10-16
10-16
草薙高校近くの高級マンション。
その玄関脇にある、駐輪場。
小泉はヘルメットを抱え、バイクの前に立っていた。
「何してる」
「あ、清水さん」
「何をしていると聞いた」
腕を組み、真顔で彼を見つめる清水。
「新妻さん達が、拉致されたって」
「それで」
「僕は何も出来ませんけど、でも」
噛みしめられる唇。
革のグローブをした拳が、その太股に押し付けられる。
「仲間が助けに行っているんだろ」
「はい」
「それに傭兵といっても、私達とは違う考えを持った連中だ。人を殴るのを趣味としているような奴もいる」
「はい」
何度と無く同じ返事が返る。
表情は怯えと不安。
そして、決意。
「後ろに乗って」
「え?」
「君の運転じゃ、いつ着くか分からない」
「し、清水さん」
顔を伏せる小泉。
肩が震え、その足がゆっくりと踏み出す。
「僕、僕は……」
「い、いいから。私も、少しは気になっていた」
「は、はい」
清水はジャケットの上にあるボタンをしっかりと閉め、ジーンズの後ろにいれてあった革のグローブを付けた。
さらに足元の植え込みから、ヘルメットも出てくる。
「な、何も言わなくていいから」
「はい」
「素直な顔もしなくていい」
「はい」
恥ずかしそうに、そして誇らしげに彼女を見つめる。
清水も微かに頷いて、メタリックシルバーのレプリカバイクにまたがった。
「名古屋港だった?」
「ええ」
「リミッターをカットすれば、もう少しは速度が……」
メーター脇にあるディスプレイを見ていた清水の顔付きが変わる。
「前より、性能が良くなってる」
「僕は知りませんけど」
「余計な事をする子がいるんだ」
口元で呟き、ヘルメットを被る清水。
小泉もバイクにまたがり、手をシートにあるバンドへと添えた。
「だ、抱きつかないと」
「え。で、でも」
「く、空気抵抗をなくすために。ほ、本当にそれだけだから」
何かを堪えるような、かすれた声。
小泉はおそるおそる、彼女の細いウェストに手を回した。
「と、とばすから、しっかり掴まってて」
「は、はい」
その返事と同時に、路地のコーナーを消えるレプリカバイク。
クラクションと怒号を背に受け、二人の姿は南へと消えた。
予算編成局、局長室。
応接セットで向かい合う杉下と間。
落ち着きのない杉下。
間も、いつになく翳りを帯びた表情である。
「君から、抑えられないの」
「彼女達の居所を流したのは謝る。ただ、それ以降は関与していない」
「無理だという訳。いいよ、君には君の事情があるんだろうから」
落ち着いた口調。
杉下を責める様子はまるでない。
「理由を聞かないのか」
「話したくないんだろ」
「とにかく、俺を恨めばいい」
「君がそれを望むなら」
上目遣いで杉下を窺う間。
杉下は視線を逸らし、額を抑えた。
「疲れてる?」
「新妻さん達に比べれば、なんて事はない」
「そういうのは比べるんじゃなくて、人それぞれだよ。幸せの価値がそうなように」
「量は相対的さ。誰かが幸せになれば、誰かが悲しむ結果になる」
「僕はそう思っていないけど、君がそういうなら」
視線を逸らし続ける杉下。
ドアが不意に開き、血塗れの拳をかざした男が入ってくる。
「無防備だね」
「林君」
「峰山君に言われなかった?警備がぬるいと」
閉まりかけたドア越しに、派手な男のうずくまっている姿が見えた。
「二人いたんだけど、今は他に行っている」
「じゃあ、君達もそっちに行かないと。少なくとも、ここよりは安全だよ」
「分かった。杉下」
「ああ」
「誰」
「中国人です」
ネイティブな日本語。
阿川はドアを開け、警棒をその空間に振り下ろした。
「危ないな」
笑いつつ、肘でそれを受け止める林。
鈍い金属音が、ジャケットの下で聞こえる。
「軽い挨拶さ。それで君は」
「要人の警護」
林の後ろから出てくる、杉下と間。
阿川は軽く頷き、二人を招き入れた。
「どうなってる」
いつもより固い口調で尋ねる間。
天満は顔を上げ、怪訝そうにその後ろを見やった。
「俺は邪魔者かな」
「そうは言いませんけど、凪ちゃんの事を考えると」
「下らない感情にかまけている暇はない」
一言で切って捨てる杉下。
表情を曇らせた天満は、立ち上がって彼の前に詰め寄った。
「杉下さんにはつまらないかも知れないけど、凪ちゃんにとっては何よりも大事な事だった。それは、覚えておいてください」
「天満さん」
「だって」
「今は抑えましょう」
探るように視線を重ね合う杉下と大山。
先に視線を逸らしたのは大山で、そのまま床へ置かれた卓上端末を見下ろす。
「峰山君が掌握していない傭兵の方は、どうにか情報操作で混乱させました。後は、学校からの指示系統ですね」
「予算編成局がプールしている預金を、全額移動させればいい」
事も無げに言ってのける杉下。
自分の端末を操っていた峰山が、思わずといった具合に鼻で笑う。
「勿論俺の回線を使っては、すぐに気付かれる。でもここにある機材なら、アドレスや場所を転送するのも可能だ」
「そう簡単ではないですけどね」
大山が端末に触れると、照明が落ちネットワークの速度も一気に落ちた。
「こちらからの情報を、一切遮断しました。入ってくる物に関しても」
「使えそうなアドレスは」
「削除された、河合さん達のを」
大山が配った端末に表示される、いくつもの名前。
今はもういない、一つの目的のために去っていった人達。
「亡霊か」
低く呟く峰山。
微かに、読みとれない程切なげに。
しかし間は、はっきりと首を振った。
「仲間だよ」
「俺もそうだと?」
「少なくとも、今はね。これからどうするかは、君が決めればいい」
「脳天気な男と思っていたが、なかなか」
大山の時とは違う、複雑な視線の絡み合い。
それは、別な形で終わりを告げる。
「二人とも、いいから早く仕事して」
「あ、うん。それで、俺は何をすれば」
「えー。大山君、ちょっと教えてあげて」
「世話が焼ける先輩ですね。まずは直接口座に進入して、セキュリティを作動。その後で……」
生真面目な顔で、説明に聞き入る間。
大山達が言う通り、頼り甲斐があるとは思えない様子。
二人も困った物だという顔で、彼に説明をしている。
そんな彼等を、峰山は遠い眼差しで見つめていた。
「あの人達は、何をやってるんだか」
「たまには、人の事も気になるの?」
くすっと笑い、革製のグローブを撫でる山下。
そこから多少の声は聞こえてくるが、二人は端末で音楽を流しそれを聞こえないようにしている。
「そういう言い方は、止めて欲しいね。俺は、相手の自主性を尊重するだけだよ」
「世間ではそれを、冷たいっていうの」
「はいはい。俺は山下さんほど、優しくは無いですよ」
苦笑しかけた阿川は、口元に指を立ててドアを少し開けた。
「……来てる?」
「ぞろりぞろりと。ここは突き当たりだから、間違いない」
「林君は」
「いない」
そう言いざま部屋を出る阿川。
山下は目が合った大山に頷き、その後を追う。
「どうかした」
「いえ、続けて下さい。その後は、警察の回線へも進入します」
「捕まるわよ」
「合法的な範囲でやります。あくまでも、警察に協力する善良な市民として」
「どこが善良なの」
キーを打ちながら微かに笑う大山と天満。
誰もいないドアへ、視線を向けながら……。
10人あまりの突撃を、警棒で受け止める阿川。
その後ろでは山下が、例によりデトロイトスタイルで待ち構えている。
「二人じゃ、きついか」
「まあ、ね」
「何度も愚痴りたくないけど、風間君達がいれば」
「それを言うなら、左古さん達さ」
阿川の脇を抜けた男にローキックを見舞い、下がった顎に打ち下ろしの右。
呻き声すら上げられず、壁に叩き付けられる。
「ちっ、まだくるか」
コーナーを抜け向かってくる新手。
阿川は警棒を両手に持ち、右手を大きく振った。
一気に伸びたそれを横になぎ、3人程を床に崩れさせる。
その後に来た二人は、左手の警棒で顎を叩き付けられる。
「さすが」
「俺、案外器用なんだよ」
「それはいいけど、林君は。あの子がいれば、もう少しは……」
壁際を走り抜けようとした男の脇腹に前蹴りからのボディーブローを叩き込み、バックステップと同時に後ろ回し蹴りを放つ。
体をくの字に追って飛んでいく、別な男。
山下は息を整え、グローブを外した。
「どこから出てくるの」
「開いてたんでね」
「開けたんだろ」
鼻で笑い、警棒で奥の方のドアを指す阿川。
新手はそこから突然現れた林に後ろから襲われ、全員がよろめきながら逃げている。
「大山君以外は留守でよかったよ」
林は一人で頷き、血の付いた雑誌を床に捨てた。
「ここに関しては、しばらく大丈夫だろ」
「他にも襲われてるの?」
「まあね。詳しく言うと君達が困るから、止めておくけど」
「それでいい。俺達は、学校とのトラブルに巻き込まれる気はない」
あっさりと言う阿川。
山下が戸惑い気味に彼を見上げるが、阿川はいつも通り甘い笑顔を見せているだけだ。
「そこまで分かってるなら、俺も助かる。ただ言えるのは」
「なんだ」
「関わらなくて、正解だよ」
海沿いの道をひた走る、黒のRV車とネイキッドバイク。
先程までよりも速度は出ているが、その周囲には何台かの車も走っている。
「止める気かしら」
直接吹き込む向かい風に目を細めつつ、ハンドルを握る涼代。
後部座席では中川が、新妻の肩を抱いている。
「観貴さん、後少しですから」
「心配しなくても大丈夫よ」
「でもさっきから顔色悪いですよ。あそこ寒かったですからね」
彼女が羽織っている三島のジャケットの前を合わせ、そっと自分へと抱き寄せる。
「水葉、どう?」
「相変わらず、私は呼び捨て?とにかく、これ以上は無理ね。どこかへ、追い込まれそう」
「塩田君達は、まだ?」
「前には、何も見えない。あっ」
突然叫ぶ涼代。
それに反応して、中川も後ろを振り返る。
アクセルターンで180度向きを変える、三島のバイク。
そしてそのまま加速を加えて、ウイリーしたまますぐ後ろに迫っていたワゴンに突っ込んでいく。
浮き上がった前輪がボンネットを捉え、ジャックナイフの体勢で後輪も乗り上げる。
さらにそターンしたバイクは、そのままワゴンを乗り越えた。
「嘘……」
フロントガラスを割られ、視界を奪われるワゴン。
激しいブレーキ音と共に横滑りをして、後ろから近くの倉庫へと突っ込んだ。
ワゴンを完全に乗り越えた三島は再度向きを変え、新妻達の後ろに付く。
「サーカス?」
「さあ。私には何とも」
「これから、三島さんをからかうのは止めよう」
しみじみと呟く中川。
その三島が、車の隣へと並んだ。
「は、はい?」
「もう少し、加速出来ないか」
「そう、おっしゃってますが」
「無理言わないで。これでも、目一杯踏み込んでる」
怒鳴り気味に答える涼代。
風で声が流されるためだろうが、中川は恐る恐る三島の様子を窺った。
当然彼が怒る気配はなく、静かに頷いただけだ。
「後1台止めるから、先に行っててくれ」
「どうやって」
「いいから。すぐに、追いつく」
再び後ろを向く三島のバイク。
速度はさして速くないが、彼を狙って迫ってくる白のセダンはかなりの加速を見せている。
また向かい合って走っているため、両者の距離は加算的に縮まっていく。
先程三島が見せたアクションを、相当警戒しているのだろう。
確かにこの速度では、乗り上げた瞬間はじき飛ばされかねない。
「ここまでか」
一言呟き、バイクから飛び降りる三島。
主を失ったバイクは横倒しになり、その惰性で道路を滑っていく。
フロントガラス越しに見える、引きつったいくつもの顔。
セダンは勢いよく滑ってきたバイクに乗り上げ、白い煙をボンネットから噴き始めた。
ガソリンらしき液体が、辺りを濡らしていく。
皮パンのポケットに手を入れ、小さな箱を取り出す三島。
その指先が、箱の隅をこする。
まるでライターで火を点すように。
「わーっ」
車から飛び出て、慌てて散っていく男達。
三島は端末をポケットにしまい、車に近付いた。
そして車の前部に手を掛け、腰を落として一気に腕を持ち上げる。
「くっ」
赤らむ顔と、横にずれる白のセダン。
浮いているため支えやすい状態であるとはいえ、尋常な光景ではない。
鈍い音がして、地面に落とされた車が大きく跳ねる。
それには目もくれず、バイクを起こす三島。
数回の始動でエンジンが掛かり、素早く飛び乗った。
傷が付き、タンクはへこみ、マフラーは溶けている場所もある。
「お互い様だ」
三島はそう呟き、血の付いた頬を拭ってアクセルを開いた……。
「え、見つかった?は、はい。分かりました、はい」
「新妻さん達ですか」
「うん。追われてるけど、どうにか合流出来そうだって」
「そちらは、屋神さん達に任せましょう」
「本当に、何を考えてるんだか。生徒を襲ってどうするのよ」
文句を言いつつ、キーを打つ手を止める天満。
「新妻さん達は助かったようですし、これまでです。私達が介入した痕跡を気付かれたら、それを材料に退学させられかねません」
「我慢、我慢、我慢。限界じゃないの、そろそろ」
「お互い様です。先に学校の方が、じれたようですけどね」
「全く、どうしてこんな事に」
一瞬杉下を捉える天満の視線。
だがそれはすぐに伏せられ、指先がカーペットの上をなぞっていく。
「ここまでしないと、駄目なの?そんなに大事なの、生徒の自治は」
「自治のために我慢を強いる生活。確かに、意味がないといえばそうです」
「学校へ付く気になったか」
さりげなく声を掛ける峰山。
天満は険しい表情で、彼を睨み付けた。
「こんな事する学校に、どうして」
「学校が出した指示は、君達を翻意させる事。今回の件は、一部の暴走だ。無論それを黙認した理事や職員もいるだろうが」
「だったら」
「そういう連中を追い出したら、どうする。君も運営企画局で学校と付き合いがあるからわかるだろう。全員が全員、駄目な人間ではないと」
無機質な、しかしだからこそ事実のみを感じ取れる口調。
「だけど、私は」
「裏切れと言うんじゃない。学校の規則改正案が気に入らないなら、中から変えればいい。今のように、無駄な仕事まで押しつけられていては大変だろう」
「それは、そうだけど」
縦に振られる丸みの帯びた顎。
「今以上の権限と、潤沢な資金。そして馬鹿な奴は追い出し、学校と協力して学内を運営する。ある意味理想とも言える環境だ。君のアイディアを馬鹿にし続けた連中を見返す、いいチャンスでもある」
天満の表情が揺れ、その口元が微かに動く。
「面白い話ですけど、私は今の忙しさが結構好きですよ」
「大山君……。そうね。私も、そう思う」
小さく頷く天満。
大山は彼女の隣に立ち、まっすぐ峰山を見つめた。
「あなたの考えは面白いですし、実現出来るなら悪くない話です。最初聞いた時は、正直心が動きました」
「学校には付かないと」
「間さんに誘われる前に、話をしてほしかったですね」
「仲間は裏切れない、か。信念は立派だが、思った程頭は良くないな」
素っ気なく笑う峰山。
「という訳だ、杉下さん。俺達は俺達の道を行こう」
「ああ。最後に笑うのは誰か、楽しみだよ」
峰山の肩に手を置き、ドアへ向かう杉下。
そして靴を履きながら、声を掛ける。
「新学期まで君達が持ちこたえられるかどうか。勿論その後も、君達が不利なのには変わりないけれど」
「ただあなた達にも、おかしな連中が付いている。彼等が暴走すれば、そちらも立場は苦しくなりますよ。今回のようにね」
「心配しなくても、彼等は君達を狙う。いっそ、一緒に消えてもらってもいい」
そう言い残し、杉下はドアを出ていった。
「転校先でも見つけておくんだな。それとも、河合さんの後を追うか」
「考えておきましょう」
「推薦状くらいは書いてやる」
鼻先で笑い、彼の後に続く峰山。
天満はドアに拳をぶつけ、それを自分の頬へ当てた。
「何してるんです」
「少しでもぐらついた自分が馬鹿馬鹿しくて」
「あれは本当に悪くない考え方です。学校がここまでの事をした以上、今では素直に乗れないですが」
「もういい。……間さん、どうして黙ってるの」
「あ、俺もしゃべっていいの」
と、のんきに笑う間。
天満は固めた拳を胸元へ持っていき、小刻みに震えだした。
「あ、あのですね」
「冗談だよ。屋神君達と喋ってたから、ちょっと話を聞いて無くて」
「え、それじゃあ新妻さんは」
「聞くまでもないだろ」
すれちがう、黒のRV車と3台のバイク。
お互いはその場で止まり、そこに1台のネイキッドバイクがやってくる。
「なんだ、それ」
ヘルメットのシールドを上げる屋神。
三島は頬の血を拭い、アクセルをふかせた。
かすれた、ノッキング気味のエンジン音。
ウインカーは両方とも取れ、ハンドルグリップも右側はかなりすり減っている。
タンクやマフラーなどの傷は、言うまでもない。
「外見はともかく、まだ走れる」
「馬鹿か、お前は」
「かもな」
苦笑し合う二人。
「お前も車に乗って帰れ。警察もじきに来る」
陸地と埠頭をつなぐ大きな4車線の橋。
時折トラックが通っていくだけで、冷たい風とカモメ以外には何もない。
「警察が」
「善良な市民からの通報で、草薙高校と名古屋港の12号地に警察が大集合だ。勿論俺達も、見つかる前に逃げるけどな」
「しかし」
「うだうだ言ってるんじゃない」
強引に三島の巨体をバイクから降ろし、後ろの座席に放り込む。
「伊達、先行しろ」
「ああ」
短い返事と共に、青のレプリカバイクは急ターンを見せる。
伊達は即座にトップスピードへ乗せ、市街地へ続く道路を駆け抜けていった。
「塩田、後ろに付け」
「了解」
軽く手を振り、RV車の後ろに回る塩田。
「……俺も、バイクを置いて行くか」
屋神は自分のバイクを脇に寄せ、カードキーを抜いた。
そしてその隣に、廃車寸前となっている三島のバイクを並べる。
「涼代、代われ」
「あ、うん」
「大体、何でこれはフロントガラスがないんだ」
車の中に起こる、女の子達の笑い声。
青白い顔で震えている新妻さえも、楽しそうに笑っている。
「まあいいか。いくぞ」
「了解」
埠頭を抜けると、辺りは倉庫から工場へと風景を変える。
車やトラックの出入りが激しくなり、人の姿も少しずつではあるが見られるようになる。
「……分かった」
端末をポケットへ入れ、バックミラーを直す屋神。
「伊達が、警察とすれ違った。さすがにこれが見つかるとまずいから、一旦路地に入るぞ」
滑らかなコーナーリングで、鉄工所の脇にある道へ入っていく黒のRV車。
屋神はエンジンを切り、シートに大きくもたれた。
「新妻、大丈夫か」
「ええ。少し、熱っぽいだけ。ごめんなさい、迷惑掛けて」
「気にするな。連絡があれば助けると言ったのは俺だ」
「ありがとう」
小さく呟く新妻。
その頭が、彼女を抱いている中川の胸元へと傾く。
「……来たか」
サイレントと共に、目の前の通りを通り過ぎて行く数台のパトカーとバイク。
屋神は鼻で笑い、エンジンを掛けた。
そして窓から顔を出し、後ろにいる塩田を振り向く。
「塩田、行くぞ」
「ああ」
スロットに差してあるカードキーを押しかけた塩田の手が止まる。
「……誰か後ろに来てる」
「何も聞こえないけど」
「俺には聞こえるんだよ、水葉さん」
バイクを降りる塩田。
屋神も車から降りて、彼の隣に並ぶ。
薄暗い路地。
微かに見える人の影。
小さな足音が響く。
「どういう奴だ」
「金髪さ。見れば分かるだろ」
「俺にも見えないよ」
苦笑しつつ、腰を落とす屋神。
後ろの車では涼代が運転席に座り、いつでも走り出せる体勢を取っている。
「またあいつか。お前、好かれ過ぎだ」
「俺は今回、関係ないって。それで、どうする」
「勝てると思ってるから、つけ狙うんだ。相手してやれ」
擦り切れたジーンズと、薄い茶の革ジャン。
手に下がるのは、火花を散らす長いバトン。
ブーツの先端は、薄闇の中鈍い金属の光を放っている。
「よくもやってくれたな」
低い、唸るような声。
血走った細い眼差しが、火を噴くような勢いで向けられる。
「人さらいが、何言ってんだ」
それを鼻で笑う、ライダーズジャケット姿の塩田。
その顎先を男のつま先がかすめ、前髪が風に散る。
「……今日は、本気でやってやる」
「良く言うぜ。明日になったら、実はお腹が痛かったって言い訳するんだろ」
「ちっ」
風を切って横になぐバトン。
軽やかな跳躍でそれをかわした塩田は、男が握っているグリップに飛び乗った。
「なっ」
「遅いんだよ」
バック宙を切りながら、男の顎を蹴り上げる塩田。
彼がいない空間を、火花を上げてバトンが通り過ぎる。
「ほら、まだやるか」
「このっ」
胸元に入った手がきらめき、数本のナイフが空気を裂く。
塩田は半身を開いてそれを難なく避け、一気に男へ詰め寄った。
鳩尾へ飛んでくる前蹴りを膝で跳ね上げ、上を向いた太股の裏にショートアッパーを叩き込む。
「がっ」
「弱過ぎるよ、お前」
崩れた頭を貫くショートフック。
よろめきながら男が伸ばした貫手を掴み、そのまま肘を極める。
「ぐぅっ」
「実力の違いって奴か?もっと地道に、格闘技でもやってろ」
「こ、このっ」
肘の関節を自ら外した男は、密着している塩田の襟を掴み後ろへ引き込んだ。
そしてのその喉元へ、一本拳を突き立てる。
響き渡る絶叫。
飛び散る鮮血。
床に崩れる、鈍い肉の音。
「だから、道具に頼り過ぎなんだ」
頬に付いた返り血を手の甲で拭い、男に背を向ける塩田。
飛び付き腕ひしぎ逆十字からつないだ、顔面へのかかと蹴り。
入れ歯が辺りに飛び散り、男は壁づたいによろめきながら立ち上がった。
「き、貴様」
「俺も、そろそろ本気になるぞ。それでもいいのか」
塩田の手が、ジャケットの胸ポケットに入る。
その輝きから分かる、長い刃物。
後は手首を返すだけで、それはどこへでも突き刺さる。
「こっちは急いでるんだ。やりたいなら、早くやろうぜ」
「上等だ。お前は……」
そこで途切れる男の台詞。
再び地面に崩れた男はもう起き上がる事無く、手足をわずかに震わせている。
「ど、どうしましょう」
「自分で言うな」
「だ、だけど」
角材を両手で持ち、困惑する小泉。
先端には血が付き、彼の震えが全体に伝わっている。
投げ捨てようにも手は動かず、顔は強ばるばかりだ。
清水は彼の指を一本一本離して、角材を床へ放った。
「あ。す、済みません」
「謝る必要はない」
「は、はい。済みません」
「も、もういい」
拗ねる清水と、落ち込む小泉。
蚊帳の外におかれた塩田は、白けきった表情でポケットから手を離した。
「何だよ、お前ら」
「助けられたんだから、礼くらい言ったら」
「礼って、俺は別に……」
肩を落とし、一人謝る小泉。
それは床に崩れる男へか、危険を冒してまで自分を連れてくれた清水へか。
相手を取られて呆然としている塩田へか。
それとも、自分自身のふがいなさへか。
「ま、まあ助かったよ。あ、ありがとう」
「え。で、でも」
「本人がそう言ってるんだ。素直に、喜べばいい」
優しく微笑み、小泉の肩に触れる清水。
小泉も顔を上げ、上目遣いに彼女を見つめた。
「ぼ、僕こそ、ありがとうございます」
「気にしなくていい」
息が掛かるような距離で見つめ合う二人。
お互いの鼓動が聞こえるような、そんな距離で。
赤らむ顔、速まる呼吸。
そして。
「おい、何してんだよ」
「あ、屋神さん」
「あ、じゃない」
塩田に代わって二人の前に立つ屋神。
「お前ら、伊達とはすれ違わなかったのか。後、警察」
「伊達は警察を連れて、辺りを逃げ回ってる」
「俺達が見つからないように?あいつも、格好付けやがって」
舌を鳴らし、屋神は車へと乗り込んだ。
「お前ら、前に行け。塩田は後ろだ」
「で、でも」
「どうせ俺達を助けに来たんだろ。最後まで面倒見て行けよ」
「は、はい」
満面の笑みで、シルバーメタリックのバイクにまたがる小泉。
そうなると、清水が後ろに乗る事となる。
「あ……」
「も、もういいから。ほら、早く」
「は、はい」
緩やかに加速するバイク。
その後を、黒のRV車と塩田のバイクが追う形となる。
路地を出て表通りを走る車両。
どこから来たのか、いつの間にか後ろには伊達が付いている。
前方には市街地が見え始め、周りにはトラックよりも乗用車が目立ち始める。
「観貴さん」
「向こうはどうなってる」
体を起こし、前の座席へ身を乗り出す新妻。
屋神は自分の端末を見せ、風になびく髪をかき上げた。
「襲ってきた連中は、阿川達が抑えた。こっちへの追っ手も、止めたそうだ」
「そう。どちらにしろ、学校との関係は最悪になったわね」
「元々さ」
鈍い音を立てるハンドル。
新妻は彼の耳元へ顔を寄せた。
「おかしな事、考えてないでしょうね」
「さあな」
素っ気ない言葉と共に加速するRV車。
「どうかしたんですか」
「このまま走ってると恥ずかしいって」
「ああ、なるほど」
簡単に納得する中川。
新妻は薄く笑って、再び彼女に体を預けた。
その隣では三島が、無表情に外の光景を眺めている。
「三島さんは寒くないんですか」
「気にはならない」
「さすがは、ク……」
そこで止められる言葉。
三島はやはり表情を変えず、外を眺めている。
「後ろは何してるのよ」
「さあな」
「愛想無いわね」
「元々だ」
屋神の台詞は、やはり素っ気ない。
「どうするの、これから」
「聞きたいか」
「ええ」
フロントガラスの無い正面から吹き込む冬の風。
周囲から向けられる奇異な視線を気に留める様子もなく、まっすぐに前を向く涼代。
髪がなびこうと、風が頬を打とうと。
背筋を伸ばし前を向く。
「話す程の事じゃない」
「そう」
「タクシーに乗り換えるか。さすがにこれは寒い」
前のバイクにパッシングして、道路脇に止まるRV車。
全員を降ろした屋神はそれを路地裏に乗り捨て、表の通りへ戻ってきた。
「もし警察が事情聴取に来たら、俺の名前を出せ。こっちであしらう」
「ええ」
「三島。お前は新妻を連れて、病院へ行け」
「私は大丈夫よ」
小さく首を振る新妻。
「凪さん、三島君をお願い」
「え、でも」
「まあいい。三島」
「ああ」
タイミング良くやってきたタクシーに乗り込む二人。
何が言いたげな中川の顔は、見る見る遠ざかっていく。
「屋神さん、俺達は」
「先に帰ってくれ。俺達も、すぐに戻る」
「分かった」
タクシーの後を追う3台のバイク。
屋神は壁にもたれ、三島のジャケットを羽織っている新妻に視線を向けた。
「薬は」
「さっき飲んだわ。あなたこそ、顔色悪いわよ」
「車に酔ったんだろ」
淡々とした口調で答える屋神。
新妻は彼の隣に収まり、流れていく車の行き先を眺めていた。
「水葉さんも聞いていたけど、言えないの?」
「杉下は、いちいち自分の気持ちを話したか?」
「同じ道を歩むつもりかしら」
「今回は助かったが、明日は我が身だ。寝込みを襲われたら、こっちはひとたまりもない」
自嘲気味な呟き。
目の前を空車のタクシーが通り過ぎていく。
「何でも出来るというか、どうにかなると思ってた。それが、この様だ。三島がいなかったら、正直危なかった」
「でも、私達は助かったわ」
「結果的に、だ。次もこうとは限らない。それに、狙われ続けるのにも疲れた」
長いため息。
狼を思わせる精悍な顔が、微かに翳る。
「らしくない事言うのね。この間までとは、全然違う」
「人は変わる。杉下のようにな」
「自分は変わっていないって、彼は言ってたわ」
「なら、そうなんだろう。とにかく、俺は疲れた」
ジーンズを手を入れ、背を丸める屋神。
風に揺れる前髪が、その視線を覆う。
「俺はお前程強くもないし、信念もない。うぬぼれでここまでリーダー面してたが、限界だ」
「それが許される立場だと思う?」
「俺がいなくても、何とかなる。後はお前と涼代で仕切ればいい」
「能力ではなくて、精神的な……」
言葉を切り、額を抑える新妻。
足元がふらつき、その場に崩れそうになる。
屋神もそれには、顔色を変えて彼女の体を抱き留めた。
「やっぱり病院に行くぞ。お前が、何を言おうと」
「後は私に任せるんじゃなかったの」
「下らない事言うな」
その胸に顔を埋める新妻と、険しい顔でタクシーを待つ屋神。
風は冷たくて、そして乾いて。
車は目の前を通り過ぎていく。
草薙高校医療部内診察室。
トランクス1枚で、脇腹にテーピングを巻き付けている三島。
両腕両足には包帯が巻かれ、頬にもガーゼが張り付けられている。
そして壁には何故か、釣り竿が立て掛けられてある。
「骨折はないけれど、左の足首はしばらく固定しておくように」
「はい」
「数日はトレーニングも禁止。いいね」
小さく頷き、三島はシャツを着始めた。
それを見て、額の薄くなった緑医師がため息を付く。
「この間言った通り、警察に通報する。その脇腹は、スタンガンでやられたんだろ」
「ええ」
「さっきから警察がうろうろしてるし。急に荒れ始めたね、この学校は」
「はあ」
ぶっきらぼうに頷く三島。
彼の意図はともかく、他人からはそう取られても仕方ない態度である。
「それと新妻さんは、入院させる。事情は知らないけど、あの子を無理させないように」
「はい」
「よろしい。君は帰っていいから、しばらく大人しくしていなさい」
「ありがとうございました」
診察室の外で待っていた涼代と中川が、彼を出迎える。
「俺は大丈夫だ。それより、新妻は」
「疲れて熱が出ただけだって。人の事より、自分を心配したら」
「ああ」
「どうでもいいって顔ね」
苦笑してジャケットを手渡す涼代。
三島はそれを肩に掛け、小さく息を付いた。
「あら、着させた方が良かった?」
「そうじゃない」
「疲れたんだろ」
適当に答える塩田。
隣にいた伊達に「なあ」と振るが、彼は頷きもしない。
「なんだよ、愛想無いな」
「塩田君が、元気過ぎるんじゃない」
「悪かったな」
牙を剥いた塩田を無視して、中川は涼代の耳元にささやいた。
「屋神さんは」
「先に帰った」
「何かあったの?」
「さあ」
やる気のない一言。
中川も適当に頷き、静かに歩き出した。
「新妻さんの様子見てきます」
「私も。塩田君達は、三島君を送ってあげて」
「ああ」
医療部内の病室。
ドアの外には「面会をご遠慮下さい」との札が掛かり、その前で引き返す涼代と中川の姿があった。
長期入院を想定していない施設だが、設備としては一般病院と変わらない物が揃っている。
白いベッドに横たわる新妻。
力無い視線は、薄暗い天井を見つめている。
ベッド脇に下がる点滴パック、絶え間なく聞こえる小さなアラーム音。
窓にはブラインドがおり、まだ明るいはずの外は微かにも見えない。
赤らんだ頬と、額に浮かぶ汗。
熱っぽい息づかい。
彼女の状態は常時モニターされ、ナースセンターと病室内のディスプレイに表示されている。
体温や心拍は平常値を越えているが、看護婦が駆けつける程の数値ではないらしい。
新妻の表情は苦しげで、息をするのも辛そうな様子である。
寝返りも打たず、微かに手を動かす事もなく。
あるのはかすれた呼吸と、無機質なアラーム音。
そして力無い眼差し。
やがてその瞳も閉じられ、病室には音だけの光景が続く。
新妻が今まで過ごしてきた日常が。
淡々と、いつまでも。