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事件は、アエトスからコロニー間連絡シャトルα環状線で二駅ほど離れている、衛星都市グラウクスで起こった――。
読書するのに適切な温度と湿度、光度を備えた空間には百人あまりの学生が、身動ぎもせずにひしめいていた。
学生たちは皆、前方の大スクリーンを凝視している。スクリーンには宇宙に青く浮かぶ地球を背景に、回転する5つの円筒形の金属塊――コロニーが映っていた。
その一つにグラウクスという名がつけられていることを、この場にいる学生たちはみな知っている。グラウクスは70億もの人間が生活の場としている地球と比べればちっぽけなものだが、ここにいる学生たちを含め、100万人の生活空間である。
グラウクスとはギリシア語でふくろうを意味し、ギリシア神話の戦と知恵の女神アテナが愛でた鳥である。グラウクスはその名に相応しく、学究施設集中衛星都市として建造され、機能していた。
グラウクスに設置されている500ほどのスクールの中の一つの、さらに一つの講義室で、基礎コロニー構造学という授業が行われていた。
その日、外では雨が降っていた。
雨といっても無論、自然の雨ではない。コロニーの中の天候はすべて気象監理局によって制御されている。今、地面を濡らしているのは、コロニー内の植物への、計算しつくされ予告された慈雨だった。
雨を降らせるのはまた、人間のためでもある。雨は大気中にマイナスイオンを増やし、人間の精神を安定させる。また、埃や塵を取り除いて空気を清浄にする役割をも果たす。密閉空間であるコロニーでは、空気が汚れてしまうことが、何よりも恐ろしい。……といったような取ってつけたような理由は幾つも挙げられるが、何よりも地球上の環境の再現、という意味が一番強い。
地球に抱かれて育った人類は、宇宙へ飛び出した今でも、母なる星の環境を脱却しきれていない――基礎コロニー構造学の講義を聴く学生たちの大半は、先週の「コロニーの気象」という題目の講義を頭に思い浮かべていた。
いつも、そうだ。人生のおおよそを地球で過ごした第一世代たちは、ありとあらゆる現象から、人類は地球を離れることはできないという結論を導き出したがる。学生の大半を占める、コロニー生れの第三世代には、それが滑稽にも思える。そして、それは毎日のように繰り返さる。
そんなマンネリズムの渦に、からみとられた学生たちの思考力はほぼ麻痺状態に陥っていた。
だから、一人の学生が席を立った時もたいして気を留めないでいた。IDカードといった貴重品や、ペンケース、テキストの入っている鞄はそのまま放置され、ましてやこの時代、ノート代わりになっているスレート(携帯端末)のスイッチはついたままだったのだ。誰もがその学生がトイレか何かのために、一時的に席を離れたのだと思っていた。
だが、その学生、マリアーダ=レジンはそれ以来、姿を消してしまったのである。
クロードは、被調査者の少女を勝手ながらマリアと呼ぶことにした。マリアーダ=レジンを知る人は彼女のことをそう呼んでいるからだ。
アエトスにあるマリアの自宅を訪れた後、クロードは現場であるグラウクスに向かった。
先に現場へ行かなかったのは、そこがスクールの講義室で、まだ講義時間だったからである。
クロードは街灯に寄りかかり、立体写真のスイッチを入れた。掌にすっぽり収まるプリズムキューブの上に像が結ばれる。
はにかむような笑いを浮かべた、目鼻立ちから16という年齢より幼く見えるその少女は、くすんだ金色の髪をあざやかな赤のスカーフでひとつにまとめ、グレーのTシャツの上にスカーフに合わせたのか赤を基調としたチェックの薄いブラウスを、ラフに羽織っていた。
マリアが失踪する直前の服装である。彼女の友人たちの証言を元に作られたモンタージュ立体写真だ。
スイッチをオフにして映像を消し、目を閉じる。手元にある情報をじっくりと検討するためだ。
両親の話と受け取ったファイルによれば、マリアが姿を消した時、グラウクスでは雨が降っていた。
雨は、いまや完全に制御されている。グラウクスで雨が降るのは、学究衛星都市という事情からスクールの講義中に限られていた。通学時や昼休みには決して雨は降らない。だから学生たちは、傘を持たずに家を出ることもできる。
マリアもその日、傘を持って来なかった。失踪を悟られないためだろうか。だとすれば、雨に濡れながら歩いているマリアを見かけた者がいるはずだった。歩いているとしたのは、彼女が交通機関を使えなかったと断定したからだ。
浮上車といった公共の交通機関を利用するにはIDカードが必要となる。マリアのカードは講義室に残っていたのだから浮上車は使えない。公共の乗り物の便がいいグラウクスで所有を許可される個人の乗り物は、免許も燃料もいらない自転車に限られていた。しかし、マリアは自転車を持っておらず、他の自転車を使った形跡、つまり自転車の盗難届けも出ていない。
「ラファイト調査員ですか?」
めったに呼ばれない姓を呼ばれて、クロードは目を開ける。黒い髪が視界で揺れた。そこに面長の女が立っていた。モンゴロイド然とした一重のきつい目がクロードを見つめている。
「汎衛星都市連盟市民課グラウクス支局のユイリ=シーグラフです。今回、協力員を勤めさせていただきます」
クロードは半瞬、眉をひそめた。が、他人に感情の揺れを悟られるのを是としない彼は、すぐに元のポーカーフェイスをつくろった。
特定のパートナーを持たないクロードのような調査員が仕事をする場合、現地に詳しい協力員がつくことが多い。しかし、調査が進んでから顔を出すパートナーなど今までいなかった。その上、今回の仕事でパートナーがつくなど、ナイエルは一言も言っていない。だからクロードらしくなく、あからさまに訝しげな表情をしてしまったのだ。
ユイリと名乗った自称協力員は、IDカードをクロードに提示した。不審感からクロードはいつも以上にじっくりとカードを確かめた。本物のカードだった。クロードもIDカードをジャケットの内ポケットから取り出して見せる。
「どうして俺がクロード=ラファイトだと判った?」
「マクトール室長からいただいたファイルがありましたので」
クロードの左眉が跳ね上がる。
「室長に会ったのか?」
「はい。標準時でつい2時間ほど前に」
室長が協力員にじかに会うなど聞いたこともない。が、IDカードも確認したし、後で調べておけばよいと思いなおした。この場で室長に連絡を執ったら、ユイリを信用していないと言い放ったも同然である。これからしばらくパートナーを組むかもしれない者としてはそんな事態は避けたかった。
疑問をのどの奥にしまうとクロードは寄りかかっていた街灯から背を離し、ユイリに右手をさしだした。
「まあ、しばらくの間よろしく。ところで、この事件のファイルに目を通してきたか?」
「ひととおり」
クロードの手を握りながら簡潔によどみなくユイリが答える。
そんな物腰となまじ整った容貌が冷たい印象を与えた。が、クロードはひとときの相棒につきあいやすさまで望む気はなかった。要は有能であればいい。
「じゃあ、話は早い。マリアーダ嬢失踪の日、雨が降っていたことは読んだな」
「はい」
「傘をささない歩行者の目撃証言を集めようと思うんだが」
「無意味です」
クロードの考えを検討する素振りさえ見せず、ユイリはきっぱりと言った。さすがのクロードもこれには辟易した。もちろん彼の性分からそんな素振りは外に現さないが。
「……根拠は?」
しばしの沈黙の後、クロードが問う。するとユイリは相好を崩し声をひそめて言った。
「その前に何処かのカフェにでも入りましょう。道の往来では人の目をひきます。これはFSSファイル扱いですからね」
FSSファイルとユイリが口にした時に彼女の瞳の奥できらめいたものを、クロードは見逃さなかった。