最終話 再生
フェンリルは、港にいた。丁度彼が拾われた場所である。そこで、ハティと向かい合っていた。隣にはエレンがいる。今日は、ハティの出立の日だった。島に帰るのだと宣言したのは、一週間ほど前のことだ。
「そう言えば、フェンリル。『金糸雀亭』を継ぐことになったんだって? よかったじゃない。路頭に迷う必要がなくなってさ」
「あ、うん。それか……」
快活そうな笑顔を浮かべるハティに、ついフェンリルは乾いた笑いを返してしまう。確かに路頭に迷うことはないのだが、決定した経緯が経緯だけに何故か素直に喜べなかった。アルキリアの名を呼ぶアルトの声が聞こえた気がして、フェンリルは頭を振った。
「それにしても、よかったです。フェンくんに帰る場所がなくて」
記憶を取り戻した次の日、食堂の休み時間に入るなりアルトが言った一言がこれだった。ハティは闘技場の方に遊びに行っているため、食堂のホールにはいつもの四人しかいない。
そのアルトの言葉に反応したのは、当のフェンリルではなかった。というより、フェンリルはアルトの発言が唐突すぎて半分も理解できていなかった。代わりに、エレンが紫の瞳を向けて、冷たい視線を送っている。
「アル兄さん。変態だとは思ってたけど、そんな失礼なこと言うなんて変態以下だよ。最低」
いつもより気持ち低い声音でエレンがそう言えば、アルトが慌てて手を振った。
「ああ、そういう意味ではないんです。フェンくんに帰る場所があったら、この食堂を継いでもらえないじゃないですか」
「え? 食堂を継ぐ?」
寝耳に水だった。そんなことを前に聞いただろうか、とフェンリルは思い首を傾げる。耳をぱたぱたと動かしても、そんな記憶は発掘されなかった。やはり、聞いていない。不思議そうなフェンリルをよそに、アルトは話を続ける。
「はい。本当は私、アルキリアさんの傍に毎日いるのが夢なんです。ですが、前のオーナーからこの食堂を託された以上、それは無理でした」
「実際は、アルキリアさんがこの食堂の常連だからなんだよ。今でも月一で来るんだ」
「あ、そうなんだ」
例え恩人であるオーナーの頼みだとしても、アルトならばアルキリアのもとにいることを優先しそうだ。フェンリルはそう思っていたので、エレンの説明に納得した。
「エレンは料理が潰滅的に下手ですし、メイファも料理はできるのですがセンスがありません。他に頼めるヒトもいなく、もう諦めていたのですが」
溜息を吐くアルト。以前にエレンが言っていたことは事実だったようだ。そう考えていると、ひんやりとした空気が辺りに漂っているのに気づいた。警戒のためか、尻尾の毛が逆立つ。
何事かと思ってきょろきょろと見回せば、原因はメイファだった。その顔は一見笑っているように見える。しかし、目は少しも笑ってなかった。
「アルト、訂正なさい。誰にセンスがないって言っているのかしら」
「ですから、メイファに……」
空気を読んでいないのか、アルトはもう一度同じことを言おうとした。するとすかさず、メイファが懐から何かを取りだした。見れば、それはアルキリアの写真だ。それをもて遊ぶようにひらひらと宙に泳がせた。
「会長の写真、もう売ったげないわよ」
アルトが奇妙なほど硬直していた。その瞳は、メイファの指にはさまれた写真に釘付けだ。しばしの間、ホールに沈黙が落ちる。エレンを見れば、特に困った様子も見せていない。ならばその内収まるだろう。
やがて、真剣な眼差しで写真を見ていたアルトがにっこりと笑った。
「そうですね。メイファは料理センスがあるかもしれませんが、やる気がありません。そこでフェンくん、あなたなんです」
「えっと、俺?」
「フェンくんになら、この食堂を任せられます。料理の腕前はまだまだですが、仕込めば私と同じくらいにまで成長する素質を持っていますからね」
そこまで言うと、アルトは頭を下げる。思わず尻尾が真上に立ってしまった。
「お願いです、もうフェンくんしか頼れないんです。ぜひ、この食堂のオーナーになってください」
「わ、わかったから。頭上げてよ」
あまりの居たたまれなさに、フェンリルは思わず了承を返していた。返した後で、これと同じようなことが前にもあったことを思い出す。あ、と思った所でもう遅い。アルトは満面の笑みを浮かべ、今にもスキップをしそうなくらいに喜んでいる。
そのままアルトは芝居がかった様子で胸に片方の手を当て、もう片方の手を斜め上に掲げる。気のせいだろうか、何だかアルトの上を光が照らしている錯覚すら見えた。
「アルキリアさん、待っててください。もうすぐあなたのお傍に参ります!」
「ストーカーにはならないよね?」
エレンの心配そうな声に、アルトは一瞬で真顔に戻った。
「ストーカーなどという下種な行為を行う訳ないじゃないですか。きちんと正面から行きます。まずは、闘技場連盟に所属するところからですね」
「ここまで来ると、いっそ清々しいわね」
メイファが呆れたように溜息を吐く。フェンリルも同じ気持ちだった。
「とりあえずまだ先の話だけど、頑張ってみるよ」
ともかく、行くあてのないフェンリルにとっては大切な居場所だ。その居場所を守るために、できることはするつもりだ。それに、料理をするのは昔から好きだった。そうでなければ、いくらなんでも引き受けたりはしなかっただろう。たぶん。
フェンリルの答えに満足したのか、ハティが頷いて目線を動かした。次の視線の先は隣にいるエレンだ。
「そうだ。エレンに手紙送ろうと思ってるんだけど、いい?」
「もちろん! 海を越えての文通かぁ、何だか素敵」
胸の前で手を組んで、エレンが目を輝かせる。その様子にハティが苦笑した。
「エレンってば大げさなんだから」
笑いながら言うその言葉には、しっかりとした親しみが込められていた。ハティの尻尾もそれを表すかのように、勢いよく振られていた。この一週間で不思議と、この二人の少女は仲良くなっていたのだ。フェンリルには未知の世界だが、二人が笑っている様子は微笑ましい。思わず笑みがこぼれた。
「じゃああたし、もう行くね。そろそろ時間だし」
持っていた荷物を背負いなおし、ハティがそう告げる。これから、船を使って大陸と島の交流を行っている一族のもとに向かうのだという。そこから再び船で、島へ帰るらしい。顔見知りもいるはずだから大丈夫だとハティは言っていた。
「またね、ハティ。母さんのことよろしく」
「バイバイ、ハティ」
「バイバイ、二人とも」
別れのあいさつを交わし、ハティが船に向かって歩いて行く。その後ろ姿を見つめていると、突然くるりと振り返った。次の瞬間、ものすごい勢いでハティがこちらに駆けてくる。
フェンリルが呆気にとられている内に、ハティとの距離は零になっていた。身体の前面に柔らかい感触を押し付けられる。肩を、鍛えられているのがわかる硬い手で掴まれ、軽い負荷がかかった。そして、頬に柔らかい感触を感じる。
「え?」
すぐ近くにハティの顔があった。その銀の瞳には愉快そうな光が宿っている。すぐにフェンリルは解放された。頭で処理しきれないまま、頬を手で押さえる。
「残念だけど、口は取っといてあげる」
悪戯気に目を細めると、今度こそハティは振り返らずに走り去っていった。波の音と、遠くから聞こえてくる歓声が耳を通り抜けていく。ようやく我に帰ると、エレンの視線を感じた。見つめ返せば、優しく微笑んで手を差し出してくる。
「帰ろう、フェン」
その柔らかく、暖かな手をそっと握った。潮の匂いに混じって、甘い匂いがフェンリルを包み込む。『金糸雀亭』へと帰る途中に空を見上げれば、雲ひとつない青の中に銀の月が浮かんでいるのが見えた。
『青炎の連環』、いかがだったでしょうか。読まれた方の中に、何かが残ってくれれば作者としては大変嬉しい限りです。本当にありがとうございました。