第四話 前進
ジンの仕事を手伝った翌朝、フェンリルは厨房で朝の仕込みの手伝いをしていた。アルトが裏手で育てているハーブを摘みに行っているため一人だ。よく眠ったからか、疲れは残っていない。何故か朝起きたら毛布が掛けられていたため、風邪を引くこともなく体調は万全だった。
しばらくして、エレンとメイファが二階から降りてきた。厨房から声をかける。
「おはよう、エレン。メイファ」
「おはよう、フェン」
「おはよ。風邪は引いていないみたいね」
そのメイファの言葉にフェンリルは首を傾げた。何故そんなことを聞くのだろうと思う。だがすぐに、毛布が掛けられていたことを思い出した。恐らく、メイファが掛けてくれたのだ。
「うん。毛布掛けてくれたの、メイファだったんだ。ありがとう」
「どういたしまして。それにしても、驚いたわよ。すっごく疲れてたみたいだったから、様子を見に行ったら上半身裸で倒れてるから」
半ば呆れたような顔でメイファが見てくる。それも当然だろう。服すらまともに着ないでベッドに倒れこんでいるのを見たら、誰だって驚く。まして寝ているとなれば、呆れるのも無理はない。
いや、そもそもフェンリルが倒れる原因を作ったのは目の前にいるメイファであるのだから、呆れられるのはおかしいのではないか。もしかして自分は、上手く丸めこまれようとしているのでは。そんなことをぐるぐると考えていたら、頭が痛くなった。何が正しくて何が間違っているのか、もはやわからない。耳の毛が抜け落ちないようにと頭に巻いたバンドの下で、耳をさらに伏せた。
「でも、鍛えられてるいい体してたわね。写真撮ったら売れそう……」
「メイファ、発言が変態だよ。アル兄さんじゃないんだから」
苦笑しながらエレンが言う。アルトはエレンの兄であるはずなのに、扱いが割とひどい。アルトが変態であることには同意するが。部屋にはアルキリアの写真が大量に飾られているとも聞いている。アルキリアを崇拝している部分を除けば、いたって普通の好青年だと言うのに。
十二分に失礼なことをフェンリルが考えていると、メイファが何事かを思いついたように手を打った。何だろうと思いながら野菜を刻んでいると、メイファがカウンターに身を乗り出す。
「聞こうと思ってたけど、フェン。あの刺青は何?」
「刺青?」
一旦包丁を動かす手を止め、フェンリルは首を傾げた。刺青、刺青、と記憶を呼び起こそうとするがさっぱりわからない。自分の体にそんなものは見当たらなかったような気がする。メイファの言うことに全く心当たりのないフェンリルは唸った。
「背中に大きな刺青が彫ってあるの、知らないの?」
「背中に刺青、かぁ。全然知らなかったよ」
一体どのような刺青が彫ってあるというのか。身に覚えのないフェンリルは後で確認しようと思った。とりあえず今は、仕込みの続きをしなければいけない。そう思って包丁を動かそうとしたのだが、何故か後ろにエレンが立っている。その手は今まさにフェンリルのインナーの裾をまくろうとしていた。上着は邪魔なので着ていない。近くにいるエレンからはいつも通り甘い匂いがした。
「エレン、何?」
「え、その、気になったからつい」
頬を染めて言うエレンは可愛らしい。が、やることは可愛らしいとは言えなかった。いくら気になったからと言って、他人の服を脱がせるのはどうだろうか。それに包丁を使ってるヒトの真後ろに立つのは危険だ。そう思って注意しようとフェンリルが口を開いたその時、食堂の裏手に繋がっている扉が開いた。採れたて新鮮なハーブを手にしたアルトが顔をのぞかせる。
「エレン、フェンくん。何をしているんですか? 一応神聖な厨房ですよ」
にっこりと笑ってアルトが言った。やましいことなどしていないのに、何故か顔に熱が上がってくる。そんなフェンリルとは違い、エレンは悪戯が見つかった時の子供の様な顔で笑っていた。
「これは、古の言語ですね」
仕込みを終わらせ、四人はフェンリルの部屋に来ていた。開店にはまだ少し時間がある。そのため、刺青を確認しようということになったのだ。インナーを脱いで上半身裸になったフェンリルは、ベッドに腰かけ三人に背中を見つめられていた。
「古の言語? 読めないのかしら、アルト」
「単語は多少拾えますが、全文はちょっと無理ですねぇ……」
背中を凝視され、少し気恥ずかしい。その気持ちに連動するように尻尾ももぞもぞとシーツの上を泳いでいた。すると突然、背中に柔らかく温かいものが触れた。エレンの手だ。遠慮のかけらもなく背中をぺたぺたと触っている。その突然の刺激に、警戒のためか耳と尻尾が真上に立ちあがっていた。
「メイファの言う通り。筋肉が綺麗についてるんだ、いいなぁ。私じゃ鍛えてもこうはならないし、ふにふにのままだから憧れちゃう」
そこまで言うとエレンは手を離し、フェンリルの前に回り込んだ。そしてじっと腹筋の辺りを見つめてくる。前かがみになっているため、エレンの柔らかそうな胸が強調されていた。先程のふにふにという言葉でフェンリルの頭の中が占められる。再び顔に熱が集まるのを感じた。耳と尻尾がせわしなく動く。
「エレン、そこまでにしといたげなさい。フェンがぶっ倒れるわよ」
心底気の毒そうな声でメイファが言うと、不思議そうにしながらもエレンが離れていく。助かった、とフェンリルは心の中で思った。
「うーん、『我ら』、『証』、『永劫』、『島』……『消去』?」
背後でアルトが何やら呟く。刺青に書いてある文の一部だろう。エレンの行動など気にも留めず、解読作業に没頭していたらしい。といっても、単語だけでは何も読み取れないも同然だった。メイファもそう思ったらしく、口を尖らせた。
「何だかわからないじゃない」
「だったら、狼族のヒトに聞いてみればいいんじゃない?」
まるでいい考えを思いついた、と言わんばかりに目を輝かせたエレンが手を合わせた。一瞬胸に視線が行きそうになったため、慌てて下の方に目線を移したが今度は白い太ももが目に入る。たまらず視線を床に落とした。
そんなフェンリルの様子に気づくこともなく、メイファは溜息を吐いた。
「そりゃ、それができればいいわよ。でも獣人の、さらに狼族を見つけるとなると難しいわね。この街にいたとしても、このヒトの多さじゃ探すのも難しいもの」
「まぁ、今のままでもフェンくんが困らないのであれば問題ない話ですよ」
開店時間となったため、フェンリルの話はひとまずお終いとなった。だがフェンリルの中には何か、もやもやとしたものが残り続けていた。
フェンリルは午後、闘技場近くまで足を運んでいた。なんてことはない、散歩だ。もやもやとした気分が少しでも晴れるかと思ったのだ。
この街は、港から一番奥の闘技場にかけてゆるやかな坂になっている。闘技場近くの坂の途中には、いくつもの広場が作られていて賑わっている。闘技場からは歓声が聞こえてきていて、人びとの熱狂している様が目に浮かぶようだった。
ふらふらとあちこちを眺めていたフェンリルだったが、ふと朱の髪が目に入る。闘技場連盟の会長であるアルキリアかと思ったが、それにしては小さい。まだ十二歳くらいの少女だった。その顔は、アルキリアによく似ていた。娘といってもおかしくない容姿と年齢だ。まさか、アルキリアは所帯持ちなのか。いや、アルトは独身だと言っていたはずだ。
では、この少女は何者なのだろう。さすがに赤の他人ではないだろうが、関係性が全く掴めない。その内に、少女が一人の男性とぶつかった。剣を腰に差している様子から、闘技大会の参加者である可能性が高い。その男性は、少女が謝ったにも関わらず酷い剣幕でなじっていた。その反応に、素直な少女も怒りだす。ついには、男性が腰の剣を抜いて少女に振りかぶった。
しかしその剣が少女に当たることはなかった。フェンリルが助けたから、という訳ではない。もちろん、助けようとした。おかげで駆けている途中の変な体勢のまま固まってしまった。
そう、その少女は自分で避けたのだ。しかも、その後に強烈な飛び蹴りを男性の頬に決めていた。男性は頬に手を当て涙目になっている状態で、華麗な着地を決めた少女を睨んでいた。まさに一触即発といった雰囲気の中、その様子を眺めていた観衆に突如としてどよめきが広がる。
「何してるんだ、アル」
観衆の間から姿を現したのは、アルキリアだった。肉食獣の様な瞳は相変わらずだった。どうやら、アルと呼んだ少女と知り合いらしい。後ろには、闘技場連盟の制服を着た部下と思わしき男性が二人つき従っていた。
「あ、アルおばちゃん。あのね、このヒトがいちゃもんつけてきたんだよ。それで攻撃してきたから、反撃したんだ。正当防衛だよね?」
拳を握って力説する少女は、アルキリアの姪のようだ。似ている訳である。可愛らしいがいささか手、もとい足の早い少女から視線を外すと、アルキリアはフェンリルの方を見つめてきた。何だろう。この間の出来事がよみがえったフェンリルは、体を硬くした。
「フェンリルだったか。あんた、見てただろう。アルの言っていることは本当か」
「え、は、はい。本当ですけど」
確かに事実だ。反撃する必要があったかはさだかではない。
「この男を連れていけ」
「はっ」
アルキリアの指示で、一人の部下が男性を連れていく。それを見送ったアルキリアは、少女に向き直り腰に手を当てた。その威圧感に、少女はしょんぼりとした様子で俯く。
「アル、騒ぎを起こすなとあいつに言われたはずだ」
「うん、ごめんなさい」
「反省しているならいい。野放しにしたこちらにも責任があるからな」
少女の頭をぽんぽんと叩くと、アルキリアはフェンリルの方に再び視線を寄こした。
「丁度いい。アルを預かってくれないか。夕方には迎えに行く」
「俺、ですか? 別に構いませんけど」
特に予定がある訳でもない。むしろ暇なので、預かることに異論はなかった。まぁ、自分である必要性は感じられないのだが。
「場所は食堂『金糸雀亭』だな。よろしく頼む」
そこまで言うと、アルキリアは残った部下の一人を引き連れて去っていった。驚いたのは、フェンリルの居場所を知っていたことだ。この街の統治者であるからおかしなことではないのだが、何だか意外だ。
そんなことを考えていると、下の方から視線を感じた。その方向に目を向ければ、黄緑色の瞳と目が合う。アルキリアのものと違い、その瞳は肉食獣を想像させなかった。子供特有の純粋な瞳で見つめてきている。
少女はその身長差のため、見上げる格好になっていて若干首が辛そうだ。フェンリルがそれを解消すべくしゃがめば、少女は満面の笑みを浮かべた。
「あたし、アルディアナ。アルって呼んで。お兄さんは?」
「俺はフェンリル。フェンでいいよ」
笑顔で手を差し出すと、アルディアナの小さな手が重ねられる。その懐かしい感覚に、フェンリルはそっと胸を押さえた。記憶の欠片はまたどこかへと零れ落ちてしまう。けれど、朝よりも胸のもやもやは軽くなっていた。
アルディアナとそのまま手を繋いで帰る。食堂に入れば、お茶していた三人に目を丸くして驚かれた。経緯を説明すれば、エレンが率先してアルと遊び始める。その横で、フェンリルはメイファとアルトと話していた。
「会長の弟の娘なら、割といい所のお嬢様じゃない。有名な商家よ。仕事ついでにあの子を連れて来たんでしょ」
「ああ、アルキリアさんの姪御さんだなんて。ありがとうございます、フェンくん」
アルトに手をがっしりと握られ、フェンリルはたじろいだ。何というか、目が異常だ。恐ろしい。まさか、少女趣味に走るのではないかと心配するほどには。メイファによれば、単純にアルキリアとの接点が増えたのと、アルキリアの昔の姿を垣間見れたような感じであることに喜んでいるだけだというから、恐らく問題はない。というか、あったらアルキリアに顔向けできない。
「フェンも遊ぼう!」
エレンと一緒に簡単なカードゲームをしていたアルディアナに呼ばれる。苦笑しながらも傍に行き、フェンリルはアルディアナと遊んだ。遊びの内容は様々であれど、それは夕方になるまで続いた。
「アルキリアさん! 今日もとても麗しいお姿で、私は感動しました。この愛をどうぞ、受け取ってください!」
迎えに来たアルキリアにそう言ってアルトが差し出したのは、甘い匂いのする包みだ。アルキリアはどうでもよさそうにそれを受け取ると、隣にいるアルディアナにそれを渡す。アルディアナが包みを開けば、そこに入っていたのはクッキーだ。目を輝かせたアルディアナがおいしそうに食べる姿を見て、何故かアルトは喜んでいた。理解できない。
「アル、お礼」
アルキリアがそう言ってアルディアナの背中を軽く叩く。それを受け、アルディアナが一歩前に出た。
「今日は遊んでくれてありがとう」
「こっちこそ、楽しかったよ。また今度遊ぼうね」
エレンがかがみ目線を合わせてそう言えば、アルディアナがエレンの首に跳びついた。年齢は違えども少女二人の笑い声は、場の雰囲気を和やかにした。アルトの変人ぶりに辟易していたフェンリルも癒される。
アルキリアもその様子を微かに微笑みながら見ていた。本当に微笑んでいるのか疑わしいくらい微かだ。だがフェンリルが見ているのに気づくと、いつも通りの肉食獣の様な瞳を向けてきた。
「そうだ、フェンリル」
「はい、何ですか?」
「迷惑をかけた詫びだ。何かしてほしいことはあるか」
何か、とは曖昧だ。現状叶えて欲しいのは記憶を取り戻すことだが、アルキリアにそれはできないだろう。急なことに何も思いつかず、フェンリルは困っていた。ここで何か答えないのも失礼だし、どうしよう。その時フェンリルの脳裏に、朝の一連の出来事がよぎった。そうだ、あれを頼めばいいんだ。あれならば、アルキリアには可能なはずだった。
「あの、だったら頼みたいことがあるんですけど」
頼みごとの内容を詳しく話せば、アルキリアは請け負ってくれた。記憶を取り戻したいかと問われれば、フェンリルには即答できない。しかし、刺青の謎を残したままで過ごすのも嫌だった。だが何となく、この刺青は失った記憶と関係があるように思える。それでも、記憶を取り戻すことがいいことかどうかはわからなくても、不安を抱えているよりは真実を知りたいと思うのだ。
空が真っ赤に染まる夕暮れの中、去っていくアルキリアたちを見ながら、フェンリルはそんなことを考えていた。