エピソード(外伝) 10-2 ~河合・笹島メイン~
どこにいても
後編
「おはよう」
朗らかに挨拶する笹島。
河合は鼻の辺りにしわを寄せ、席に付いた。
「何よ」
「……アンは」
「ここにいますけど」
黒髪の後ろから覗く、金色のダブルポニー。
可愛らしい顔が、ひょっこりと現れる。
「サ、サトル。頑張ったみたいね」
「教会で斡旋されるのは、ギャング更正用のバイトだって知ってたか」
「あ、後から知った」
「ギャングは寄ってくるし、襲われそうになるし。参ったぜ」
頬杖を付き唸る河合。
そんな彼の机に、一枚の紙が差し出される。
「神父さんが、これからも是非来てくれって。そのギャング達のまとめ役として」
「何で俺が」
「さあ。とにかく、伝えたから」
明るく笑い、そそくさと逃げていくアン。
紙には手書きで、数行の文章が書かれている。
感謝の言葉と、給料は月末まで待ってくれとの事だ。
「アメリカでも人気者ね」
「笑い事じゃないぞ」
「いいじゃない。いかにもあなたに向いてそうな仕事で」
「日給20ドルで刺される身にもなってみろ」
それでも笹島は、まだ笑っている。
「で、自分はどうなんだ」
「取りあえずは、なんとか。私も日給20ドルよ」
「刺されないだけましだ」
「大丈夫。君ならナイフが通らない」
どこにも根拠がない事を言い、河合の背中を叩く。
河合は「ああ」とだけ答え、手紙をリュックにしまった。
「……なんか、睨まれてるんですが」
「あの子?まぶしいだけじゃないの」
「じゃあ、後ろ見なければいいだろ。大体、日も差してない」
彼等の位置から数列前。
アンが座っている隣の席。
黒髪のショートカットで、ラテン系の綺麗な顔立ち。
胸元のボタンが開けられた紺のシャツとジーンズという、ラフな服装。
だが河合達へ向けられた視線は、刃のように鋭い。
「アンの知り合いだろ」
「ええ。大人しいというか、あまり喋らない子」
「どこで恨みを買ったんだか」
「私じゃないわよ」
彼女に負けないくらい険しい眼差しを、河合へ向ける笹島。
河合は肩をすくめ、背もたれに大きくもたれた。
鈍い音がして、すぐに起き上がる。
「もろいな、これ」
「自分の体を考えなさい。それより、大丈夫?」
「椅子が?それとも」
そこで言葉を止め、河合は卓上の端末を起動させた。
「まあ、なんとかなるだろ」
「だといいけど、私は知らないから」
「俺を狙ってると決まった訳じゃない」
「言い訳を、今の内に考えておく事ね」
鼻で笑い、笹島も端末を起動させる。
ただ、彼女の視線を避けるような素振りはない。
彼等を捉える視線は、すぐ隣りにもあるのだから……。
昼休み。
食堂で食事を取っている二人の前に、アンがやってきた。
「一緒にいい?」
「どうぞ」
自分達の前を手で示す笹島。
アンはぎこちない礼をして、席に付いた。
日本的なおじぎをしたらしい。
彼女の連れも、席に付く。
黙ったまま、やや乱暴にトレイが置かれる。
「セラ、ちょっと」
「何が」
切れ長の澄んだ眼差しがアンを捉え、セラは食事を取り始めた。
その雰囲気はかなり拒絶的で、会話を楽しもうという意図は全く感じ取れない。
「ゆっくり食べたら」
「どうして」
鼻でくくったような返事。
アンも仕方なさそうに、スープへ口を付ける。
「アカネ達は、今日もバイト?」
「ええ。せめて食費くらいは、自分で稼ぎたいから」
「奨学金もらってるんでしょ」
「まあね。でも、駄目なの」
「まただ」と言いたげな河合を放っておいて、笹島はパスタをすすった。
「どうしてすするの」
「日本では、麺をすする習慣があるのよ。こっちでは行儀が悪いんだろうけど」
「私は、その真似すら出来ないわ」
一応は試みるアン。
しかし空気が入っていくだけで、パスタは少しずつしか口の中に入らない。
「全然駄目じゃない」
「難しいのよ」
声を合わせて笑う二人。
それを遮るように、コップが勢いよくテーブルへ置かれる。
「どうしたの、セラ」
「別に」
相変わらずの素っ気ない返事。
表情も同じだが、何となく険が感じられる。
「そういえば、この間のサトルすごかったわね」
場を取り繕うように、やや高い声を出すアン。
笹島もそれに乗る。
「ナイフとフォークを手づかみにした時でしょ。見てたの?」
「ええ。日本語だから、何言ってるのか分からなかったけど」
「やっぱり」
「ただ、良い事を言ってるのは分かったわ。きっとみんなも、そうだと思う」
輝く瞳と、赤くなる頬。
親しみに溢れた笑顔がこぼれ、それは河合へと向けられる。
「訳も分からずに、感動したわ」
「大袈裟ね」
「本当よ。今思い出しても、胸がどきどきするくらい。ほら」
笹島の手を取り、自分の胸へと当てるアン。
「あ、早い」
「でしょ。サトルも、触ってみる」
アンは小首を傾げ、いたずらっぽく微笑みかけた。
その豊かな胸元が反らされ、河合の手へ近付けられる。
「先に帰る」
いきなり席を立ち、トレイを持って歩き出すセラ。
顔を赤くしていた河合や、楽しそうに笑っていた笹島が自然と彼女の背中に視線を向ける。
「何か、気に障る事でもあった?」
「さ、さあ」
ぎこちなく首を振るアン。
訳ありな素振りに、笹島は軽く頷いた。
「いいわ。知らない内に相手を怒らせるなんて、良くある事だし。ね、悟君」
「どうして俺と決めつける」
「私は、人に恨まれるような覚えはないもの」
「俺だって、無いとは言えないが……」
そんな彼等の前にやってきたのは、別なクラスメート。
河合に因縁を付けてきた、例の男達だ。
「よう、アン」
ロングヘアの男が、慣れならしい態度で声を掛けてくる。
アンも笑顔を返し、それに応えた。
「欲しがってただろ、これ」
テーブルに置かれる小さな箱。
ラベルには「marihuana」の文字が書かれている。
「やるよ」
「でも、私」
様子を窺うように、河合を上目遣いで見上げるアン。
男達は鼻を鳴らして、マリファナをくわえた。
火の灯ったライターが回っていき、口元から煙が上がる。
それにはさすがに、辺りにいる生徒からもどよめきが起きる。
「スクールポリスに見つかっても知らないわよ」
「見ても気付かないって奴さ。いいから、お前もやれよ」
「私は別に、そこまで」
困惑気味に拒むアン。
しかしロングヘアの男は、強引に火の点いたマリファナを彼女へ差し出した。
「ふかすだけでいいんだ。それにこれやったからって、どうにかなるって訳でもない。いい子ちゃんには、分からないだろうけどな」
揶揄するような、軽い口調。
男達から小馬鹿にした笑い声が上がり、マリファナの煙が辺りに立ちこめていく。
一瞬反発するような目付きをしたアンだが、その手は前へと伸びない。
笹島が、しっかりと握り締めているからだ。
「自分の意志なら止めない。でも、挑発に乗ったのなら止めなさい」
「アカネ」
「本当に、これをやったからどうだというの。ただの、粋がってる子供じゃない」
「てめえ」
胸元へ手を差し入れる男達。
一気に緊迫する空気。
しかし笹島は動じることなく、涼しい顔でパスタをすすっている。
「ここで私をどうする気?スクールポリスに顔が利く程度で、収まると思う?東洋から来たか弱い女の子を、たわいもない理由で暴行なんて」
「何」
「意味が分からないなら、別にいいわ。ドラッグが回って理解出来ないのか、元々その程度なのか。とにかく、ここは引いた方が身のためよ」
「ふざけやがって」
一斉に抜かれる警棒とスタンガン。
青い火花が、辺りに飛び散る。
巻き上がる叫び声と、非難の怒号。
「黙れっ」
リーダー格らしいロングヘアの男が、警棒を振り回してそう叫ぶ。
一瞬静まりかえる食堂内。
しかし非難の声は、すぐに再開される。
それに対し、勝手が違うという顔で辺りを気にし出す男達。
彼等を取り囲む野次馬の前列には、今にも掛かってきそうな連中までいる。
「言っておくけど、私への同情でこうなった訳じゃないわよ」
「な、なんだと」
「人には心がある。虐げられても、傷つけられても。立ち上がる心がね」
「馬鹿馬鹿しい」
床にマリファナが捨てられ、ロングヘアの男が警棒を両手で構えた。
目は血走り、視線は笹島ただ一人へと向けられている。
振りかぶられる警棒。
その先端から飛び散る青い火花。
それでも笹島は、平然とした顔で座っている。
「私が一人ではないって、まだ分からないかしら」
「お前こそ、頭がおかしいんじゃないか」
「話しても無駄なようね」
鼻先で笑い、パスタを巻いたフォークを男へ向ける笹島。
警棒とフォーク。
リーチも威力も、何もかもが違いすぎる。
「馬鹿か、お前」
「どっちがよ」
投げられるフォーク。
警棒ではじき返す男。
その途端、男の体が小刻みに揺れて床に崩れた。
うつぶせのまま、手足を動かす男。
意識的にではなく、単なる筋肉の反射のようだ。
「次は、誰」
ナイフを持ち、薄く微笑む笹島。
照明に淡く輝くナイフの先端。
その光が、彼女の青い眼差しと重なる。
そして足元からは、男の呻き声が静寂を突き破る。
「さあ、来なさい」
白い指先がたおやかに振られ、整った口元が大きく横に裂ける。
伏せた顔に落ちる影。
引きずるような足音。
辺りの空気が、一気に冷え込んでいく。
「く、来るなっ」
そう叫び、一人が逃げ出した。
後は雪崩を打ち、全員がその後を追う。
床に崩れる男に、目もくれず。
静まりかえる食堂内。
全員の注目は、笹島へと向けられる。
今の現象を起こした本人に。
あり得ない事を見せつけた、東洋の少女へと。
「あー、怖かった」
軽い口調でそう言い、席に付く笹島。
彼女は軽く手を振り、冗談っぽい表情で河合を指差した。
「全部彼よ、彼の仕業。エアコンに仕掛けしたり、変なカラテの術でその子を倒したのよ」
「そ、そうなの」
「すごいな」
「さすがというべきか」
あちこちから漏れる感嘆の声。
こいつならやりかねん、という雰囲気が辺りに漂い出す。
だがそれは彼を恐れるような物ではなく、改めて敬服したという空気。
拍手と歓声。
熱のこもった視線が、彼へと向けられる。
その大きな男へと。
放課後。
教室の後ろで暗い顔をする男。
隣では、リュックに荷物を詰める陽気な女の子がいる。
「人のせいにしやがって。あれって、フォークに付いてたパスタを伝って感電したんだろ」
「いいじゃない。みんなの信頼と尊敬を集められたんだから」
「いつの間に、エアコンの操作方知ったんだ。あんなの、職員でもないと難しいんじゃないのか」
「企業秘密。……また見てるわよ」
耳打ちするようにささやく笹島。
河合も頷いて、リュックに荷物をしまい出した。
こちらへ歩いてきているアン。
彼女の後ろから付いてくるセラ。
「すごいわね、サトル」
「俺じゃない、あれは」
言い繕う前に、その可愛らしい顔を近付けるアン。
大きな青い瞳と、ほんのり赤らんだ頬。
小さな口元が、はにかみ気味に動く。
「素敵よ、あなた」
そよ風のように響く笑い声。
潤む眼差し。
顔を赤らめる河合。
しかしそんなアンとは違う、剣呑な視線を向けるセラ。
河合は軽く顎を引き、両方の視線を避けた。
「……教会に行ってくる」
「頑張って」
親しげに振られる手。
河合は小さく「ああ」と答え、足早に出ていった。
「さてと、私も行こうかなと」
席を立つ笹島。
その手を、優しく握るアン。
小指が撫でるように、下から上へと滑っていく。
「くすぐったいわよ。じゃあね」
「ええ、また明日」
部屋を出ていった彼女を見送り、アンは軽く伸びをした。
セラは相変わらず、険しい表情だ。
「何よ、さっきから」
「これから、どうする気」
切れ長の瞳にこもる、強い力。
アンは首を振り、冗談っぽくジャンプして逃げた。
「あなた、自分が何をしてるのか分かってるの」
「何か、問題かしら」
「それが許されるとでも思ってる?私達はあの子達とは、全然違うのよ。一緒になんて、なれないのよ」
険しくなるセラの物腰。
アンも表情を引き締め、彼女を真正面から見据える。
「じゃあ、あなたこそどうする気」
「離れられないって事を、教えてあげるわ。どんな手を使ってでも」
「下らない。まるでギャングね」
「あの子と親しくしている限り、私は本気よ」
勢いよく蹴られる、河合の席。
火を噴くような眼差しは、隣の席へと向けられる。
いつも河合を睨んでいる、連中のいた場所へと。
「勝手にすれば」
しかしアンは、鼻先で笑い背を向けた。
そして軽い足取りで、教室を出ていく。
一人の残ったセラに、苦渋の表情を浮かばせて。
その足は何度と無く、河合の机を蹴った……。
数日後の放課後。
河合は自分の席に付くと、辺りを見渡した。
「アンなら、いないわよ。お昼後から」
「探した訳でも、無くもないが」
「何それ」
苦笑して彼女の席を指差す笹島。
隣のセラの席も、空いている。
「端末の連絡も取れないし、どうしたんだか。……気になる?」
からかい気味の口調。
だが表情は、いつにない鋭さを湛えている。
「隣の連中もいないのよ」
「どういう事だ」
「校舎裏で、アンと一緒にいる所を見た人がいるの。最初はセラが、誘ったとかどうとか」
「相当に嫌な予感だな」
リュックに荷物をしまい出す河合。
「まだ授業はあるわよ」
「それよりも、大事な事がある」
「勉強最優先、ではなくて?」
「そんなの、豚に食わせとけ」
「あいつらがどうした」
「何か知らないか」
「ちょっと待ってろ」
階段の踊り場。
先日河合を襲った黒人少年は、端末を取り出し何やら話し出した。
ただかなりスラングな英語で、河合達には聞き取れない部分もあるようだ。
「……どうだ」
「はっきりしないけど、車で出かけたらしい。街中で見かけた奴がいる」
「向かった場所は」
「それは分からない。ただ、推測は付く」
河合の胸元を指す少年。
微かに歪む口元。
「一緒にいたのは、あんたと揉めてた例の連中。そしてあいつらがたまり場にしてるマンションが、街外れにある」
「分かった。世話になったな」
「止めた方がいい。連中、銃を持ってるって噂だぜ」
「……まあ、なんとかなるだろ」
少年の肩に置かれる大きな手。
頼り甲斐のある微笑み。
しかし彼が何かを言う前に、その手が離される。
「そこに行ったとは限らない。お前は、他の心当たりを探してくれ」
「だけど」
「お前が撃たれると、俺も困る」
「自分はいいのか」
河合は曖昧に笑い、笹島を指差した。
「その間、彼女を……」
「私も行くに決まってるでしょ」
即答する笹島。
呆気に取られる河合を後目に、笹島は一人で歩き出す。
「悟君、早く」
「あ、ああ。と、とにかくお前は、こっちで待っててくれ」
河合は少年に念を押し、彼女の隣へと並んだ。
「冗談じゃなくて、危ないんだぞ」
「アンとセラも危ないわ」
「だから、助けに行くんだ」
「私もそのつもりよ」
制限速度を超え、市街地を駆け抜ける赤のRV車。
ナビには少年から教えられたマンションの場所が表示されている。
「一応プロテクターは着けたけど、大丈夫かな」
「無理でしょうね」
「銃が無い事を祈るか」
さらにアクセルが踏み込まれ、青いスポーツカーが後ろへ置いて行かれる。
パッシングして追いすがろうとしたそれは、笹島の手の動きによってあっさりと引き下がる。
窓の外に出していた手鏡を戻し、鼻を鳴らす笹島。
「こっちは警棒とスタンガン、催涙スプレーと閃光弾。銃くらい、手に入れてよね」
「そんなの手に入らないし、第一撃ち方もよく分からん」
「最近のは、引き金を引けば当たるって話よ。レーダーやレーザー照射で」
「そうすると、俺達は?」
途切れる会話。
代わって虚しい笑い声が、それを埋める。
だが二人の表情には、微かな隙もない。
高速で市街地を抜けていく赤のRV車。
はやる彼等の気持ちを表すように。
友への思いを乗せて……。
古ぼけた10階建てのマンション。
住宅街から離れた、閑散とした辺りの風景。
人気は無く、時折車が前の道を通っていく程度だ。
玄関先に警備員は見あたらず、監視カメラらしき物もない。
そういったセキュリティは、人目付かない場所へ配置されているだけかもしれないが。
路地に車を止めた二人は、気取られないような足取りでマンションの裏手に取り付いた。
非常扉がおかしな音と共にこじ開けられるが、セキュリティは反応しない。
「俺達を誘う気なのか、単にアン達目当てなのか」
「どちらにしろ、行けば分かるわ」
「確かにそうだ」
腰を落とし、狭い階段を上がっていく河合と笹島。
二人ともジーンズにパーカーというラフな服装で、腰には警棒が下がっている。
「部屋、分かるか?」
「ちょっと待って」
端末を取り出し、ボタンを操る笹島。
画面に現れる英文と数字の羅列をチェックして、小さく頷く。
「多分、4階の突き当たり。そこ以外は空室になってる」
「ハッキングも、たまには役に立つ」
「単なる情報収集の一環よ。大丈夫、足は付かないから」
微かに浮かぶ笑顔も、瞬間にして消える。
その4階へ辿り着いたのだ。
「ドラッグパーティをやる場所だって言うから、多少は警戒してるんだろうが」
「歩哨を立てる程ではないはずよ。余計怪しいもの。ただ、スクールポリスを抱き込んでいるという話は気になるわね。ここを切り抜けても、後で揉めそうよ」
「それは、その時に考えればいい」
廊下の角に張り付き、カメラで奥をチェックする河合。
「誰もいないか……」
「悟君はベランダからお願い。私はその後で、玄関から入る」
「挟撃か。いいけど、ベランダってどうやって」
「ここから」
空室となっていたはずのドアに、笹島の手が伸びる。
一瞬赤い光が辺りに散り、セキュリティの解除された音がした。
「どうやったんだ?」
「セキュリティといっても、結局は電気信号。難しい事じゃないわ」
「さすが」
「いいから、ほら早く」
河合の背中を突き飛ばし、部屋の中へ放り込む笹島。
そして自分は隣のドアを開け、その中へと入った。
場所としては、突き当たりの一つ手前。
連中がたまり場としている部屋の隣である。
飛び散る窓ガラスと、派手な閃光。
叫び声が幾つか上がり、それは直ぐさま呻き声へと変わる。
床に横たわる、数名の男。
また焦点の合わない目をした女が数名、ベッドの周りで崩れている。
「アン達はいないか……」
拳に付いた血を壁で拭い、河合は慎重な足取りでドアに手を掛けた。
それを開けた途端、真上から警棒が振ってくる。
手首を内回し蹴りで跳ね飛ばし、床に叩き付ける河合。
警棒ではなく、人間の方を。
「アン達はどこにいる」
喉元に押し当てられるブーツの底。
真っ赤な顔で何か言う男。
「ジャップ」という単語が混じる。
「俺を馬鹿にするのはいいが、こっちは急いでるんだ」
反対側の足が浮き、男の喉が横に潰れる。
声も出ず、喘ぐ事すら出来ない男。
河合は足を戻し、喉の上にあった足を宙へ浮かした。
「次は股の間でやってみるか」
「い、いる。あいつらは、奥の部屋に」
かすれた声で男が手足をばたつかせる。
涙も浮かばないのか、真っ赤な瞳はすがるように河合へと向けられる。
「全部で何人だ。銃は」
「後4人。銃も多分持ってる」
「アン達は」
「まだ、何もしてない」
意味ありげに目元が緩む。
だがそれは、次の瞬間閉じられた。
男の鼻先を、河合のブーツが通り過ぎていったのだ。
顔の皮が多少削がれ、辺りに血が振り撒かれる。
声も出ず、動く事すらしない男。
河合は一瞥もせぬまま、その部屋を後にした。
部屋を出た河合の正面には玄関。
左手にはキッチンで、廊下は右手に伸びている。
狭い廊下だが、人気はない。
多少の煙と、床に白い粉が散乱している程度だ。
「笹島さんは遅いな。まあ、それでもいいが」
そう呟き、右に曲がる河合。
警棒は振り下ろされないが、乾いた音がした。
「……冗談だろ」
壁に空く小さな穴。
頬に出来る傷。
そこから流れる血を手の平で拭い、河合は姿勢を低くした。
「結局、やるしかないか」
両腕で顔を覆い、腰をためる。
彼の前にあるのは、厚そうな木製のドア。
それにも穴が空いている。
河合はかまわず、その姿勢のままドアへと突進した。
大きく揺れる室内と、派手な衝撃音。
辺りに白い粉が飛び散り、照明がそれをきらめかせる。
外れたドアの下でバンダナを巻いた少年が呻いているが、河合はそれを無視してドアの上に立った。
3方向からポイントされる河合。
手元は震えているが、かなりの至近距離。
笹島の話からすれば、外す方が難しい。
それの精神力があればの話だが。
ただそれが無くとも、抑制が消えればいい。
例えば、ドラッグなどで感覚が麻痺してさえいれば
「大丈夫か」
優しい声で、そう問い掛ける河合。
ベッドの上で怯えた顔をしていたアンとセラが、小さく頷く。
「理由は知らないが、その二人は連れて帰るぞ」
「ふざけるんじゃねえ」
ろれつの回らない口調でそう言い、体を震わす白人の少年。
銃は河合の顔にポイントされていて、いつ引き金を引いてもおかしくはない状態だ。
「ジャップがでかい顔しやがって。ここは俺達の国だって、思い知らせてやる」
「これを見て、十分分かったさ」
テーブルに盛られた白い粉。
室内に漂う煙。
足元にはアルコールの瓶が、いくつも転がっている。
「うるさいっ。お前一人いなくなっても、誰も心配しないんだよ。変な東洋人が一人減ったくらいじゃな」
「ジャップの血は何色か、見てみたいぜ」
どっと笑う男達。
頬の傷は乾いているため、殆ど目立たない。
「俺目当てで、この子らをさらったのか」
「さあな。とにかく声を掛けたら、すぐに付いてきたぜ。尻の軽い女だ」
セラへ顎を向ける、ロングヘアの男。
何か言いたげなセラの表情。
しかし男はかまわず、言葉を続けた。
「何ならお前、ここで試してみるか?ベッドもドラッグもある事だし。初めてって奴をよ」
「最初で最後だろ」
「違いない」
再び起きる笑い声。
「こういう馬鹿な女なら、ジャップでも引っかかるぜ。ドラッグ見せれば、何でもするから」
「しかも仲間まで連れて来て。友達を裏切るとは、ひどい女だ」
「勿論俺達にとっては、いい女だが」
笑い声はかすれた物となり、喉が奇妙な音を鳴らす。
血走った目はアン達を捉え、ズボンのベルトへ手が掛かる。
「まずは俺達が試すから、お前はその後でさせてやる」
「心配するな。こういう奴には慣れてる」
「すぐに泣くような、馬鹿な女にはな」
壁際に吹き飛ばされる左右の男。
ロングヘアの男に河合の手が伸びるより前に、彼の鼻先へ銃口が突きつけられる。
「き、貴様」
「撃ってみろよ。俺の顔が吹き飛ぶ前に、喉が裂けるぜ」
「ふ、ふざけ……」
左右から聞かれる呻き声。
壁には血が飛び散り、歯の破片が部屋中に散らばっている。
河合と男達の距離を考えれば、おおよそあり得ない状況。
だが彼等の顔を血塗れにし、壁際まで吹き飛ばしたのは間違いない事実である。
それは、血の付いた彼の拳とブーツを見るまでもなく明らかだ。
「仮に俺を殺しても、犯人はお前だとすぐ分かる。ここへ来る事は、ある程度の人間に伝えてあるからな」
「く、くく」
「まだ間に合うぞ。銃を降ろして……」
突然鳴り響く乾いた音。
室内に広がる白い煙。
マリファナのそれとは違う、きな臭い香り。
肩を押さえ、床に崩れる河合。
指の間から、赤い血が滴る。
「馬鹿に、しやがって」
ろれつの回らない口調。
震えの止まらない体。
とにかく銃弾は、河合の肩口をかすめた。
「もう、満足しただろ」
「うるさいっ」
蹴りつけられる肩口。
頼りない一撃は、傷口を捉え河合の顔を微かに歪めさせる。
「その顔を、吹き飛ばしてやる。親でも分からないくらいにな」
鼻へ突きつけられる銃口。
引き金に指が掛かり、顔中から汗が噴き出す。
指の震えに合わせ前後する引き金。
いつ銃弾が飛び出してもおかしくない状況。
「さっきも言ったが、その前に喉が裂けるぞ」
「肩には当たったぜ」
「避けたのが分からないのか。手首見てみろ」
一瞬逸れる、男の視線。
横に薙ぐ河合の拳。
銃が壁に吹き飛び、男の手首があり得ない向きに曲がる。
「う、うぐ……」
「さっき避けたのは本当だ。もう、確認のしようもないけどな」
「馬鹿が」
懐に入った反対側の手が握る、小さな銃。
ドラッグのせいで痛みは麻痺しているのか、汗こそ出ているが苦痛の表情はない。
河合が動くより早く、後ろへ飛び退く男。
牽制する素振りを見せ、さらに距離を開ける。
壁際まで下がり、銃が真っ直ぐ河合へと向けられる。
震えはあるが、連射すれば数発は当たる距離。
「さあ、終わりだ」
「当たると思ってるのか」
「動くな。そうすれば、足だけで許してやる」
股の辺りへポイントされる銃。
引き金に掛かった指に、力がこもる。
「死ぬか、のたうち回るか。選べよ」
「どこでも撃て」
「……何か仕掛けてるのか」
さっきよりは隙のない動きで、辺りを見渡す男。
河合は鼻を鳴らして、男の後ろを指差した。
「振り向くと思ったのか、馬鹿が」
「じゃあ、見るな。俺を撃ってる間に、どうなっても知らんぞ」
「そう簡単に引っかかると」
鈍い、地響きのような音。
銃を構えた男が、表情を変える。
「な、なんだ」
「知るか」
「ふざけやがって」
いきなり火を噴く銃口。
河合の頬をかすめる火花。
「ちっ」
姿勢を下げた彼の足元でも、血が吹き出す。
「馬鹿が」
呻き声と、床に崩れる鈍い音。
血飛沫が天井まで上がり、銃口が何度も火を噴く。
床に流れる大量の血。
動きを止める手足。
乱射もそこで止まる。
「馬鹿が」
もう一度そう呟き、血塗れのブーツを引き戻す河合。
うつぶせになった男は、血のたまった床に顔を付けたまま動こうとはしない。
最後は、筋肉の反射のみで発砲していたようだ。
それは全弾壁際に吸い込まれ、河合やアン達は勿論先程彼が倒した男達にも当たっていない。
「取りあえず、何とかなったか」
血の滴る頬を拭い、苦笑する河合。
まともに当たったのは一発もないが、ほぼ全身に出血が見られる。
「しかし、さっきのは」
小首を傾げる間もなく、ドアが開く。
身構える河合の前に姿を現す笹島。
手には、見慣れない機械を持っている。
「よう」
「何それ。ぼろぼろじゃない」
「当たらなかっただけましさ」
「ロックオンされなければ、素人の射撃なんて当たる訳無いでしょ」
口元を緩め、笹島はその機械をパーカーのポケットにしまった。
「磁場を制御するのに時間が掛かったけど、おかげで命拾いしたわね」
「さっきの振動は、それか」
「いくら君がすごくても、あそこまで簡単に避けられる訳無いわよ」
「だったら、最初から使ってくれ」
苦笑した河合は、肩の傷を抑えながら壁際にあるベッドへと歩いた。
泣きそうな顔で、肩を抱き合っているアンとセラの元へ。
「もう大丈夫だ。怪我はないな」
「え、ええ」
「立てるか」
差し出される大きな手。
それに手を添えるアン。
ベッドを降りた彼女は、俯き加減で呟いた。
「ごめんなさい。こんな事になって」
「気にするな。俺達が、勝手にした事だ」
「サトル……」
詰まる言葉。
震える体。
上目遣いの、はにかみ気味な熱い視線。
両手を広げ、前に出るアン。
河合も照れ気味に、手を広げる。
早まるアンの足。
ほころぶ笑顔。
河合の大きな胸板が、彼女の前へと開かれる。
あっさりと、そんな彼の脇を通り過ぎるアン。
呆然とする河合をよそに、彼女は笹島の体に飛びついた。
「ありがとう、アカネ。私のために」
「いいのよ」
「本当に、来てくれるなんて思わなかった。私のために」
笹島の背中をしっかり捉える、しなやかな腕。
胸元に埋まる、可愛い顔。
やや荒い息づかい。
「私、私……」
「ちょっと苦しいんだけど。アン?ちょ、ちょっと」
「いいじゃない。もう少しこのままで」
上目遣いで笹島を見上げるアン。
大きく緩む口元。
赤い舌が顔を覗かせ、その唇を舐めていく。
「ずっと、ずっと見てたの。私」
「だ、誰を」
尋ねたく無さそうに問い掛ける笹島。
アンは自分の豊満な体を押し付けて、ぬめった口元を笹島の顔へ近付けた。
頬に当たる、早い息づかい。
熱い体。
そして一言、ささやかれる。
「勿論、アカネをよ」
突然上がる叫び声。
叫んだのは笹島ではない。
勢いよく引き離された、アンの方だ。
「私がいながら、それはないでしょ」
「いいじゃない。たまには」
「恋人の目の前でやる事じゃないって言ってるのよっ」
絶叫するセラ。
肩をすくめるアン。
笹島はルージュの付いた頬に手を当て、彼女達の顔を指差した。
「そ、その。もしかして、その」
「ええ、私達は恋人同士よ」
平然と答え、熱い抱擁を交わす二人。
それだけで仲直りしたのか、触れ合うような距離で楽しそうな会話が交わされ始める。
「そ、そう。よかったわね」
「だから、アカネもどう?」
手を伸ばし、誘うように揺り動かすアン。
セラも、まんざらでも無さそうに上目遣いで彼女を見つめる。
「そうね。アンがそう言うなら」
「い、いえ。私は至って普通だから」
「私達だって普通よ。大体女性が女性を愛して駄目な理由なんて、どこにあるの」
とてつもない理由を繰り出すセラ。
笹島は愛想笑いを浮かべ、河合の陰へと隠れた。
「よかったな、もてて。俺はふられたけど」
「冗談言ってる場合じゃないわよ。私のアパート、セキュリティが甘いのよ」
「生活も甘くて結構じゃないか」
「下らない事を言ってる場合じゃ」
抱き合いながら距離を詰めてくるアンとセラ。
じりじりと下がる笹島。
「と、止めて」
「もう疲れた。あちこち痛いし」
「いいから、ほら」
「人使いが荒いな」
ため息混じりに、両手を横に伸ばす河合。
勿論抱きつきはしないし、抱きついても来ない。
「そこまでだ。お前らの嗜好は分かったが、笹島さんにその気はない」
「最初は誰でもそうよ」
「かもしれんが、今の状況は分かるだろ」
「……そうね。本人がその気になるまで、ゆっくり待つわ」
ウインクして手を振るアン。
当然河合にではなく、笹島に。
「よし。後は警察に任せて、とっとと逃げるぞ」
翌日の午後。
警察の事情聴取を終えた河合達が登校すると、彼等の周りを生徒が取り囲んだ。
そして例の黒人少年が、人垣を押しのけてやって来る。
「あんた、大丈夫か」
「かすり傷だ」
「そうじゃない。あいつらはスクールポリスとコネがある。正当防衛であんたらが悪くないとしても、仕掛けてくるぞ」
「お前らに迷惑は掛けん」
よく通る低い声が、廊下を掛けていく。
それは人づてに伝わり、彼の姿をやっと見える場所にいる者にも語られる。
河合の言葉が、その気持ちと共に。
「あいつらは評判が悪かったが、今言ったようにスクールポリスの件がある。それで学校も、手出しが出来なかったくらいだ」
「今度はそれが来るって事か。全部で何人」
「全員じゃない。一人だ。ただしそいつが、スクールポリスのボスだけどな」
それまでの喧騒が一気に引き、人垣が割れる。
ブルーの制服と制帽。
腰に下がる、取っ手のついた警棒。
反対側の腰には、当然銃が下がっている。
河合程ではないがかなりの巨体で、拳にはたこができている。
典型的なアングロサクソンといった、若い白人男性。
青い瞳は冷たい色を湛え、河合を捉える。
「お前か。ヒーロー気取りのジャップは」
「子供からお金もらってる、せこい横領警官は誰」
静まりかえった人混みから届く台詞。
巻き起こる失笑と、それに続く野次。
警官が血相を変えて辺りを見渡すとそれは止んだが、緩んだ場の空気は戻らない。
彼に対する、恐怖の念も。
「今のは、お前の仲間か」
「だとしたら」
「俺が誰かを、たっぷりと教えてやる。ここでは誰が一番偉いのかを」
「金持ちでしょ。特に、警察にコネがあるドラッグ野郎」
再び聞こえる野次。
今度も笑い声や歓声が上がり、警官の制止はもう意味を成さない。
「ふざけやがって」
耳まで赤くして警棒を抜く警官。
非難の叫び声とと怒号が巻き起こるが、警官はかまわず河合との距離を詰めた。
「俺に逆らったら、公務執行妨害だ。5年は刑務所に入れてやる」
「暴行と職権乱用で、自分が入るぞ」
「捕まるのが分かって、証言する馬鹿がどこに」
「ここにいるぜ」
人垣から一歩前に出る黒人少年。
彼の周りでも、同意の声が上がる。
「ギャングの言う事を、誰が聞くか」
「私もよ」
その隣から前に出るアンとセラ。
手にはカメラも持っている。
それは彼等だけではない。
あちこちから上がる同意の声は、いつしか廊下全体に響き渡る。
おそらくは、この場にいる全員が声を上げ拳を突き上げている。
「……チッ。せいぜい騒いでろ。後で、どいつもこいつも捕まえてやる」
「誰が捕まえるんだ」
淡々と尋ねる河合。
警官は鼻を鳴らし、警棒を自分へと向けた。
「当然、俺がお前を……」
跳ね上がる警棒。
めり込むブーツ。
昨日の男同様、血飛沫を上げて卒倒する警官。
河合は素早く飛び退いて、返り血を避ける。
「馬鹿が……。いや、馬鹿は俺か」
自嘲気味に呟き、ため息を付く河合。
そんな彼とは対照的に、周りを取り囲んでいた者達からは大喝采が巻き起こる。
限りない敬意の念と、熱い気持ちを込めた拍手。
自分達がなしえなかった事をした男へ。
その勇気を与えてくれた男へ。
河合が小さく頭を下げると、それはさらに大きくなる。
警官の脅しに怯える者は一人としていない。
その罪から逃れるという意識ではなく、自らの行為を恥じないと言う意味で。
誰もが胸を張り、手を叩く。
河合へと、そしてここにいる者達へと。
それは意識もしていない、自分自身へも向けられていた。
人混みを掻き分け、静まりかえった階段の踊り場に佇む河合。
その隣りに、笹島がやってくる。
「さすがね」
「ただの犯罪者さ。警官を殴って、そのままで済むはずがない」
「彼は警官じゃないわよ。正確には、今日の昼の時点から」
「え?」
怪訝そうに問い返す河合。
笹島は壁にもたれ、くすっと笑った。
「警察も馬鹿じゃない。この辺りでどうにかしないと、自分達にまで累が及ぶと思ったんでしょうね」
「なら、最初からそうしろってんだ」
「それだけあの男の親は、この地域では大物だったって事よ。今回の一件で、議員の職も追われるでしょうけど」
「裏で、何かしたんじゃないだろうな」
河合の問いに、笹島は髪をかき上げて首を振った。
笑い気味の眼差しが、呆れている河合の視線を捉える。
「ここは俺達の学校なんだし、多少の無理は仕方ないか」
「当然よ。おかしな連中の好きなようにはさせないわ」
「やり過ぎ、という気がしないでもないが」
「いいじゃない、停学で済んで」
目を見開く河合を置いて、階段を下りていく笹島。
その先には、仲良く腕を組んでいるアンとセラがいる。
「あ、あの停学って」
「退学するよりましでしょ。また転校する訳にもいかないんだし」
「で、でも」
「話は以上。怪我の治療も兼ねて、家で寝てなさい」
その後で聞こえてくるのは楽しげな笑い声と、仲の良い女の子達の背中。
河合はため息を付き、壁にもたれた。
「よう。停学だって」
楽しげに階段を下りてくる黒人少年。
途中から話を聞いていたらしい。
「悪いか」
「いや。そういう意味では、俺の方が先輩だ」
「馬鹿馬鹿しい」
苦笑して拳を合わせる二人。
河合は頬のガーゼに触れ、笹島が降りていった階段に視線を向けた。
「結局あいつらは、何が狙いだったんだ」
「あんたらよりも、アン達だろうな。あの二人がなんか揉めてたから、それを利用して誘ったんだろ。なんといっても、いい女だし」
「なるほどね。仲も直って、結構な事だ」
「全く、女のどこがいいのかな」
真顔で呟く黒人少年。
それとなく距離を置く河合。
少年は眉間にしわを寄せ、すぐに破顔した。
「勘違いするなよ。今のは、あいつらの事を言っただけだ。俺は彼女もいる」
「そ、そうか。……お前、知ってたのか?」
「誰でも知ってるさ。大体、珍しい事でもない」
さらりと答えられ、河合は「そうですか」とだけ答えた。
「それで、ちょっと聞きたいんだが」
「何だ」
「卒業生の事を、少し」
その日の夜。
河合の住む、狭いアパート。
テーブルには大きなペットボトルと、フライドチキンチキンやお寿司が乗っている。
「……これかしら」
大きなアルバムをめくり、顔写真をチェックしていく笹島。
少しして、その大きな目が細められる。
「いた」
「……子供だな」
「当たり前じゃない。18才よ」
左右のページを埋め尽くす、画一的な顔写真。
その中の一つ。
整った勝ち気な顔立ち。
微かな笑顔。
写真の下には名前が書かれている。
「Hitomi Takashima」と。
「ここの卒業生だったのね。だから、後輩って言ったんだわ。私はずっと、草薙高校の事だと思ってた」
「俺もさ。ただ、最近俺達がやってきた事を振り返って思ったんだ。もしかしてあの人も、同じだったんじゃないかって」
「そうかもしれない」
めくられるアルバム。
写真はスナップへと変わり、高嶋もその中の幾つかに収まっている。
演説をする彼女、ウェイトレス姿で働く彼女、仮装して友と肩を抱いている彼女。
溌剌とした、元気な笑顔。
真剣な表情。
悲しげな佇まい。
そのどれもが、懸命に頑張ってる彼女を映している。
「Top graduation。Student council length。すごいわね」
「転校してきて、知り合いもいない中で。首席で卒業、しかも生徒会長か。確かに、俺とは違う」
「悟君は、その手前までは来てるわよ」
「どうかな」
肩をすくめ、ソファーに崩れる河合。
その目の前に、小さな缶が差し出される。
「飲みなさいよ」
「だけど」
「その資格は、もうあると思う」
暖かな、頼り甲斐のえる微笑み。
いつも河合が見せる笑顔とも重なるような。
「……薄いな」
「いきなりは体に悪いと思って、ノンアルコール」
「何だよ、それ」
苦笑して、ビール缶を傾ける河合。
だが彼の顔には紛れもない満足げな表情が浮かんでいる。
それはビールの味へか。
笹島の気遣いへか。
自分自身の気持ちに区切りが付いたためか。
「私も、解禁しようっと」
「何か断ってたのか」
「まあね」
取り出される端末。
期待と緊張の入り交じった表情。
「……私。今起きた?のんびりしてるわね。……うん、元気。観貴は」
相手は新妻のようだ。
アメリカに渡ってから、初めての会話。
どちらからも掛けず、掛かってこなかった。
時間的には、対して開いてはいない。
ただその経緯と彼女達の絆を考えれば、長過ぎる時間。
それも今、この瞬間から消える。
声が聞ければ、それだけでいい。
お互いの気持ちは、分かっているから。
人はいつか、離ればなれになる時が来る。
それをつなぎ止められると思うのは幻想で、悲しいくらい幼い考えで。
別れが訪れるのは必然だ。
だけど、気持ちまでは離れない。
お互いが思い続ける限り。
心はつながっている。
どこにいても、きっと。
終わり