第八話 理解
記憶を取り戻したフェンリルが語った内容は、ハティにとって衝撃的なものだった。茫然としたハティの目の前で、語り終えたフェンリルの体が傾いだ。エレンが慌ててかけよる様を見ても、ハティは動けなかった。
「エレン、大丈夫ですよ。気を失っているだけですから」
「床に寝せとくのも可哀想だし、運んじゃいましょ」
メイファが一回りも大きいフェンリルを軽く持ち上げる。淡紅色のツインテールを揺らしながら、階段を上がっていった。少女の様な見かけをしているだけで、中身はやはり少年のようだ。アルトがその後に続き、食堂のホールにはハティとエレンだけが残される。
ハティは椅子の上で丸まった。膝に顔をうずめる。エレンが心配そうな顔をして見つめてくるのには気づいていた。自分とは違う、砂糖菓子のように可愛らしい少女。もし自分がこの少女の様な見た目だったら、フェンリルも好きになってくれただろうか。それはないか、とハティは思った。どんな見た目であっても、フェンリルが女性として好きになってくれることはないだろう。
顔を上げれば、こちらを見つめてくる紫の大きな瞳とぶつかった。最初にあんな失礼なことを言ったにも関わらず、この少女はハティを心配してくれている。だからだろうか、話したくなったのは。
「あたし、フェンに告白したんだよ」
そう言えば、エレンは目を丸くした。フェンリルはハティが告白したことだけは、言わなかったのだ。きっと、ハティが言いたくないのを理解した上での配慮だったのだろう。そういう所は、全然変わっていなかった。
「でも、振られちゃった」
「それで、島を出たの?」
エレンの問いにハティは頷いた。黒い毛に覆われた尻尾が元気なくしおれる。気づけば、向かいに座っているエレンも同じ体勢で座っていた。見つめれば、不思議そうな顔で首を傾げる。
何だか、変な子だ。それでも何となく暖かい気持ちになるのは、エレンがきっと真剣に自分のことを考えてくれているのを感じているからだろう。しおれていた尻尾も、多少の元気を取り戻したようだった。
「丁度、島を出る一月くらい前にさ、大陸の方から青年が流されてきたの。あたしほら、族長の娘だから世話を任されたんだよね」
その青年は、嵐にあって島に流されたとのことだった。薄茶色の髪に、同じような色の目をした青年。優しくて紳士的だったし、見目も優れていた。けれど何となく好きになれなかったのは、青年が島の皆と違って戦士じゃなかったからだろうか。島では、強くたくましいものほど好まれるのだ。
好きになれないからと言って、任せられた仕事をしない訳にはいかない。だからこそハティは、青年のために自分のできる範囲のことをした。流れ着いた当初は熱を出していたから看病を。回復した後は、壊れてしまった船の修理を手伝った。ハティはあくまでも義務で一緒にいたのだ。
「そしたら、惚れられちゃって。あたしらは他種族と交わらないから断ったんだけど」
青年に告白された時、驚いたけれどほんの少しだけ嬉しかった。こんな自分でも、魅力的に思ってくれるヒトがいるんだと思えば、相手が好きなヒトでなくとも何となく嬉しいものだ。ハティは族長の娘だから、島の男たちもどこか遠慮がちだった。その上、ハティの方がよっぽど腕っ節が強かったから、そういう対象としては見ていなかったのかもしれない。
「それがきっかけだったのかな。フェンのこと意識しちゃったんだ。それで告白したって訳」
断った時、誰か好きなヒトがいるのか聞かれたのだ。その時頭の中に浮かんだのは、フェンリルの顔だった。そこでようやく、自分はフェンリルのことを好きなんだとハティは気づいたのだ。男と女として、もっと深い関係になりたいと思ってしまった。
結局のところ、結果は惨敗だった。今でもあの時のことは鮮明に覚えている。決して消えない熱と痛みと共に、ハティの脳裏に焼き付いていた。
「馬鹿、馬鹿、馬鹿。フェンの馬鹿」
暗い森の中をハティは必死に走っていた。両目からは、涙があふれて零れ落ちてゆく。涸れない泉のようだった。フェンリルの、申し訳なさそうな顔が脳裏によぎる。優しい彼のことだから、きっと自分のことを気にしているに違いない。
明日からどうしよう。どうやって顔を合わせればいいんだろう。小さな島だ、避け続けるのも不可能に違いない。でもハティにとってはそんな気まずさよりも、もう手を繋げないことだとか、楽しそうに料理する姿を見ることができないことの方が嫌だった。
森が段々開けてくるに連れて、潮の匂いが辺りに満ちてきた。海岸近くまで来てしまったらしい。そのまま森を抜ければ、ハティの目の前には白い砂浜と、月明かりを受けて蒼く輝く海が広がった。海からやってくる潮の匂いを含んだ風が、火照った体を優しく包む。
汚れるのも構わず、ハティは砂浜に仰向けになって転がった。空には星の輝きを打ち消してしまうほどの光を放つ、大きな丸い月が浮かんでいた。それを見ればやはり、フェンリルを思い出してしまう。自分と同じ色のはずなのに、どうしてフェンリルの瞳はああも優しい月と同じ光を放つのだろうか。感情のまま涙を流していると、何かの足音を捉えたハティの耳がぴくりと動いた。
起き上がって目を凝らせば、砂浜の向こうから誰かが歩いて来ていた。もしかしてフェンリルだろうか。そんな淡い期待を抱いていられたのもつかの間、やって来たのは薄茶の髪と目を持つ青年だった。
「ハティ。どうしたんだ、こんなところで寝っ転がって。……泣いていたのか?」
「あはは。あたし、あんたのこと振った癖にさ、フェンに振られちゃったんだよね」
泣いていた後を隠すように、ハティは嵌めていた手袋で強引に頬を拭った。わざと明るく振る舞う。あまりこの青年には、弱い所を見せたくなかった。
「あいつ、ハティのこと振ったのか? 信じられないな」
「でも、事実だし。あーあ、明日からどんな顔して会えばいいってのよ」
大げさに肩をすくめれば、青年が真摯な表情で見つめてくる。何事だろうかと、ハティは思った。
「なら、俺と一緒に大陸に行かないか? 船ももう直ってる。そろそろ出発しようと思ってたんだ」
そう言えば、もう船は直っていたのだ。ハティ自身も、青年がいつ帰るのかと思っていた。青年が帰ってくれれば晴れて、自由の身である。ずっとフェンリルたちと一緒に狩りをするのを楽しみにしていた。ここしばらくは青年の世話でいっぱいいっぱいで、狩りに全然参加できていなかったのだ。もちろん、鍛錬は欠かさず行っている。鍛錬を行うのはいつも夜明けごろからで、青年はまだ起きてこないから。でもそれも、もう楽しみでも何でもなくなってしまった。
それにしても、大陸である。ハティ自身も常々、興味を持ってはいたのだ。島には定期的に大陸からヒトが訪れる。そのヒトは、大陸と島の交流をずっと前から行っている一族のものである。唯一、獣人が大陸と接点を持つ部分でもあった。ハティは族長の娘だから、父と一緒によく会っていた。族長を除けば、ハティは島にいる誰よりも大陸のことを知っていたし、それ故に興味も持っていた。
「大陸かぁ。それ、いいかも。うん、あたし大陸って一回行ってみたかったんだ。連れてってよ」
「ああ。いつ出発する?」
その言葉に、ハティは考え込んだ。入念に時間をかけて準備すれば、父にばれる可能性が高くなる。実行するなら、できるだけ早くすべきだ。今ならまだ夜明けまで時間がある。それならば。
「夜が明けたら行こう。準備してくる」
こうして、ハティは青年と共に島を出た。船の中で振り返れば、十数年間過ごしてきた島が小さな点になっていく。もう、戻ることもないかもしれない。ハティは心の中で、島に別れを告げた。
ハティは目を閉じた。膝を抱え込む腕に力を入れる。そうでもしなければ、自分を保てそうになかった。
「あたし、馬鹿だ。何もわかってなかった。私が島を出て父さんがどれだけ傷つくかなんて、ちっとも考えてなかった」
ハティにはあまり、母の記憶は残っていなかった。随分と小さな頃に亡くなってしまったからだ。だから、ハティにとって母という存在は、どちらかと言えば叔母であるフェンの母だった。それでも、父が母をとても愛していたのを知っている。
「フェンに振られて、悲しくて、島にいたくないからって。感情のままに動いて失敗することなんてよくあることだったのに、何で考えなかったのかな」
ハティはフェンリルと違って、直情的だ。昔から感情のままに動いては失敗をして、フェンリルや父に迷惑をかけていた。その失敗は取り立てて騒ぐほどのものじゃなかったし、二人とも笑って許してくれていた。ハティが落ち込めば、慰めてくれた。ずっと甘えていたのだ、自分は。
「そのせいで、いっぱい皆を傷つけた。父さんも、島の友達も、フェンまで、傷つけちゃった……!」
「ハティ……」
エレンの心配そうな声に、自分が涙を流していることにハティは気づいた。拭っても拭っても、止まらない。それが嫌だった。別に恥ずかしい訳じゃない。だって、自分は泣く資格なんてないのだ。傷つけたのは自分だ。ハティが軽率な行動を取らなければ今頃、父もフェンリルも島で笑っていたはずだった。
「フェンは、優しいのに。誰よりも優しくて、狩りだって好きじゃなかった。体を動かすことは好きなのに、命を奪うのは嫌だって言って、皆に笑われてたんだよ」
その笑いはでも、馬鹿にするものじゃなかった。皆、そんな優しいフェンリルが大好きだった。優しいけど島で一番腕が立つ彼は、いつだって皆のために最前線に立っていた。傷つけるのは嫌いだけど、誰かが傷つくのはもっと嫌いだと、情けない顔でいつも笑っていた。
フェンリルは、どんな気持ちで父をその手にかけたのだろう。きっと、悲しかったはずだ。苦しかったはずだ。いつの間にか噛みしめていたハティの唇からは、血が滲み出ていた。
「泣いたってどうしようもないのに、父さんも、皆も戻って来ないのに。どうして、止まらないのよぉ」
突然、ハティは暖かいものに包まれた。エレンだ。いつの間にか傍に来ていたエレンが、ハティを抱きしめていた。優しい温もりに包まれて、ハティは涙を流し続けた。
ハティは静かに意識を取り戻した。若干の熱を帯びた瞼を開くと、何故か暗闇だった。目のあたりに湿った感触がする。どうやら、濡れタオルを乗せられているようだった。気だるい腕を動かしてそれを取り払う。すると、心配そうに見つめる紫の瞳と目があった。
「あ、起きた? お腹空いてない? 大丈夫?」
「……空いた」
腹に手を添えれば、胃が食物を求めて動いている感覚が伝わってくる。お昼に軽く食べたのが最後だったはずだ。今何時だろうと、今一つ回らない頭でハティは考えた。
「ちょっと待っててね。頼んでくるから」
そう声をかけて、エレンが飛び出していった。ハティは寝かされていたベッドから身を起こすと、辺りを見回した。この食堂内の、いずれかの部屋だろう。窓から見える空は、紺碧色だった。しかし、端の方がほんの少し淡く染まっているのを見て、夜明けが近づいてきているのだとわかる。
階段を駆け上がる音が聞こえた直後、エレンが扉を開けて入って来た。手に何も持っていない。誰かが後で持ってくるのだろうか。早く食事がしたいという腹の訴えを無視して、ハティはエレンに頭を下げた。
「ごめん、迷惑かけちゃったよね」
「そんなことないよ。泣きたい時は、思いっきり泣いた方がいいと思うから」
にっこりと笑ってエレンが言う。その優しい言葉にまた涙が滲みそうになったハティは、ベッドの上に乗せていた尻尾を掴んで我慢した。
ふと、ハティの耳が再び階段を上る音を捉えた。それと共に、おいしそうな匂いが漂ってくる。扉を開けて姿を現したのは、メイファだった。手には何やら底の深い皿を載せたお盆を持っている。
「持って来た。ほら、エレンはフェンの所に行ったげて。気になってるんでしょ」
「ありがとう、メイファ」
出て行ったエレンと入れ替わるように、メイファがベッドの脇に近寄って来た。まだフェンリルは起きていないのだろうか。心配になったが、エレンが様子を見に行くのなら大丈夫だろう。どの道、今のハティはフェンリルにかける言葉を持ってはいない。
「ほら、食べなよ」
メイファが差し出したのは、白いスープだ。ミルクの甘い匂いがほのかにする。スプーンですくえば、細かく刻まれた野菜と米が入っているのがわかった。今まで食べたものとは比べ物にならないくらい、おいしい。思わず尻尾を振っていた。
無我夢中でスープリゾットを平らげると、視線を感じた。顔を上げれば、メイファがやたらと真剣な顔をしてハティを見ている。その時にようやく、メイファの格好が最初と違うことにハティは気づいた。最初の時は紅い服で、髪をツインテールにしていたはずだ。だが今は黒い服に身を包んでおり、髪は三つ編みにされている。
何だろうと思って見ていれば、メイファが口を開いた。
「頂点に立つ者は、程度の差はあれ下につく者の命を背負う」
ハティが族長になることをわかった上での発言だろう。現在島には族長となるものがいないはずだ。ハティが島を出た時は、長の血族はフェンリルがいたから問題はなかった。でも今は、ハティしかいない。もう島に帰るしかないのだ。
今回の件で、ハティの行った決断は多くのヒトを傷つけた。それでも族長になれば、それ以上の命を背負うことになるのだ。狼族のすべてを、背負うことに。今まで以上に、ハティ自身の決断が多くのヒトの命を左右することになる。
「その痛みは、忘れたら駄目だよ」
「……わかってる」
甘えてなどいられないのだ。これからは、ハティが皆を守らなくてはいけない。強くなろうと思った。体だけではなく、心も。今度こそ、誰かを傷つけないように。そう思ったハティは、メイファの金の瞳を見返す。
「いい顔になったじゃん」
にやりと笑ったメイファが、空になった皿を持って去っていった。ハティは、最初にこの街を見た時とは違う気持ちで、気合を入れるように両頬を手のひらで叩く。夜明けはもう、すぐそこまで迫っていた。