、羽未を押すケイ。
何でこう、動物と相性が悪いのかな。
「大丈夫?」
心配そうに、ケイの側へやってくる沙紀ちゃん。
すると羽未が体を起こし、彼女を睨み上げた。
「ウー」
低い、警戒するような唸り声。
口元見える鋭い犬歯と、威嚇気味の険しい眼差し。
沙紀ちゃんは口元を抑え、怯えた表情で後ずさる。
「……静かにしろ」
低い、小さなささやき。
背中に手を当てられた羽未は、驚く程大人しくなり体を伏せた。
そしてそのまま、「クゥーン」と悲しげな声で鳴き始める。
ケイは気にした様子もなく、手を離して芝生を撫でた。
「何脅してるの」
腰を引いたまま、それでも羽未の側へとやってくる沙紀ちゃん。
彼女は恐る恐る背中へ手を当て、優しく撫でた。
「もう大丈夫よ」
「クゥーン」
「よしよし」
沙紀ちゃんの手にすり寄る羽未と、暖かい笑顔で背中を撫で続ける沙紀ちゃん。
刺すような威圧感で羽未をひれ伏させたケイは、関心なさげに空を見上げている。
普段は大人しいのに、何かあるとこういう面を出す。
私が最近思う「強さ」を、この人は持っている。
大切な人を守る力を。
「……押すなよ」
羽未に転がされ、背中に乗られている男の子。
抵抗しようとしているが、何せ重いし大きいので手足が動くだけだ。
「ユ、ユウ。ショウを呼んで来てくれ」
「じゃれてるだけよ」
「だ、だってこいつ、また腰を……。ば、馬鹿っ。どこ舐めてるんだっ」
いつにない、せっぱ詰まった叫び声。
楽しそうだ。
本人はともかくとして。
「のんびりしてるよなー」
ケイの叫び声を背に聞きながら、私は大きく伸びをした。
春休み。
つかの間の休息を、心の奥まで味わいながら。
休みはまだまだあるけれど、私は学校へ来ていた。
ちょっとした忘れ物と、お花見気分。
桜には少し早くて、梅が散り始めている頃。
淡い色の花びらを眺めながら、緑に囲まれた通路を歩いていく。
「あった。ありました」
細い、黒のペン。
これでなければならないという物でも無いが、手にはしっくりくるのでお気に入りではある。
オフィスの机に座り、その辺にあった紙を裏返す。
梅の木って、こうかな……。
いや、遊んでる場合じゃない。
それにここは、もうすぐ引っ越し。
ケイが言うには、業者の手配も済んでいる。
その際にはゴミとして処理される恐れもあったので、わざわざ回収に来た訳だ。
宿題も残ってるし、さっさと撤収しよう。
人気のない、薄暗い廊下。
あまり楽しくはない雰囲気。
夜も怖いけど、昼でも怖い。
というか、一人で歩く場所じゃない。
本当、いないんだけどね。
何が、とは考えずに突っ走る。
足音が辺りへ響いて跳ね返ってくるけれど、気にしない。
気にせずに、逃げる。
それこそ手を掛けられても大丈夫なくらいに。
何が掛けてくるかも、考えない……。
息が上がるのも気にせず走っていると、廊下の先に人影が見えた。
まさか。
そんなはずはない。
で、でも、どうしよう。
……駆け抜けよう。
目を閉じて、呼吸を整える。
短いストライドを伸ばし、前傾姿勢を保つ。
後は足に力を入れ。
「あ」
足を横へ向け、かかとを床にこすりつける。
慣性で横滑りする体に力を入れ、どうにかバランスを保つ。
「廊下は走らないと、教わっていないの」
眉間にしわを寄せ、立ち上がる中年の女性。
手にはホウキとちりとり、足元にはぞうきんとバケツが置いてある。
「だって」
「口答えをしないで、言われた事に答えなさい」
「教わってはいるけど、こっちにも事情があって」
まさか「お化けが怖くて」とは言わず、適当に答える。
女性はホウキとちりとりを壁に立て掛け、私と向き直った。
紺のスーツと、後ろで束ねた短めの髪。
人の良さそうな顔立ちではあるが、私を見つめる視線はやや険しい。
「走るのが駄目なのではなくて、滑りやすい廊下で走るのは危ないから駄目だというんです」
「はい……」
「怒ってるのではなくて、注意してるんですよ。危ないから、気を付けなさいと」
「はい……」
聞き流す訳にも行かず、神妙に頷く。
しかし、タイミングが悪いというか何というか。
お化けに出会うよりはましだけど。
まさかここで、この人に出会うとは。
私達がガーディアンの資格失効になるきっかけとなった、あの理事に。
「聞いてますか」
「聞いてます」
一応丁寧に答え、窓ガラスを見つめる。
ひびが入り、半分以上が無くなっている。
破片はゴミ袋に入っていて、床には小さな破片も残っていない。
「この間風が強かったでしょ。その時に、吹き込んだみたいね」
ゴミ袋には金属製らしい、小さなボードの欠片も見える。
「掃除は、清掃センターの人がやってくれるけど」
「ここは、あなた達の学校でしょ」
何気ない一言。
私の心の奥にも響く、確かな意味。
その通りだ。
「でもあなたこそ、理事じゃ」
「学校のために働くのが、理事であり職員なの」
「はあ」
「といっても私は平の理事で、大した権限もないけれど」
気さくに笑う女性。
私も遠慮気味に、少し笑う。
「去年は、ごめんなさい。息子が迷惑を掛けて」
「覚えてたんですか」
「当たり前でしょ」
彼女の表情が曇り、やるせないため息が漏れる。
「最初は訳もなく、あの子をかばってしまって。でもすぐにあなた達の方が正しいと分かって、処分や査問めいた事は止めるように言ったのよ。今さら、言い訳にしか聞こえないわね」
「いえ」
「ただ、親とすればどうしても子供をかばいたくなる物なの。世界中の誰が何と言おうと、自分だけは信じたい。親として、それだけは譲れないのよ」
寂しげに呟く女性。
私も言おうとする意図は分かったので、小さく頷く。
「片付けは、もう終わりですか」
「ええ。後は事務仕事が、ちょっと。私は専門家じゃないから、どうしても時間が掛かってしまって」
「他の理事は何もしてないって、私の友達は言ってました」
「そう人がいるのも、否定はしないわ。ただ、任された仕事くらいはこなさないと。そうは思わない?」
私の答えを待つでもなく尋ねる女性。
彼女がホウキとちりとりを持ったのを見て、私もゴミ袋を背負う。
「危ないわよ。ガラスが入ってるんだから」
「はいはい」
「返事は一回。短く」
「お母さんみたいにうるさいな」
「それだけ、あなたの事を思ってらっしゃるのよ」
苦笑して歩き出す女性。
私もゴミ袋を背負い直し、後に付いていく。
複雑な出会い。
でも近付き合えば、何か感じる事がある。
例えば今日のように。
お化けではなくよかったな、とも……。
その帰り、道場にやってきた。
ショウの実家ではなく、私が幼い頃通っていたRASの方。
インストラクターや生徒は代替わりをしているけれど、知り合いの人も何人かはいる。
服装はジャージへと着替え、足元はそれ用のスニーカー。
マットの床に対応した種類で、私のはアウトボクサーが履くような滑るタイプ。
オープングローブをはめ、やや広いスタンスを取る。
「フッ」
目の前にあるサンドバッグへストレートを放つ。
腰を回し、体重を乗せ、素早く腕を引き戻す。
元々の体重がないので大した威力はないが、モニターの数値はどうにか100kgを越えている。
ジャブからフック、膝、前蹴りと続け、後ろ回し蹴り。
重ねられていく数値、苦しくなる呼吸。
構わずボディフックを連続で叩き込み、タックルから背後に回って肘打ちと裏拳のコンビネーション。
最後に掌底からの跳び膝へとつなげて、一息付く。
時間にして、30秒あまり。
息は上がったが、それなりの動きは出来た。
相手が動く訳ではないから、自己満足とも言えるけど。
「さすがですね、雪野さん」
「あ、先生」
穏やかに微笑む、水品さん。
私が通っていた頃からここのインストラクターをやっている人で、RASの中でも有数の腕を持つ。
そろそろ40くらいだと思うけど、外見はまだまだ若い。
「玲阿流に入門したと聞きましたが」
「形だけ、一応。気構えを鍛え直そうと思いまして」
「それは良い事です」
と仰る、玲阿流の人間でもある水品さん。
師範代の風成さんが「俺より強い」と言うくらいで、私にとっては恩師でもある優しい先生だ。
「風成さんが、ここのオープントーナメントに出るとも言ってましたが」
「本気みたいですよ。流衣さんは怒ってたけど」
「彼女は、争いごとが嫌いですからね。しかし、優勝者が初めから決まっていたのでは面白くない」
苦笑気味にそう呟き、水品さんはサンドバッグに拳を当てた。
小さく向こう側へスイングするサンドバックが戻ってくるタイミングに合わせ、前蹴りが放たれる。
速度はさほど無い。
だがモニターには、1000Kgを越える数値が表示された。
蹴りなので、それくらいは出る人もいるけれど。
「2発入りました?」
「ええ。センサーが、一つだと勘違いしたようです」
つまり遅かった訳ではなく、早過ぎて残像が残っていた訳だ。
私にはどうにか捉えられたけれど、人によっては本当に一発と勘違いしただろう。
「これが出来るからと言って、何かの役に立つという訳でも無いですけどね」
「インストラクターとしては、食べていけるじゃありませんか」
「なるほど」
妙に感心する水品さん。
ガラスの前でフォームをチェックしていた子供達は、羨望とあこがれの眼差しで水品さんを見つめている。
確かに今のような事を見せつけられば、そうなるのは当然だ。
「それでも結局は、ただの暴力です。生きていく上では、それ程必要とはしません」
「はい」
「玲阿流とは、その生きていく上で不必要な事を磨く事に本分があります」
いつにない真剣な表情。
私も姿勢を正し、その言葉に耳を傾ける。
「今さら聞くまでもないでしょうが、その覚悟はありますか」
「はい、あります」
声の震えを気にせず、手にかいた汗を握りしめ。
小さく答える。
本当にそこまでするのに、意味があるのか。
戦いだけが、強くなるという事なのか。
迷う心が、私の中にはまだ残っている。
でも、もうそれにはこだわらない。
私は、すでに踏み出しているんだから。
今さら後戻りは出来ないし、する必要もない。
「誰に何を言われようと、私は自分の道を進みます」
澄んだ、胸の奥から現れた言葉。
自分でも驚くくらい自信を持って、そう語る。
「そうですか。頑張って下さい」
優しい、励ますような微笑み。
幼い頃から私を見守ってくれた先生。
そして今も、こうして私を導いてくれる。
私自身は何の力もないけれど、いつも周りの人達に助けられている。
だからいつか、少しでもその手助けになれるように。
強くなりたい……。
まだまだ休みは続く。
当然、宿題も。
やってもやっても減らない感じ。
学生なので勉強するのは当たり前だけど、これでは休みという気がしない。
無料で勉強させてもらって贅沢だ、という話を聞かないでもないが。
と思いつつ、部屋でゴロゴロする。
サトミはヒカルの所へ行っていて留守。
お父さんとお母さんは、栄へ買い物。
デートとも言うが。
誰もいないので、ゴロゴロする。
いても、ゴロゴロする。
「あーあ」
取りあえず今日の分にめどを付けたので、ベッドの上で寝転がる。
Tシャツとショートパンツだけという、やや薄着。
日差しが差し込んでいるため、それでも暖かい。
取りあえずTVを付けて、料理番組を見る。
……お腹空いた。
少し早いけど、お昼にしよう。
階段を降り、キッチンに入って冷蔵庫をあさる。
これといって、特になし。
食材はあるけど、ピンと来る物がという意味。
何に対してピンと来るかは、その日による。
棚や引き出しも探すが、やはり無し。
出前でも取ろうかな。
でも、お金がもったいない。
困った。
しかも、下らない理由で。
リビングのソファーに寝ころんでTVを見ていると、インターフォンが鳴った。
玄関では、営業スマイルの宅配便ドライバー。
サインをして、荷物を受け取る。
送り主を見て、ふと思う。
そういえば、最近行ってないな。
スクーターを玄関先に停め、勝手にドアを開ける。
「こんにちは」
返事無し。
TVの笑い声だけが聞こえてくる。
それでも勝手に、奥へ進む。
やや薄暗い廊下を抜け、居間へと入る。
「何しに来た」
無愛想に尋ねる、初老の男性。
隣には、優しく笑っている初老の女性が。
「孫が来たのに、その態度は無いでしょ」
「祖父に対して、その口のきき方は何だ」
目を剥いて睨み合う私達。
それを見て、おばあさんが困惑気味に私達の間に入る。
「二人とも、止めなさい。それで、優ちゃんどうしたの」
「変な食べ物が家に来たから」
「わしは知らん」
すっとぼけるおじいさん。
差出人の名前は、明らかに彼だったけど。
「ぼけたんじゃないの」
「ば、馬鹿を言うな。私はまだ、60だぞ」
「知らないわよ、そんな事」
へっと鼻先で笑い、彼を見つめる。
やや小柄な体型と、お父さんに似た優しい顔立ち。
血のつながりを感じる瞬間だ。
ちなみにお父さん方の祖父母であり、お母さん方の祖父母はまた別な所に住んでいる。
当たり前だけど。
「それより、お腹空いた」
おばあさんの隣りに座り、ぺたりと抱きつく。
そんな私を、暖かい眼差しで見つめてくれるおばあさん。
「優ちゃんは、何食べたい?」
「たこ焼き。たこ焼き作って」
「はいはい」
立ち上がった彼女の後に、私も付いていく。
キッチンから持ってきたのは具材と、たこ焼きプレート。
電源を入れ、ラードを含んだ油が敷かれる。
ふっと漂うこうばしい香り。
程良い溶け具合の小麦粉が注がれ、白い湯気が立ち上る。
「あー」
「何だ、それは」
「なにが」
「いや、自覚してないならいい」
気にするなという感じで首を振るおじいさん。
訳の分からない人だ。
外はカリカリ、中はトロトロ。
紅ショウガとミンチの脂が相まって、言う事無し。
たこ焼きじゃなくてミンチ焼きだという指摘もあるけど、美味しいから問題ない。
「お店やればいいのに」
「そこまで私は上手じゃないわよ。あなたのお母さんこそ、お店をやればいいのに」
「あの人は、ちゃかついてるから向いてない」
と言ってる側から、水をひっくり返しそうになる。
素早く手首を返し、逆手でグラスをひっ掴む。
「ちゃかついてるのは、自分だろうが」
「遺伝、遺伝」
「こっちの家系に、そういう気は無いぞ」
器用にたこ焼きをひっくり返すおばあさんと、どっしり構えているおじいさん。
確かにそうだ。
「いいもん。別に困ってないから」
「周りが困ってるんじゃないのか」
たこ焼きを頬張ったまま固まる私。
「まあまあ。優ちゃん、まだ食べる?」
「ううん。もう、お腹一杯」
私のお腹の具合まで分かるおばあさんは、優しく微笑んでびわの皮を剥いてくれた。
「お前、過保護だぞ」
「いいじゃないの。はい、優ちゃん」
「へへ」
甘酸っぱい味と、柔らかで瑞々しい食感。
微かな、本当に微かなびわの香りが口の中に広がっていく。
「春って感じ」
「よかったわね」
「うん」
「何でも食べれればいいと思うんだが」
私とは違い、淡々とびわを食べているおじいさん。
基本的に、贅沢をしない人だからね。
「勉強の方は、大丈夫なのか」
「多くを望まなければ。大学もエスカレーター式だし」
「目標を持つ年齢……、でもないな。睦夫も、別に何がしたいという訳でもなかったから」
不意に出てくる、お父さんの名前。
「やりたい事なんてそうそうないし、あったからといって出来る訳でもない。だからこそそれが見つかった時には、という事だ」
「うん」
「難しい事は私にも分からないが、優もそういう時がこないとも限らないからな」
苦笑するおじいさん。
私は真面目に耳を傾ける。
「そのためにも、努力を惜しむなよ。勿論勉強も、その内の一つだ。無意味な知識でも、何かの役に立つ時もある。何が必要で不必要かは、その時になってみないと分からない」
「うん」
「せっかくの休みに、そんな固い話をしなくても。はい、これ持っていってね」
お土産の入った紙袋を渡してくれるおばあさん。
「ありがとう。また来るね」
「ええ。睦夫によろしく」
「気を付けて帰れよ」
「すぐ近くだって」
見送ると言った二人に居間で別れを告げ、玄関を出る。
カードキーを差し、スクーターを起動。
家までは20分と掛からず、道が空いていればもっと早く着く。
スクーターをまたいでアクセルをひねり、ゆっくりと走り出す。
何気なく覗く、バックミラー。
そこに映る初老の夫婦。
笑顔のおばあさんと、苦笑気味のおじいさん。
結局は見送りに出てきてくれた二人。
私は左手を離し、後ろでに手を振った。
「危ないぞ」と叫んでいるように見えるおじいさん。
彼に「大丈夫よ」と笑いかけているおばあさん。
日差し以上に暖かくなる胸の中。
仲間達に感じるのとはまた違う、優しい気持ち。
それを受け入れてくれる人達。
私はこの人達と同じなんだなと思いながら、春の風の中を駆け抜けていった……。
自宅近くのファミレス。
お代わりのリンゴジュース、3杯目。
正直限界なんだけど、飲み放題の言葉には弱い。
「うー」
「嫌なら、飲まなければいいのに」
呆れ気味に、プーアル茶を口にするサトミ。
「別に、嫌じゃないもん。ただ、もう飲めないだけで」
「同じ事でしょ」
「分かってないな。せめて、元を取るまでは頑張らないと」
「体を壊してまでする事でもないわ」
至極冷静で、正しい指摘。
ただ私にとっては、受け入れがたい話である。
飲めないけどね。
「ヒカルは何してるの」
「指導教授のお供で、東京。あの子を連れて行っても、あまり役に立たないとは思うけど」
「勉強は出来るんでしょ」
「でも、それ以外はどう?」
答えに詰まる私と、ため息を付くサトミ。
そこまでひどくはないけど、実生活で役に立った記憶は薄い。
本人は困ってないので、問題は無いとも言えるが。
「そろそろ、卒業式ね」
「私達には関係ないでしょ。警備に付けとも言われてないし」
「ええ。ただ、三島さんは卒業するわ。それと、屋神さんも」
何気ない感じで語るサトミ。
私は減ってもいないグラスを両手で包み、満たされたリンゴジュースを見つめた。
「関係ないと言えば、関係ないけれど」
「難しいね、その辺は。……塩田さんは、どうなのかな」
若干胸に残るわだかまりを感じつつ、その名前を出す。
色々吹っ切れた事はあるが、彼に対して感情をぶつけてしまったのは事実として残っている。
向こうは気にしていないという意志を示しているが、私は気にしている。
その辺が問題だ。
「私も、別にこれといって思う事はない。多少の引っかかりはあるにしても」
「この間聞いた、学校との確執?そのために、あの人達が頑張った事?」
「ええ。だからどうした、という話でもないけれど」
曖昧な表現を繰り返すサトミ。
彼女自身、特にどうしたいかはよく分かってないんだろう。
それは私も大差ない。
ただ、何かをすべきではないかと思う事以外は。
「取りあえず、卒業式に出るっていうのは?」
「悪くはないわね。でも式自体に出るのは、三島さんだけかもしれない。他の人は学校にいない訳だし、屋神さんもわざわざ来るかしら」
「どうだろう」
難しいなと思いつつ、そう答える。
3年に進級してから殆ど旧クラブハウスにこもりきりの人が、最後の卒業式にだけ現れる。
本人がそれをよしとするかどうか。
また、学校がどう思うか。
建前上は出席を促すだろうが、彼と敵対していた理事達はいい気を抱かないに決まっている。
そしてサトミが言った、ここにはいない人達。
彼等は今通う学校で、卒業式を迎えるはずだ。
つまり草薙高校の卒業式に私達が出席しても、それを祝福出来るのは三島さん一人。
意味がないとは言わないけど、拍子抜けの感じである。
「卒業式まで、後どれくらい?」
「10日。イベント関係の事で、天満さんが張り切ってたわ」
「なるほど。少し、話を聞きに行こうか」
先日とは違い、活気溢れる学内。
といっても生徒の数よりも、業者の人が目に付く。
卒業式用のディスプレイや、会場設営、謝恩会などの準備をしているようだ。
私からすれば「まだ10日」だけど、彼等にとっては「もう10日」という気持ちなのだろう。
そんな彼等を横目で眺めながら、特別教棟へと入っていく。
生徒会ガーディアンズの視線を跳ね返しつつ。
いい加減慣れなさいっていうのに。
「いらっしゃい」
例により書類の束を振り回している天満さん。
机の上には端末や企画書、メモ書きなどが散乱している。
部屋にいるのは彼女と、よく見かける運営企画局の女の子達。
みんなは忙しくどこかと連絡を取ったり、書類を前にして真剣な顔付きで話し合っている。
「邪魔、でしたか?」
遠慮気味に尋ねると、おかしそうに笑われた。
「もう、慌てても仕方ないわよ。今はチェックをして、その不備を一つ一つ修正しているところ。それで、私に何か用?」
「ええ、ちょっと」
周りを気にしつつ、小声で先程の話を説明する。
天満さんは何度か頷いて、背もたれへと身を任せた。
「卒業者は全員出席という建前にはなってるわよ。謝恩会でもそれに合わせて、個別のプレゼントも考えてるし」
「へえ」
「ただ、毎年何人かは欠席するらしい。病気とかやもう得ない理由以外でも」
「その例に、屋神さんも当てはまると」
サトミの指摘に、寂しげに頷く天満さん。
「私が言うのもなんだけど、不良の親玉だもんね。学校は一応出席を促してるけど、本音は出てきて欲しくないと思ってる様子」
「天満さんは、どう思ってるんですか」
「勿論出席して欲しいわよ。企画局局長としてではなくて、彼の後輩として。一緒に戦った、仲間として」
はっきりと、力強く語られる言葉。
それを聞いて、私の心も少し軽くなる。
彼の出席を望む人がいた事に。
「ただ仮に彼が出てくれたとしても、他の人はね」
「学校を去った人達の事?」
「ええ。それがあの人達の選択だったといえばそれまでだけど。全員で揃って、卒業して欲しかったわ」
小さくなる声と、翳りを帯びる表情。
普段の明るさは、どこかへ消えていく。
「それについて、ちょっと考えがあって」
「何、企画の持ち込み」
頬杖を付き、気だるそうに尋ねてくる天満さん。
私は頷いて、控えめに自分の考えを説明した。
笑い飛ばされたり、否定されるのを覚悟の上で。
「……なるほど」
その姿勢のまま呟く彼女。
私は上目遣いで、彼女の顔を見上げた。
「悪くはないわよ。ただ、時間がね。もう、10日しかないもの」
私が思っていた通りの答え。
やはり、「もう10日」だ。
「と、諦めても仕方ない」
「え?」
「取りあえず、努力はしてみるわ。結果は知らないけど」
端末を手に取り、親指を立てる天満さん。
私は彼女に一礼して、席を立った。
「何かあったら、言って下さい。ケイを手伝わせに来ますから」
「お願い。出来たら、元野さんも。遠野さんは、当然として」
「分かりました」
「何勝手に約束してるのよ」
苦笑するサトミと共に部屋を出ていく私。
少しだけど、手がかりを掴んだ気持ち。
高い位置にある頂上だけれど。
動かなければ届く事はない。
また、登るんだという意志がなければ。
そして私は、確実にその気持ちを胸に抱いていた。