第一話 覚醒
彼は暗闇にいた。すぐ近くから聞こえる潮騒の音、風に乗って運ばれてくる潮の香り。それは彼にとっても身近なものだった、気がする。何故か記憶が曖昧で、形を成してはくれなかった。
足音が地面から響き伝わる。どうやら、誰かが近づいてくるようだ。そこで初めて、彼は自分が何か硬いものの上に横たわっているのに気づいた。耳も鼻も、彼に馴染んだものを伝えてくるのに、肌だけが全く馴染みのない感触を伝えてきたことに、彼は戸惑った。
ここは、どこなのだろうか。近づいてくるのは、誰だろう。彼はその瞼を必死に持ち上げようとしたけれども、上手くいかない。全身がだるく、思うように力が入らなかった。
その内に足音が止む。いい匂いが彼の鼻腔をくすぐった。おいしそうな匂い。それにつられるようにして、お腹が減ったことを告げる音が聞こえた。もちろん、鳴らしたのは彼の腹だ。恐らく足音の主にも聞こえたのだろう、息を飲んだ様子がその息遣いから容易に想像できた。
「た、大変! どうしよう。連れて帰ったらアル兄さん、怒るかな……?」
美しい鳥のさえずりのような声。いつまでも聞いていたくなる声だった。足音の主は少女なのかもしれない。暖かく柔らかな手が彼に触れると同時に、急速に意識が遠のいていった。
「……これは、なかなか売れそうだわ。その手のお姉さま方に人気が出そう」
彼はまたしても暗闇にいた。いや、完全な暗闇と言うにはいささか眩しい。彼の瞼から差し込む光は明滅を繰り返している。その音に合わせて奇妙な音が鳴っていた。聞いたこともない音だ。
不意に光と音が消える。相変わらず状況はよくわからない。だが、何か柔らかいものの上に横たわっていることからするに、先ほどとは違う場所のようだ。それに加えて腹の上が妙に暖かく、重みを感じる。丁度、ヒトが一人乗っているくらいの重みだった。
「にしても、何でこんなところに……? ま、気にしてても仕方ないわね」
性別を感じさせない声が降ってくる。先ほどの少女の声とは違い、性別を感じさせない声。場所も違えば傍にいるヒトも違うらしい。そんなことを考えていると、いつの間にか光と音がまた始まっていた。音はともかく、光は若干うっとうしい。その原因を探るべく、彼は重たい瞼を開いた。
瞼を開いて最初に飛び込んできたのは、つるりとした透明な板が中心にはめてある黒い箱だった。光と音の原因はこれのようだ。それを掴んでいる指は細く白い。その黒い箱のせいで、持ち主の顔までは見えなかった。
「あら、起こしちゃったかしら」
どうやら彼が起きたことに気づいたらしい。その黒い箱を降ろせば、非常に整った顔が現れる。頭の左右の高い位置でくくられている、特徴的な淡紅色の髪が腰のあたりで揺れていた。金の瞳は玩具を見つめているかのような煌めきを放っている。
最初は少女だと思った。しかし、その匂いは少年のものだ。理由までは分からないが、あえて少女の格好をしているのだろう。彼にとってそれはたいしたことじゃなかった。それよりも、その少年が彼の腹の上に乗っていることの方が問題だった。このままでは身動きが取れない。どうしようかと困っていると、それは簡単に解決した。
少年が黒い箱を入れ物にしまい、繋がっている紐に頭を潜らせて首から下げる。金糸で刺繍された丈の短い紅色の上着を、同じようなデザインの裾の長い服の上から羽織った。長い服には腰のあたりから切れ目が入っており、白い七分丈のズボンに包まれた足が見えている。
そのまま少年は軽い身のこなしで彼の上から降りると、どこかへ向かって歩き出す。扉だ。彼はどこかの部屋に連れてこられたみたいだった。しかし、状況もわからないまま少年に置いて行かれると少し困る。そう思ったのが伝わったのか、扉の手前で少年がこちらを振り返った。
「ちょっと待ってなさい。いいもの持ってきたげるから」
いいものとは何なのだろうか。それよりも、この状況を説明してくれる方がありがたいのだが。そう彼が告げる暇すらなく、少年はあっという間に扉の向こうに消えてしまった。
ひとまず、彼は自分のいる場所を確認することに決めた。
彼がいるのは白いシーツが敷かれた、ふかふかのベッドだ。毛布が足にかけられているが、変な風にまくれあがっている。少年がどかしたのかもしれない。部屋には今彼がいるベッドとそれに隣接する小さなテーブル。あとは大きな棚が壁際に二つほど並び、姿見が一つかけられている。機能性を重視したような、質素な部屋だった。
窓からは日光が差し込んでいるが、傾きから昼はとうに過ぎているようだ。そこまで確認して、どうも見覚えのない場所であると結論付けた彼は自分の格好も確認し始めた。
黒い袖なしのインナーに、生成り色のズボンが青いベルトによって腰のあたりで固定されている。手首から二の腕までを覆うと思われる布と、ズボンと同色の袖なしの上着がテーブルの上にたたまれて置かれていた。ベッドの脇にはブーツも揃えて置かれている。それらを身につけてみると、彼によく馴染んだ。恐らく、以前から身につけていたに違いない。
姿見の前に行って変な所がないか確認する。空色の髪は寝ていたためかあちこちはねていた。空色の髪の下から見え隠れする黒髪と、そこから伸びる一房も同様だ。手櫛で適当に整えれば、まぁ見られなくもない程度にはなった。彼は姿見に映る情けなさそうな銀の瞳を見て、いつかに見た夜空の月を思い出す。あの時傍にいたのは誰だったろうか。
格好を整え終わると、やることがなくなってしまった。所在無げにうろうろしていると、彼の耳が二人分の足音を捉えた。それと共に硝子質のものがぶつかり合う音も聞こえる。いい匂いが漂ってきて、思わず彼は腹を押さえていた。そう言えば、お腹が減っていたのだ。目覚めた時の状況に混乱していて、すっかり忘れていた。
扉が開く。入って来たのは先ほどの少年と、お盆を持った見知らぬ少女だった。毛先の方だけ緩やかなウェーブのかかった金の髪は背を覆い隠すほどの長さだ。少女の大きな紫色の瞳が彼を捉えると、その顔に可愛らしい笑みを浮かべた。
「良かった。元気そうで」
その美しい声を聞いて、彼はようやくあの時の少女だったことに気づいた。白を基調とした服は、裾にフリルがあしらわれていて少女によく似合っている。大胆に太ももと肩を露出したデザインのせいで若干、目のやり場に困ったのも確かだったが。
「お腹、空いてると思って持ってきたの。食べる?」
「え、いいの?」
少女が差し出してきたのは、お盆だ。お盆の上にはいい匂いを放つ料理が数品載せられている。空腹な彼にとって、それは堪らなく魅力的なものだった。確かに、少年が言った通りいいものだ。先ほど置いて行かれたことなど頭の隅に追いやった彼は、そんなことを考えた。
「もちろん」
その少女の言葉に、彼は一つの皿を手にした。具沢山のスープは彼の体調を気遣ってのものだろうか、消化によさそうである。スプーンを手にして一口食べてみた。途端に、口の中が幸福に包まれる。空腹のせいでは決してない。そのスープは本当においしかった。以前のことはよくわからないが、このようにおいしいものを食べるのは生まれて初めてのような気がする。彼に生えている尻尾も感情に合わせてぶんぶんと揺れていた。
無我夢中でお盆の上の料理を平らげていく。お腹も心もいっぱいになったところで、ようやく彼に向けられていた視線を感じた。顔をあげれば、少年と少女が彼の耳と尻尾を見つめている。はて、耳と尻尾はそんなに珍しいものなのだろうか。彼はそれに対する答えを持っていなかった。
「えっと、何かな」
わからないのなら聞いてみればいい。そう思って彼は訊ねた。すると、少女は恥ずかしそうに頬を赤く染める。何か、まずいことを言ってしまったかと彼は焦った。その焦りも、次の少女の言葉であっという間に霧散する。
「え、その、触ったら気持ちよさそうだなって。……尻尾とか」
少女の言葉に反応して、尻尾が揺れ動いた。彼としては生まれた時から付き合っている尻尾であるからして、そのような考えを持ったこともなかった。この空色の毛で覆われた尻尾はそんなに魅力的なものなのか。彼は初めて知った。ともかく、少女の願いをかなえるのは問題ない。おいしいご飯を貰ったのだから、率先して触らせてあげるべきだ。
「じゃあ、どうぞ」
彼がそう告げれば、少女の瞳が輝いた。彼の隣に移動すると、恐る恐る尻尾へと手を伸ばす。少女の緊張につられて、尻尾もぴんと立っている。暖かく柔らかな手が尻尾に触れれば、どことなくくすぐったい。だが我慢だ。これはご飯に対するささやかなお礼なのだから。もちろん、これくらいで返せているはずはないから、色々と考えなくてはいけない。くすぐったさに耐え忍びながら彼はそう思った。
「エレン、嬉しそうじゃない。そんなに気持ちいいの? その尻尾」
「すっごく気持ちいいよ。メイファはどう?」
「あたしはいいわ。それより、彼に話聞きたいもの」
二人の会話から、少年はメイファ、少女はエレンという名前であることが判明した。やはりこちらも記憶にはない。それよりも、メイファの態度の方が気になる。何をされるのだろう。不安になった彼は、外側は黒色の、内側は空色の毛に覆われた三角の大きな耳を伏せた。
「何で、獣人がここにいるのかしら。犬族っぽいけど」
彼はメイファの質問の意味をよく理解できなかった。獣人とは、人間よりも高い身体能力を持つ種族だ。見た目は人間とほぼ変わらないが、耳や尻尾などの動物的特徴を備えているために間違われることはまずない。そんな獣人がここにいるのはおかしいことなのか。彼の知識にはなかったし、ここがどこなのかすらわからない。それと、一箇所だけ訂正することがある。
「一応、狼族なんだけど」
「意外。絶対犬だと思ったのに」
本当に驚いたようで、メイファは目を丸くした。その様子に彼は割と落ち込んだ。狼族らしくないとはよく言われていたのだが、悲しいものは悲しい。狼族らしくないとは誰に言われたのだろう。思い出せないことが多すぎて、彼は戸惑った。いつから自分はこんなに忘れっぽくなってしまったのだろう。
「メイファ、そんなにおかしいの? 獣人がいるのって」
エレンの言葉は彼が聞きたかったことだった。彼が常識を知らないのではなく、メイファが物知りなのだ。そう結論づければ、何だか気持ちが軽くなった。自分はおかしくなどないと証明できたような気がして。
それにしても、エレンはいつまで尻尾を触っているのだろう。もはやエレンの所有物のごとく、しっかりと握られている自分の尻尾を見れば、触られたせいでぼさぼさになってしまっていた。後で毛づくろいしないといけない。
「基本、獣人は住んでいる島から出ないのよ。閉鎖的っていうのかしら? あたしが前にあった獣人はそう言ってたわ」
そこまで言うとメイファは腰に手を当て、彼の方にぐっと顔を近づけてきた。後ずさろうにも尻尾をエレンに握られているせいでできない。エレンはそんなつもりで握っている訳ではないだろうが、そんなこと関係ない。これではまるで尋問だ。尋問など受けたことはないのに、そんな風に彼は感じた。
「で、あんたは何でいるの? 答えなさい。ただでご飯食べたんだもの、断る権利はないわよ」
「わ、わからないよ。ここがどこかもわからないし……」
「ここは、闘技場の街アイレスの南地区にある食堂『金糸雀亭』だよ。私が港であなたを拾ったの」
力なくうなだれた彼の尻尾を放したエレンが、親切にも教えてくれる。その美しい声も相まってそれは天の助けのようにすら思えた。残念なことに、アイレスと言う地名には聞き覚えがないのだが。そう思ったのが顔に出たのか、今度こそ彼の意図を酌んだメイファが説明を付け加える。
「アイレスは、大陸の南端にある街よ。さすがに大陸はわかるでしょ」
「うん。でも、本当にわからないんだ。どこに住んでいたのかもわからないくらいで」
さっぱり記憶にないのだ。彼は今までどこで、どのように暮らしていたのかという記憶の欠片すら拾えない。何故なのかもわからない彼は、途方に暮れた。
彼の表情があまりにも情けなかったのか、エレンが心配そうに見つめてくる。その時、ふわりと甘い匂いがした。最初の時からおいしそうな匂いを纏っていたから気づかなかった。甘いのにしつこくなくて、いつまでも嗅いでいたくなる匂いだ。
「もしかして、記憶喪失なの? 名前も覚えていないのかな」
「俺の名前は……フェンリル。確かそうだったはず。フェンって呼ばれてた、気がする」
彼、フェンリルがそう告げれば、エレンがほっとしたように笑った。それにつられて思わず笑みを浮かべる。結局のところ判明したことと言えば今いる場所と、目の前にいる二人の名前だけだ。それでもきっとどうにかなるという、根拠のない自信が彼の心の内に不思議と湧いていた。