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「いまいましいエアコンめ」
うっすら汗をかいたナイエルは、肌にはりつき始めた髪をかきあげつつ、自分以上に役割を果たしている空調設備に悪態をついていた。
この建物の温度が『造られた』夏からあまりはずれないよう、外気温より3度だけ低い温度に保たれているのは、ナイエルも知っている。だが、現在の室温が正確に何度だか判らないが、体を動かしていると少し暑く感じられるのは、変えられない事実だ。
「これじゃ、仕事の能率が落ちるじゃないか」
日頃は、能率を上げるなどということは考えようとすらしないくせに、こういうときだけ、ぼやいてみたりする。
ナイエルは、靴のかかとを打ちつけて床を鳴らすことで、ささやかな不満の解消を試みた。
これも「地球環境適応力の維持提唱」のせいである。民間の施設ならともかく、立派に公的な施設である連盟合同庁舎内の空調設備は、提唱に反することもできず「外気温より3度低い温度」を順守していた。
慣れないタイを締めたが、こんなところにいるのには訳があった。上司の指示を同僚に伝えるため、久々に出勤してきたのだ。
彼の仕事場は、やたらと暑いこの連盟合同庁舎の中にある。とてもそうは見えないが、ナイエルはこれでも栄えある連盟の職員であり、連盟市民の公僕なのだ。
中央エレベーターを23階で降りる。左斜め後ろが、目指す市民課調査班別室のドアだ。
ナイエルが「調査班別室」のプレートが掲げられているドアの前に立つ。センサーが彼の携帯しているIDカードの情報を読みとり、身元を瞬時に確認すると、ドアがスライドした。
6名の班員のデスクと情報検索に使われる卓上端末が2台置かれたその部屋は、薄暗かった。ブラインドを下ろし夏の日光(に模した人工の光)を締め出しているのにもかかわらず、部屋の照明を落としているためだ。
目を凝らすと、一人の人間が中央の席に座っているのが見えた。ナイエルにはそれが誰だか明りをつけるまでもなく判った。
薄暗い部屋で足と腕を組み、目を閉じてうつむくように顔を下に向け、じっとしている。それだけならともかく、そいつはこの暑いさなかに長袖のジャケットを着こみ、シャツの第一ボタンをきっちりはめた上にネクタイまで締めているのだから、たまらない。知人の多いナイエルだが、こんなことをする人間は一人しか知らなかった。
「クロード」
窓に近づき、わざとらしく大きな音を立ててブラインドを上げる。名を呼ばれた男、クロードは俳優でも気取っているように大きく頭を振ると、目を開けた。
「ナイエルか」
呼ばれた時点で相手は判っているだろうに、わざわざ言い、クロードは癖のある前髪を弾くようにしてはらった。あっけにとられるほど気障な仕草だ。気になる女の前でならナイエルでもこれぐらいのことはやってのけるが、クロードはこれが普通なのだ。
「相変わらず暑そうな格好だな、せめてジャケットぐらいは脱いでくれよ」
抗議しつつ、ナイエルはタイを緩めた。廊下でこれをやると連盟職員としての自覚がないとかなんとか騒ぐ連中がいるので、仕方なく締めていただけなのだ。
クロードは、そんなナイエルをつまらなさそうに一瞥する。
「俺は暑いとは思わない。だから着ているだけだ」
無愛想な物言いだ。が、ナイエルはそんなクロードに慣れていたので特に気も留めず、同僚の肩ごしに、窓の外へ目をやることができた。そこには、摩天楼だらけの大地が少しめくれ上がって見える、というコロニー独特の景観があった。
地球と月の間のラグランジュ・ポイント(重力均衡地帯)に浮かぶ、いずれも鳥の名がつけられた5つのコロニーは、汎衛星都市連盟という組織によって束ねられている。連盟の建物はアエトスというコロニーに集中していた。
ナイエルやクロードが所属している市民課調査班別室がある建物も、御多分にもれずアエトス上にあった。
暑いとナイエルが嘆くアエトスの季節は、現在、夏に設定されている。
コロニー内の環境を変化させ、四季を作り出すのは一見無意味なことに思えるが、地球の環境に体を慣れさせておくということでは、おおいに意味がある。衛星都市市民には地球に戻れるあてなど、今の所ないのだが……。
窓の外に見入っているナイエルに、何かしら興味を抱いたのだろう。クロードにしては珍しく、彼の方から声をかけた。
「外なんか眺めてどうした? 見なれた風景だろ、今さら新発見があるとは思えんが」
「ああ……」
曖昧に応え、ナイエルは続けた。
「コロニーなんて限りのある閉鎖空間なんだよな。他のコロニーに行こうとすればIDカードで足がついちまう」
コロニー間の移動にはシャトルを使用する。シャトルに乗るには、IDカードが必要だ。IDカードを使えばどこかに記録が残るので、衛星都市市民が失踪するには一つのコロニーにとどまるしかない。
「……クロード、一つのコロニーの中で人が失踪し続けることに意義があると思うか?」
「仕事か?」
クロードはナイエルの問いを問いで返した。ナイエルが期待していたのは答えではなかったので、それで良かった。
「ああ」
と、肯定を示してナイエルは続ける。
「レジン最高議会議員は知っているだろう」
「議会ではハト派で通っているな。政治家なんて裏で一つや二つ汚いことをやっているものだが、彼に限ってはそんなことは聞こえてこない」
「彼の娘、マリアーダ嬢が失踪した。失踪宣言書を残してな」
「ハッ!」
クロードは不満げに息を吐き出すと、まくしたてた。
「それは市民課の管轄じゃない。うちはあくまでも汎衛星都市連盟一般市民のトラブルを扱う、それが誇りだといって俺を口説いたのは、おまえだったよな。政治家なんて、一種、特権階級の人間は民間のトラブルコンダクターを雇うがいいさ。その方がよっぽどいい働きをしてくれるだろうぜ」
クロードはいつものポーズ――目を閉じて腕と足を組む――をとった。情報は受け入れるが、それについてなんら反応はしないという意志の表明だ。この状態に入ってしまったクロードの注意を再び外に向けさせる方法を、ナイエルは知っていた。
「これは、市民課を通して入ってきた仕事じゃない。マクトール室長から直々に仰せつかった仕事だ」
思った通り、クロードの左眉が跳ね上がった。
「FSSファイルか?」
心中でほくそ笑みながらナイエルは応じる。
「そうだ」
FSSファイルとは第一級機密保持ファイルの略である。これに分類される事件は普通の調査員では扱えない。例えば、クロードのような特別調査員だけが扱えるのだ。
クロードは組んでいた腕と足をとき、ため息をつきながら髪をかきあげた。
「連盟はまた俺に働かせようっていうのか。確かに俺は連盟に借りはあるんだがな」
愚痴っぽく言うクロード。しかし、いくら愚痴を言ったところで、彼には仕事を引き受ける以外の道は残されていないのだ。
「さっそくファイルを渡してもらおうか。FSSなら、俺が動かないわけにはいくまい」