12-2
12-2
赤いジャージと、茶のブーツ。
背中には黒のリュックを背負う。
日差しにきらめく雪と、それを被った高い木立。
その眩しさに、手袋をした手をかざす。
膝まで埋まりそうな新雪。
吐く息は真っ白で、じっとしていると体の芯まで凍えてきそうだ。
山小屋の前から伸びる、幾つもの峠へと続く道。
今は車も通行止めで、白い道を歩いているのは私達だけ。
雪を被った景色や、青い空。
頬を過ぎる冷たい風、滑りやすい足元。
最初は感じていたそれらが、少しずつ薄れていく。
視界に移る自分の足元だけが、かろうじて見えるだけで。
聞こえるのは、速まる鼓動と荒い息。
背負ったリュックの重みが、肩にのしかかる。
周りの景色や感覚が希薄になり、自分の事だけが強く感じられる。
普段は意識もしない、独特の感覚。
極度の疲労感から来る、無心な気持ち。
考えるのは、自分の事ばかりになっていく。
昔の事、ずっと昔の事。
自分の考え、好きな事、やりたい事、嫌な事。
同じ事を何度も何度も考えたり、とりとめもなく違う事ばかり考えたり。
延々とそれが繰り返される。
そうしている内に、最後はある一点へ辿り着く。
最近の自分。
悩み、ふさぎ込んでいた自分。
それから逃げ出そうと思ったり、あがいていた毎日。
結局は変わらない日々。
以前ならそのまま、暗い淵へ落ちていくように沈み込んでいった。
自分のふがいなさと、情けなさに苛まれて。
でも、今は違う。
そんな最近の、色々思い悩んでいた部分が遠ざかっていく。
勿論消えた訳ではなく、その思いは胸の中に残ったままで。
辛さや悔しさ、悲しさはそのままに。
だけど、もうそれに煩わされる事はない。
周りを感じない今。
自分だけを意識出来る、この時。
強くなると誓った、あの瞬間から。
私は一歩踏み出した。
例えそれが、どんな道だとしても。
そんな思いに捉えられながら、私は毎日雪道を歩き続けていた。
「結構登ってきたね」
晴れた空の遠くに見える、白い尾根。
足元には、私達の登ってきた峠道がつづら折りになっている。
車なら20分もあれば登ってこれる距離。
しかし雪を被った道を、人の足で登ってくるとなれば話は違う。
冬季通行止めの、細い道路。
道には私達と、動物の小さな足跡が付いているだけだ。
「迷わないだけ、まだましさ」
道など無い、足元に広がる木立を指差すショウ。
おじさん達と来る時は、GPSを頼りに本当の山道を踏破するとの事。
軍を描いた映画などではたまに見かけるけど、私には想像すら出来ない。
「本当に、誰もいないよね」
白一面の光景。
街では春がすぐそこまで来ていたのに、ここはまだまだ冬の世界。
外に出していた果物が石のように固まっているなんて事が、当たり前になっている。
晴れ間は見えていても気温は氷点下で、それも注意していないとすぐ雪空へと変わる。
そんな所へ好きこのんで来る人間など、まずいないだろう。
「おーいって、叫んだりして」
ガードレールに手を掛けて、本当に叫ぶ。
真っ白な森に響く私の声。
少し恥ずかしくて、でも楽しくて。
街中では味わえない、新鮮な気分。
「落ちるぞ」
「大丈夫。GPSも持ってるし」
「そういう問題か?」
苦笑して、腰のワイヤーを外すショウ。
そのフックをガードレールに取り付け、彼はそれを乗り越えた。
「落ちるの?」
「降りるんだよ。帰りは、この方が楽だ」
「確かに、直線だけど」
止めなさいと言いたい気持ちと、やってみたい気持ち。
気付けば私も、ガードレールを越えていた。
「無理しなくてもいいぞ」
「せっかくここまで来たんだし、少しは無理しないとね」
「なるほど」
ワイヤーを掴み、斜面を蹴りつけるショウ。
その勢いと共にワイヤーが伸び、彼の体が降りていく。
いつだったか学校で、こんな事をやったっけ。
私もこういうのは好きなので、すぐ後へと続く。
かなりの急な斜面と、足を滑らす凍り付いた雪。
ワイヤーが左右に揺れるのを抑え込むのも大変だし、斜面から伸びている木立を避ける必要もある。
集中力とタイミング。
後は、ちょっとした勇気。
それには、多少自信がある。
ショウからやや遅れ、私もどうにか斜面を降りきった。
腰のボタンを操作してフックを外し、ウインチでワイヤーを巻き取る。
パワーを上げれば、それだけで上に登って行く事も可能だ。
「それで、小屋はどこ?」
「……今がここだから」
彼が取り出した端末に表示される、現在位置。
道路からかなり離れた山中で、小屋までもそれなりに距離がある。
つづら折りの道を降りていくのも時間が掛かるけれど、雪深い森の中を進むのも時間が掛かる。
つまり、私達には考えがないとも言える。
夏なら、早かったんだろうけど。
「クロスカントリーと思えばいいさ」
「走る?」
「ああ、いいよ」
あっさり同意するショウ。
小屋を出てから4時間あまり。
多少の休憩を挟んでいるとはいえ、雪道を歩きづめ。
それでも彼に、疲労の色は薄い。
背中のリュックには10Kg以上の重しが入り、手足にはパワーリストやアンクルが巻かれている。
私も多少は負荷を掛けているが、正直言ってレベルが違う。
またそれに文句を言ったり、ましてや自慢する素振りもない。
本当に格好いいというか、何というか。
「ん、どうした」
私の視線に気付き、靴ひもを直していた彼が顔を上げる。
「別に」
まさか「格好いいと思ってました」と言う訳にもいかず、適当にごまかす。
大体二人きりで、そういう事を思っている場合じゃない。
「……先行くね」
恥ずかしさついでに、突然走り出す。
「お、おい」
「小屋で待ってる」
「逆だろ」
後ろから聞こえる、雪を踏みしめる足音。
視界の隅に、彼の姿が映る。
白い雪に覆われた、深い森の中。
背の高い木立は枝に雪を被り、木漏れ日を辺りに散華させる。
静けさと、わずかな光の差し込む白い光景。
そんな中。
一気に私を追い抜き、そのまま小さくなっていく背中。
さすがと言いたいところだが、走る事ならショウに負ける気はしない。
雪野優、としてだけではなく。
元陸上部の名誉に掛けても。
出だしこそ早かったショウだが、その背中がすぐに見えてくる。
これだけの深い雪と、立ち並ぶ木立。
そして背負った荷物が、バランスを崩させる。
彼も足は早く、スタミナもある。
ただ、走るためのトレーニングを積んでいる訳ではない。
その筋肉も、格闘技のために付けられた物だ。
勿論私だって、格闘技の練習を中心に行っている。
でも、走るためのトレーニングを欠かした事はない。
それは陸上部に籍を置いたあの日から、さらに増やされた。
だから。
変わらないピッチと、腕の振り。
視界に映る物を意識せず、ただ捉えていく。
自分の走るコース、走りやすいコースを。
気付けば足はそちらへと向き、体が反応をする。
雪に埋まる足。
ひたすら続く上下の勾配と、雪に隠された目には見えない足場の悪さ。
岩につま先が当たり、木の根が足首を払う。
それを踏破し、掻き分けていく力。
辛く、厳しい繰り返し。
だけど、心のどこかで楽しんでいる。
走る事を、雪の中を駆けていく事を。
格闘技をやっている時とは違う充実感。
長距離特有のランナーズハイとも異なる感覚。
体がそれを楽しいと思うだけではなくて、走るのが好きだから。
例え雪の中でも、勾配がある山道でも。
足が動く限り、どこまでも駆けていける気分。
息は乱れず、ピッチも変わらない。
重くなる手足、頬を伝う汗。
それはたまらない爽快感へとつながっていく。
日は差さず、氷点下の冷たい外気の中なのに。
私は笑顔で、雪道を駆けていた……。
殆ど意識のないまま、手を伸ばして木に触れる。
見慣れた足跡が付いた雪に、道路へ出た事に気付く。
森の切れ間。
空から降り注ぐ、たくさんの日差し。
風は冷たいままで、ブーツには雪が凍り付いている。
ひりつく頬と、止まらない鼻。
白い息を吐き、つい笑ってしまう。
「何やってるんだか」
取り出したティッシュで鼻をかみ、大きく息を付く。
疲れ切った体、何とも言えない達成感。
途中からは全く、何も考えていなかった。
昨日までの無心とも違う気持ち。
ここ最近の悩みも、今の状況も、走っている事も。
心の中には無かった。
時折鳴るGPSの音だけが、聞こえていた気がする。
ただそれ以外は、何一つとして。
森の風景も、冷たさも、体の重さも。
意識をしても辿り着けない、一つの境地。
私は小さな胸に手を当て、目を閉じた。
何故だかは分からないけれど。
そうする事が、ふさわしいと思ったから。
真っ白な心がある内に、そうしたかった……。
ペットボトル片手に大きな木へもたれていると、鼻を垂らしたショウがやってきた。
勿論格好良いけど、格好良くない。
「鼻、出てる」
「そりゃ出るさ」
投げやりに答え、鼻をすするショウ。
顔はかなり赤く、息も上がり気味。
彼にしては珍しい。
「先に着いてるんじゃなかったの」
「どうせ俺は遅いよ。体が、重過ぎるんだ」
膝に手を付き、荒い息を繰り返すショウ。
かなり埋まったらしく、黒いジャージが膝辺りまで白くなっている。
重い分埋まる。
その分、力を必要とする。
力を込めて踏み出すので、また埋まる。
私にはない悪循環だ。
「川へ落ちそうになるし、参ったよ」
「凍ってたじゃない。私はすぐ飛び越えたわよ」
「乗ったら、ピシッて。片足落ちた」
よく見ると右足が、完全に凍っている。
ブーツにはヒーターが入っているので、凍傷にはならないだろうけど。
「ダイエットしたら」
「殆ど筋肉だぜ」
「体が大きければいいって物じゃないのよ」
いつにない強い立場に立っている私。
小さくて得した事なんて久し振りだ。
子供料金を払えと言われる事は、よくあるけど。
「とにかく、戻ろう。今日はもう、何もしたくない」
「十分動いたって」
彼の肩を叩き、軽い足取りで雪道を歩いていく。
ショウに勝ったから、という理由も少しはある。
でもそれ以外の、自分でもよく分からない気持ち。
どれだけ長い冬にも、いつかは春が来る。
そう例えたくなるような。
青く晴れた空と、彼方に見える暗い雪雲。
足元には雪が積もり、空気は肌を切るように冷え切っている。
ここはまだ冬だけど。
私には、春の足音が聞こえていた。
日の当たる、道路の斜面。
雪の間から見えるわずかな緑に、目を細めながら。
私はそう感じていた……。
小屋のドアに手を掛け、そのまま腰を下ろす。
キーを掛けていかなかったのに、閉まっているのだ。
「熊かな」
「鍵は掛けないだろ」
もっともな事を言ってくるショウ。
そうなると相手は人間。
こんな奥深い山奥に、一体誰が。
「どうする」
「猟師じゃない事を祈る」
銃の有無を言っているのだろう。
例えボクシングヘビー級の世界チャンピオンでも、一発の銃弾で敗北を味わう事になる。
ましてただの高校生である私達が、どうするという話だ。
「俺が先に行く。ユウは様子を見て、窓から」
「割れるわよ」
「ためらうなって事さ」
自分のカードキーでドアを開け、体を滑り込ませるショウ。
忍び足で歩いていく彼の後ろ姿を確かめ、リビングの窓へと向かう。
壁伝いに歩いていき、気配を散らす。
こういったのも塩田さんの仕込みがあり、得意分野だ。
相手にもよるが、気取られずに人の後ろへ立つくらいはたやすい。
カーテンの開いたリビングの窓。
雪の被った厚手の上着を着た男女。
男性はかなりの巨体で、女性は細身の長身。
特に男性の方は、その雰囲気に隙がない。
おそらくは格闘技経験者だろう。
それくらいは見て分かるが、一体何者なんだ。
ショウと挟撃しても、勝機がどの程度上がるか。
しかし勝手に上がり込んできた人間を前にして、見過ごせる場面でもない。
それも、こんなへんぴな場所に来る人なんておかし過ぎる。
雪の積もった地面に伏せ、そのまま窓の下へ匍匐前進する。
伏せたまま手を上に上げ、窓を確認。
幸い鍵は掛かっていなく、割って入る必要もない。
後は耳を澄まし意識を集中させ、ショウの動きを待つだけだ。
焦燥感に駆られる間もなく、ドアの開く音がする。
叫び声と、何かが倒れる音も。
どうやら不意は付けたらしい。
後は私も突っ込み、勢いで押し切るだけだ。
本気を出されれば、私達だけでは辛過ぎる相手みたいだから。
素早く立ち上がって窓を開け、部屋の中へと転がり込む。
勿論そうしている間も、室内の状況は見えている。
男性に組みひしがれ、馬乗りにされているショウ。
その脇に立ち、何か言っている女性。
不意を付いたくらいでは勝てない相手か。
しかし、ショウを見捨てていく訳にも……。
「何してるの」
目を丸くして、私を見つめる端整な顔立ちの女性。
「え」
棚の中にあったワインボトルを放り投げる構えを見せていた私は、その姿勢のまま固まった。
「あ、あの。その。喉乾いたなって」
「ブーツくらい脱いだら」
「そうですね……」
窓際に足を放り出し、靴ひもをほどく。
肩に置かれる綺麗な手。
「私達が、泥棒にでも見えた?」
笑い気味の、しとやかな声。
背中越しに聞こえる、ショウの悲鳴。
「お前、師範代に向かっていい度胸してるな」
「ですって、優さん」
私の顔を覗き込み、くすっと笑う流衣さん。
風成さんに締め上げられているショウの悲鳴を背に、私はブーツを脱ぎ捨てた。
「はは。い、いつ来たんですか」
「つい、さっき。端末に連絡入れたんだけれど」
「ショウ」
帰ってくるのは悲鳴だけ。
走るのに必死で、聞いてなかったんだろう。
「でも、遅かったですね。もう一週間以上経ちましたよ」
「RASの仕事が、色々立て込んでたの。明日には戻らなければならないし」
「そうなんですか。トレーニングどころじゃないですね」
「最初から、ここでする必要も無かったのよ」
苦笑して前髪をかき上げる流衣さん。
確かに今時、「山籠もり」でもない。
「風成、もう止めなさいよ」
軽くたしなめられた風成さんはショウを解放して、何やら唸り始めた。
「あー、馬鹿馬鹿しい。何しに来たんだ、俺は」
「優さん達を迎えによ。私達リニアで来たから、帰りは一緒にね」
「あ、はい」
「仕方ない。四葉、熊と戦りに行くぞ」
革のジャケットを脱ぎ始める風成さん。
熊と、やる?
「熊の真似でもするの?」
「ん。あ、ああ。そうとも言うし、違うとも言う」
口ごもるショウと、妙に張り切っている風成さん。
すると流衣さんが、綺麗な眉を動かした。
「狩りじゃないでしょうね」
「え?」
「お父さんから聞いた事があるの。素手で、熊や鹿を殺すって」
「ええ?」
口を押さえしゃがみ込む。
だがそこが例の毛皮だとすぐに分かり、慌てて飛び退く。
「無茶苦茶なのよ、この人達は」
額を抑え、首を振る流衣さん。
「いいだろ、無駄なく使ってるし」
「あ、あの。使うって」
「肉は食べられるし、毛皮も肝も売れる」
平然と答えた風成さんは、肩をすくめてショウを指差した。
「こいつ、捌くの嫌がってさ。いつも俺とおじさんでやってるんだぜ」
「もういいわよ」
「いや。俺達は近所に出る熊と戦るだけで、すぐに逃がすよ。捌くのは、猟友会の人からもらう時さ。なにせ丸ごと一頭持ってくるから、大きめのナイフでこう……」
「もういいっていってるでしょ。本当に、どっちが獣なんだか」
聞きたくないといった具合に、邪険に手を振る流衣さん。
ショウもげんなりした顔で、壁に掛かった毛皮を見つめている。
私は昨日食べたお肉を思い出して、お腹を押さえる。
何の薫製か、はっきりと確かめるべきだった。
教えられても、ちょっと困るけど。
「とにかく、熊の事は忘れてちょうだい。今日は早く寝て、明日に備えて下さい」
「そうですね……」
背を丸め、小声で呟く風成さん。
私も背を丸め、彼から離れる。
今日の夕食は気を付けようと誓いながら……。
幸い、川魚がメインで助かった。
後片付けを終え、お風呂から出てくるともう眠たくなって来た。
それは今日に限った事ではなく、ここに来てから毎日だ。
一日中山道を歩いていれば、それも当然だろう。
頭を拭いていたタオルをエアコンの側へ置き、暖かいお茶を一口。
軽く体を動かして、ソファーベッドに潜り込む。
後は明日の朝まで、ゆっくりと……。
「なに、してるの」
戸惑い気味の問い掛け。
私は眠い目を開けて、声の方へ視線を向けた。
マグカップを持ったまま立ち尽くす、スエット姿の流衣さん。
彼女の隣にいたジャージ姿の風成さんも、呆然とした表情で私を見つめている。
「え、何が」
「い、いえ。優さんがいいのなら」
「はい?」
言っている意味が分からず、隣を振り返る。
間近にある、ショウの顔。
彼の表情も、すぐに固くなる。
どうしてか。
「いつから、そんな仲になったのかしら。親御さんに顔向け出来ないわ、私」
口元に手を当て、困惑気味に視線を伏せる流衣さん。
風成さんも、難しい顔でこっちを見ている。
「俺、伯父さんになるとか?」
その言葉に、ようやく自分の立場を悟る私。
自分の居場所と言い換えてもいい。
大きなソファーベッド。
そこに並んで寝る、一組の男女。
つまり、私とショウ。
「ち、違うんだって」
慌てて飛び降り、エアコンや窓を必死で指差す。
「寒いし、雷鳴るし。怖いというか、その、あの」
バタバタ手を振っていると、風成さんが見慣れないリモコンを棚の奥から取り出した。
それを操作すると、下の方から暖かな感触が伝わってくる。
「床暖房もあるし、二階の部屋もこれでもう少し暖かく出来る。四葉、この前来た時使っただろ」
「そういえば……」
毛布を足元に掛け、横座りのまま頼りなげな表情を浮かべるショウ。
格好いいというより、可愛い雰囲気。
忘れた振りをしている、なんて訳はない。
「高校生の男女が、一つのベッドで寝てるなんて。私、優さんのご両親にどう伝えたらいいのよ」
「つ、伝えなくていい。本当に、何もないから。ただ寒さしのぎ、それだけ」
「そうね。私も、自分の弟を犯罪者にしたくはないから」
「でもそれはそれで、男として……。いえ、何でも無いです」
流衣さんに睨まれ、そそくさとリビングを出ていく風成さん。
ショウも背中を丸めて、その後に付いていく。
「どこ行くの」
「頭を冷やしてきます」
「それが良いわね」
「はい……」
お姉さんに恐縮して部屋を出ていくショウ。
ドアの開く音がして、一瞬冷気が吹き込んできた。
彼もようやく、この数日間の事を理解したようだ。
私だって、指摘されるまで全く気にしていなかった。
忘れていたとも言える。
「さあ、私達は寝ましょうか」
「え、ええ」
「ベッドを用意するのも面倒だし、一緒にね」
くすっと笑い、ソファーベッドに滑り込む流衣さん。
私もおずおずと、その隣で丸くなる。
「……変わった寝方ね」
「そうかな」
「まあいいわ。お休みなさい」
「はい、お休みなさい」
照明が落ち、エアコンの微かな音だけが室内に響いていく。
さっきまでの動揺は嘘のように無くなって、目を閉じればすぐに眠気はやってくる。
昨日までと変わらない安堵感と安らいだ気持ち。
それは隣にいるのがショウのお姉さんだからかなと思いつつ、私は微睡みに体を任せていた……。
翌日。
4人がかりで荷物を運び降ろし、私達は山小屋を後にした。
狭い雪道を抜けると、走っていく度に景色からは白い色が消えていく。
よく考えれば今は3月で、早春と言ってもおかしくはない時期。
あそこの雪深さに慣れていたため、少し不思議な感覚に捉えられる。
風成さんの運転で、車は東海北陸道を名古屋方面へとひた走る。
時速140km/hと、制限速度をやや下回るくらいのスピード。
このペースなら、すぐに名古屋市街へ入るだろう。
やがて時刻はお昼頃となり、私達はサービスエリアへと立ち寄った。
「俺はいいよ、眠い」
そう言うや、シートを倒し目を閉じる風成さん。
ショウも頷いて、やはりシートを倒す。
昨日あれから外に出て、色々やっていたらしい。
さすがに、熊をどうにかはしてないようだけど。
「仕方ないわね、もう。優さん、行きましょ」
「はいはいっと」
こっちはしっかり寝たし、食欲もある。
大体食事を抜くなんて人の気が知れない。
さて、何を食べようかな。
「あ」
「わっ」
音は違えど、同じように声を出す私達。
レストランや情報センターの建物前。
幾つか並ぶ屋台の一つ。
香ばしい匂いを辺りに漂わせている、小さな屋台。
そののれんに、私達は目を奪われた。
「熊肉って」
「鹿肉もある」
「優さん、どう?」
「いえいえ。流衣さんこそどうぞ」
二人で首を振り、その屋台から遠ざかる。
匂いはいいし、炭火の上で焙られているお肉は何とも美味しそうだ。
知らなかったら、一串買っていると思う。
とにかく私は、薫製だけでもう十分だから……。
食欲が無くなった訳でもないけど、五平餅と明宝ハムでお腹を満たす。
後は春の日差しに包まれならが、ジェラードを頬張る。
程良い口当たりと、ミルクのいい香り。
ソフトクリームも好きだけど、これも好きだ。
「それで、結局どうだったの」
ストロベリーミルクを舐めていた流衣さんが、さりげなく尋ねてくる。
コーンをかじっていた私は、そのままで少し考えてみた。
「本当に、何もないです。疲れてて、食べたら寝るだけでしたし」
「……そう」
安堵の表情を浮かべ、首を振る流衣さん。
そして、視線を落とす。
「ごめんなさい。下らない事を聞いて」
「いえ、私達も軽率でしたから」
「あの子がそういう事をするとは思えないけど、あなた達も子供ではないし。駄目ね、年を取ると」
ため息を付き、ジェラードを少し舐める。
綺麗な顔立ちと落ち着いた佇まい。
私といくらも年は離れていないが、すでに彼女は大人の女性になっている。
初めて出会った時から変わらない、しとやかな物腰と冷静な態度。
私が彼女と同じ年齢になっても、きっとこうはならないだろう。
「大人、なんですね」
「皮肉?」
「いえ。私は全然子供だなと思って」
「可愛げ無いのよ、私は」
薄く微笑み、コーンをゴミ箱へ放る流衣さん。
「お父さんは軍から帰ってきたと思ったら、いきなりボディガードなんて始めるし。破門された後、私達は玲阿家の実家にしばらくいたのよ。それでいじめられた事はないけど、どうしても気丈に振る舞う必要もあって」
「そうなんですか」
「風成がいたから、本当に無理をする事はなかったんだけど」
少し柔らかくなる表情。
だがそれは、すぐに消えていく。
「この人と一緒にいたら、玲阿流の後を継ぐ事になる。そう思ったら、色々考えちゃって」
「でも、結婚したんですよね」
「ええ。だけど私は、風成と結婚しただけ。玲阿流の後を継いだ気は無いわ。ただそんな事が通用する程甘くない場面もあったりして。なんて事を考えてると、こうして若年寄になって行く訳よ」
くすっと笑い、私の頬に手を触れる流衣さん。
「だから優さんも、四葉と付き合うと苦労するわよ。特にあの子は、軍へ行くつもりだから」
「ええ。でも私は、付き合うとかって深く考えた事が無くて」
「私も初めはそうだった。従兄弟だし、余計にね」
頬を滑っていく、柔らかな指先。
それは私の顎を撫でて、離れていった。
「心配しても、仕方ない時もある。止められない時も。そういう時が、一番辛いわ」
「今度の、オープントーナメントですか」
「ええ。勝つのは分かってるけど、怪我をしたらと思うとどうしても」
「分かります、それ」
苦笑気味に頷き、ショウが三島さんと戦った時を思い出す。
あの時の、言いしれない不安と焦燥感。
目の前で傷付いていく彼を、見守るしか出来ない自分。
止める権利も無く、ましてそれに従うはずもない。
これからも、そんな事が何度と無くあるんだろうか。
「それに、慣れないのよね。何度同じような事があっても、そのたびに不安になる。気が重くなるわ」
「そうですね」
視線を伏せる流衣さん。
私も何となく、空を見上げる。
「それに私は風成の、玲阿流師範代の妻である事に変わりはない。それは否定出来ない現実で、逃げたくても逃げられない。その勇気もなかったし」
「ええ」
「そんな毎日というか自分が嫌で、気が滅入った時もあったわ。もう何もしたくない、自分の事だけに専念していたいって。それでは何も解決しないと分かっていても」
静かに語られる彼女の心境。
最近の、私の気持ちと重なる事。
私は黙って、その話に耳を傾けていた。
「だから結局、やるしかないのよね。それがいいかどうかはともかく、何かをしないと」
「はい」
「私は知っての通り、玲阿流とは殆ど関わらないようにしてる。言ってみれば、逃げたのよ。それがどういう意味かはよく分かっていたし、非難もされたけど。私は後悔してないわ」
伏せられたままの視線。
だけど口調には、言いしれない力強さが込められている。
「あくまでも風成の妻であって、玲阿流師範代の妻ではない。人からすれば詭弁だろうし、私だって常識的にはおかしい話だと思う。でも誰が何と言おうと、それを止める気はない」
「はい」
「そんな下らない事を、私は自分を貫いている訳よ。それに費やした労力を考えたら、玲阿流と関わった方がましというくらいに」
苦笑する流衣さん。
私も少しだけ、それに合わせて笑う。
「その穴埋めの意味もあって、RASの方には協力しているけれどね。今では、そちらの運営の方が大変なのよ」
「世界規模ですからね」
「そうなの。かびの生えた古武術にこだわってる人達の気が知れないわ。……こうして愚痴をこぼせる相手が身近にいると、私は助かるのよね」
優しい、暖かな笑顔。
私の気持ちを見透かしたような、澄んだ瞳。
本当に不安なのは彼女ではなく、私の方。
風成さんよりも若い分、無鉄砲な部分も多い。
軍に行けば、命の危険すら覚悟する場面もある。
その時の気持ちを、どうすればいいのか。
それを教えてくれたのではないだろうか。
勿論、私がその時までショウと一緒にいればの話だけれど。
「さあ、そろそろ戻りましょうか」
「はい」
小さく頷き、コーンをかじる。
これを捨てない分、私は多分子供なのかな。
それとも、そういう性格なのかな。
「食べるのね」
「子供ですから」
「そう素直に言える分、羨ましいわ。私は最初、これを食べるなんて知らなくて」
寂しげに微笑む流衣さん。
私は残りのコーンを、何となく彼女へ差し出した。
「どうぞ」
「え?」
「美味しいですよ」
自分でも恥ずかしいなと思いつつ、食べかけのコーンを彼女へ渡す。
そして流衣さんは、はにかみ気味にコーンへ口を付けた。
小さく動く口元と、嬉しそうな表情。
子供の様な笑み。
「少し、後悔してるわ」
「食べかけのコーンを食べた事に?」
「今まで、捨てていた事に」
残りのコーンを全て頬張り、流衣さんは駆け出した。
「行くわよ、優さん」
「はい」
目の前で揺れるロングヘア。
私の先を行く女性。
これからもこうして、私の前を行ってくれる人かも知れない。