11-8
11-8
学校近くの、小さな倉庫。
住宅街に位置してはいるが、周囲に人気はない。
錆びた匂いと薄暗さ。
床に散乱した廃材だけが、やたらと目に付く。
「この時点で、想像が付くわね」
足元に転がる鉄パイプを軽く蹴り、高い位置にある窓から差し込む日差しを見上げるサトミ。
その日差しにホコリが照らされ、きらきらと輝いて見える。
「浦田は」
「壁際に」
「あいつは、いつもああだな」
一人壁にもたれているケイを見て、おかしそうに笑う名雲さん。
それを見る限りは、特にケイへの悪い感情を抱いているようには見えない。
「何だ」
「さっき、ケイと揉めてたみたいだから」
「意見の相違だ。ケンカした訳じゃない」
ケイと同じ答えが返ってくる。
嘘を言う必要もないので、そうなのだろう。
ただ、何を話し合ったかは言わないが。
「それに、今はそんな話をしてる場合じゃ……。来たな」
やや腰を落とす名雲さん。
私もサトミをかばいつつ、構えを取る。
「何も、そう警戒しなくても」
甘さを含んだ、やや高い声。
錆び付いたドアの開く音がして、男の子が入ってくる。
「真理依さんは」
「俺が代理で、話を聞く。不満なら帰れ」
「かまいませんよ、名雲さんでも」
悪びれない笑顔。
厚手のジャケットと、茶のコットンパンツ。
ジャケットに入れた手は、外へ出てこない。
「サトミ、私の後ろへ」
「後ろから来たら?」
「ケイがいる」
「分かった」
ケイの位置は、私達の左斜め後ろ。
少し走れば、すぐに近付ける距離。
また、今入ってきた男の子からは死角になっている。
さっきより、位置を変えたようだ。
「それで、話は」
「そう、急がなくても。懐かしい思い出を語るとか、そのくらいしてもいいでしょう」
「俺はかまわんが、余計な事を嫌う人間もいるんでな」
ケイではなく、サトミを振り返る名雲さん。
男の子の顔立ちは甘く、微笑めば大抵の女の子なら頬を赤らめる所だろう。
しかしサトミが向ける切れ長の眼差しは、鋭さを湛え男の子を捉えている。
身も心も凍えさせてしまう、震えるような美しさと共に。
彼女の前に、その程度の笑顔が何の意味を持つだろう。
「籠絡でもしようとしたのか」
「そ、そんなつもりは」
「まあいい。……雪野」
「うん」
頷き様後ろを振り返り、飛んできたバトンを手の甲で受け流す。
スタンガンでないのは、音で分かる。
乾いた音がして床へ落ちるバトン。
同時に物陰から、人影が二つ。
一人は私、もう一人は名雲さんへと向かう。
「セッ」
目の前に吹き付けられる、無臭のスプレー。
素早く身を伏せ、スライディング気味に足を払い後ろ手で腕を交差させる。
仮に催涙性のスプレーでも、気さえ張っておけばさほど問題ない。
「名雲さん」
「こっちは大丈夫だ。さて、話を聞こうか」
背を向けて走っていく男の子。
だがドアの前には、ケイが立っている。
「ぼ、僕は何も」
「戻れ」
静かにこちらを指さすケイ。
男の子はそれまでの勢いを無くし、肩を落としながら歩いてきた。
私達を襲った二人の女の子は観念したのか、うなだれて床にしゃがみ込んでる。
「首謀者は」
低い声で問い掛けるサトミ。
警棒こそ抜かないが、彼女の眼差しはそれ以上の強さを湛えている。
「答えたくないの。それとも、答えられないの」
「話す事なんて無いわ」
「好きにすれば」
下を向いたまま呟く、二人の女の子。
セミロングで似たような顔立ち。
姉妹とは言わないまでも、親戚か何かのようだ。
「鼻を削いでも?」
小声で尋ねるケイ。
女の子の一人、可愛らしい顔立ちの子が醒めた眼差しを彼へ向ける。
「好きにすればと言った」
「そっちは」
「話す事は無いって言ったでしょ」
綺麗な顔立ちの子が、そう答える。
ケイは足元にあった鉄パイプの残骸を拾い上げ、それを彼女達の顔へと向けた。
「やらないと思ってるから?」
「話したくないからよ」
「契約は守る」
小さな、しかし自信に満ちた二人の言葉。
ケイは鼻を鳴らし、その鉄パイプを男の子へと向けた。
「じゃあ、そっちに聞こう。鼻じゃなくて、耳にしてやる」
「ぼ、僕は、何も知らない。ただここに来て。そ、その、知ってる事なら、何でも話す」
「後にしろ。まずは、耳を削いでからだ」
「や、止めて。止めて下さい」
「俺も、そう言いたかった。襲われる前に」
振りかぶられる鉄パイプ。
日差しを受け、薄暗い倉庫内で輝く尖った先端。
その切っ先が、男の子の顔へと向けられる。
「……どういうつもりかな」
「契約は守ると言った」
「来るなら来なさい」
突然立ち上がった二人が、構えを取ってケイの前に立ちふさがる。
男の子を後ろにかばい、一歩も引かないという表情で。
恐怖も奢りも、過信もない。
契約を守るという強い意志だけが、彼女達からは感じ取れる。
「名雲さん」
「そいつらは本気だ。そういう奴らだからな」
「分かりました」
鉄パイプを、壁際へ投げるケイ。
そして醒めた眼差しを、正面へと向ける。
身構えている女の子を通り抜け、その後ろへ身を隠す男の子へと。
「他人の信条をとやかく言いたくないが、この子達がいなかったらその耳無くなってたぞ」
「ぼ、僕は」
「お前の話を聞く気はない」
名雲さんと視線をかわしたケイは、小さく頷いて後ろへ下がった。
女の子達は構えを取ったまま、男の子の前から離れない。
正直腕はそれ程無く、こういう現場にも慣れていない雰囲気だ。
それでも彼女達は、自分達の言った契約を果たそうとしている。
知らずに私の胸も熱くなる。
そんな彼女達の前に、サトミが立った。
腕を組み、澄んだ瞳を向けて。
「帰って結構よ。この一件も、問題にはしない」
「情けを掛ける気」
「どうとでも取って。いいですよね、名雲さん」
頷く名雲さんを見て、ハンカチを渡すサトミ。
一瞬警戒の表情を浮かべた綺麗な子が、それを受け取ってホコリの付いた顔を拭く。
もう一人の子も、同じように。
「ケンカには不得手に見えるけれど」
「楽な相手だと聞いたのよ。軽く脅すだけで、大丈夫だとも」
「話とは、かなり違っていたけれどね」
淡々と語る彼女達。
顔はサトミへと向けられているが、後ろに隠れている男の子がその度に表情を変えていく。
「まさか、ワイルドギースが出てくるとは。それに、その子も舞地さん並みだし」
「私は全然だから。その、何か事情があるなら」
「敵には情けを掛けない。名雲さん、そのくらい教えておいたら」
「それが、雪野の良い所なんだ。俺達みたいに、ひねくれてないんだよ」
楽しげに笑う名雲さん。
女の子達も、微かに表情を緩める。
「大体お前ら、俺がいるって知ってたんだろ」
「どうして、そう思うんですか」
「頭で勝負するタイプだからさ。そのくらい分からずに行動するはずがない。何か、探ってるのか」
「さあ。分かっているのは、外に性質の悪そうな連中が待ち構えている事くらいです」
淡々と語る、綺麗な女の子。
だが名雲さんが、動揺した様子はない。
「柳が片付けてるだろ。一応、後を付けるように言っておいたから」
「舞地さんと池上さんだけにして大丈夫なんですか」
「柳に勝った男が護衛してる。問題ない」
「あの子に勝った?まさか」
信じられないと言った顔付きの二人。
柳君の実力を知っている人なら、当然の反応だろう。
「さすが草薙高校って訳さ。こいつらの仲間だけどな」
「……そう言われると、信用出来る話かも知れませんが」
「私は、まだ」
怪訝そうに私とサトミを見つめる、綺麗な女の子。
こっちも対抗上、見つめ返す。
「甘い性格みたいだけれど、大丈夫?」
「大丈夫じゃなくても、やる事はやる」
「何それ」
鼻で笑われた。
呆れられたのかも知れない。
「そこの綺麗な子も、案外甘そうだし」
「試してもいいのよ」
薄く微笑むサトミ。
醒めた表情と共に、端末が取り出される。
「例えばこれが、端末じゃなかったら。なんて話を信じる?」
「どういう意味」
「1mの射程距離を持つスタンガン。あなた達がおかしな素振りを見せたら、有無を言わさず使ってもいいっていう意味。それで、誰が甘いって」
「怖い子ね」
それとなく後ずさる女の子。
サトミも笑顔のまま、距離を詰める。
「吉家、少しは分かったか」
「ええ。身を持って」
手の汗をぬぐう仕草を見せる、吉家さん。
「三村、お前も止めろ」
「いいじゃありませんか。お互い、相手の事は分かったんですし」
「下らない。遠野、それをしまえ」
「ただの端末ですよ」
「どうだか」
呆れ顔の名雲さんに微笑みかけ、端末をポケットへ収めるサトミ。
私の見慣れないタイプの端末。
本当は何なのかは、彼女にしか分からない。
「それでもまだ、彼女は私達に引く部分を与えてくれてますが」
「あいつは放っておけ。構わなければ、大人しい」
壁際にもたれるケイへ視線を向ける女の子達。
ケイも、わずかに顔を上げる。
「仕返しでもしたいとか」
「まさか。そこまで、恨みがましくないわ」
「それとも、そういう経験でも?」
「無くもない」
短く返すケイ。
「そのくらいにしておいて。あまり、楽しくない話だから」
柔らかく遮るサトミ。
女の子達も無理に聞く気はないらしく、軽く頷く。
ただ楽しくないのは私達の気持ちであって、ケイ自体はあまり気にしないと思う。
「名雲さんの言う通り、面白い人達ですね」
「面白いのは、この子だけよ」
私を指さすサトミ。
こっちも彼女の脇を、指でつつく。
変な声が上がったけど、知った事ではない。
「何、それ。私達は戻るけど、名雲さんは」
「やる事がある」
「分かりました。舞地さん達によろしく」
「ああ。またな」
私達に一礼して、颯爽とドアを出ていく二人。
凛とした後ろ姿を見送り、小さく息を付く。
「それで、どうします」
「そうだな」
顔を見合わせる、サトミと名雲さん。
一人残された男の子は、引きつった顔で後ずさった。
その肩口に、ケイが後ろから警棒を突きつける。
「ぼ、僕は」
「二度とこういう真似はするな。次は、こっちも本気でやる。お前の事情に関わらず」
「ぼ、僕は騙されて。今の女達が」
「あいつらは、そういう真似はしない人間だ」
はっきりと、限りない信頼を込めて言い切る名雲さん。
その精悍な顔に、身を切るような鋭さが宿る。
思わず喉を鳴らす男の子。
体の震えもかまわず、名雲さんの拳が鼻先へと突きつけられる。
「舞地はまだ、お前を信じてる。だから、俺も今回は引いてやる。お前のためにではなく、舞地のために」
「だから僕は、騙されて。本当に。い、いえ。全く何も知らない訳じゃないけど。でも、僕は本当はそんなにやる気は」
必死で言い繕う男の子。
それを聞いている人は、誰もいない。
声だけが、ただ音として倉庫の中に響いていく。
「お前が何をしようと、何を思おうと知らない。ただ、舞地を巻き込むな。俺が言いたいのは、それだけだ」
「わ、分かってます。でも僕は、本当にその。い、いえ。ただ僕は、仕方なく」
「もういい。二度と舞地に連絡を取るな。何か言いたい事があれば、俺を通せ。いいな」
威圧感の込められた眼差し。
男の子は激しく頷いて、そのまま後ずさった。
「さっさと帰れ」
「で、でも」
「帰れ」
低い一言から何を感じ取ったのか、背を向けてドアを飛び出ていく男の子。
それの閉まる音が虚しく響き、倉庫内には静寂が訪れる。
「とんだ、やんちゃ坊やですね」
「皮肉を言うな、遠野」
「火遊びが過ぎる、とも言いますが」
「仕方ない。初めは誰もが、無茶をしたくなるものさ。加減が分かってないんだ」
「悪の道への第一歩は、ですか?」
面白く無さそうに笑うサトミ。
名雲さんも鼻で笑い、ケイへ視線を向けた。
「闇討ちするなんて考えるなよ。あれでも昔は、舞地といい感じだったんだから」
「向こうが仕掛けてこない限りは、大人しくしてます。それよりも、あいつの周りにいる連中はどうするんです。今の状況を見ると、そろそろ動き出しそうですが」
「こっちで先手を打つか。あれだ、屋神……さんに連絡してくれ」
ケイが首を振るので、仕方なく私が端末を取り出す。
「あ、どうも雪野です」
「なんだ」
素っ気ない、でもどこか笑い気味の声。
「例の傭兵。あの人達の、居場所を知りたいんですけど」
「お前らに渡したカードキー。そのマンションを探せ」
「いなかったら」
サトミが言った事を、そのまま尋ねる。
「クラブとか怪しげなバーとかあるんだが、そこは夜だけだろう。……後は、倉庫かな」
「私達は今、m学校近くの倉庫にいますけど」
「なんだそれ。大体学校近くじゃなくて、港の倉庫だ。場所を送ってやる」
端末に転送される地図と、そこまでの道順。
埠頭か。
「前、新妻達を監禁してた倉庫だ。今でも使ってるかどうかは知らんが、人が出入りしてるという情報はある」
「分かりました。どうも、ありがとうございます」
「ああ。ただそっちは沢が行ってるから、お前らは学校へ戻れ」
「どうして沢さんが。それに、どうして学校に」
「学内の警備強化で、揉めてるらしいぞ。ケンカがしたいなら、沢と一緒に倉庫へ行ってもいいがな」
という訳で、学校へとって返す私達。
沢さんからすぐに連絡が入り、人が出入りした気配はあるが今は誰もいないとの事。
傭兵とは関わりがあるので、事前に情報を掴んだ沢さんが動いたらしい。
あの人も、結構謎だ。
そして私達がやってきたのは、自警局局長室。
部屋の主である、矢田自警局長も当然いる。
面白くないので、私は目も合わせない。
向こうもこちらを避けるような態度を取っているが。
室内には彼の他に、塩田さんと中川予算編成局局次長。
天満さんに、大山副会長。
後は、生徒会長もいる。
こちらは私とサトミ。
ケイは自警局と聞いて、嫌な顔で逃げていった。
ショウと柳君はまだ、舞地さんの護衛。
名雲さんも同様だ。
その代わりと言っては何だけど、モトちゃんと沙紀ちゃんがいる。
「警備強化は、いつから実行されるんでしょうか」
静かに尋ねるサトミ。
大きな机の向こうにいる局長は、その上に指を組んで視線を下げた。
「現在、調整中です。申請は受けましたが、そんなに早くは対応出来ません」
「至急実行するようにお願いしたはずです。現にフォースとガーディアン連合では、通常時並みの体制を取っています」
「ですが、まだ話し合いが付いてませんので。それに生徒数が少ない今、そこまでする必要がないとの意見もあります」
小さな声で語る局長。
目元を細めたサトミに代わり、沙紀ちゃんが一歩前に出る。
「現場には、一般生徒からの苦情も来ています。被害こそ少ないですが、武装した人間が暴れているという現実があるんですよ。それについては、どう思われるんです」
「それへの対応はするように、指示は出しています。ただ全体の強化となると、命令系統に支障が出ますから。それに、予算案の組み替えも必要になりますので」
「大事なのは体面やお金ではなく、生徒の安全だとは思われないんですか」
「勿論そうです。僕はいつもそれを、心掛けています」
だったら何で実行しないと言いたいところだ。
サトミの視線を受け、そう怒鳴るのは思い留まったが。
「私達ガーディアン連合や、予算編成局の影響下にあるフォースは独自の対応が出来ます。そして生徒会ガーディアンズは、それとは違う指示でも受けているのでしょうか」
柔らかな態度で尋ねるモトちゃん。
局長は首を振り、それを否定した。
「指示は受けていない。でも対応は出来ない。あなたが一言仰れば、生徒会ガーディアンズは今すぐにでも警備を強化するんですよ」
「私は生徒を守るのと同時に、ガーディアンの規則を維持する義務があります。それに一時の状況でいちいち体制を変えていたら、話になりません」
「そういう見方なんですか、局長は」
「違うんですか、元野さん」
強気に尋ね返す局長。
モトちゃんはおざなりに首を振り、後ろへ下がった。
そしてサトミや沙紀ちゃんと顔を見合わせ、処置無しといった様子でもう一度首を振る。
「……口出ししたくないが、俺も一応は自警委員だ。一言言わせてもらうぜ」
「どうそ、塩田代表」
「別に金を出せって話じゃない。多少手当は必要だろうが、通常通りの体制に戻すだけだ。その程度の命令が混乱を引き起こす組織なら、それは元々の命令系統や全体の把握に問題がある」
「僕が、自警局を掌握していないと」
「それとも、その自信がないのか。どっちかだ」
はっきりと言い切る塩田さん。
しかし局長は苛立った顔で、彼を見上げる。
「僕は誠心誠意を込めて、この仕事に携わってます。僕に対する苦情も、特にはありません」
「お前に求められてるのは結果で、努力じゃない。それに、直接生徒会の幹部へ文句を言う馬鹿なんているか。そこにいる連中のような、例外は除いて」
私達の事を言っているようだが、ここは黙っておこう。
馬鹿はともかく、それは同意見だから。
「生徒会としても、警備強化の方向で進みたいたんですけどね」
「大山副会長。先日申し上げた通り、現在調整段階です。各局は独立した組織で、副会長でも頭越しに指示を出せないのはお分かりですよね」
「勿論分かってますよ。自分で作った規則ですから」
「え?」
「何でもありません。会長、何かご意見は」
苦笑気味に話を振る副会長。
壁際で話を聞いていた彼は、姿勢を正し局長の隣へとやってきた。
ちょうど彼を見下ろす格好で、局長は見上げる体勢となる。
「君の自警局長としての立場も分かるし、規則を守りたいのも理解する。ただこれは、緊急を要する事態だ。それについては、どう思っている」
「ガーディアンの増強はしています。ただ元の体制へ戻すのは、時期尚早だと言っているんです。広く意見を求めるという、僕の判断は間違ってますか」
「リーダーシップが必要な場合もある。そのための自警局長という立場であり、権限だ。規則通りに動くから局長と呼ばれている訳ではない」
鋭い台詞に、顔を伏せる局長。
ただそれでも、意見に従うとは言わない。
生徒会長も、半ば諦め気味に首を振る。
「彼を指名したのは、誰かな」
「私ではありませんよ。前の自警局長が辞めたら、学校が推薦してきたんです」
「僕が、学校と癒着してると。それと今回の事と、何の関係があるんですか」
自分で言っていれば、世話はない。
確かにその意図は分からないが、彼が警備を強化しないのは分かっている。
「面倒ね。総務局長の権限で、警備強化を指示すればいいでしょう。今は、誰が総務局長なの」
「いないの。前総務局長が、生徒会長に就任された後は。そのくらい知っておいて」
「じゃあなたは、予算編成局の主計課長を知ってるの。嶺奈」
「それは凪ちゃんの管轄だから。お互い様」
苦笑気味にお互いの顔を指さし合う、中川さんと天満さん。
その中川さんは一転して、局長を鋭い眼差しで捉える。
「あなたは自警局長なんてふんぞり返ってるけど、どうしてそうしていられるか分かる?」
「ふんぞり返っては……。それはガーディアンの人達や事務方の人間が頑張ってるからで。僕はその仕事が少しでも円滑に進むよう、努力を」
「前の自警局長が頑張ったからとか、そういう事は考えないの」
「トラブルを起こして辞めたと聞いています。前任者も、その前の方も。何でも古いクラブハウスの奥で、寂しく……」
笑いかける局長。
だがそれは、引きつった表情へと代わる。
気配を濃くする中川さん
いや、彼女だけではない。
天満さんも、副会長も。
そして誰よりも、塩田さんが。
射殺すような眼差しで、彼を睨む付ける。
「事情も知らないのに、勝手な事を言わないでよね」
蹴りつけられる大きな机。
中川さんは荒くなった呼吸を抑え、天満さんに寄り添った。
その天満さんも、いつにない険しい表情で局長を睨み続ける。
「彼は生徒会ガーディアンズだけでなく、フォースもガーディアン連合も束ねていた人です。今の2、3年なら、彼の事をよく知ってますよ。その人達が彼とあなたの、どちらの指示に従うか試してみますか」
「そ、それは」
「勿論私も従いますよ。総務局、総務課課長として。総務局長の指示に」
胸元のIDを外す仕草を見せる副会長。
すさまじい、圧倒的な威圧感。
普段の柔和な雰囲気は、その欠片すらない。
「落ち着け、大山。あんな奴の事はどうでもいい。実際今は、ただのチンピラなんだし」
「塩田」
彼を下がらせ、塩田さんが前に出る。
机に置かれる拳。
浮かぶ笑顔。
その拳が消える。
「あ……」
壁を捉えた拳は、粉を振り払い素早く引き戻される。
小さな穴の開く壁。
中には空洞が見えている。
「本当に、穴開いているぜ」
「押しくらまんじゅうでもやりますか?」
「下らない」
「あなたの行動がですよ」
楽しげに、でもどこか悲しげに笑う二人。
局長は目を丸くして、ずっと口を開けたままだ。
「請求書は、予算編成局へ回して。こちらで処理するわ」
「し、しかし」
「企画局局長としても、その方がよろしいかと思います。それとも、生徒会幹部が着用するプロテクターの強度チェックの企画でも通しますか。例えば、スタンガンにどの程度耐えうるのか」
ポケットから取り出されるスタンガン。
サトミの持っていた者とは違い、まさにその物の形。
「学内で暴れている人間が、生徒会幹部を襲わないとも限りません。自警局長という立場で、それに協力してください」
「て、天満さん。僕は、その」
「大丈夫ですよ。いきなり後ろから襲われるんじゃなくて、襲われるのが分かってるんですから。だから、自警局長はそれに備えていて下さい。一般生徒が、襲われる気分を味わうためにも」
近付けられるスタンガン。
飛び散る火花。
彼の鼻先に、青い火が飛んでいく。
「もういいでしょう、天満さん」
「甘いわね、君は。それとも、直接当てた方がよかった?」
「そんな所です」
天満さんがスタンガンをしまったのを確認して、副会長は机に手を付いた。
「副会長の権限で警備を強化してもいいんですが、ここは自警局長の意見を尊重させて頂きます」
「ご配慮、恐れ入ります」
「学校からの強い推薦により、会長は来期もあなたを指名するようです。その期待に添うよう、頑張って下さい」
皮肉めいた笑みを浮かべ、ドアへと歩いていく副会長。
塩田さん達もそれに続いて、部屋を後にする。
「という訳だ。先輩達の怒りを買ってまで、学校の指示に従う必要はあったのかな」
「ぼ、僕は別に学校の命令でやっている訳では。さ、参考意見として伺ってはいますが」
「君を来期指名するのも、今の話通り学校からの強い指示があったからだ。その能力は認めるが、彼等が指摘した問題点もある。それを、どう考えている」
詰問に近い口調。
局長はうなだれ気味に、視線を伏せる。
「彼等はその誰もが、学内での最重要人物。そして昨年以来、実際に学校を運営してきた人達だ。それを敵に回せる程の策と人材が、君にはあるのか。学校のバックアップ程度、意にも介さない人達だぞ」
「ぼ、僕はただ、規則を守るという点を協調したかっただけで。警備強化は、その妥当性が認められれば」
「規則、原則か。確かに学校が好きそうな事だ。管理案導入の話でも聞いたのかな」
「そ、それは。その、僕は何も」
明らかに動揺する局長。
生徒会長はそれ以上突っ込まず、背を向けて歩き出した。
「君は君でやっていればいい。各局は、独立した組織なのだから」
「会長、僕は」
「私の話は以上だ。後は、自分自身で考えてくれ」
閉まるドアと、消える背中。
それを見届けた私達も、ドアへ向かう。
「あ、あの」
「話す事はないし、話す気もない。そっちがやらないなら、こっちで勝手にやる」
「雪野さん」
「あなたも勝手にやってれば、自警局長」
言いたくもない皮肉を言って、部屋を出ていく。
全く、何が局長だ。
少し見直した時もあったけど、今はもう違う。
あの頃の苦手な意識とは違う、嫌悪感すら抱いてしまっているから。
大体今困っているのは、彼の部下である舞地さん達だというのに。
本当に、下らない……。
「叩くなよ」
「だって」
壁にぶつけていた拳を戻し、自分の膝を叩く。
とにかく怒りが収まらない。
「最近あいつが学校寄りになってるのは、分かってただろ」
「ショウはその場にいなかったから、そうのんきな事を言ってられるのよ。あの場にいたら、もうっ」
「私もいました」
サトミの言葉に、こくりと頷く沙紀ちゃんとモトちゃん。
何よ、怒ってるのは私だけじゃない。
「面白くない。ぐぅ」
一唸りして、畳に転がる。
スカートがまくり上がらないくらいの、気は遣っているけど。
「あなたは、よく怒るわね。落ち込んでると思ったら、これだもの」
呆れ気味に、顔を覗き込んでくる池上さん。
長い髪が垂れ下がり、綺麗な顔が微妙な陰影に彩られる。
なんとなく見取れていると、その顔が近付けられた。
少し早まる鼓動。
サトミで慣れているとはいえ、それまでは抑えられない。
「……低い鼻ね」
「なっ」
腰を逸らして、ブリッジの体勢を取る。
手足に力を込め、勢いよく足を振り上げる。
同時に手を突き放して、その姿勢のまま宙へと舞い上がる。
あっと言う間に彼女の後ろへと回り込み、後ろから首に手を回す。
「ちょ、ちょっと」
「自分だって、それ程大した鼻じゃないくせに」
この前みたいに、今度は池上さんの鼻を触ってみる。
……骨はない。
それに、低い。
「へっ」
「何よ」
「骨なし女。または、イカ女」
「え?」
訳が分からないという声。
仕方ないので彼女の手を取り、自分の鼻を触らせる。
「……何これ」
「現実よ、現実」
「じゃあ、雪ちゃんはどうなの」
素早く彼女から飛び退き、壁際へ張り付く。
だが一瞬鼻先を、指先がかすった感触。
「自分も無いじゃない。胸もない、鼻もない。何があるの、あなたには」
「ゆ、夢」
訳の分からない事を言って、お互い虚しく笑う。
で、鼻を触る。
漏れる二つのため息。
本当に、ねえ。
「何が無いって」
ふと隣を見ると、舞地さんがいた。
というか、彼女がいた所へ私がすっ飛んだ訳だ。
「骨、鼻の骨」
「そんなの、誰でもある」
「無い人もいるの。池上さんとか、池上さんとか」
自分の事は棚に上げ、名前を連呼する。
舞地さんは少しだけ微笑み、自分の鼻へ手を触れた。
なんとなくゆっくりと、怖がる感じで。
「ある」
嬉しそうな、控えめな微笑み。
可愛らしい、年頃の女の子の表情。
元気の戻ってきた彼女に、私まで嬉しく。
は別にならず、だらりと壁にもたれる。
「どうした」
「別に」
「司を試してみれば」
気を遣ってくれたのか、小声で呟く舞地さん。
どっちが慰められてるんだか。
でもそれは、一理ある。
「僕は、あるよ」
うわずった声が聞こえてきた。
表情にも余裕がない。
相当に疑わしいな。
「柳君も仲間と」
「だ、だから僕もあるって」
「どこが」
すっと手を伸ばす名雲さん。
その途端彼の顔が、一気にほころぶ。
やっぱり無いらしい。
「嘘はよくないな」
「あ、あるって。ここに、ほら」
「上じゃなくて、鼻の頭の辺だ。雪野や池上は、そこがないの」
「私はどうでもいいのよ。それより、名雲君は」
「俺はあるさ。人として、当然だろ」
確かに、鼻筋は通っている。
でも、その理屈だと私達は人じゃないの?
イカ?
「ワイルドギースは2:2。エアリアルガーディアンズはどうなの」
くすくすと笑うモトちゃん。
この子もそう高くはないけど、無いようには見えない。
「私はあるし、ショウも」
「ああ。でも、ケイの鼻って、結構低いぞ。あれは、無いな」
「エアリアルガーディアンズも2:2。よかったじゃない」
モトちゃんは楽しそうに笑い、窓の方へと歩いていく。
逃げているようにも見える。
「元野さんも、無いんじゃなくて」
「まさか。丹下さんこそ」
「私はもう」
髪をかき上げ、その胸を反らす沙紀ちゃん。
鼻もある、胸もある。
この人は、何でもあるな。
というか、私が何もないの?
「あってもなくても、どうでもいい。無いと死ぬという訳でもないんだから」
と仰る舞地さん。
それはある人の理屈だ。
そう言いたげに恨めしげな顔をする、池上さんと柳君。
後、私。
前世で何をしたら、こういう鼻に生まれてくるんだろう……。
虚しい悟りはともかく、学校を後にする私達。
舞地さんは池上さんと一緒にアパートへ。
名雲さんと柳君もアパートは近所なので、すぐに駆けつけられる状態。
それにサトミが警察へ連絡した甲斐があったのか、一応普段よりはパトロールを強化するとの通知が入っている。
どこぞのガーディアン組織とは違い、多少はやってくれるようだ。
サトミが言うには、ケイが斬られた一件が影響しているらしいけど。
寮の自室でぼんやりTVを見ていると、インターフォンが鳴った。
「今開ける」
入ってきたのはモトちゃん。
やや硬い表情で、ベッドサイドへと腰を下ろす。
「ユウ達が外へ出てた時、こっちにも何人か来たの。ショウ君が軽くあしらったけれど、また来るような事を言ってた。そろそろ、本腰を入れてくるみたいね」
「かといって、相手の全体がどうなのかが分からないし。それに例の子。舞地さんの知り合いがいるから。うかつには動けないでしょ」
「後手後手、か。私も少し、動かないと駄目かな」
何をするというんだろう。
ケンカをする人ではないし、まさか殴り込みをかけると言い出すはずもない。
そう私が考えていると、おもむろに彼女の口が開かれた。
「実戦はユウ達に任せるから、私は裏でちょっと」
「武器でも調達するの?」
「違うわよ。自分に出来る事をするの」
おかしそうに笑い、私の肩を軽く叩くモトちゃん。
だが瞳はいつになく、真剣味を帯びている。
「それと、舞地さんには注意しておく事ね。その子絡みの場合は、特に」
「うん。池上さんが付いてるから大丈夫だとは思うけど」
「いない時を見計らって、仕掛けてくるかも知れない。ユウも、舞地さんの所へいた方がいいんじゃなくて」
何気ない提案。
そして、悪くはない話。
彼女がそれを受け入れるかは、ともかくとして。
「映未さんには、私が連絡を入れておくわ。今、舞地さんのアパートでしょ」
「うん」
「支度して、すぐに行って。後は、こっちで何とかするから」
スクーターを降り、エレベーターではなく階段を駆け上がる。
息も切らさずドアの前に辿り着き、インターフォンを押す。
明るい照明の下、足踏みを繰り返して。
「寒かったでしょ。ほら、入って」
笑顔と共に出迎えてくれる池上さん。
赤いトレーナーにジャージという、普段とはかなり違う服装。
それに戸惑いつつ、部屋の中へと入る。
先日来た時と変わらない、落ち着いた雰囲気の室内。
舞地さんはやはりこたつに入り、じっとその上を見つめている。
「雪ちゃん、ご飯は」
「まだ」
「じゃあ、一緒に食べましょ。真理依、火付けて」
こたつから手を出し、コンロのスイッチを付ける舞地さん。
彼女も上は薄手のパーカーで、下はスウェットの様なラフな服装。
自宅だから、当然といえば当然だ。
「もう沸騰してるから、ふた開けていいわよ」
言われるままに舞地さんがふたを取る。
立ち上る白い湯気と、微かないい香り。
「魚のしゃぶしゃぶ。暖まるし、ただだから」
「釣ってきた魚?」
「名雲君が、名古屋港でね。釣りなんて、滅多にやらないんだけど」
「誰かの代わりなんだか」
淡々と呟く舞地さん。
池上さんは鼻を鳴らし、薄く色付いた汁の中に野菜を入れていく。
聞いてみたいと思う反面、聞くのはためらわれる雰囲気でもある。
またお互いそれ以上話を進めないので、私が口を挟む余地はない。
「この小さいのは」
「ハゼ。淡泊でおいしいわよ」
「聞いた事がない」
白い切り身が、沸々と煮える鍋の中に付けられる。
うっすら色付いたそれを、恐る恐るそれを頬張る舞地さん。
少し表情が和み、同じ白身をもう一度付けている。
美味しかったらしい。
「雪ちゃんはカニでも食べる?」
「あるの?」
「岸壁にいたんだって。大丈夫、名雲君は食べた」
ワタリガニ、っぽいカニが鍋の中へ投入される。
赤く色付いてはいるが、小さいし身がない感じ。
大体、何ガニなんだ。
「せいぜい、ダシじゃないの。それに、泥が出ない?」
「うーん。真理依は」
「手がかゆくなるから」
違う方向から否定している。
池上さんも難しい顔で、そのカニをさいばしでつつき始めた。
自分の前にやってきたのを見て、舞地さんも押し返す。
そしてどうするのかと思ったら、二人して私の前へと持ってきた。
「食べないって」
即座にすくい上げ、空いているお皿へカニを置く。
恨めしげにこっちを見ているようだけど、食べる気はしない。
こんなの食べるのは、ショウか名雲さんくらいだ。
後は、犬かな……。
お風呂にも入り、早めに床へ付く私達。
普段なら起きている時間なので、なんとなく寝付かれない。
いつもとは違う場所。
それとも、襲われるという緊張感からだろうか。
舞地さんと池上さんは隣の部屋。
私はクローゼットとタンスの置かれた部屋に布団を敷いてもらい、その上で天井を見上げていた。
見慣れない、薄闇の天井。
何か物音が聞こえるたびに、枕元のスティックへと手が伸びる。
それを何度か繰り返し、寝返りを打つ。
不安や焦りではないが、気持ちが落ち着かない。
目を閉じても、とても眠れるような気分にならない。
ジャージにパーカーを羽織って部屋を出る。
すると、キッチンから明かりが漏れているのが見えた。
一瞬警戒したけれど、誰かが入ってきた気配はない。
それでも忍び足で、廊下を行く。
「ん?」
青いパジャマと、ベージュのカーティガン。
キッチンのテーブルに雑誌を置き、頬杖を付いている池上さん。
ゆっくりと顔を上げた彼女は、その長い髪を横へ流しティーポットを指さした。
「飲む?」
「うん」
「まだ、早いものね」
くすっと笑い、別なマグカップにティーポットが傾けられる。
立ち上る白い湯気と、かぐわしい香り。
私は彼女の前に座り、それを両手で受け取った。
「これも、カロリーゼロ・カフェインゼロだから」
差し出される、クッキーの乗った紙ナプキン。
私はそれを一つ手に取り、小さくかじった。
口の中に広がる、レモン風味の甘い味。
「池上さんは寝ないの?」
「私も、いつもはまだ起きてる時間よ。真理依は、いつでも寝られる体質だけど」
「そう」
紅茶を飲み、クッキーを流し込む。
その苦みが、微かな甘みを打ち消してくれる。
「智美ちゃんも心配性ね。わざわざ、雪ちゃんまで送り込んできて」
「でも」
「このくらいの事は、昔は毎日あったわ。ただ今回は、あの子が絡んでるから状況は少し違うけど」
眉をひそめ、腕を組む池上さん。
だがその態度は落ち着いていて、不安や焦りの影はない。
「それに警備の面で見れば、本当は女子寮の方がいいのよね。部外者が立ち入りにくいし。勿論このアパートも、そういう面を考慮して選んであるわ」
「そうなんだ」
「伊達に渡り鳥だ、ワイルドギースだなんて名乗ってないわよ。名雲君も裏で何やらやっているようだし、問題なし。……真理依が、情に流されなければね」
苦笑気味な一言。
やや下がった大きな瞳が、閉められたドアへと向けられる。
慈しむように、労るように。
舞地さんが寝ている部屋へと。
「あの子も結構、人がいいから。というか、疑うのが苦手なのよね。その辺では、雪ちゃんと近いのかな」
「私は別に。ただ、そこまで頭が回らないだけだから」
「その方がいいわよ。皮肉じゃなくて、そういう優しい気持ちを持っていた方が。私や名雲君なんて、もう疑って疑って。そういうのは、駄目よ」
肩がすくめられ、やるせないため息が漏れる。
浮かぶのは切なげな表情。
「ここに来て、そんな事をする必要は無くなってたけれどね。学校は平和だし、襲われる事も滅多にない。渡り鳥ではなくなるけれど、別に未練がある訳でもないし」
「そうなの?」
「特に真理依はね。あの子はのんびりと、一日中川の流れを見ていたいタイプなのよ。私達に付き合ってあちこちを渡り歩いてるのも、本当は少し無理してるのよね」
テーブルの上にあった、薄い紙が目の前に置かれる。
柔らかいタッチの鉛筆画。
河原に腰掛ける、キャップを被った少女。
澄んだ、柔らかな眼差し。
舞地さんだ。
「私は絵を描けるから、あちこち行くのはそれ程苦にならない。ただこうして腰を落ち着ける生活も、嫌いじゃない」
「名雲さん達は」
「あの子は自分を高めたいっていう目標があるから、そのためにあちこちで色んな事をしたいのよ。柳君は単純に、強い人と出会いたいから。でもそれは、ここにいればどちらも達成出来るのよね」
差し出される、もう一枚の絵。
小さな女の子と、髪の長い女の子。
ポニーテールや、セミロング。
背の高い男の子も描かれている。
「あなた達がいるからでしょうね。真理依は何も言わないけど。この環境だけでなく、あなた達がいるからここにいるんだと思う」
「そうかな」
「そうよ。付き合いが長いんだし、そのくらいは分かるわ。もう、4年くらい経つのよね。あの子と出会って」
遠い、懐かしむような眼差し。
河原で腰掛ける少女の絵に指先が伸び、ゆっくりと撫でていく。
「真理依はその頃から凛としてて、でも私は野暮ったくて。本当、あの頃を思い出すと自分でも笑えるわ」
「ふーん」
「名雲君なんて今でこそ大人しいけど、昔は結構怖い子だったのよ。名前を聞くだけで逃げていく人がいたくらい。柳君は前から可愛いというか、ちょっと危うい感じがあって。でも、そこがいいっていうのかな」
表情を和らげ、楽しげに昔話へ更ける池上さん。
私も彼女以上の笑顔で、その話に耳を傾ける。
私の知らなかった事。
なんとなく分かっていた事。
不安に思っていた事。
それらが一つ一つ消えていく。
彼女の笑顔と、言葉と共に。
そして私も、自分の事を語る。
彼女の気持ちに応えるように、自分の気持ちを伝えるために。
暖かくなる心。
募る思い。
夜は、更けていく。