表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/10

第九話 夜明

 フェンリルは暗闇にいた。遠くの方で波の音が聞こえてくる。ゆっくりと浮上する意識に合わせ、瞼を開いた。柔らかなベッドの感触と、嗅ぎなれた匂い。どうやら自室のようだ。手をついて身を起こせば、かけられていた毛布がまくれた。

 窓の外を見れば、空はいまだ紺碧色に輝いている。ふと視線を動かせば、端の方がほんの少し淡く染まっていた。夜明けが近づいてきているのだ。フェンリルが取り戻した記憶を語った時から、大分時間が過ぎていた。

 ベッドから立ち上がり、窓を開ける。深呼吸すれば潮の匂いが胸一杯に広がった。その場で腕をぐっと上げ、体をほぐす。このまま部屋にいては、恐らく誰かがやって来てしまうだろう。今は、一人でいたかった。


「これなら、いけるかな」


 窓から身を乗り出すと、フェンリルは屋根のへりを確認する。そのまま下の窓枠に足をかけ、上の窓枠を掴んだ。そして体を捻って反転すれば、フェンリルは食堂の壁に張り付いたようになった。尻尾が虚空に投げ出され、夜特有のひんやりとした空気にさらされる。その状態で屋根のヘリを片手で掴み、窓枠を蹴った勢いで屋根に上がった。


「よっと」


 軽い音を立てて着地する。屋根の中ほどまで進むと、フェンリルはそこへ腰かけた。ここならまぁ、そう簡単に見つかることはないはずだ。風に吹かれると、少々肌寒い。そう言えば、上着を着てくるのを忘れてしまった。だが取りに行くほどでもないか、と思いフェンリルは諦めて空を眺めた。

 正直に言えば、記憶を取り戻したことを後悔していた。記憶を取り戻してしまったことで、ハティを傷つけてしまった。語り終えた時の、あのハティの顔が脳裏に焼き付いている。茫然としたような、絶望したようなあの顔。そんな顔をさせたかった訳じゃないのに。

 フェンリルは手を眼前に掲げた。確かにあの夜、伯父を手にかけたのだ。そう思えば、綺麗なはずの手が紅く染まっている幻影さえ見えた。どんな言葉を並びたてても、何一つ戻って来はしない。不幸な事故だと、誰が悪い訳でもないと思えば思うほど、やり場のない悲しみや怒り、苦しみがフェンリルを苛んだ。


「あれ、フェン? どこ行ったのかな……」


 開け放したままの窓から、エレンの声が聞こえた。部屋にやって来たら、いるはずのフェンリルがいなかったことに驚いているのだろう。その声は不安そうに震えていた。心配してくれていることが以前なら嬉しかった。でも今は、余計に胸が苦しくなるだけだった。

 見つからないフェンリルのことを諦めたのか、エレンは部屋を立ち去ったようだ。軽い足音が聞こえてすぐに、扉の閉まる音がした。今は一人でいたい。それは一時的なものだと思っていた。なのに、このまま消えてしまいたいと思っている自分に気づいて、フェンリルは瞳を閉じた。これでは、伯父と同じだ。同じ過ちだけは、繰り返したくなかった。

 だが、瞳を閉じたのは逆効果だった。暗闇に閉ざされれば、嫌でも伯父の最後の光景が目に浮かぶ。紅く染められた顔の中、微笑みを浮かべた伯父の瞳の光が失われていく瞬間が繰り返しよみがえる。頭を振ってそれを振り払った時、耳がぴくりと反応した。扉を開ける音だ。それも、フェンリルの部屋からではない。食堂の入口からだった。

 出てきたのは、エレンだった。何故か手にはフェンリルの上着と毛布を持っている。きょろきょろとあたりを見回してから、エレンは頭上を見上げた。紫の大きな瞳と目が合う。二度三度とエレンが瞬きした。


「フェン、どうやって上ったのー?」


 腕をぶんぶんと振って声をあげるエレンに、フェンリルは答えられなかった。膝を立て、顔をうずめる。今は話したくないという意思表示だった。しかしエレンの様子はどうにもおかしい。何事かを呟いている。何をするつもりなのか気になって顔を上げれば、エレンの笑みが目に入った。

 エレンが何事かを呟いていたのは、魔術のためのようだった。足元の魔術の陣が光ると共に、エレンの背中に光が集まった。次の瞬間、光が弾けて翼が現れる。夜明け近くの薄闇を切り裂くような眩い光を放つ、翼だ。エレンが軽く地面を蹴れば、その体が宙に浮いた。


「ごめんね。来ちゃった」


 飛び立つのと同じくらい、軽い音を立ててエレンが屋根に着地する。金の髪がふわりと浮き、背中の翼が消えた。再び、辺りは薄闇に包まれる。座り込んだままのフェンリルに近付いて、そっと肩に柔らかく暖かな手を置いた。


「すごく冷えてるよ。ほら、これかけて」


 反応を返さないフェンリルを気にする様子もなく、エレンは持っていた上着と毛布をフェンリルの肩にかけた。エレンが抱きしめていたためか、それはほんのり暖かい。その優しさが、辛かった。それが耐えがたくて、フェンリルは再び膝に顔をうずめた。


「話したくなかったら、無理に話さなくていいよ。だからかわりに、私の話を聞いて欲しいの」


 フェンリルの隣に腰かけたエレンは、自身も毛布にくるまって話しだした。美しい声で、歌うように言葉を紡ぐ。聞きたくない一心で耳を伏せた。それでも至近距離からのエレンの声は嫌でも耳に入ってくる。


「私たち、この街の出身じゃないんだ。生まれた所は、この街の傍にある山を越えた向こう側にあった、小さな村だったの」


 過去形で表現されたことに、フェンリルは違和感を覚えた。まるで、もうその村がないようだ。つい、頭を上げて訝しげな視線を向けたフェンリルの顔を見て、エレンが困ったように笑う。


「私が五歳くらいの時かな、いきなり村に強盗団が襲ってきたのは。身を守る術も何も持っていなかった村の皆は、そのヒトたちに殺されていった」


 想像しただけで、恐ろしい光景だった。紅く染まる、さっきまで生きて笑っていたはずの人びと。その全てが地に倒れ伏している様を、エレンはそんな小さな時に見たのだろうか。だとしたら、どれほど恐ろしかっただろう。


「私たちは両親の手で小さな棚に押し込まれて、絶対に出てきちゃ駄目だって言い聞かされた。その後は、言わなくてもわかるよね。真っ暗闇で何も見えない中、必死に息を殺してた。耳を塞いで、それでも聞こえてくる音が怖かった。私も次はああなるんじゃないかって」


 淡々と語るエレンの表情には、恐怖も何も浮かんでいない。すでに、エレンの中では昇華されている出来事なのかもしれない。そう思ったフェンリルは、膝の上に重ねて置かれたエレンの手に力が込められていることに気づく。思わず息を呑んだ。


「しばらくして、外が騒がしくなった。何だろうと思ったけど、出るのも怖くてじっとうずくまってたら、扉がほんの少し開いたの。そこにいたのは、強盗団じゃなかった。強盗団の話を聞いて駆けつけてくれた、この街のヒトたちだった」


 その時エレンは、どれほどほっとしたことだろうか。死の恐怖と闘っていた小さな女の子が今、こうして隣にいることは奇跡の連続で成り立っていることなのだ。一歩間違えばここに、エレンはいなかったかもしれない。


「その後、私たちはここに引き取られたんだよ。最初はね、何もかも嫌だった。皆を殺した強盗団はもういない。助けてくれたヒトを恨んだこともあるの。もう少し来るのが早ければ、皆は助かってたかもしれないって」


 この明るく、ヒトのことを真剣に考えてくれるエレンにもそんな時期があったのかと思うと不思議な気分になった。当たり前のことなのに、そんなことをすっかり忘れていた気がする。

 エレンは、フェンリルを真っ直ぐに見つめてきた。初めて見る顔だった。一人にしておいて欲しいと思っていたこともすっかり忘れるほど、エレンの話に聞き入っていたことにようやくフェンリルは気づいた。傍にいるエレンからは、いつもと同じ甘い匂いが漂ってくる。


「私が立ち直れたのは、一人じゃなかったから。この街の皆はお節介で、一人になんてなれなかったよ。だから私も、フェンを一人になんてしてあげない」

「エレンは、強いね」


 そうフェンリルが言えば、エレンは小さく微笑んだ。


「過去を忘れる必要はないと思う。でも、囚われちゃ駄目。だって、私たちは今を生きているんだから。明日の幸せを祈って眠れば、暗闇だって怖くないよ」


 そっと、エレンがフェンリルの手を取った。握り締めていたままの手は硬直していて、上手く開かない。それをエレンが優しく開かせていく。そのままそっと包み込まれれば、何故か涙があふれてきた。自分の中に閉じ込めていた、やり場のない悲しみや怒り、苦しみが洗い流されていくようだった。


「過去から逃げちゃいけないって思ってた。そうじゃないんだ。俺が考えなくちゃいけないのは、今であり未来なんだ」


 失った命はもう、戻らない。だからこそ、その分前を向いて行かなくてはならないのだ。過去に囚われていたら、周りのヒトまで傷つけてしまうだけだ。自分を責めているだけでは、逃げているのと変わらない。大事なことを忘れてしまっていた。一人でいたら、永遠に忘れたまま暗闇を彷徨っていただろう。


「ありがとう、エレン」


 涙は止まらなかったけれど、どうにかフェンリルは笑みを浮かべる。頬を伝う涙を拭ってくれるエレンの髪が、夜明けの光に照らされて輝いていた。




「そう言えば、私たちを見つけてくれたヒトはアルキリアさんだったんだよ」

「え、会長が?」

「この食堂の常連さんでね、まだ闘技場連盟に所属していない頃だったかな」


 夜明けの空を眩しそうに見つめながら、エレンが笑う。あの会長が、まだ会長でも何でもなかった頃。たぶん、今とそう変わらなかっただろうことは簡単に想像がついた。


「扉がほんの少し開いた時、黄緑色の瞳が光ってて。食べられちゃうかと思うくらい怖かったの」

「あはは……」


 エレンの気持ちはよく理解できた。フェンリルも、常々アルキリアの瞳が肉食獣のように見えるのだ。暗闇の中であの瞳が浮かびあがったら、恐ろしくてたまらないだろう。

 それにしても、アルキリアとそんな接点があったとは驚いた。それならばフェンリルが、『金糸雀亭』にいることを知っていてもおかしくはない。アルトに対してそっけない態度を取るアルキリアも、なんだかんだ目をかけているのかもしれない。そう考えると、何だかアルキリアの印象が変わって見えた。


「じゃあ、アルトが会長を崇拝しているのって」

「そう。それが原因なんだよ」


 あれはやりすぎだけど、と言ってエレンが苦笑する。その後も、屋根の上でしばらく色々なことを話していた。すると、再び食堂の入口を開く音が聞こえる。出てきたのはメイファだった。腰に手を当てた状態で見上げてくる。


「二人とも。いつまでイチャイチャしてるつもりかしら?」

「あ、メイファ」


 手を振り返すエレンの隣で、フェンリルは手を顔で覆った。顔に熱が集まるのを感じる。指と指の隙間を空けてメイファをちらりと見れば、呆れた顔でこちらを見ていた。


「ご飯食べたら、仕事が待ってるわよ。さっさと支度なさい」


 二つに結われた淡紅色の髪を揺らして、メイファが食堂の中に消える。屋根の上で、先に立ちあがったエレンが手を差し伸べてきた。柔らかなその手を握れば、暖かな気持ちになる。一人じゃない。そのことが今のフェンリルにとって堪らなく嬉しかった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ