第六話 禁忌
「フェン、どうかした? あたしを探しに来てくれたんだよね」
狼族の少女は、フェンリルが動かないことに気づいたようだった。腕を離し、フェンリルの顔を覗き込んでくる。その瞳には、自分の情けない顔が映っていた。
どうやらこの少女は、フェンリルの知り合いらしい。フェンリル自身もどこかで懐かしさを感じていた。けれども名前も、関係も何一つ思い出せない。それが申し訳なくて、フェンリルは耳を伏せた。
しかし、このままでは埒が明かないのも確かだ。そう思ったフェンリルは、躊躇いがちに口を開いた。
「その……君は、誰?」
少女の目が大きく開かれ、潤み始める。今にも涙がこぼれそうな様子に、フェンリルは慌てた。だがどうすることもできなくて、眉尻を下げる。尻尾も一緒にうなだれた。すると泣きだすかと思っていた少女がいきなり、フェンリルの胸倉を掴んだ。潤んだ瞳もそのままに、睨みつけられる。
「嘘でしょ? あたし、ハティよ。幼馴染の」
「ごめん、本当に覚えてないんだ。君のこと」
できる限り真摯に告げれば、ハティと名乗った少女はフェンリルの後ろに目を向けた。そこには様子を見守っていた三人がいるはずだが、何だと言うのだろうか。ハティの挙動に注意を払っていると、誰かを指差した。その先にいたのはエレンだ。
「そこの女の仕業よ! あいつにたぶらかされたんだ。じゃなきゃ、フェンがあたしのこと忘れるわけない」
「わ、私のせい? そんなことしてないよ」
ハティに突然犯人扱いされたエレンが、否定すべく首を横に振った。それでもハティはそうだと信じて疑わないのか、エレンの前に行って威嚇するように唸っている。耳も尻尾も立ち上がっていた。
この事態にどう収拾をつけよう。そう思ってフェンリルは、ちらりとメイファの方に視線を動かした。メイファは肩をすくめ、打つ手なしといった風に溜息を吐く。
その時フェンリルは、さっきまでいたはずのアルトの姿が見えないことに気づいた。一体どこへ、とその姿を探せば厨房から出てくる所だった。手には湯気の立つマグカップが握られており、甘い匂いが漂ってくる。
「ハティさん、でしたか。とりあえずこれでも飲んで落ち着いてください。話はそれからです」
穏やかなアルトの口調だが、有無を言わせない力強さがあった。罰の悪そうな顔をしたハティがそれを受け取る。ひとまず、落ち着いて話ができそうだった。
長話になる可能性もあるということで、今日の夜は臨時休業ということになった。今までも闘技大会出場などで臨時休業にしているので、問題はないらしい。五人でテーブルについた。
ハティに渡されたマグカップの中身は、温めたミルクだ。それを少しずつ飲みながらハティが話し始める。
「あたしはハティ。獣人の狼族で、族長の娘よ。フェンはあたしのいとこで幼馴染なんだ」
フェンリルはここにきて、ようやく自分の素姓が判明した。族長の娘のいとこということは、族長の甥にあたる。そんなに地位のある存在だったとはどうしても思えないのだが、ハティが嘘を吐いている訳もないので事実だろう。
「あたしが島を出たのは、半年くらい前。その頃はまだ、フェンは記憶喪失なんかじゃなかった」
「えっと、私がフェンを拾ったのが二週間くらい前だよ。もうその時には記憶喪失だったけど」
ハティとエレンの内容を考えれば、その間はかなりの期間が空いている。それだけ長いと、何が起きたのか推測も立てられない。耳を伏せて困っていたフェンリルの心の声を代弁したのか、アルトが口を開いた。
「問題なのはその間に何が起きたか、ですね」
「もしかしたら、あたしを探しに島を出たけど嵐にあって、この街に流れ着いたとか?それで記憶喪失なのよ」
まるでその考えが正解と言わんばかりの顔をするハティ。いや、それが正解だと思いこみたいだけなのかもしれない。フェンリルには、そこまでの感情を読み取ることはできなかった。もし、覚えていたらわかったのかもしれない。考えても仕方ないことではあるけど。
「あり得ない話とは言わないけど、ちょっと都合よすぎない?」
話を静観して聞いていたメイファが冷たく切り捨てた。そのままハティの方に身を乗り出し組んだ手の上に顎を乗せると、どこか意地悪そうな表情をしてハティを見つめる。金の瞳がきらりと光った。
「そもそも、あなた。何で島を出たの? フェンが探しに来てくれるような内容?」
「そ、それは言いたくない」
メイファの質問に、ハティは歯切れの悪い返答を返す。その様子は先程までの様子とは全く違った。何というかハティらしくない。フェンリルはそんなこと言えるくらいハティのことを知っている訳ではないのに、そう思った。
しばし、会話が止まる。手がかりもないため、これ以上の情報は出ないだろう。その時、エレンが手を叩いた。
「あ、そうだ。刺青のこと聞くんだったよね」
エレンの言葉に、フェンリルはそのことをようやく思い出した。そもそも、同族を探していたのは刺青の内容を問うためだったのだ。ハティの剣幕に押され、すっかり忘れていた。
そのハティといえば、不可解な顔をしている。もしや、刺青のことを知らないのだろうか。知っていたとしても読めるかどうかはわからない。そのことに今、フェンリルは気づいた。少なくとも、自分は読めなかったのだ。
「刺青なんて、どこに……」
「フェンの背中にあるの。何でも、古の言語が書かれているんだって。ハティ、知らない?」
エレンの軽い発言に、ハティが目に見えて反応した。音を立てながら椅子から立ち上がると、テーブルに両手をつく。衝撃で、マグカップの中に残っていたミルクが波立った。
「背中に刺青って、そんなの嘘に決まってるじゃない!」
どうしてハティがそんな頑なに否定をするのか、フェンリルにはわからない。だが、頭のどこかで警鐘が鳴っていた。聞きたいのに、聞きたくない。それでももう、進むしかないことは理解していた。
「本当よ」
真剣な眼差しでメイファがそう言えば、ハティが糸の切れた人形のように座り込んだ。その体は小刻みに震えている。口からは、言葉にならない声が漏れていた。
「背中の刺青に、一体どんな意味があるんですか」
アルトが押し殺したような声で訊ねる。ハティは虚ろな表情でそれを受けとめた。中々口を開かないハティに、食堂の中には澱が降り積もっているかのように空気が悪くなる。それでも誰も、ハティを急かそうとはしなかった。
「背中の刺青は、禁忌の証。……同族殺しの、証よ」
ようやく口を開いたハティから出てきた言葉は、衝撃的な言葉だった。周りの息を呑む音が聞こえる。フェンリルには、ハティの言葉が信じられなかった。ハティの言ったことはつまり、フェンリル自身が同族を殺したということだ。思わず手のひらを見つめれば、そんなはずないのに紅く染まっている気さえした。
「そんな……。フェンはそんなことするヒトじゃないよ」
「あたしだってそう思ってる。だけど、嘘なんかじゃない! 嘘だって、あたしも言いたい……」
エレンの言葉に、ハティが光を取り戻した目でエレンを睨んだ。その顔は怒っているのに泣きそうで、フェンリルにはどうしたらいいのかわからなかった。頭の中がぐちゃぐちゃで、何も考えられない。自分が、ヒト殺しだなんてそんな真実、思ってもいなかった。
「落ち込んでるとこ悪いけど、刺青の内容は読まなくていいのかしら」
メイファはいつも通りだった。いつも通り冷静な態度だった。そのおかげで、フェンリルの頭も少し落ち着いた。未だ、真実はすべて解決した訳ではないのだ。記憶喪失の理由も、自分が誰かを殺してしまった訳も。
そう思ったのはフェンリルだけではなかったようだ。ハティが真っ直ぐに見つめてくる。
「フェン、見せて」
その言葉に、フェンリルは上半身裸になった。暖かい陽気のおかげで寒くはない。背中を見つめるハティの視線を受けながら、フェンリルは静かに宙を見つめていた。やがて、ハティが刺青に書かれた文章を読み上げ始める。
「『我ら、ここに汝が禁忌の証を刻む。汝が罪は同族殺し、並びに族長殺し。その業は永劫に汝を縛り、我らが血族を名乗ること赦されることはない。汝が罰は島よりの追放、及び記憶の消去。これより汝はただ孤独にてヒトの世で生きよ。それが汝の罰となる』」
文が終わりに近づけば近づくほど、ハティの声は震え、途切れ途切れになった。族長殺し。追放。記憶の消去。受け入れがたい真実のすべてが明かされてしまった。背中に、軽い衝撃を感じる。何事かと思って振り返れば、ハティがフェンリルの背中を拳で叩いていた。その力は酷く弱々しい。
「何があったっていうの。教えてよ、フェン」
フェンリルは、その言葉に応えることができなかった。ただ、為されるがまま叩かれ続けていることしか、できなかった。教えたくても、すでに消えている記憶は戻って来ない。名も知らぬ族長を、伯父を殺してしまった理由も何も、もう決してわからないのだ。
閉ざされ、真っ暗闇になったそこに光を照らしたのは、メイファの一言だった。
「記憶の消去っておかしくない?」
うなだれていたフェンリルは、顔を上げてメイファを見た。メイファは人差し指を口に添えて、何事かを考えているようだ。ゆったりと腰かけた状態のアルトも、そのメイファの言葉に頷く。何だかさっきよりも二人の雰囲気が緩い気がして、フェンリルは目を瞬かせた。何故だろうか。考えても答えは出なかった。
「そうですね。本当に記憶が消去されていれば、思い出せないはずです。ありませんから」
「でも、呪い師が術を失敗する訳……」
妙な所でハティの言葉が切れる。何か、思い当たる節があるのだろうか。呪い師というのも謎だった。話の流れからフェンリルの記憶を消去した人物のことだと思われるが、その人物に何かあるのかもしれない。
期待の眼差しを込めて、エレンがハティを見つめた。
「心当たりがあるの?」
「今の呪い師は、フェンの母親だよ。もしかしたら、消去じゃなくて封印なのかも」
フェンリルは自分の記憶が封印されているかもしれないということ以上に、それを行ったのが自分の母親であることに驚いた。ずきりと、胸の奥が痛む。何があったのかはわからない。それでも、きっと母は胸を痛めたに違いない。どんな気持ちで、自分に記憶封印の術をかけたのだろうか。目を閉じて胸に手を当てても、何も浮かんではこなかった。
「アルト、記憶を取り戻すことってできるかな」
「見てみないことには何とも言えません。ですが、記憶を取り戻せたとしても大変危険です。下手をしたら、一生目覚めない可能性だってあるんですよ」
アルトの目には、真剣な光が宿っていた。決して嘘を言っている目ではない。フェンリルはごくりと唾を飲み込んだ。いつの間にか握っていた手のひらは、じっとりと汗をかいていて不快感を訴えてくる。
「それでも、俺は知りたい」
そう言った瞬間、ぬっと手が伸びてきた。紅い袖に包まれた白い手だ。すぐに、フェンリルの額に軽い痛みが走った。つい頭をのけぞらせてしまう。どうやら額を指ではじかれたようだ。もちろん、やったのはメイファである。
「気負うんじゃないわよ。あんたの足りない頭で考えること自体、無駄なんだから」
「メイファ、それはちょっと言いすぎじゃ」
エレンがフォローしてくれるが、それを無視してメイファは言葉を続けた。
「なるようになるの。とにかく、アルトに任せときなさい。変態の変人だけど、やる時はやる男よ」
腕を組んで仁王立ちしたその姿は、自信で満ち溢れている。根拠なんてないはずなのに、その言葉にはつい信じてしまう何かがあった。