第二話 闘技
闘技場の街アイレス。南の大国、ルクアリエ共和国にある自治区として認められている街で、闘技場を管理している機関である闘技場連盟によって自治がなされている。街には大陸最大の闘技場を有し、出場者や観光に来た人々で賑わっている。つまり、この街は闘技場を中心に回っているといっても過言ではない。
だが、何故自分がこの場所に来る羽目になったのだろうか。闘技場の中央にいるフェンリルはそんなことを考えた。例えそれが、迫りくる朱の影からの現実逃避だとしても。
フェンリルは二人の先導のもと、部屋を出て階下に降りた。食堂『金糸雀亭』は二階建てらしい。先程までいた部屋は、二階にある一室だったのだ。
一階に辿り着けば、広いホールにたくさんのテーブルが並んでいるのが見て取れた。食堂と言うくらいだから、ご飯時にはヒトで賑わっているのだろう。今はその時間帯から外れているためか、閑散としている。
そのまま厨房の中に入れられると、厨房には一人の人物がいた。鍋と向き合っているため、背中しか見えない。その人物は、エレンと似たような癖のついた銀色の長い髪をリボンで縛っている。物音に気付いたのか、鍋をかき回す手を止めてこちらを振り返った。
「初めまして、私はアルト。この食堂のオーナー兼厨房担当です。食事は口に合いましたか?」
にこやかに笑ってそう言ったのは、エレンに似た風貌の青年だった。赤に近い紫の瞳は穏やかな光を浮かべている。服装は白いシャツにタイにベストにズボン、上着は裾が長く後ろで割れていた。よくわからないものの上等な服のようであり、動きにくそうだ。おかしいのは、その上からエプロンを身につけている点だ。何だかちぐはぐな格好だと思ったが、フェンリルは口に出さなかった。ここでは普通なのかもしれないと思ったからだ。
それより、さっきの料理がこの青年の作ったものだったことにフェンリルは驚いた。てっきりエレンが作ったものだとばかり思っていた。
「あ、はい。すごくおいしかったです。俺はフェンリルって言います。フェンで構いません」
「フェンくんですか。事情を聞いても? ああ、敬語はいりませんよ」
アルトと名乗った青年にこれまでの経緯を告げる。とはいえ、フェンリルが言えるのは名前と獣人の狼族であること意外、何も覚えていないということだけだ。最低限の常識は覚えているようだが、それすらも危ない。
「どんな事情があるのかはわからないけど、放ってはおきたくないの。アル兄さん、お願い」
手を合わせ、エレンが頭を下げる。ほぼ赤の他人であるはずの自分のために、一生懸命になってくれるその姿にフェンリルは胸を打たれた。尻尾もすごい勢いで動く。一方アルトは、その必死なエレンの様子に苦笑を浮かべた。
「エレン、私がそんな酷いことをするはずないでしょう。もちろん、いてくれて構いません。働いてはもらいますけど」
「アル兄さん、ありがとう」
こうして、フェンリルは食堂『金糸雀亭』での生活を送ることとなった。この時フェンリルは、アルトたちがただの食堂の経営者と店員であることを疑ってはいなかった。いや、それは間違いではない。彼らのもう一つの顔を知らなかっただけだ。
フェンリルの仕事は、いわゆる雑用だった。さすがに接客業はできない。買い出しの手伝いであったり、店内、店外の掃除であったりを行っている。その日も買い出しの手伝いをした。アルトの後についていき、市場を練り歩く。たったの数日であるが、フェンリルはすでに馴染んでいた。どうにも、この街の住人は気さくなヒトが多い。来訪者が多いからかもしれない。
「おう、アルト。いい肉が大量に入ったんだが、買ってかないか? こんだけ買ってくれたらかなり安くするぜ」
「随分と量がありますね。捌ききれればいいんですが」
アルトの言う通り、肉屋の店主が示した肉の量は多かった。厨房をアルト一人で回していることを考えれば、少しためらうのもうなずける。
「じゃあ、俺が手伝うよ」
「フェンくんが、ですか?」
「狩りで獲った獲物は自分で捌いてたから、たぶんできると思う」
そこまで言って、フェンリルは首を傾げた。狩りとは一体何のことだろう。いや、一般的な狩りについての知識はある。自分は、日常的に狩りを行う生活を送っていたのかもしれない。この街で目を覚ました時からぽろぽろと記憶の欠片が落ちることはあったが、ここまで具体的な内容を思い出したのは初めてだった。
「では、購入しましょうか」
普段よりも安く、いい肉を大量に購入して食堂に帰る。指示された位置に食材をしまい終えると、フェンリルは肉を捌きにかかった。どうやら肉の捌き方までは記憶から消えていないようだ。恐らく、消えていたとしてもできたとは思う。それほどまでに、フェンリルの手は止まることなく肉を捌く。体に染み付いている動きだった。
気づくと、エレンが厨房に隣接したカウンターから覗き込んでいた。その視線も、あまり気にならない。見られている状況で捌くことに慣れていたのかもしれない。そのまま黙々と捌いていると、エレンが感心したように溜息を吐いた。
「フェン、すごいよ。私なんか、やろうとしたらぐちゃぐちゃのどろどろになっちゃうもん」
どうしたら肉がぐちゃぐちゃのどろどろになるのだろうか。その光景が想像できないフェンリルは、エレンの表現が過激なだけだろうと考えた。だが、隣にいるアルトを見れば乾いた笑みを浮かべている。もしかしたら、事実なのかもしれない。
フェンリルが見ていることに気づいたアルトは、乾いた笑みを消してにっこりと笑った。
「随分と手慣れているようですし、このまま何か作ってみますか?」
「え、いいの?」
「はい。とりあえず食べられる物ならば、まかないにはできますから」
アルトのその言葉を受けて、フェンリルは捌いた肉で料理を作り始めた。野菜と合わせて作った簡単な炒めものだ。皿に盛り付ければ、湯気と共においしそうな匂いが立ちこめる。
食べたそうなエレンを抑えたアルトが少量つまみ、口に運ぶ。その時間がフェンリルにはとても長く感じられた。まずかったらどうしよう。不安で胸をいっぱいにしたままじっと見つめていると、アルトがこちらを向いて微笑んだ。
「シンプルな味付けですが、素材の旨みをしっかりと引き出してありますね。手際もいいですし、これなら厨房の手伝いに回ってもらえそうです」
それを聞いて、フェンリルは尻尾をちぎれんばかりに振った。やはり、雑用をしているだけでは今一役に立っていない気がしていたのだ。だが、厨房での手伝いなら、雑用よりも役に立つのは明白だ。
喜ぶフェンリルと、いつの間にか皿の料理を口に詰め込んでいるエレンの様子を見て微笑んでいたアルトだったが、急に真剣な顔をした。気分が最高の状態だったフェンリルも、その様子にただ事ではない雰囲気を感じて息を呑んだ。
「そう言えば、フェンくんは狩りをしていたと言いましたね。もしや、戦闘の心得があったりしますか」
「あるでしょ、フェンは。何たって毎日朝早くから、体動かしてるくらいだもの」
突如として後ろから聞こえた声に、フェンリルはびくりと体を硬直させた。尻尾も緊張で逆立ってしまう。
恐る恐る声がした方に顔を向けると、厨房の入り口の壁に寄り掛かるメイファがいた。声が発せられて初めてその存在に気づいたことに、フェンリルは動揺する。そもそも、自分が朝早くから体を動かしていることを知っているのは何故だろう。見られていたのなら気づいてもおかしくないのに。しかし、さっきまで気づかなかったことを考えればそれもあり得る話だった。
「本当ですか?」
「本当、だけど。それが……?」
確かに、この食堂の裏手で体を動かしているのは事実だ。何故かわからないが、体を動かさないと落ち着かないのだ。だから朝早く、日が昇る頃に起きて体を動かす。それでも若干の物足りなさを感じているのだが、どうにもできないので諦めていた。
「実はですね、私たちは団体戦のチームを組んでいるんです。『青炎の連環』という名前なんですよ」
この街にある闘技場では、闘技大会が毎日のように行われている。規模は様々だ。対ヒト戦だったり、対魔物戦だったり、あるいはもっと見世物の要素が強いものであったりと様々である。その大会は基本的に個人戦と団体戦に分かれている。
さて、この団体戦では四人一組となり戦う。偶然居合わせたヒトと組むことももちろんあるが、団体戦のためにチームを組んでいることが多い。特にこの街に定住、あるいは長期滞在している半定住状態のヒトの間で組まれているのだと言う。そしてアルトたちもそのチームを組んでいるということだった。
だが、フェンリルにそれを告げてどうだと言うのか。今一つ意図が読めなくて首を傾げる。
「ですが、二年程前にメンバーの一人が抜けてしまったんです。それ以来団体戦には出場していません」
「他のヒトをメンバーにすればいいんじゃ」
「それは駄目なんです。誰も、組んではくれませんから」
元いたメンバーに固執しているために団体戦に出場していない訳ではないらしい。では、誰も組んでくれないというのはどういうことだろう。
何か問題でもあるのかと考えていたフェンリルだったが、アルトの次の行動に目を丸くして慌てることになった。何と、頭を下げたのだ。予想外の行動に戸惑うフェンリルをよそに、アルトは話を続ける。
「ぜひ、『青炎の連環』のメンバーになってくれませんか。お願いです、もうフェンくんしか頼れないんです」
「わ、わかったから。頭上げてよ」
どうにかして頭を上げてもらわないと。頭の中がそれでいっぱいになってしまったフェンリルは、あまりの居たたまれなさに思わず了承を返していた。言った後で慌てて口を閉じたが、もう遅いようだ。嬉しそうに笑うアルトを前に、否定するという選択肢は見当たらなかった。
「優勝は、チーム『青炎の連環』! 皆さま、盛大な拍手をお送りください」
すり鉢状に観客席が設えられた闘技場の中心、そこにフェンリルはいた。腕には、獣の爪を模したような刃が備え付けられているナックルが嵌められている。久々に思いっきり動いたからか、体はしっかりとした疲労を伝えてくるものの、満足感は大きい。だが、気分はあまりよくなかった。原因は、前方にいるアルトだ。
「アルキリアさーん! 見ていてくれましたか、私の雄姿を!」
大げさに杖を持った手を振るアルトが熱い視線を送っているのは、この街の頂点に君臨する女性。闘技場連盟会長のアルキリアだった。朱色の長髪に、肉食獣の様な黄緑色の瞳を持っている。アルトによれば三十八歳だという話だが、とてもそうは見えないほどに若々しい。
そんなアルキリアを、アルトは崇拝しているのだという。崇拝って何だという突っ込みを入れたくなったが、まぁ間違った形容ではない。アルトの様子を見れば頷ける。普段の服は礼服ということだが、それは戦闘時も変わっていなかった。いつどこでアルキリアに見られてもいいように、らしい。正直フェンリルには理解できない世界だ。
「団体戦のチーム組んだのって、絶対このためだよね」
「当たり前でしょ。アルトは後衛だから、個人戦は大変だもの」
意外だったのは、アルトの得意とするものが魔術と治癒術だということだ。そしてエレンは大剣と魔術を、メイファは背に飾りがたくさんついた曲刀を使っている。メイファはともかく、エレンが身の丈ほどの大剣を振り回している様はとてつもなく奇妙だった。しかも強い。
「でも、一年の活動ですっかり噂になっちゃったの、アル兄さんのこと。それで、誰も組んでくれなくて」
そう言ってエレンが溜息を吐くと、前方のアルトが騒がしくなる。何事かと思ってそちらに目を向ければ、アルキリアが会長席から舞台に降りてきていた。近くで見ても、やはり若い。非対称にアレンジされた連盟の制服である黒いコートからは、露出の高い服に包まれた瑞々しい肢体が見えている。
近寄るアルトを無視してフェンリルたちの方までやって来たアルキリアが、立ち止まる。その腰にはベルトで剣が固定されていた。
「そこの、名前は」
女性にしてはやや低い声が響く。ぞんざいに放たれた言葉には、頂点に立つもの特有の威圧感が含まれていた。それに気押されながらも、視線を向けられたフェンリルは口を開いた。正直、これから何が起こるのかと不安でたまらない。とても嫌な予感がする。
「フェンリル、ですけど」
「あたしと戦え。あんたに拒否権はない」
「おおっと、エキシビジョンマッチ発生のようだ。指名されたのはチーム『青炎の連環』の新入り。健闘を祈る!」
司会のヒトが何事かを叫んだ。フェンリルは聞いたこともない名称だが、会場は盛り上がっている。別段、闘技大会においては珍しくもないもののようだ。そのエキシビジョンマッチとやらがどういうものなのか聞こうと思ったが、すでに周りにはアルキリア以外いなかった。
「え、いない? ってうわぁっ」
金属がこすれ合う音にフェンリルは顔をしかめた。アルキリアからの圧倒的なまでの力に、受けとめた腕が震える。アルキリアが腰に佩いていた剣は、ただの剣ではなかった。いくつにも分かれた刃が細く強靭な糸で繋がれている。いわゆる蛇腹剣だ。
このままでは押し負かされてしまう。そう判断したフェンリルは後ろへ跳んだ。
「反応速度は悪くない」
本当にこのヒトは三十八歳なのか。好戦的な笑みを浮かべたアルキリアを見てそう思った。朱の髪が舞い、蛇腹剣がフェンリルに向かって伸びてくる。それを上に跳んで避けた。そのまま伸びた蛇腹剣の上を駆け、アルキリアに接近する。後少し、後少しでその首に刃が届く。
「が、経験不足だ。しっかりと腕を磨くといい」
鈍い音と共に後頭部に衝撃を受けたフェンリルは、そのまま意識を手放した。