第三話 聞知
目の前には肉食獣がいた。黄緑色の瞳を爛々と輝かせ、朱の毛が波打つ。その首に向かってフェンリルは刃を伸ばした。でも知っている。この刃が届くことはないと。
それなのに、その刃は届いていた。肉を抉る感触が腕に伝わり、鮮血が飛び散る。真紅の化粧が施されたその顔は、年齢以上に若々しい女性の顔などではなかった。黒い髪に、銀の瞳を持つ、壮年の男性。これは、誰だろう。深く沈んだ記憶の底から掬い出そうとしたけれども、徐々に浮遊していく感覚によりそれは叶わなかった。
「……朝か」
ベッドからむくりと起き上がったフェンリルは窓を開けた。夜明けの空を見ながら、潮の匂いと共に朝の清涼な空気を吸い込む。耳には、鳥がさえずる音と波の音だけしか聞こえてこない。手早く準備をすますと、フェンリルはそっと部屋を出た。
皆の眠りを妨げないよう、静かに廊下を歩く。ふとフェンリルは、とある扉に目をやった。そこには、『開けたら殺す』という物騒な言葉が書いてある紙が貼り付けられている。その扉からはいつも、薬品のような匂いが微かに漂ってきていた。メイファが使用しているらしいのだが、用途は聞かされていない。
その部屋を気にしつつも、フェンリルは食堂の裏手に出た。そこは十分なスペースがあり、体を動かすには最適だ。入念に体をほぐした後、鍛錬を行う。目の前にアルキリアを思い浮かべ腕を振るうも、これでは当たらないに違いない。
アルキリアに負けてから数日、フェンリルは彼女に勝つことを考えて鍛錬を行っていた。だが、勝てる気は一向にしない。それほどまでに、実力の差があるのだ。経験の差と言い換えてもいいかもしれない。とはいえ、フェンリルはあまり勝ち負けにこだわっていなかった。単純にもっと戦闘を楽しみたかった。先日の試合では、すぐにやられてしまったから。
一通り鍛錬を終え、食堂の中に戻る。今日も一日頑張ろう。拳を握り、フェンリルはやる気をみなぎらせた。
「では、フェンくんは上がってください」
「わかった」
夜のための仕込みも終わり、フェンリルは厨房を出る。腕を上げてぐっと伸びをした。今はお昼過ぎで客もいない。これから夜までは暇になる。何をして過ごそうかな、と考えていると二階から誰かが降りてきた。
口元を覆うように黒い布を巻きつけて、金糸で縁取られた黒い裾の長い服を着ているメイファだ。腰にはサッシュが巻きつけられ、服の裾には腰のあたりから切れ目が入っていた。下はやはり黒いズボンで、膝下のブーツに裾が入れられている。
特徴的な淡紅色の髪は三つ編みにされて、膝の少し上あたりで歩みに合わせて揺れていた。金の瞳は退屈そうに細められている。その非常に整った顔立ちはメイファと同じものであるのに、まるで別人のように見えた。しかし匂いは同じだ。
「おや、ジン。お仕事ですか? 気をつけてくださいね」
「了解」
厨房からアルトが声をかけた。だがその名前はメイファではない。聞き間違えでなければ、ジンと呼んでいた。何故だろう、と首を傾げるが答えはでない。フェンリルが不思議そうに見つめている中、ジンと呼ばれたメイファは食堂を出ていった。
そうだ、ついて行ってみよう。我ながらいい考えであるとフェンリルは思った。謎が解けるかもしれないし、暇もつぶせる。そうと決まれば、フェンリルはさっそく食堂を出てメイファを追いかけた。すでにメイファの姿は見えないが、匂いを辿れば問題はない。
心配はしていなかったが、メイファの姿は無事見つかった。色とりどりの服を着た群れの中で、黒い服を着たメイファは、その髪の色と合わせて非常に目立つ。隙間を見つけて潜り抜け、メイファの後ろまでやって来たフェンリルはそこで悩んだ。声をかけるか、かけないか。すぐに決着がついた。見ていてもわからない可能性が高いのだから、声をかけよう。
「メイファ」
名前を呼んだが、メイファは振り向かなかった。雑踏の中でもきちんと聞こえるように呼びかけたはず。でも万が一、聞こえなかった可能性もあるかもしれない。これだけ周りがうるさいのだから。そう思ってもう一度呼びかける。
「メイファ、メイファってば」
計三度ほど呼びかけると、ようやくメイファは振り返った。ただし、その金の瞳は不愉快そうな光を湛えている。何か、機嫌を損ねるようなことをしてしまったのだろうか。いや、確実にしたのだろう。心配で耳を伏せたフェンリルにメイファは、不機嫌そうに真一文字に結ばれた口を開いた。
「メイファって呼ばないでよ。今の僕はジン。ジンって呼んで」
「ジン?」
言われた通り名前を呼べば、こくりと頷く。先程の不機嫌さはもう感じられない。フェンリルが内心ほっとしているとメイファ、ではなくジンが溜息を吐いた。
「こんなすぐにばれるなんて、予想外。まさか、最初から男だって気づいてた?」
「え、うん。何で女の子の格好してるのかなって、思ってたけど。匂いでわかるから」
そう言えば匂いで判断したからメイファのことを少年だと思っていたが、匂い抜きで考えれば少女だと間違えていた可能性が高い。それほどまでにメイファは少女らしかった。見た目も口調も、動きでさえ。匂いだって、微かに感じるくらいだ。普通のヒトならば気づかないだろう。
「僕が女装している理由、知りたいでしょ」
「知りたい」
最初に見た時は色々と頭がいっぱいだったから気にしてはいなかった。だがこうして改めて考えてみれば気になる。まして、ジンは話してくれそうなのだ。思わずフェンリルは即答していた。期待の眼差しで見つめていると、ジンが苦笑して話し始めた。
「実は僕、いわゆる王子ってやつなんだよ。東の大国、ジンニクス王国の前の王の息子」
王子、というのはフェンリルにとってあまり馴染みのない言葉ではある。が、この街に来てから色々と教えてもらったので理解はできている。つまり、偉いヒトの息子である。それが事実なら本来こんな所にいるはずないのだが、そんな所にまでフェンリルは頭が回らなかった。
「王に気にいられた楽士だった母さんは、僕を身ごもってすぐ追い出された。絶望した母さんは、僕が王になるという夢だけを抱いて生き、死んだよ」
いきなりの暴露話に、フェンリルは目を丸くした。そう言えば、ジンニクス王国の前の王はとんでもない愚王だったとメイファが言っていた。あの時妙に感情が込められたような説明だったのは、このためだったのか。フェンリルは変な部分で納得した。
「母さんが死んでからも、ずっとその言葉だけが残った。それが嫌だった。僕は僕で、母さんの道具じゃない。それを形にしたくて、女装したんだ。あの国では女は、王にはなれないから」
女性が頂点に立てないと言うのも不思議な話だ。この街ではアルキリアが頂点にいるし、彼がいた所でも問題なかったはずだ。そこまで考えて、何か大事なことを思い出しそうになった。残念なことに、その記憶の欠片を掴むことはできなかったけど。
耳をぱたぱたと動かして、ジンの話を整理する。つまり、ジンが女装していたのは自由になりたかったからということだろう。フェンリルの解釈が間違っていなければそうなる。
「ま、それも前の話。今じゃ、あの国は正妃の息子が継いでる。前の王とは比べるべくもない、立派なやつがね」
確かに、メイファも説明してくれた時にそう言っていた。新しい王は民のために生き、民を守り導くことを信念として持っている人物だと。ジンの話によれば、その新王は異母兄になる。
そんなすごい人物が兄であることに、ジンはどう思っているのだろう。フェンリルは自分だったらどう思うか考えたが、答えは出なかった。
「だから、もう女装する必要はないんだ。今してるのはまぁ、色々と便利だし、楽しいから。それにメイファも僕だ。女装できなくなるまでは、メイファとしての生を過ごしたい。それが、僕に自由をくれたメイファへの手向けになる」
そう言い切ったジンの表情は晴れやかで、心の底からそう思っているのが伝わってきた。そこまで聞いていて、ふとフェンリルは疑問に思うことがあった。せっかくなので聞いてみることにする。
「街のヒトは知ってるの? ジンが女装していること」
「知ってるよ。この街以外では、ジンの姿を出さなかった。旅の一座で過ごしていたから、変な風評付けられても困るし」
成る程、それは確かにそうだ。一人ならともかく、周りにまで迷惑をかけることはすべきではない。それは巡り廻って、自分に帰ってくる。彼女のように。フェンリルの脳裏に、銀の光がちらついた。
「この街に定住することにしたのは、丁度新王が即位したのもあるけど、僕が女装しているのを気にしなかったから」
何故、気にしないのだろう。そう思ってジンを見れば、どこか得意げな表情になった。
「『信念を貫きたくば武でもって示せ』がこの街でのモットーなんだよ。だから、僕が女装していても受け入れられる」
「武?」
「武は力じゃない。道であり、誇りであり、彼らの生き様。だから、街の住人たちは滅多に争い事はしないのさ。するのは、力と武を履き違えてる客人だけ」
わかったような、わからないような曖昧な説明だったが、ひとまずフェンリルは納得しておいた。この街で過ごしていればその内わかるだろう。
それはそうと、聞きたいことがまだあった。あまり質問攻めするのも失礼だろうかとも思ったが、気になって仕方がないのだ。
「ジン、仕事って何?」
「ああ、そのことか。僕、副業で写真を売ってるんだよ。闘技大会の写真」
ほら、と言いながら一枚の写真を差し出してくる。そこにはアルキリアと戦っている自身の姿が映っていた。あの時周りにいなかったのは避難していたからだと聞いていたのだが、まさかこんなものを撮っていたとは。戦闘中にカメラを持っていた様子はなかったのに、どうやって用意したのだろう。
「戦闘時の写真って、素人は上手く取れないんだ。だから僕が綺麗に撮って、欲しいやつに売ってあげるの。写真は趣味でやってたんだけど、偶然知ってね。街には同業者も多いから、それぞれ分担したりして稼いでるってわけ」
「もしかして、あの部屋は」
渡された写真に残る匂いは、物騒なことが書いてある紙の貼ってある扉から漂ってくる匂いと同じだった。
「写真の現像に使ってるんだ。入っちゃ駄目だよ。売り物もあるからね」
「わかったけど、どうして写真を売る時はメイファじゃ駄目なの?」
別にメイファの格好でも問題ないような気がする。実際、食堂の店員をやっている時はメイファの姿なのだ。それとこれと、何が違うんだろうか。
「女だと、舐めた態度取るやつが多いんだ。実力でわからせたげてもいいんだけど、諍い起こすと面倒だし」
メイファは実際には高い実力を持つ少年であるが、傍から見たらか弱い少女である。店員として働く分には可愛らしい少女の方が受けがよいのだろう。一方、写真の販売となると少女の格好は不利になるらしい。見た目と実力が合っていない弊害だ。食堂は常連客が多いから、メイファをか弱い少女などと思っているヒトはいない訳だが。
「せっかくだし、今日はフェンにも売り子になってもらうよ。いい広告塔になりそう」
「え……」
結局その日、フェンリルは日が暮れる頃まで売り子を手伝わされた。先日の試合を見ていたヒトも多かったのか、注目され大変だった。帰ってからの食堂の手伝いもあり、寝る頃には疲労困憊だった。
シャワーを浴びてすぐにベッドに倒れこむ。上半身裸のままであるので、服を着ないと風邪を引いてしまう。それは分かっているのだが、体をこれ以上動かす気力もない。睡魔に負けそうになりながら、フェンリルはジンのある言葉を思い出していた。仕事が終わり帰る道すがら、ジンが告げた言葉を。
『フェンや僕に事情があるように、二人にも事情はある。辛いのは自分一人だけじゃないってこと、フェンは分かってると思うけど忘れないで』
事情とは何なのだろう。いつか、話してくれるのだろうか。そんなことを思いながら、フェンリルは眠りについた。