エピソード(外伝) 10-1 ~河合・笹島メイン~
どこにいても
前編
笑顔と共にドアを閉めたスーツ姿の高嶋が、小さく息を付く。
「挨拶も終わったし、明日から頑張ってね」
「それはいいんだけど、住む所とかは」
「下宿を用意してあるわ。家賃や光熱費は無料だし、悪くないわよ」
「……へえ」
端末に送られて来た情報をチェックした笹島は、口笛を吹いて何度と無く頷いた。
高度なセキュリティと、様々な先端システムを備えた設備。
広い部屋が何室もあり、企業の重役が住むような高級マンション。
下宿という呼び方が適切かどうか、疑問を呈したくなる程の。
「……俺の方とは違うんだが」
「君は男の子でしょ。荒波に揉まれてきなさい」
くすっと笑う高嶋。
河合は眉間にしわを寄せ、端末の画面を見入っている。
彼の下宿は、やや治安の悪い場所柄。
部屋こそ広くシステムも揃ってはいるが、笹島の部屋と比べればランクはかなり落ちる。
「その分学校に近いし、問題ない」
「ただで住むんだから、文句はないけどさ」
「よろしい。私は北米政府の教育庁に呼ばれてるから、ここでお別れね」
「どうも、色々お世話になりました」
会釈する笹島と、うっそり頭を下げる河合。
高嶋は少しだけ微笑み、二人の肩に手を置いた。
「大変だろうけど、あなた達なら大丈夫だから」
「はい」
「ああ」
「頑張ってね、後輩さん」
翌日。
校門には銃を腰に下げたスクールポリスが警棒を構え、リモートカメラとセキュリティチェックのセンサーが生徒達へと向けられている。
それにはもう慣れているらしく、何の関心も示さない生徒達。
比率としては白人が7割で、後はヒスパニックと黒人。
時折アジア系の顔立ちも見かけるが、それは本当にごく少数だ。
そんな中、一台のバイクが自動車専用の門をくぐり抜ける。
かなり大きなネイキッドだが、乗っている人間が大きいためサイズは普通に見える。
駐輪場にバイクが停まり、ヘルメットが取られる。
紺のジャケットに、ジーンズ。
ハイカットのブーツが、地面をしっかりと踏みしめる。
「何が近いだ。10分掛かったぞ」
一人で文句を言う河合。
回りにも生徒はいるが、日本語なので通じていない。
「で、俺の教室は」
端末をチェックして、首を傾げる。
英語表記を日本語変換しても、分かっていないようだ。
「……ここって、どこ」
「What?」
やや太り気味な白人の少年が、大げさに肩をすくめる。
「ああ、英語か。 Where is this classroom?」
「It is the third floor of the building.」
「三階。サンキュー、サンキュー」
日本語っぽい発音で礼を言い、目の前にあった建物を見上げる河合。
小太りの少年は隙間のないスペースに、必死の形相でスクーターを入れようとしている。
「Doesn't it enter?狭いもんな。ちょっと、貸してみろ」
「What?」
半ば強引に彼をどかし、駐輪場に収まっている大きなアメリカンバイクに手を掛ける。
一瞬の気合いが聞かれ、それは右へとスライドした。
200kgはあるだろうバイクが、軽々と。
「後は、前を少し」
またもや横へ動くバイク。
そしてスクーターは、その空いたスペースへ収められる。
「じゃ、サンキュー」
もう一度礼を言い、河合は目の前の建物へと歩き出した。
自分の背中を呆然と見つめる視線を、全く気にする事もなく。
「職員室、ね」
「いきなり行ってどうするのよ」
呆れ気味に突っ込む笹島。
白いシャツにスリムジーンズという、彼女にしては大人しい服装。
化粧も薄く施してはあるが、ナチュラルメイクで清楚な雰囲気を感じさせる。
彼女から連絡を受けた河合は、笹島と共に担任の後に付いている。
「ここか」
ドアの上に下がる、2-Bと書かれたプレート。
草薙高校とは違い、固定化したクラス制を取っているとの事。
ブロンドヘアの若い女性は少し待つようにと告げ、笑顔で中へと入っていく。
少しの笑い声と、開いたドアから見える彼女の手招き。
笹島に押され、まずは河合が入っていく。
どよめきと、刺すような視線。
日本人という印象を覆す、あまりにも大きな体格。
物怖じしない、落ち着き払った態度。
続いて入ってきた笹島にもどよめきは上がるが、それは男性からの方が多い。
致し方ないともいえる。
「 Introduce yourself.」
笑顔で促す担任。
河合は頷いて、教室全体を見渡した。
「My name is Satoru Kawai. It came from Japan. I think that it becomes somehow although English is weak. I ask of you well.」
型通りともいえる挨拶。
しかし自ずと拍手がわき起こる。
そのスピーチにではなく、彼の態度に。
人に信頼を起こさせる、大きな存在感。
それを受け止める河合の佇まい。
だが教室の後方で険しい物腰をしている者達がいるのも、河合の視線は捉えていた。
「相変わらず、受けが良いわね」
苦笑気味に彼とすれ違う笹島。
彼女も教室全体を軽く見渡し、表情を和らげた。
河合とは違う、艶のある表情。
それだけで空気が一変し、熱い眼差しが彼女へと向けられる。
「 My name is Akane Sasashima. Too, it came from Japan. Since it is only not understanding, it will be saved if many things are taught. Please make friends.」
やはり型通りな挨拶。
それでも拍手は起こり、河合の時にはなかった歓声もあちこちから上がる。
後方にいる者達の険しい物腰は相変わらずだが。
「Please show karate.」
どこからか投げ掛ける言葉。
そして同意の声も。
突如として巻き起こる、「カラテ」コール。
困惑する河合に、笹島は顔を寄せた。
「ほら、早く」
「俺、空手なんてやった事無いぜ」
「なんでもいいのよ。気合い入れて、その辺を叩けば」
いい加減な事を言い、笹島は自分達が手を掛けていた壇上のテーブルを指差した。
そして担任に確認するような視線を向ける。
笑顔と共に見せられる、立てた親指。
彼女も興味があるらしい。
「ふざけるなって、銃で撃たれないだろうな」
ジャケットを彼女に預け、半袖の腕を撫でる河合。
笹島はあくまでも落ち着き払っている。
多少、悪そうな表情で。
「前、どいてろよ」
「It falls for a while.」
笹島が手を押す仕草をして、最前列の人間を下がらせる。
目を閉じる河合。
静まりかえる室内。
期待を込めた全員の注目が、固められた彼の拳へと集まっていく。
「セッ」
裂帛の気合いと共に叩き付けられる拳。
鈍い音がして、突いた時よりも早く拳が引き戻される。
机に変化はない。
少しずつ起きるささやきと笑い声。
責めたり失笑する者はいないが、やはり無理だったというあきらめの雰囲気が教室内に漂い始める。
担任もそれを気にしたのか、河合を慰めるように壇上へとやってきた。
彼の手を取った彼女は、それを握ったままテーブルへと視線を向ける。
「Unbelievable.」
大きな青い瞳がさらに大きく見開かれる。
何度も呟かれる、「Unbelievable」の台詞。
「What is this?」
最前列から逃げていた小柄な女の子が、腰を屈める。
彼女の手に握られたのは、丸い板。
それを指差す担任。
河合の手も、指を差す。
まさかという表情で、壇上へ寄ってくる生徒達。
そして一気に歓声が上がる。
机に開けられた、小さな穴。
河合の拳が一つ入るくらいの。
ただ壊すだけなら自信があった者も、教室内にはいただろう。
しかし、今彼等の目の前にあるのはまさに「東洋の神秘」でしかない。
それも、彼等のクラスメートである男が作り出した。
笹島が何かを言うと、教室内には笑い声と歓声が再びこだました。
河合へは軽いボディタッチと、親しみのある笑顔が向けられる。
「なんて言ったんだ」
「見た目程悪い人ではないので、あまりいじめないで下さいって」
「なんだ、それ」
「いいの。後ろの人達への牽制も込めてね」
緩む口元と、鋭くなる目元。
それが見えているのは、河合だけだ。
「大人しくしてろよ」
「私はそのつもりでも、向こうがどうか」
「まあ、なんとかなるだろ」
「またそれ?」
寂しげに苦笑する二人。
眼差しは遠いどこかを見つめている。
教室の歓声とは隔絶した、翳りのある表情で。
心を置き去りにしたように……。
駐輪場からバイクを引き出す河合。
バックギアも付いているのだが、彼は300Kg近い車体を自力で取り回している。
「送ろうか」
「それもいいけど、君のアパートへ寄ってもいい?」
「ああ」
自分のヘルメットを笹島へ渡し、河合はエンジンを掛けた。
微かに響くエンジン音と共に、バイクは学校の門を抜けていく。
広いリビングに置かれたソファーと、ローテーブル。
その上にはビールの缶と、フライドチキンが皿に盛られている。
「ご飯は食べないの?」
「今日はちょっと」
「気持ちは分かるけどね」
視線を伏せ、グラスに口を付ける笹島。
ビールは殆ど減らず、小さな吐息が漏れる。
「本当、何でこんな所にいるんだか」
TVから流れるのは、地域のニュース。
ハンサムな黒人の男性が、流暢な英語で明日の天気を伝えている。
「もうホームシックか?」
「自分もでしょ」
「否定はしないけどな」
笹島とは違い、河合のグラスは一気に飲み干される。
「知り合いもいない、言葉もいまいち、何をするのかも分からない。逃げ出した結果が、これって訳だ」
「だからって、あそこには残れなかったでしょ」
「俺達がいれば、余計に揉める。責任の取り方が、これでよかったかどうかはともかく」
「虚しい考え方ね」
笹島はグラスを置き、テーブルの上にあったフォトスタンドを代わりに取った。
「過ぎ去りし青春の日々よ」
「まだ16だぜ」
「本当に、そう思う?」
「さあな。あまり考えたくない」
以前のように笑い飛ばさない河合。
TVのチャンネルが変えられ、ホームコメディドラマが流れ出す。
派手な笑い声と英語の会話、オーバーなアクション。
楽しいはずのそれは、二人の表情に翳りをもたらす。
「日本のチャンネルもあるでしょ」
「英語を覚えるには、この方がいい」
「そうだけど。……辛いわね」
「自分達で選んだ事だ。こうなると分かっていて」
苦みを含んだ呟き。
それ、今口にしたビールのせいだけではないだろう。
「昨日は、よく眠れた?」
「多少は」
「私は駄目ね。寂しくて」
「部屋が広いからさ。ここも、寮よりは相当広いけどな」
苦笑して室内を見渡す河合。
10畳を越えるリビングと、寝室。
それ以外にも2部屋あり、キッチンとバスも当然付いている。
「またあそこで寝るかと思うと、憂鬱になってくるわ」
「今までと同じだろ」
「声を掛ければ観貴が来てくれたし、学校に行けばすぐ知り合いに会えた。でもここは……」
伏せられる視線。
噛みしめられる唇。
固められた拳が、床を打つ。
力無く、何度も繰り返して。
「ごめんなさい。変な事言って」
「気にするな」
「泊まっていけ、なんて言わないのね」
「そこまでの度胸がないだけさ」
自嘲気味に返す河合。
笹島も微かに笑顔を浮かべ、グラスのビールを飲み干した。
「いつは、慣れるのかしら。それとも、感覚が鈍るのかな」
「大丈夫だ。何も変わらない」
「曖昧な答えね」
「他に言いようがない」
河合もジョッキの飲み干し、缶からビールを注いだ。
笹島は首を振り、それを断る。
すでに缶の山がテーブルの下に出来ていて、殆どは河合が飲み干した物だ。
「肝臓壊すわよ」
「低アルコールだし、酒代ももらってる」
「アル中じゃないの。酒に逃げてるとか」
「……じゃあ、止める」
そう言うや河合はグラスをキッチンへ持っていき、中を空け出した。
「怒ったの」
「まさか。自分でも、そういう気がなかった訳じゃない。確かに、こんなのに頼ってちゃ駄目だ」
「いつまで禁酒を」
「自信が戻るまでは」
低い声で呟き、河合はミネラルウォーターのペットボトルを傾けた。
「結局飲むんじゃない」
「でも、逃げてないだろ」
「大差ないわよ」
呆れ気味な笹島も、渡されたペットボトルを口に付ける。
二人の顔に笑顔は浮かばない。
明るい照明の中、翳りを帯びる二人の姿。
たった二つ
の背中……。
転校をして一週間あまり。
親しく口をきく者も出来、少なくとも英語には慣れ始めた頃。
それなりに笑顔は浮かんでいる。
人前では。
「ドラッグ?そんなのはやらん」
「何怒ってるのよ。ビタミン剤だって」
「とにかく、いらん」
伸びてきた笹島の手を嫌そうに避ける河合。
笹島はため息混じりに、オレンジ色の錠剤を口にした。
「大体ビタミンなんて、普通に食べてれば大丈夫だろ」
「サトルは、ワイルドね」
ブロンドヘアをダブルポニーにした可愛らしい白人の女の子が、くすっと笑う。
人なつっこい気さくな子で、この街や学校に詳しくない笹島のガイド役をかって出ている。
黒のタンクトップにホットパンツという、ある意味似た者同士ではある。
「大体ドラッグなんて、アメリカでは珍しくもないわよ」
「マリファナがその辺で売ってるものね」
「気にくわん」
腕を組み、一人唸る河合。
「アンも、マリファナを?」
「興味はあるけど、まだ。やっぱり、少し怖いじゃない」
くすっと笑うアンに、笹島ははっきりと首を振った。
「やらないで済むなら、その方がいいわよ。結局は、ドラッグなんだから」
「あなた達は、保守的ね」
「体に悪いと分かっててやるのは、馬鹿だ」
怒り混じりの台詞。
彼等の隣り辺りから険しい視線が向けられるが、河合が気にする様子はない。
男達の机には、今会話に上っていたマリファナの箱が置かれている。
学内への持ち込みは禁止されているが実際は黙認状態で、休憩時間に吸う者も少なからずいる。
「何か言ったか、ジャップ」
侮蔑気味な眼差しで、河合を睨む男達。
全員が白人で、高校生かと疑いたくなる程の体格。
ただし、河合の巨体には及ぶべくもないが。
「ドラッグをやるのは馬鹿だと言った。何か、間違ってるか」
平然と答える河合。
男達は席を立ち、椅子に座っている河合の回りを取り囲んだ。
「お前の住んでる田舎じゃどうか知らないけどな、アメリカでは合法なんだ。分かったか、馬鹿が」
「銃も合法だろ。人殺しの道具が」
「何」
顔色を変え、胸元へ手を入れる男達。
河合は微動だにせず、腕を組んだまま座っている。
「やりたいなら、何でも勝手にやってろ。人に迷惑を掛けない限りな」
「随分でかい口聞くじゃないか。ジャップの癖に」
「カラテをやってるからって、調子に乗るなよ」
襟元に伸びてくる、太い腕。
立たされる河合。
しかし身長差があるため、河合が彼等を見下ろす結果となる。
「スタンガン2に、警棒3。催涙スプレー2」
彼の隣りに座っていた笹島が、淡々とした口調で呟く。
息を呑み、彼女を見つめる男達。
笹島は鼻で笑い、手にしていたペンを軽く回した。
「お、お前どうして」
「何の話?」
横に引かれる口元。
細められる赤い瞳。
窓が突風に揺れ、激しい音を立てる。
「なっ」
突然の出来事に、男達は声を上げて河合から離れた。
それとも、笹島からか。
「次は、どうして欲しいの」
しなやかな動きで伸びる指先。
指し示された男は脂汗を流し、背を向けて逃げ出した。
それを合図とするかのように、他の男達も教室を飛び出ていく。
捨て台詞も、何も無しに。
「脅すな」
「ケンカするよりはましでしょ」
下らないといった具合に顔を見合わせる二人。
お互い相手の行動と能力は理解しているので、特には語らない。
「い、今のは何」
彼女達の前で、目を丸くしている女の子は別にして。
笹島を見つめる眼差しは熱を帯び、頬はほんのりと赤い。
「外を見ていたら木が揺れていたの。それを少し。警棒とかも、ボディラインを見てなんとなくね」
「すごいわ。まるで、エスパーみたい」
「止めてよ」
苦笑気味に首を振る笹島。
しかしアンは熱い眼差しを向けたまま、彼女の手を取った。
「でも、あの連中には気を付けた方がいいわよ。スクールポリスにもコネがあるらしくて、今言ったように武器とかを隠し持ってるから」
「ありがとう。でも、この子がいれば大丈夫」
「サトル、か。あなた、ちゃんとアカネを守ってあげるのよ」
激しい勢いで河合の背中を叩くアン。
河合は「はあ」とだけ答え、痛そうに背中を押さえた。
「そういう自分は、大丈夫なのか?俺達と仲良くしてて」
「私も、あの連中は好きじゃないの。それに、サトル程じゃないけど腕に覚えもあるし」
座ったままの姿勢で繰り出されるジャブ。
その体勢にしてはかなりの鋭さ。
河合の前髪が、軽くそよいだ。
「さあ、そろそろ帰りましょうか」
「先帰ってくれ。俺、ちょっと買い物があるから」
「そう。アン、行こう」
「ええ。サトル、またね」
学校から程近い、3階建てのアパート。
そう広くはないワンルームで、小さなキッチンとバスが付いている程度。
室内にはバンドのポスターや大きなぬいぐるみ、鉄アレイなどが転がっている。
「美味しい」
「パスタは得意なの。アメリカは大味ってよく言われるけど、私も外で食べる料理はあまり好きじゃないわ」
ラザニアを頬張りながら、くすっと笑うアン。
笹島はダイエットソーダに口を付けて頷いた。
「あなた達って、すごいわよね。ちゃんと授業にも付いてきてるし、英語も話せるし。さっきのも」
「大した事無いわよ。来たばかりだから、少し無理してるだけ」
「そうかな?とにかく、羨ましいわ」
フォークを置き、アンは白ワインのグラスを傾けた。
先程から赤い頬。
微かに視線が落ちる。
「サトルとは、どういう関係?」
「日本で、二人とも生徒会に所属してたの。それ以前から、多少は知り合いだったけれど」
「Steadyではなくて?」
下を向いたまま呟かれる言葉。
直訳すれば、真面目な。
米口語では。
「恋人なんて、まさか」
「本当に?」
「考えた事もないって話」
「曖昧な答えね」
寂しげなささやき。
グラスが手に持たれ、白ワインが消えていく。
「私は。私なら、そうする。そうなってもいい」
「アン」
「変よね。まだ出会ってばかりだし、日本人で。全然知らないのに。でも、何となく気になるの」
ぶっきらぼうにそう言ったアンは、ボトルを傾け白ワインをあおった。
「何言ってるんだろ、私」
「いいじゃない、別に」
「アカネの気持ちを思うと、ちょっと複雑なのよ」
「だから私は」
そこで言葉は止まる。
寂しげなアンの視線を受けて。
「本当に、否定出来る?」
「さっきも言ったように、考えた事もないから」
「じゃあ、考えたら」
強められる語気。
気圧されたように頷く笹島。
目を閉じ、正座をして膝に手を置く。
少しの間があり、瞳が開かれる。
「あのね」
笹島の言葉を遮るように鳴る端末。
アンは眉間にしわを寄せ、それを手に取った。
「……ええ。……分かってる。……今は駄目よ。友達が来てるから。……ええ、またね」
端末を置き、笹島を見つめるアン。
少し、はにかみ気味に。
「た、ただの友達だから」
「何も聞いて無いじゃない」
「本当に、そうなんだって」
「誰かも知らないわよ」
苦笑してラザニアを食べる笹島。
アンは口元で「誤解よ、誤解」と呟いている。
「彼氏がいるって事は、悟君は浮気になるの?」
「だから、彼氏なんていないわよ」
強い口調で否定するアン。
それも、かなり真剣な表情で。
笹島は分かったという顔で頷き、残りのダイエットソーダを飲み干した。
「ご馳走様。私、帰るわ」
「まだ早いじゃない」
「部屋の整理もしたいし、宿題も残ってるから。また、明日ね」
軽く手を振り、部屋を出ていく笹島。
ドアの閉まる音が聞こえたのを確認して、アンは端末を手に取った。
「……うん。……あなたの事誤解して、帰っちゃったわよ。せっかく、来てくれたのに。……ええ、いいわよ。……待ってる」
広い部屋、大きなベッド、高価な家具。
連絡一つで24時間住人の要求を聞いてくれる、一階のサービスセンター。
壁には100インチのモニターが付けられ、オーディオマニアでも揃えられないレベルのサウンドシステムが整っている。
ローソファーの傍らにあるのは、近所のコンビニで買ったミネラルウォーターのペットボトル。
モニターに映っているのは、白い建物。
スピーカーからは、はにかみ気味の声が聞こえてくる。
草薙中学の制服。
幼い顔立ちの新妻。
その手を握り、画面に手を振っている笹島。
文化祭だろうか。
手には綿菓子が握られている。
「下らない」
リモコンに触れる指先。
画面は消えず、視線だけが伏せられる。
端末に手は伸びない。
掛かってくる事もない。
その声を聞けば、どれだけ救われるのか。
お互いに、痛い程分かっていても。
「本当、何をやってるんだか」
そう呟き、笹島はソファーに顔を埋めた。
すすり泣きは聞かれない。
肩が震える事もない。
そうすれば、どれだけ楽になるか分かっていても。
握り締められる華奢な手。
それはそのまま、ソファーへとぶつけられる。
「凪ちゃんの事、笑えないわね」
素早く立ち上がり、リビングを後にする笹島。
モニターでは、凛とした表情で指示を送る新妻が映っていた。
まるで今の彼女を、励ますように……。
数日後。
相変わらず元気のない河合。
彼の席は最後尾。
その体格からすれば、仕方ない位置である。
笹島も同じ日本人という理由で、彼の隣になっている。
ちなみに、笹島が窓際である。
「ランチ、どうする」
「食べるさ」
「食欲は無いって顔ね」
その言葉を振り払うように、河合は席を立った。
「食堂でも行くか」
「ええ。アンは、と」
「さっき出てったぞ」
「そう。じゃあ、行きましょ」
ざわめきと、食器を鳴らす音。
かぐわしい香りが立ちこめ、いやがおうにも食欲をかき立てる。
空いている隅の方へ座った二人は、向かい合って食べ始めた。
回りの喧騒とは違い、会話は殆ど聞かれない。
「いつもなら、その倍は食べるでしょ」
「禁酒もしてるし、次はダイエットさ」
「そう」
素っ気なく返し、サラダをつつく笹島。
彼女もそれ程、食事は進んでいない。
「……何か、騒がしくない?」
「飯でも取り合ってるのかな」
「かもね」
「突っ込めよ」
苦笑して辺りを見渡す河合。
その顔が、一気に引き締まる。
向かい合う、大柄な黒人とヒスパニック系の男。
お互いにフォークとナイフを手にしている。
無闇にはやして立てる周囲と、独特の高揚感が手に取るように分かる両者。
詰まる距離、荒い息づかい。
お互いを探るように、テーブルとテーブルの狭い間を回り出す。
「何やってんだ」
野次馬を掻き分け、最前列へとやってくる河合。
表情は勝れず、小さなため息が漏れる。
「それ、降ろせよ」
一気にまくし立てられる英語とスペイン語。
河合は首を振り、少し笑った。
「俺も、日本語だったな」
そう言うや、無造作に前へ出る。
訳の分からない言葉を操る大男に、二人が同時に身構える。
河合へと向けられるナイフとフォーク。
それでも河合は、かまわず前に出る。
一瞬の静けさ。
続いて、爆発的な歓声が巻き起こる。
男達の手から消える、ナイフとフォーク。
そして河合の手には、二つに折れたそれが収まっている。
傷はおろか、血一つ浮いていない。
「黙れ」
日本語で、そう言い放つ河合。
理解出来ないはずの言葉に、数百人はいる食堂内の人間が一気に静まりかえる。
彼の全身から溢れる、ただならぬ雰囲気を感じ取って。
「騒ぐ前に止めろ。スクールポリスはすぐ来ないって分かってるなら、余計にだ」
静まりかえった食堂に、河合の言葉が響く。
それはあくまでも日本語で、殆どの人間は理解していないだろう。
しかし全員が真剣な表情で、彼を見つめている。
その言葉を聞き逃さないように、言葉を心に止めるように。
「この学校は、お前らの学校だろ。だったら人任せにするな、誇りを持て。そうすれば、こういう事も少しは減る」
厳しい眼差しで見つめられた二人は、うなだれて河合に頭を下げた。
「俺に謝るな。それと文句がある奴は、俺が相手になる」
河合の視線を受け、全員が身を引き締める。
微かな呻き声を漏らす者もいる。
静寂と張りつめた空気。
凍り付いたような時が流れていく。
「俺が言いたいのは、それだけだ」
やはり日本語で言い残し、野次馬を掻き分けて行く河合。
少しずつささやきが聞かれ、それはざわめきへと変わる。
すぐに辺りの雰囲気も元通りになり、楽しげな会話と食事風景が戻ってきた。
「何怒ってるのよ」
「注意しただけだ」
「日本語で?」
「え?」
ポテトフライをくわえたまま固まる河合。
太い指が、自分の顔を指差す。
「ここって、北米だった」
「あなたは、日本人よ」
くすっと笑い、自分のポテトフライを彼の皿へ乗せる笹島。
「食べないのか」
「食欲は」
「少し沸いてきた」
「じゃあ、いいじゃない」
もう一度笑い、笹島はサラダを食べ始めた。
美味しそうに、楽しそうに。
勢いよくステーキを頬張る河合を見守りながら。
数日後。
ベッドから手を伸ばし、端末を手に取る河合。
「私だけど、少し荷物運んで欲しいの。ちょっと、来てくれない」
一方的に内容を告げ、切られる通話。
ため息を付き、のそのそと起き上がる大男。
そして、一言呟いた。
「……まだ6時前だぜ」
朝靄の晴れ始めた、窓辺から見える爽やかな眺め。
近くの公園と、その中央にある小さな噴水が朝の光に輝いている。
空は晴れ渡り、秋の青空がどこまでも続く。
「運ぶって、何を」
「これ全部」
ジーンズにTシャツ姿の笹島は、部屋の片隅を指差した。
幾つかの段ボールとバッグ。
持ち運びの出来る、小さなラックなどもある。
「もっと良い所にでも引っ越すのか」
あくびをかみ殺しながら尋ねる河合に、笹島は小さく頷いた。
「業者を頼む程でもないと思って。悪いけど、お願い」
笹島がレンタルした軽トラは、学校近くのアパート前に止まった。
車を降り、それを見上げる河合。
「なんか、小さくない?」
「小さいわよ。狭いわよ」
一言付け加える笹島。
さらに付け加えるなら、少々古ぼけている。
「あそこ、追い出されたのか?」
「自分で選んだの。ここなら、学校も歩いて行けるし」
「自分がいいなら、俺は構わんが」
食器の入った段ボールを二つ抱え、狭く薄暗い階段を上っていく河合。
普通なら一つでも辛いところだが、彼はもう一つ乗せても余裕だろう。
そうしないのは、視界を確保するのが目的だ。
「これで全部か?」
「ええ、ありがとう」
「いいよ。しかし、やっぱり狭い」
段ボールとバックが積まれた室内。
壁際にベッドとクローゼットがあるため、二人とも身の置き場がない。
「学校……。草薙高校の寮も、このくらいだったでしょ」
「さっきのマンションと比べての話さ。お化けでも出たのか?」
「馬鹿。そうじゃなくて、あそこは駄目なの。少なくとも、今の私には」
段ボールを空け、クローゼットに上着を詰め出す笹島。
明るい、朗らかな表情。
こちらに来て、初めてではないかというくらいの。
「言いたい事は分かるけど、別に駄目でもないと思うが」
「もう決めたから。与えられる肉より、自分で探した湧き水って事」
「大袈裟な」
苦笑した河合は、段ボールを開けていた手を止めた。
「俺も、肉をもらう立場ですか」
「まさか。あなたは山鯨、つまり猪でしょ」
「すると?」
「野生なのに、ぬくぬくしてる訳にはいかないって事」
翌日。
心なしやつれた顔で、教室に入ってくる河合。
「サトル、元気ないわね」
そんな彼を、明るく出迎えるアン。
河合は首を振り、リュックを机の脇へ掛けた。
「一日で2回引っ越しをやれば、少しは疲れるさ」
「アルバイトでも始めたの?」
「そうでもないんだが、笹島さんはやれと言ってる」
「いいところ、紹介してあげようか」
そう言って彼女が取り出したのは、教会のパンフレット。
日本でお寺のパンフレットを持っているよりは違和感がないが、そう持ち歩く物でもない。
自分でもそれに気付いたのか、アンは笑顔で手を振った。
「朝来る時に、知り合いの人が配ってたのよ。いい人がいたら、紹介してくれって」
「俺は、仏教徒とまでは言わないけどクリスチャンじゃない」
「構わないわよ。私だってミサ以外では、年に何回行くかどうかだもの。それに給料は安いけど、仕事は必ず斡旋してくれるって」
「気は進まんが、紹介してくれるのなら一応行ってみる」
教会と神父の絵が描かれたチラシを手に取り、小さく唸る河合。
「God is always in the heart.いたら苦労しないさ」
「何か言った?」
「いや別に」
「おはよう」
溌剌とした笑顔で二人の前に現れたのは、笹島。
服装はジーンズにパーカーという、普段通り。
だが表情は違う。
昨日までの翳りやくすんだ色は、微かにも見られない。
前を向いて進む、その意気込みを湛えたその顔からは。
「バイトも決まったし、勉強も頑張らないとね」
「アカネ、急に大丈夫?」
「ええ。日本語を教えるんだから、簡単よ」
「そうならいいけど。サトルはこの通りよ」
苦笑気味に河合の肩を叩くアン。
重苦しい表情で、まだパンフレットを睨んでいる。
「改宗?」
「アンが、ここでバイトしろって」
「いいかもね。私達も、その内見に来ましょ」
「ええ。私、教会に連絡しておくから」
笑顔で自分の席へ戻っていくアン。
笹島は彼女に手を振りながら、席に付いた。
「楽しみね」
「どうしてバイトなんだよ。理事長が言ってただろ。まずは勉強に専念しろって」
「勿論、それが最優先よ。でも、駄目なの」
「まただ」
腕を組み唸る男と、何とも楽しそうな少女。
昨日までとは違う、色のある光景。
それを見つめる者達の視線の色は、定かではなかったが……。
胸元まであるゴムのズボンと、太いチューブの付いたスプレー。
頭にはタオルが巻かれ、腰にはブラシが下がっている。
「……何やってんだ、俺は」
スラム街の一角。
ゴミが散乱する、薄暗い路地の手前。
周りのアパートは薄汚れ、春の日差しも届かないのか翳りのある雰囲気を漂わせている。
何をするでもなく、道端に集まっている若者達。
それに注意を払う事もなく、アパートの入り口で座り続ける老人。
河合は市の管轄と聞かされている、その周辺の塀にスプレーを吹きかけていた。
派手な落書きに使用されているのは、洗剤では落ちない素材。
そのため市販の塗料では上書き出来ない、特殊な塗料でその上から塗りつぶているのだ。
落書きが非行化やスラム化の前兆とは20世紀末から言われていて、こうした行為はかなり有効とされている。
ただし落書きをしたのは10代のギャング達であり、不用意に消して回れば身の危険が及びかねない。
そのためどの地区でも消し手は少なく、警察やそれの委託を受けた業者が申し訳程度にやるのが多い。
勿論積極的に落書きを消していく組織も存在しており、現に河合がそうである。
いわゆる不良少年を更生する、という名目で教会が行う慈善事業の一つ。
資材や手当は公的機関が援助するため、道具や金銭で困る事は少ない。
身の危険を顧みず行う者がいればの話だが。
「いきなり襲われないとは思うが」
辺りを気にしつつ、ディフォルメされた熊の絵を消していく河合。
「三島だな、これは」
少し楽しかったらしく、ペースが上がる。
同時に、左足が後ろへ上がる。
喉元にかかとを突きつけられた男は、ナイフを落として手を挙げた。
「み、見えたのか」
「足音だ。人を襲うつもりなら、ブーツなんて履くな」
訳の分からない忠告をして足を戻す河合。
その間にも、落書きは消されていく。
「お前が書いたのか。これ消すのに、いくら掛かると思う。どれだけの人間に迷惑が掛かると思う」
「分かってるけど、つい。やる事もないし、親や教師はすぐ怒るし」
河合とさして変わらない年齢だろう。
破れたジーンズと、革ジャン。
髪を短く刈り上げた黒人で、格好いいと評してもいいくらいの顔立ち。
身長も高く、河合には負けるが見劣りはしない。
「落書きの理由にはならん」
「説教するなよ。お前、牧師か」
「ただの、雇われだ」
足元にある、教会のロゴが入った塗料の缶を見たのだろう。
河合はスイッチを切り、それを男に渡した。
「やれ」
「汚れる」
「塀を汚したのなら、お前も責任を取れ。クリーニング代くらい、出してやる」
逃げようとする男の襟を掴み、強引にスプレーを渡す。
「無茶苦茶だな、お前」
文句を言いつつ、だるそうに消し始める男。
河合は腕を組んで、それを後ろから見つめている。
「……少しは、綺麗になったかな」
「お前が判断する事じゃない。これを見た人が、判断するんだ」
「ああ」
男の表情が引き締まり、スプレーを持つ手に力がこもる。
顔や服に掛かる塗料。
それにもかまわず、男は落書きを消し続ける。
そして河合は、見守り続ける。
「……何してんだよ」
「急にいい子ちゃんか?」
路地の辺りから、柄の悪そうな男達がやってきた。
河合のクラスメートのような陰湿さは感じられないが、危険度は大差ない雰囲気だ。
「落書き出来ないじゃないかよ。おい」
「それとも、やらされてるのか?」
全員の視線が、男の後ろに立つ河合へと向けられる。
鋭い、獣のような眼差しが。
「仲間ってのはいいな。それが、少し間違えてるとしても」
「何?」
「邪魔するつもりなら、今すぐ掛かってこい。こいつの姿を見て、何も感じないのなら」
小馬鹿にした視線を河合へ向け、笑おうとする男達。
だが、笑い声は聞かれない。
笑顔も生まれない。
真剣に、一心に落書きを消す男。
彼等の存在にすら気付いていない彼を見て。
「分かったか。まだ言いたい事があるのなら、これで教えてやる」
塀の側に立ち、それに沿って拳を伸ばす河合。
乾いた音と共にはがれていく、その表面。
拳は当たっているのかいないのか、とにかくそこには拳と同じ幅の薄い穴が開いた。
「な、何だそれ」
「カ、カラテじゃないのか。ニホンの」
「そういえば、そういう顔だな」
驚嘆の表情で河合を見上げる男達。
彼等も決して小さくはないが、河合が大きすぎる。
その体格も、行動も、存在も。
「すごい奴が転校してきたって聞いたけど、お前の事だったのか」
「俺は、すごくない。普通だ」
「どこが」
どっと笑い、彼の肩を叩く男達。
先程までの怒りは、すっかり消えている。
「俺達だって、落書きが良くないのは分かってる。ただ、こうむしゃくしゃするんだよ。学校行っても相手にされなくて、街中では嫌な目で見られて」
「結局何するかっていったら、こういう事しかないだろ。ドラッグをやるまでは、落ちてないけどな」
「その金が無いって話だろ」
再び笑う男達。
河合は何度も頷き、男達の肩を一人ずつ叩いていった。
当然全員が顔をしかめ、彼を睨む。
「悪い。暇なら、お前らも消せよ。これなら金も出るし、面倒な仕事でもない」
「しかし、知り合いに見られたら恥ずかしいぜ。他のグループとかに」
「本当に恥ずかしいのはどっちか、すぐに分かる。今すぐ、教会に行って来い。落書きを消す以外にも、仕事はいくらでもある」
彼等を強引に送り出し、河合は男の肩に手を置いた。
「お前ももういいぞ。後は俺がやる」
「え……。ああ、そうか」
ほぼワンブロック。
派手な原色で書かれていた落書きは、全て消えている。
男はスプレーを河合へ渡し、上目遣いで彼を見上げた。
「ど、どうかな」
不安げな問い掛け。
河合は豪快に笑って、男の肩を叩いた。
「綺麗になった。お前のおかげで」
「俺の?」
「そうだ。お前の力で、ここは綺麗になった」
力強い、心のこもった言葉。
男は目を輝かせて、微かに頷いた。
「明日から、俺も手伝っていいかな」
「給料は安いぞ。それに、さっきの連中も言ってたが周りの目もある」
「構わない。俺は、やりたいんだ」
河合に負けないくらいの、力強い口調。
その眼差しは、真っ直ぐに彼の瞳を捉えている。
「とにかく、俺が判断する事じゃない。お前も教会へ行って来い」
「ああ。じゃあ、またな」
バネを生かした軽快な足取りで掛けていく男。
河合はそれを見送り、大きな塗料の缶や道具をバンの後ろへと詰めた。
「本当に、俺は何してんだ」
小さく漏れるささやき。
微かに緩んだ口元に、彼自身が気付いているかどうか。
少しずつ、変わり始めている事に。
自分も、そして周りも。
だが全ては、始まったばかりでしかない。