第七話 過去
座っているフェンリルの前には、魔力の光で淡く発光している奇妙な模様が浮かんでいた。アルトが発動した、かけられている術を見るための魔術だ。正直、フェンリルには見てもさっぱりわからない。
真剣な表情でそれを見ていたアルトが模様をかき消すように手を動かせば、光が消えた。どうやら見終わったようだ。
「どうにも、この術は意図的に崩されていますね」
「アル兄さん、どういうこと?」
アルトの言葉にエレンが首を傾げる。フェンリルも気持ちは同じだった。意図的に崩されている、というのはどういうことだろう。催促するようにフェンリルの尻尾が床を叩き、軽い音を立てた。
「あえて、解術の道を残してあるんですよ。どういう意図かはわかりませんが、普通に術を使用するより相当高度な技術です」
つまり、自分の母は術をかける際、解けることを前提にしていたのだろうか。そうでもなければ、わざわざ高度な技術を要することを行ったりはしないはずだ。これも、記憶を取り戻せば判明することかもしれない。そう思ったら、さらに尻尾が床を叩いた。自分で思っている以上に焦っているようだった。
「とにかく解けるんだったら、さっさと解いたげなさい」
「では、いきますよ」
杖を構えたアルトが立ち上がる。足元に魔術の陣が広がり、それに合わせてフェンリルの体が光に包まれる。視界一面が真白の光で覆われた瞬間、流れ込む数多の色彩にフェンリルの意識は呑みこまれた。
「あたし、フェンのことが好きなの」
鳥の鳴き声、木々のざわめき、波の音。すべてが混じり合い、優しく溶け合っている森の中にフェンリルはいた。木々の間からは夜空を優しく照らす丸い月がのぞいている。目の前には、頬を赤く染めた少女がいた。黒髪に銀の瞳を持った少女、ハティだ。
突然のハティの告白にフェンリルは戸惑った。ハティの様子から、決してそれが冗談でないということはわかっていた。不安そうに伏せられた耳と、期待で揺れる尻尾がそれをよく表している。
フェンリルにとって、いとこで幼馴染のハティは妹みたいな存在だった。いつか、長になるこの少女を兄として助けていけたらと思っていた。その年齢も、体つきも何もかも女性として見られるハティのことを、どうしてもフェンリルは女性として見られなかった。
「ごめん。俺は、ハティの気持ちに応えられないよ」
「どうして? フェンもあたしのこと好きだって、思ってたのに」
「確かにハティのことは好きだよ。でも、この気持ちは君が求めてるものとは違うと思う」
ハティの言う通り、嫌いなわけじゃなかった。好きだからこそ、その気持ちに応えられないのだ。ハティが求めているものは、女性として愛することだろう。でもフェンリルには、このまま婚儀を交わしたとしても女性として見ることはできないという確信があった。言葉に出して説明するのは難しいけれど。
「フェンの馬鹿、もう知らない!」
止める間もなくハティが森の中に駆けて行った。その瞳が涙で濡れていた気がして、追いかけようとしたができなかった。ハティを傷つけたのは、自分なのだ。追いかける資格なんてありはしない。ハティは賢いから、一人で危険な所に行ったりはしないだろう。そう判断して、フェンリルは森を後にした。
家への帰り道、月を見上げる。もう、自分より小さなあの手を引いて歩くこともないのだ。何ができるのかを期待する目で、自分が料理している姿を見つめてくることもないのだ。そう思えば、フェンリルの目からは一筋の涙がこぼれていた。避けられない別離だったとしても、やはり悲しかった。
翌朝、族長が家にやって来た。ハティや母と同じ、黒髪に銀の瞳を持った壮年の男性だ。族長は何故か息を切らせた様子で、異様な雰囲気を醸し出していた。朝餉の準備をしていたフェンリルに変わって、母が対応する。何でも、ハティの姿が見えないらしい。もしかしてと思い、フェンリルの家に来たのだ。
「実は、あいつもいないんだ」
族長の話では、一月ほど前に島に流れ着いた青年もいなくなっていたのだと言う。あの青年は、ハティに好意を向けていた。それは、島にいる誰もが気づいていることだった。フェンリルももちろん、知っていた。
だが、この島では基本的に他種族の血と交わることはない。まして、族長の血筋だ。青年の恋が実ることは決してなかった。そういった事情があったから、次に族長の放った言葉はおかしなものではなかった。
「もしや、あいつと駆け落ちでもしたのでは……」
「それは違います、伯父さん」
言うべきかフェンリルは悩んだが、昨日のハティからの告白をありのままに話した。恐らく、これがハティの失踪に関わっているのだ。青年は単に、足として利用されたにすぎないだろう。
「そんなことがあったのか。ああ、フェンが悪い訳ではない。気に病むな」
族長はフェンリルの話に納得したようだった。
その後一週間が経っても、ハティと青年が発見されることはなかった。賑やかな少女が消え、島はほんの少し寂しくなった。特にフェンリルの日常は、とても静かなものになった。夜空の月を見上げれば、どうしてもハティのことを思い出してしまう。それでもこの胸の痛みは、時と共に薄れてゆくだろう。そう信じて、フェンリルは瞼を閉じた。
それから、一月ほど経っただろうか。島では一つの出来事が起きていた。森の中で、少女の遺体が発見されたのだ。少女の遺体と言っても、ハティのものではない。別の少女の遺体だった。丁度、髪を首のあたりで切り揃えている島の少女にはよくある髪型だった。だから誰も、そんなことは気にしなかった。
重要なのは、誰が殺したのかということだった。遺体に残る傷跡からは、獣の爪のようなもので引っ掻かれたということしか判明しなかった。血の匂いを辿ろうにも、狩りを行っている島では、血の匂いはあちこちにこびりついている。結局のところ、森の中で獣に襲われたのだろうということになった。誰もが不幸な事故であると信じていた。
だが、似たような事件がまた起きた。その少女にもまた、似たような傷跡が残されていた。もしや、知らぬ間に強力な獣でも誕生したのではないかという噂が広まった。決してあり得ない話ではない。族長の指示のもと、その獣を倒すために戦士たちが森を駆けまわった。それでも、その獣は見つからなかった。
その頃からだろうか。母が物憂げな表情をするようになったのは。村の呪い師である母は、術を用いて様々なことを行っている。通常の手当では助からないような重病人の治療も行っているためか、医療に関しても多少詳しかった。だからこそ母は、遺体を毎回確認していた。弔うためでもあった。
「母さん、どうしたの?」
「何でもありませんよ、フェン。少し、考えることがあるだけですから」
そう答えた母に、不審な点はなかった。心優しい母が、最近の事件に心痛めているのだとくらいにしかフェンリルは考えていなかった。今思えば、母はすでに気づいていたのだろう。
獣を発見できなかったということで、今度は夜の見回りを行うことになった。殺された少女たちは、皆夜に殺されている。ならば、夜に見回りを行うことで多少は防げるのではないか。そういう考えだった。フェンリルも島の戦士であるから、見回りを行うことになった。
見回りを行ってもう、幾月も経っていた。未だ事件は続いている。むしろ、頻度が増えていた。島は奇妙な静けさに包まれるようになった。皆が息をひそめて生活していた。以前の、活気ある島はもうどこにも見当たらなかった。
数か月前に出て行った少女を最後に見た時と同じ、丸い月が夜空を照らしていた。もしハティが今この島に帰ってきたら、驚くに違いない。それがあり得ないことであっても、そう考えることで少しだけ心が救われた気がした。
今夜も異常なしか。そう思い、フェンリルが見回りの交替に向かおうとした時だった。どこか遠くで、甲高い声が響いた気がした。気のせいでなければ、悲鳴だ。フェンリルは慌ててその悲鳴が聞こえた方に足を動かした。近づくにつれ、少しずつ血の匂いが濃くなってくる。嫌な予感に、フェンリルは額に汗をにじませた。
ようやく目的地まで辿り着くと、月を背後に誰かが立っていた。その足元にはもう一人、誰かが蹲っている。呼吸音が二人分聞こえるため、死んではいないようだが出血が酷い。早く手当てをしなければ。そう思って足を動かせば、立っていた人物がフェンリルの方を振り返った。その人物は、族長だ。
族長も悲鳴を聞いて駆け付けたのだろうか。それにしては様子がおかしい。暗闇に光る瞳はどこか狂気さえ含んでいるようで、思わずフェンリルは後ずさっていた。その時、偶然にも族長の右手に視線がいった。その右手にはフェンリルが今身につけているものと同じ、獣の爪を模したような刃が備え付けられているナックルが嵌められている。その刃が、紅く染まっていた。
「え……?」
フェンリルは自分が見たものを信じられなかった。いや、信じたくなかった。これではまるで、目の前の人物が今までの事件の犯人だったということになってしまう。
族長は、フェンリルのことなど気にしていないようだった。すぐに足元に蹲る影に向き直った。そして、その紅く染まった爪を振りかざす。そこに来てようやく、フェンリルは立ち直った。未だ夢の中にいるようだったが、まだ蹲っている人物を助けなくてはいけない。それだけがフェンリルを動かした。
金属のこすれる音が響く。腕には強い負荷がかかり、このままでは耐えきれそうもない。しかし、割って入る形になってしまっているために上手く身動きが取れなかった。一縷の望みを託して、足元の人物に声をかけた。
「ここから逃げるんだ、早く!」
「……う、ん」
足元の人物、怪我を負った少女は、足を引きずるようにしてこの場を離れる。少女がまだ動けたことにフェンリルは感謝した。すぐに強烈な殺気を感じ、後ろに飛びのく。直前までフェンリルがいた所を、鋭い刃が走った。
「伯父さん……」
もう族長はフェンリルのことを認識すらしていないようだった。ただ、本能のままに襲ってくる獣そのものだ。いくら身が危険にさらされていると言っても反撃できないフェンリルの体には、無数の傷が刻まれていった。その幾度目かわからない攻撃を受けとめた時、族長が閉ざしていた口を開いた。
「もう、終わりにしてくれ」
その言葉と共に、族長の体から力が抜ける。座り込んだその様子からは、先程までの殺気が嘘のように消えていた。代わりに、その顔には一筋の涙が伝っている。
フェンリルは族長の言っている意味が理解できなかった。あまりにも理解不能な事態が立て続けに起きていて、頭の中はぐちゃぐちゃだった。
「何で、そんなこと言うんですか」
「娘が、ハティがいなくなってから、夜になると意識が薄れるんだ。何もかもを壊したくて仕方がない衝動にかられる。娘に似たものを見れば、それはなおさらだった」
信じたくなかったが、真実だった。族長が少女たちを殺していたのだ。だが、自分から名乗り出ればそれ以上の事件は起こらなかったはずだった。少なくとも今こうして、フェンリルの前で理性のある様子を見せているのだから可能なはずだ。
「ならどうして、自分が犯人だと言わなかったんですか」
「それでは、終わらない」
そうか、と思った。族長は死にたいのだ。生を終わりにして欲しいのだ。狼族の禁忌は、同族殺しと後もう一つ。自殺だ。命を尊ぶ彼らだからこそ、自ら命を絶つことは禁じられている。族長の立場にある彼だからこそ、それは不可能な選択肢だったのだ。だからと言って、同族殺しの禁忌を犯したからと死ねる訳ではない。それは、誰かが禁忌を犯すことに繋がる。いかなる罰も、死はあり得ない。
「お前に迷惑をかけてしまうのはわかっている。だがどうか、私を終わりにして欲しい。頼む」
フェンリルは何も言えなかった。きっと、誰が悪いわけでもなかったのだ。不幸な事故だった。唇をぎゅっと噛みしめれば、血が滲んだ。静かに腕を振り上げる。切り裂く感触と共に、生温かい液体が顔にはねた。視界が紅く染まる中、月だけがただ変わらず優しく照らしていた。
フェンリルは地下牢にいた。すでに、処分は決まっていた。背中が痛みと熱でもってフェンリルを苦しめていたのも数日前の話だ。そこには、彼の禁忌の証が彫られているはずだった。
伏せていた耳が立ち上がる。何者かの足音を捉えていた。炎に照らされた顔は、母のものだった。今日が、刑の執行日か。薄汚れてしまった空色の尻尾が、軽い音を立てて床を叩いた。
「兄さんは、義姉さんを失った時絶望の淵にいました。それでもなお留まっていたのは、ハティがいたからです。そのハティを失った兄さんは、もう耐えられなかったのでしょう」
一人でやって来た母は、フェンリルに向かいあうなりそう言った。理由はわからない。記憶を失う息子への、最後の餞別だと言うのだろうか。銀の瞳を伏せた様子からは、何も窺えなかった。
「きっと、あなたは彼女に会うでしょう。その時すべての真実を伝えるために、記憶は封じるに止めます。未来はどう転ぶかわかりません。真実が暴かれるかどうかも」
鉄格子を超えて、母の手がフェンリルの頭を撫でた。その優しい手は、昔と何一つ変わっていなかった。優しい光で照らす、銀の月を思い出すその瞳も。
「ごめんなさい。そしてありがとう、フェン。どこにいようとも、あなたは私の大事な息子です。それを忘れないで」
「母さん……」
視界一面が真白の光に覆われた瞬間、ぶつりと音を立ててフェンリルの意識は途絶えた。