11-3
11-3
「という訳だ」
話し終えた名雲さんは、紙コップを傾け息を付いた。
その間ずっと黙っていた柳君は、難しい顔で腕を組んでいる。
「少し勝ち気だけど、普通の子だったのよね」
ぽつりと漏らす池上さん。
頷いたのは名雲さんだけで、柳君は何も言わない。
「その普通が、どうしてあんな風になったんだ」
「俺が聞きたいよ」
「あ、そう」
肩をすくめるショウ。
名雲さんはため息混じりに、柳君の肩へ手を置いた。
「そう怒るな。まだあいつが、何かやった訳じゃない」
「……だからって、ああいう態度はない」
低い、氷のような呟き。
震える拳が、テーブルに置かれる。
「それに、浦田君の時もそう言ったよね。でも結果は」
「俺はどうでもいいし、気にしてない」
「浦田君」
「問題はその子と仲間達が、何をするのか。まさか、舞地さんを斬られる訳にも行かない」
いつにない真剣な面持ちのケイ。
柳君は震える拳をテーブルの下に戻し、小さく頷いた。
「何かを受け取ると言ってましたよね。それについて、心当たりはあるんですか」
「無くもない。要は金だ」
「お金」
同じ言葉を繰り返すサトミ。
屋神さんも、そう言ってた。
名雲さんがジャケットのポケットから、一枚のカードを取り出した。
「あいつらが俺達を狙う理由は幾つかある。俺達にやられ続けた事、それで失った報酬。後は、前の代から引き継がれてる多少の金」
「渡り鳥って名乗り出したのは私達だけど、勿論それ以前にも立派な人達はいた訳よ。その人達が貯めたお金を、私達は預かってるの。もしもの時に使うようにって」
「俺達は自分達が貯めた分を足して、後輩にこれを渡す。もしもの時に使うようにと」
笑いを含んだ言葉。
その視線は、顔を伏せている柳君へと向けられている。
「幾ら入ってるの」
何となく尋ねたら、池上さんが耳元へ口を寄せた。
いい香りと共にささやかれる数字。
思わず喉が鳴る。
「ええ?」
「どうしたの」
「あのね」
今度は私が、サトミの耳に口を寄せる。
いい香りを感じつつ、ささやく数字。
「へえ」
私のように喉は鳴らさないが、表情が微かに変化する。
「なんだって」
仕方ないので、ショウにもささやく。
彼は私のように、喉を鳴らす。
これが普通だと思う。
「おい、いくらだと思う」
「興味ない」
「愛想のない奴だな」
「大金は、もういい」
むげに、ショウの言葉を断るケイ。
お金が無い割には、お金に縁があるからな。
「それで、どうするんです」
低い声で尋ねるサトミに、名雲さんは頬杖を付いて池上さんへ視線を向けた。
彼女もまた、額を抑える。
「相手が相手だから、迂闊に動けないのよね」
「傭兵だから?」
「真理依のお気に入りだからよ」
「なるほど」
軽く頷くサトミと、ため息を付く池上さん。
「彼を捕まえて話を聞くのは簡単だけれど、真理依がそれをどう思うか」
「いい気持ちはしないでしょうね」
「ええ。勿論それで私達を責める子じゃない。だから、余計に」
辛そうな呟き。
やるせない表情。
ここにいる誰よりも舞地さんの事を思う人。
彼女の拳も、テーブルの上に置かれる。
でもそれは、柳君のように震えはしない。
彼のような怒りだけではない、強い決意。
何にも負けないという、彼女の気持ちがそこにあった。
「お前も落ち着け」
「名雲君」
「何かあるなら、俺が動く。傭兵だろうとあいつだろうと、全員叩きのめす」
自分の顔の前に拳を構える名雲さん。
柳君とも、池上さんとも違う力強さのこもった拳。
人を勇気づけさせる、優しさの込められた笑顔。
池上さんと柳君が、曇っていた表情を緩ませる程の。
「さすが先輩、いい事言う」
「うるさい。ただ問題は、俺達は面が割れてるから動きにくいんだよな」
「いや。俺も、刀受け止めたから」
苦笑する男の子二人。
彼等には私達も会っているので、そういう意味では向いていない。
「でも、別に問題ないんじゃない」
「完全にやり合うとなれば、確かにそうだ。でも今は、まず状況を知りたい。例えば、あいつの本当の態度や行動とか」
腕を組み考え込む名雲さん。
するとサトミが、手を挙げた。
「何だ」
「顔を知られていない人に、尾行でもさせたらどうでしょう」
「いいけど、そんな奴いるか」
「心当たりがあります。しかも、優秀です」
「お前がそう言うなら」
会釈して、端末で連絡を取り出すサトミ。
会話は短く、彼女は端末をテーブルへと置いた。
「誰」
「すぐ来るわ」
その言葉通り、ラウンジへ男の子が入ってきた。
「僕に、何か」
人の良さそうな笑顔で近寄ってくる木之本君。
でも私達の重い雰囲気を見て、表情が曇る。
「遠野さん」
「ごめんなさい。ちょっとお願いがあるの」
「悪い事はやらないよ」
先手を打つ木之本君に、サトミは微かに眉を動かした。
「まだ、何も言ってないわ」
「そういう顔をしてる」
「そうかしら」
綺麗な自分の顔に手を当て、微笑みかけるサトミ。
普通の子なら頬を赤らめるような行為にも、木之本君は動じない。
「真面目ね、相変わらず」
「別に、僕は普通だよ」
「いいから、取りあえず話を聞いて」
「それはかまわないけど」
サトミの説明を聞き、やや表情を和らげる木之本君。
でも、「分かった」とは言わない。
「協力はしてくれないの」
「公共の場での盗撮や盗聴は違法だって、浦田君の時も言ったよね」
「ええ」
「……短時間でいいなら、気付かれないシステムを組めるよ」
「ありがとう」
頭を下げるサトミを制して、はにかみ気味に首を振る木之本君。
本当に、人がいいんだから。
「悪いわね、木之本君」
「いえ。僕も、舞地さんにはお世話になってますから。でも、誰が尾行するんですか。ここにいる全員は、顔を知られているんですよね」
「呼べばいいのよ」
再び端末で連絡を取るサトミ。
そしてすぐに会話を終え、端末がテーブルへと置かれる。
「俺に、何か」
今度入ってきたのも、男の子。
人のいい笑顔ではなく、あどけなさと少年っぽさを感じさせる顔立ち。
茶の革ジャンとジーンズという、多少ラフな服装。
「七尾君」
「このメンバーが集まってるって事は、またトラブル?」
「察しがいいわね」
笑いもせず、自分の前を指差すサトミ。
七尾君は席に付き、それとなく全員を見渡していく。
「俺は、大人しく生きていきたいんだけど」
「報酬は払うから、ある人を尾行して」
「探偵じゃないんだし。そんなの出来ないって」
大きく首を振る七尾君。
サトミはテーブルの上に指を組み、そこに顔を近付けた。
「お願い」
短い、そして誠意の込められた一言。
澄んだ切れ長の瞳は、まっすぐ七尾君を見つめている。
「……分かった、分かったよ」
「ありがとう」
ようやくサトミは微笑みを浮かべ、彼に手を差し伸べた。
照れ気味に、その手を握り返す七尾君。
少し可愛い。
「女の子には、ああして優しく接しないと」
笑顔を取り戻した池上さんが、冗談っぽい調子で笑いかける。
「木之本君もそうだし、柳君や玲阿君は言うまでも無し」
顔を赤らめる男の子達。
「だまされた後では遅いと言いますしね」
楽しそうに笑いながら返すケイ。
池上さんは処置無しという感じで、肩をすくめた。
「こいつの事はともかく、頼めるか」
「ええ。それで、誰を付ければ」
「これだ」
差し出される、一枚の写真。
並んで映っている、名雲さん達。
そして舞地さんの隣には、あどけない顔立ちの男の子が立っている。
「人の良さそうな子じゃないですか」
「俺も、そう思ってた」
「何が不満なのかね」
腕を組み、難しい顔で写真を見つめる七尾君。
「人に心配させて、迷惑も掛けて。困ったガキだ。……あ、ガキはないか」
「気にするな」
七尾君は苦笑する名雲さん達に軽く頭を下げ、まだ唸っている。
案外、熱い子なのだろうか。
「で、いつから」
「取りあえず、明日だけでいい。休みだけど、いいだろ」
「でも市街地での盗聴や盗撮は、難しいんじゃ」
「協力者がいる」
名雲さんに肩を抱かれ、「お願いします」とか言っている木之本君。
何をお願いするんだか。
「分かってるだろうけど、目立つなよ」
「大丈夫です。そのくらいは、俺も分かってます」
爽やかな笑顔を浮かべた七尾君は、木之本君から装置類の説明を受けている。
明日、か。
本当に何もなければいいんだけど。
どちらにしろ私には何も出来ないんだから、それを見守るしかない。
またそれは、今さらという話でもある。
翌日。
朝から澄みきった空が広がる、冬にしては暖かな気候。
風もなく、日溜まりにいると眠気に誘われるくらい。
「どう?」
インカムを付けている池上さんが、細いマイクに触れながら尋ねる。
モニターに大きく映し出される人の手。
胸元辺りに付いたカメラに、七尾君が手を振ったらしい。
「現在地は……、ここね」
別なモニターには、市街地の地図が表示されている。
例の彼は一人で外出らしく、都心部の店を眺めながらゆっくりとした足取りで歩いている。
「この画質が保てるのは、おそらく3時間。その後も映るし盗撮は気付かれないけど、画質は落ちます」
「十分よ」
「普通に話を聞けばいいと思うんですけどね」
ここまで来ても、まだ持論を捨てようとはしない木之本君。
それはそれで、彼らしい。
「落ち着きが無いわね。どう思う、聡美ちゃん」
「慣れない街、という事もあるでしょう。今の所仲間らしい人間は見えませんし、それを警戒しているのかも」
「ええ」
頷き合う池上さんとサトミ。
私とショウはやる事がないので、壁際にもたれてその様子を何となく見つめている。
ちなみに場所は木之本君の部屋。
見慣れない機材が整然と並べられていて、可愛らしい犬のタペストリーなんてのも飾られている。
名雲さんと柳君は他の連中を見に行くといって、ここにはいない。
「暇だね」
「ああ」
「ケイは」
「さあ」
はかばかしくない応え。
私の質問と同じだ。
「飲む?」
「あ、うん」
差し出されるマグカップ。
私はそれを両手で持ち、紅茶をすすった。
「ショウ君は」
「ありがとう」
「どういたしまして」
柔らかく微笑み、私達の前に座るモトちゃん。
「人の良さそうな子に見えるけど」
「モトちゃんから観て、どう?」
「何かの強い意志が感じられる雰囲気。それがどういう方向へ向くかまでは、分からないけど。そうじゃないかっていう、私の推測」
「そう」
「今日は行動パターンを見るだけだろ。大丈夫さ」
沈みかけた雰囲気をほぐすように、声のトーンを高めるショウ。
でも明日からは、とは言ってくれない。
「あ」
モニターの向こう。
洋服屋さんの軒先にあった靴の棚から、ブーツが落ちた。
その前を通りかかった彼の手が掛かったのだ。
「偶然、わざと?」
「どうかしら」
首を傾げる池上さんとサトミ。
「あ」
再び声を上げる私。
彼が腰を屈め、落ちたブーツを拾い上げる。
埃を払い、頭を下げながら。
後ろからの映像だからはっきりとは見えないけれど、恐縮してるのがよく分かる。
「……変わってないわね」
どこか嬉しそうな池上さん。
サトミは醒めた表情で、モニターの映像を修正している。
「モト、どう思う」
「演技とでも言いたいの?」
「七尾君の存在は気付いていないだろうけど、これだけで判断するのはまだ早いわ」
「ですって、映未さん」
苦笑するモトちゃん。
池上さんは寂しげに微笑み、インカムを外した。
「私は彼を、どうしても昔のいい子に思いたいのよね」
「それが普通ですよ。私がひねくれているだけです」
「ごめん、聡美ちゃん」
彼女の肩へ軽く触れた池上さんは、インカムをモトちゃんへ差し出した。
「変わる?」
「いえ。見学しています」
「そう……」
再びインカムを付け直し、モニターに見入る池上さん。
モトちゃんは黙って、二人の様子を見守っている。
「強いよね、みんなは」
「え?ああ、そうかな」
「うん。私は、全然駄目だけど」
最後の方は、私の心の中でも聞こえないようなささやき。
ショウは関心なさげに、手近にある雑誌をめくっている。
「面白くないの?」
「やる事がないから。それに俺も、こういうのはどうも」
「直接彼に話を聞けばっていう事?」
「それもあるし、なんからしくないっていうか」
ページをめくりながら答えるショウ。
「確かに尾行なんて、私も気が引けるけど」
「だろ」
「でも、暴れてればいいっていう話でもないでしょ。少しは、考えて行動しないと」
「まあな」
ため息を付き、ショウは雑誌を閉じた。
そして気のない顔で、モニターに映っている彼の背中を見つめている。
それは、きっと私も……。
少しの間これといった事もなく、彼は人混みの中を歩いていく。
誰かと接触する様子や、待ち合わせをしている雰囲気でもない。
休日を繁華街で過ごす、一人の若者。
それ以外の面は、特に観られない。
「意味がなかったですね」
苦笑して池上さんへ話を振るサトミ。
池上さんは肩をすくめ、インカムのマイクに手を添えた。
「七尾君。どうなってる?」
「特に、今の所は……」
そこで止まる連絡。
モニターの画面が横に動く。
つまり、七尾君が横を向いた。
「どうしたの」
「お前ら、何やってる」
「は、はい?」
「手、離せよっ」
「あ、あの。七尾君?」
池上さんやサトミの声も届かないのか、突然駆け出す七尾君。
画面に広がる、数名の男の子。
その中心には、困惑しているショートヘアの女の子が。
強引なナンパに困っている、といった状況のようだ。
「わっ」
画面に近付く、ブーツの裏。
それはあっさりどこかへ飛ばされ、歪んだ男の子の顔が右へ吹き飛んだ。
「……何してるの」
「私が知りたいわよ」
ため息を付き、インカムを外すサトミ。
その間にもモニターでは、人の吹き飛ぶ様が映し続けられている。
「まともな子だと思ってたのに」
「いいじゃない。黙って見過ごすよりは」
「僕もそう思う」
いつになく、力強く頷く木之本君。
間違いなく彼も、この場にいたら同じ事をしているだろう。
ここまで殴りはしないだろうけど。
サトミは苦笑気味に、池上さんへ顔を向けた。
「どうします?向こうの陽動では無いと思いますけど」
「仕方ないわね、バックアップ班を使うわ」
「なんですか、それ」
「少し待ってて」
自分の端末とを取り出し、連絡を取り始める池上さん。
「……ええ、ターゲットを引き続き補足。七尾君は、こちらで回収するわ。……お願い」
「誰ですか」
「沙紀ちゃん」
端末のディスプレイに表示される「沙紀ちゃん」の文字。
手を振っている彼女の顔写真も、小さく映っている。
「もしもの時を考えて、一応ね」
「最初から、そのつもりだったんじゃないんですか?」
「また、そういう悪い事を言う」
くすっと笑い、インカムで指示を送る池上さん。
サトミもインカムを付け直し、ヘッドフォンに手を添える。
「……七尾君と接触したようです」
「了解。……ええ、彼はそのまま車で戻るように伝えて。後は、あなたが沙紀ちゃんのバックアップ。……そう、分かった」
「どうして、ケイが」
サトミの言葉通り、七尾カメラには車の運転席から降りていくケイの姿が一瞬映る。
そして今度は、彼が運転席に動いたらしく車が動き出す。
「木之本君。カメラと音声はもういいわ」
「分かりました」
素直に頷き、電源を落としていく木之本君。
結局七尾君の立ち回りを映しただけになったけど、彼は文句一つ言わない。
本当に、人がいいんだから。
「……あの、俺ですけど」
突然部屋のスピーカーから、七尾君の声が聞こえてくる。
池上さんの端末への通信を、リンクして流しているようだ。
「なかなかのヒーロー振りだったわよ」
「す、済みません。つい」
「いいの。あそこで素通りするような人間じゃなくて、私も嬉しいわ」
「あ、はい」
照れ気味な声。
池上さんは「ご苦労様」と最後に告げて、通信を切った。
「困った子ですね」
という割には楽しそうなサトミ。
私も、ちょっと嬉しい。
「人間、ああじゃないと駄目だよ」
「何がだ、木之本」
「だから。とにかく、もう少し人として……」
七尾君の行動に余程感銘を受けたのか、熱く語り出す木之本君。
それはいいんだけど、私達じゃなくてケイにでも聞かせて欲しい。
肩を落として反省している七尾君をみんなで励ましていると、紙袋を抱えた沙紀ちゃんが入ってきた。
その後には、やはり大きめの紙袋を提げたケイも続く。
「お疲れさま、どうだった?」
「特にこれといって。ただ、仲間の子と出会った時はちょっと表情が曇りがちでした」
「そう」
「どうでもいい、あんなのは」
珍しく苛立った口調で、そう言うケイ。
沙紀ちゃんがなだめるように、彼の肩へそっと触れる。
「何かあったの?」
「俺も、一度だけ近くにいったんですよ。そうしたら」
「どうしたの」
「連中が舞地さんの話をしてて。やられた事への悪口とかで、それはよくある話だと思いますよ」
ケーキの箱をテーブルに置き、言葉をためるケイ。
その指先に微かな力がこもる。
「あの野郎。舞地って呼び捨てにして」
怒りがこみ上げてきたのか、舌を鳴らし床を蹴る。
普段は醒めていて、自分に何かをされても怒る事なんて滅多にないのに。
その彼が、怒りを隠そうともしない。
「安心したぜ、お前もそういう気持ちがあるんだって」
ショウも、荒い息を付くケイの背中を軽く叩く。
親しみの込められた笑顔。
共感の表情で。
「帰りの間、ずっと怒ってるのよ」
「済みませんね」
「悪いとは言って無いじゃない」
赤らんだ拳を、手の中に収める沙紀ちゃん。
「それは」
「え、えと。ちょっと、壁にぶつけて」
「壁に大穴が開いた。ああ、俺達は逃げたさ」
ようやく笑うケイ。
沙紀ちゃんは恥ずかしそうに、その拳を太股の間に入れた。
きっとケイと同じくらいに、彼女も怒りに打ち震えていたんだろう。
「困った子ね」
「済みません」
一斉に頭を下げる、七尾君と沙紀ちゃんとケイ。
池上さんは手を振って、おかしそうに笑った。
「そうじゃなくて、彼の事よ」
「ああ」
「仲間内で、格好を付けているという事もあるんだろうけど」
「いえ。そんな話で済まされる問題じゃありませんっ」
壁に拳をぶつける沙紀ちゃん。
木之本君が顔を引きつらせて、彼女に向き合う。
「た、丹下さん。ここは僕の部屋で、隣にも人が住んでるから」
「あ、ごめん。大丈夫、まだ穴は開いてないわよ」
「少しへこんだような気もするけど……」
「気のせい、気のせい」と笑って、その部分をつつく沙紀ちゃん。
余計へこんでいるようにも見えるけど、それも気のせいだろう。
「それでどうします。心証は灰色、ですが」
「きついわね、聡美ちゃん。いいわ、それとなく真理依には話しておくから」
「大丈夫でしょうか」
「そこまで弱い子じゃないわよ。今日は、みんなありがとう」
木之本君の部屋を後にして、私は自分の部屋へと戻った。
サトミはモトちゃんと、近所の大型銭湯へ消えた。
私も行こうかと思ったけど、昨日行ったばかりなので。
というか、モトちゃんは昨日も行っている。
「夕ご飯、どうする?」
「肉だ、肉」
「何怒ってるのよ」
「知らん」
それすら苛立ち気味の返事。
私は肩をすくめ、ショウを見上げた。
「尹さんの所は?少しくらいなら、安くしてくれるでしょ」
「ああ」
端末で、連絡を取ってくれるショウ。
向こうもすぐに快諾してくれたらしく、親指を立てている。
「ほら、肉食べに行くぞ」
「遠野ちゃん達は、どうするの?」
「銭湯で、ラーメン祭りやってるんだって。少し、お土産もらってくればいいわよ」
「そうね」
なんか唸りながら、ダンベルを持ち上げてる男の子。
怒りのパワーのためか、いつもより早くまた力強い。
その隣で、軽々と指先だけで持ち上げている子には負けるけど。
ケイが怒ってこれなら、ショウが怒るとどうなるんだろう。
覚えているところだと、SDCのドアを壊したっけ。
あれの支払いは、どうなった事やら。
本当、人間冷静でいないと駄目だ……。
ショウのお父さんの戦友である、尹さんの経営する焼き肉屋さん。
ステーキハウスは、さすがに私達の手持ちでは敷居が高い。
勿論焼き肉屋さんも高いんだけど。
敷居以外に、支払いも。
「別に、ステーキくらいただで食わせてやるぞ」
「いや。それは悪いから」
「健気な事言って。本当に、瞬の息子か」
楽しそうに笑い、ショウのグラスにビールを注ぐ尹さん。
ダブルのスーツを脱ぎ、ワイシャツの袖をまくってお肉を返している。
ちなみに、オーナーである。
「悪いな。邪魔して」
「いえ。大歓迎ですよ」
「私もです」
一緒になって頷く、私と沙紀ちゃん。
木之本君は彼のグラスに、ビールを注いでいる。
「君達はいいね。おじさん、泣けてくるよ」
ダンディな顔を緩ませ、尹さんはハンカチで目元を拭った。
ただ感涙にむせび泣いた訳ではなく、煙が目に染みたようだ。
「で、そこの子は何で黙ってる。いつもより、重い顔してるな」
「元々です」
素っ気なく答え、テールスープをすするケイ。
すでに彼の箸は止まり、時折サラダを手で食べている程度だ。
いくら「肉が食べたい」とはいっても、そうは食べられない。
それは私や沙紀ちゃんも同じで、そろそろ限界だ。
「美味しいのに」
「だろ」
食べているのは結局、ショウと尹さんだけ。
そういう問題じゃないと思う。
「しかし君らも若いね。先輩のために、頑張るなんて」
「尹さんは、そういうのないのかよ」
「俺?あるよ。例えば名雲のとっつぁんを侮辱されたら、こうさ」
手にしていたハサミの刃が、彼の手が触れた途端二つに折れる。
力尽くで無いのは明らかだ。
「チャクリキ?」
「ああ。俺のは、自己流だけどな」
「オーナー」
「ああ、悪い」
若い男性店員にたしなめられ、折れたハサミを渡す尹さん。
だが折れた事自体には、何も言わない。
それだけ彼等にとって尹さんの技は当たり前の事であり、驚くに値しない普通の行為なのだろう。
「とっつぁんの息子も、仲間なんだろ。名雲、祐蔵だったっけ」
「うん。何かあったら、全員叩きのめすって」
「ふーん。それがいいのかどうかは難しいけどな」
「自分は、ハサミを折るのに?」
ショウの指摘に、どっと笑う私達。
ケイも微かに、口元を緩める。
「無茶をやるのはいいけど、周りに迷惑が掛かるっていう意味さ。俺や瞬も、現にそうだった。さんざん暴れて、その後始末はとっつぁんや黄隊長にさせちゃってたから」
「俺達も、そうかも」
自嘲気味に笑い、グラスを傾けるショウ。
私も、少しグラスを舐める。
苦い味が、口の中に広がっていく。
「せいぜい、後悔しない生き方をする事だ。俺や瞬とは違う生き方をな」
「尹さん」
「まあ、ここでする話でもない」
半ば強引に話を打ち切る尹さん。
その悲しげな顔が見ていられなくて、私は隣を向いた。
するとそこには、網の上をじっと見つめる沙紀ちゃんの横顔があった。
「どうしたの」
「え?」
「いや、ずっと見てるから」
きょとんとした顔で、私を見つめる沙紀ちゃん。
寝てたな。
「せっかく尹さんがいい話をしてくれてたのに。駄目駄目ね」
「だ、だって、今日はずっと外を歩いてたし。そこにビールよ」
恥ずかしさとほろ酔いのせいか、赤らんだ頬でグラスを持ち上げている。
で、飲んだ。
「君も、結構いける口?」
「いえ、私はそれ程」
それでも尹さんのお酌を受け、半分くらい飲み干した。
頬がもう少しだけ赤らんで、なかなかに艶めかしい。
私の場合は、風邪引いたみたいになるからな。
「あーあ、俺ももう駄目だ」
何が駄目なのか知らないけど、瓶ごとビールをあおる尹さん。
そして「駄目だ」と呟きながら、座敷を降りてどこかへ消えていった。
「酔ってるのかな。それとも、昔の事を思い出したのかな」
「父さんも、たまにああなる」
ぽつりと漏らすショウ。
彼の顔もまた、少し寂しげに。
「私のお父さんは……。あそこまでは、落ち込まない。敵を撃てなかった人だし」
「その方が、いいよ」
「うん」
優しく微笑むショウ。
私も小さく微笑み返し、彼のグラスにビールを注いだ。
重なるグラスと、小さな音。
飲み干したビールは苦く、だけど爽やかな味だった……。
翌日。
低アルコールなので、二日酔いに苦しんだりはしない。
というか、今までに何回も無い。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
お肉とラーメンを交換しあう、私とモトちゃん。
サトミは自室で、ぐーすか寝てる。
めっきり人の減った女子寮ラウンジ。
一応授業は残っているんだけど、半数以上の人は実家に帰っている。
私は普段からよく帰っているので、取りあえずは居残り組。
それはモトちゃんも同じだ。
「昨日は参ったね」
「七尾君?確かに、もう少しは落ち着いているかと思ったけれど」
「モトちゃんにも、読み切れなかったと」
「まあね」
曖昧に笑うモトちゃん。
自分の読みが外れて落ち込んでいる訳ではなく、面白い子だなというくらいのもの。
そのくらいを分からないようで、私達は彼女を「心を観る」と評さない。
「実際の所、例の子はどうなのよ」
「私に聞かれても。ユウは会ったんでしょ」
「本当に会っただけ。どういう子かは、全然分かんない」
背もたれに崩れ、足を組む。
なんか体が、下にずり落ちてきた。
「おかしいな」
「体が小さ過ぎるのよ」
「あの、屋神さん。あの人は格好良かったのに」
とはいえこのまま床に落ちる訳にもいかないので、足を戻して上へ這い上がっていく。
面白くない、色々と。
「丹下さん達が、怒ってたんでしょ」
「舞地さんを呼び捨てにされたのが、気にくわなかったみたい。私はその場にいなかったから、そこまで熱くはなってないけど」
「先輩、か」
何気ない感じで呟くモトちゃん。
そう言われてみれば、確かに先輩だ。
「難しいわね、舞地さんの気持ちを考えると」
「うん。でも本当にあの人達を狙ってるのなら、私も考える」
「出来る?」
細い瞳がまっすぐ私へと向けられる。
心の奥まで見透かすように。
自分でも気付かない気持ちを揺さぶるように。
「……分からない。もう前みたいに、考えもなく動く事は出来そうにないから。でもあの子が、舞地さんの気持ちを利用しようとしたらって考えると」
「難しいわね」
先程と同じ事を言うモトちゃん。
私は彼女の視線を避けるようにして、顔を伏せた。
「本当、私は何をやってるんだろ」
「ユウ」
「今までは自分なりに頑張ってきたつもりだけど、実際はみんなに頼ってばっかりで。今も、みんなをただ見てるだけで」
「それでいいじゃない。無理に、何かしようと思わなくても」
静かに語りかけてくれるモトちゃん。
ニャンの染み入るような優しさとも違う、大きな包容感。
前ならそれに甘えていただろう。
でも今は。
ニャンに甘えなかったように。
ここでそうする訳にもいかない。
それが駄目だという事ではなく。
私の気持ちとして。
「いや。私は、違うと思う」
「大人しくしている事が?動く事で、みんなに迷惑が掛かるかも知れないのよ。それに、ユウ自身も」
「分かってる。でも、違う。何が違うのかは分からないし、どうしたらいいのかも分からないけど」
自分でも何を言っているのか分からないまま語り続ける。
伏せる視線に映るのは、固められた拳。
あの時見た舞地さんの拳のように、微かに震えている。
その意味は全く違うだろう。
でも、私の拳は震えている。
どうしてか。
分からない。
だけど。
「どうかしたのか」
「え?」
顔を上げると、薄いジャケットを羽織った名雲さんと目が合った。
手には、小さな紙袋を提げている。
「ほら」
「何ですか、これ」
「その、母さんが昼に食べろって。食堂があるって言ったんだけど、持っていけって」
はにかみ気味に、モトちゃんへ紙袋を渡す名雲さん。
「開けますよ」
「ああ」
「……明太子」
タッパに入った、大振りなやや色の薄い明太子。
市販の物とは少し違うようだ。
「こんなの、どうしろって話だぜ」
「親心じゃないんですか?可愛い息子がひもじい思いをしないようにって」
「明太子だけで、飢えはしのげない」
楽しそうに笑い合う二人。
私はタッパを開けて、勝手に少し食べてみた。
「あ、美味しい」
「一応、手作りだからな」
「ふーん。名雲さんのお母さんって、九州の人なの?」
「ああ。今は、こっちに住んでるけど」
そういえばショウのお父さんや尹さんが、その手続きをこの間してたっけ。
彼のお父さんは彼等と戦友で、昨日も聞いた通り大変お世話になったらしい。
「ご飯欲しい」
「そうね。食堂行きましょうか」
「ああ」
という訳で、ご飯を前にする私達。
私の前には、お茶碗が一つ。
モトちゃんはそれの大盛り。
名雲さんは、どんぶり飯になっている。
「雪野、それだけか」
「私はこれだけで幸せなの」
明太子をほぐし、ご飯に乗せて一気にかき混ぜる。
赤みを帯びた大きな粒が白いご飯に彩りを添え、何とも言えない食欲を誘う。
「普通に食べて」
「普通じゃない」
「雪野家の習慣?それとも、ユウの習慣?」
真顔で聞いてくるモトちゃん。
どうだろう……。
「私だけかも」
「ご両親のしつけも台無しね」
「うるさいな。頂きます」
鼻を鳴らし、ご飯を一気に掻き込む。
程良い辛みと、口の中でつぶれていくこの食感が何とも。
天然物だね、これは。
「後はお茶漬け」
トポトポとお茶を注ぎ、さらさらと流し込む。
それにお茶の苦さが加わって、言う事無し。
「ご馳走様でした」
「もう終わり?」
「満足です」
箸を置き、名雲さんにも一礼する。
モトちゃんは小さく口を上げ、お上品に箸でご飯をすくいながら食べている。
「普通に食べればいいじゃない」
「あなたのは、犬よ」
「犬食い、でしょ」
どっと笑う私達。
その勢いで名雲さんに話掛けようとしたら、のんきにお茶をすすっている。
「ご飯は?」
「もう食べた」
「え?」
彼の隣りに座っているモトちゃんが、どんぶりを覗き込む。
「はあ」と、感嘆とも呆れとも言えない声。
本当に、食べ尽くしているようだ。
「たらたら食ってるところを、敵に襲われたら困るだろ。それで、こうなった」
どんぶりへお茶を注ぎ、それをあおる名雲さん。
よく分からないけど、豪快なんだろうか。
「映未さん達は、ゆっくり食べてますよ。柳君も」
「あいつらは、食べる量が少ないからな。急ぐ必要がない」
「名雲さんも、それ程大差ないと思いますが。単に、癖じゃないんですか」
「え?」
意外そうな顔。
今気付いたという感じである。
「おかしいな」
「本当に」
「というか、自分がじゃない」
再び笑う私達。
楽しい一時。
そして名雲さんにお茶を注いでいるモトちゃんを、何となく見守る。
先輩、か。
そんな事を思いながら。
「あげる」
不思議そうな顔で、紙袋を開けるショウ。
そして、出てきた明太子に眉をひそめる。
「なんだ、これ」
「名雲さんから、お裾分け。お母さんが作ったんだって」
「ああ。もうこっちに引っ越してきてるんだな」
頷きながら、キッチンへと消えていった。
「でも、どうなんだろう」
「え、何が」
「名雲さん、軍へ行くからさ。来年には、もうここにはいないんだよ」
「ああ」
正確には、幹部候補生を養成する軍の士官学校へ進学するという事。
でも、それって。
「そうすると、ショウもここからいなくなるの?」
漠然とした不安を抱きながら尋ねる。
戻ってきたショウは、ソファーに座って腕を組んだ。
「今の所は。玲阿流に行くかRASのインストラクターっていう道もあるけど、俺としては軍に行きたい」
「ずっと、そう言ってたもんね」
不安は現実となり、それは私の胸に広がっていく。
別れ。
舞地さん達がよく口にする言葉。
他人事だと思っていたけれど。
それは私のすぐ傍にあった。
いや。
気付かない振りをしていただけか。
卒業まで、後2年。
彼は分からないと言ったけど、きっと軍に進むだろう。
そういう人だから。
「でも、まだ2年もあるもんね」
「ああ」
「まだまだ、ずっと先の話じゃない」
不安を隠すためではなく。
空元気でもなく。
今という時を大切にしたいから。
後悔を、少しでも減らしたいから。
私は、そう思う。
まだまだだって。
これからだって。
私とショウの事も。
「頑張ろう」
「何が」
ソファーにもたれながら尋ねてくるショウ。
部屋の真ん中で一人頷いていた私は、適当に首を振って立ち上がった。
「分かんない」
「俺が分かんないよ」
顔を見合わせて笑う私達。
仲の良い男友達。
今はそれを、少し越えた程度。
きっと彼も、そう思っているだろう。
だから。
頑張ろう。