その二(足りない足跡)
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翌朝、萩高は目覚めると直ぐに窓から外を眺めた。相変わらず薄どんよりとした空模様ではあったが、既に雪は止んでおり、甲羅館の庭は一面の雪化粧に覆われていた。
左方向に目を移すと、有馬城の寝室である東家と、そこへと続く渡り廊下が見渡せた。真っ白なその通路に一筋の足跡が見える。
この館の主である広之進が、もう起きて来たということなのだろうか?
慌てて部屋を出て、隣室のドアの前に立ち、軽くノックする。
「お、おはよう」
ドアが開いて、寝ぼけた顔の公星が現れた。
「今まで寝ていたのか?」
「ええ、昨夜は少し飲み過ぎたようで・・・」
「そんな場合じゃないぞ。この家の主様はとっくに起きているようだ」
「そうですか。でも今更そんなことを気にしたところで、もう誰かに決定していると思いますが・・・」
「いや、発表が終わるまでは、些細なミスも命取りとなる。今の時点で誰かに決定していたとしても、何かの突然なミスによって心変わりしてしまうっていう可能性はあるからな」
「そうだとしても、選ばれるのが僕ではないという妙な自信はあります」
「ふーん。まあいい。だが、それでもだ。もし俺が第一候補だった場合には、ここでお前を起こさなかったら、何て友達甲斐のない人物なのだろうと評価されて、その減点が原因で逆転負けってことになるかも知れないのでな」
いつものように、萩高が喉の奥でくくくっと笑った。
「僕は、そこまで自信過剰にはなれないね」
「ところで、もう目が覚めただろう。とにかく、早く支度するんだ」
萩高はそう命令すると部屋を出て、思いっ切りドアを閉めた。
顔を洗ったお陰で少しは脳味噌がはっきりしたので、公星はスーツ姿に着替えてから階下に下りて行った。そこには盛本以外の候補者が既に揃っていた。
昨夜の祝賀会に間に合わなかった黴原も、どうにか発表式には間に合ったようで、牛皮製の深々としたソファに眼を閉じたままで座っていた。
「昨夜は遅刻でしたね。どうしたんですか、この大事なときに・・・」
「おぅ、おはよう」
まだ眠そうな目をした黴原が、公星を見上げた。
「お得意様が昨日突然お亡くなりになってしまったのだよ。ちっぽけな我が社にとってはベスト3に入る上客なもんで、今日は絶対にこちらに来ないという訳にはいかないので、せめてお通夜にだけでも顔を出しておかなくては・・・と考えたという訳さ」
「そうでしたか。そのうえに初雪は降るし、いろいろ大変でしたね」
「ああ、夜半を越えた辺りから降り出したかと思うと、見る見るうちに積もっていくではないか。天気予報を聴いていたので、一応は用心してスタッドレスに替えておいて正解だったわ」
「それで、ここには何時ごろに到着したんですか?」
「3時過ぎになっていたと思うが、ここもほとんどの部屋の明かりは見えず、もしカーナビがなければ道に迷って、今頃は凍死体で発見されていたかもな」
黴原の悪い冗談を受け流したとき、背後から誰かが近付いてきた。
「ベッドの心地良さについつい寝坊しちまったが、ご主人様のご登場はまだか」
耳元で呟いて来たのは盛本だった。
「そういえばおかしいな。社長はもう起きてこちらに来ているようだと、さっき萩高さんは言ってたのだが・・・」
公星はそう返すと、萩高を見付けて手招きした。
「これで全員揃ったようだが、何か俺に用か?」
萩高が大股で近付いてくると、長身を屈めて訊いてきた。
「主様は、まだこちらには来ていないらしいのだ」
「なんだと? じゃあ、俺の見たあの足跡は何なんだ? 昨夜の雪が降り始めたのは主殿が東家に戻ってから直ぐのことだ。だから、あれはお帰りになったときに付いたものではない。そうすると、2階から見えたあの足跡は、主様がこちらにやって来たときに付けた足跡と考えるしかないと思ったのだがな」
「それなら多分、こちら側から他の誰かが東屋へ行ったときに付けた足跡だろう」
「いやいや、それは有り得ない。だって関係者は全員ここに揃っているではないか。それなら、往復分の足跡が付いているはずではないか」
萩高に言われて、公星は部屋中を見回した。
「調理人やメイドの一部を除けば、ほぼ全員の姿がありますね」
「するとあの足跡を付けたのはいったい誰なのだ?」
そう言うと、萩高は東屋へと続く廊下に向かって急いだ。あわてて公星と盛本も後を追い掛ける。
甲羅館本体の周りには、ガラス窓で外部との遮断を施した廊下が、玄関から一周して再び玄関まで戻れるように、館を周回して続いている。
その所々には母屋との出入りができるように何箇所かのドアがあり、外部とは『東家への渡り廊下』と『ゴミ焼却炉』だけに行き来が出来るようになっていた。
公星達がその周回する廊下に飛び出して、やっと渡り廊下の手前まで辿り着いたとき、そこには萩高が立ち尽くしている姿があった。
目の前の渡り廊下が積雪に覆われていたのは予想通りであったが、意外なことに、そこには『東屋から出てきた足跡』ではなく、『東家へと向かう足跡』だけが刻印されていたのだった。広之進が東屋に戻ったときには、雪はまだちらほらと降っている程度であった。本格的に降り積もり始めたときには、広之進は東屋の中に居たはすだ。ということは、今この時点にも広之進以外の誰かがそこに居るというのか。
入り口のドアは閉ざされているが、施錠されているかどうかに関しては、この地点から判別することは不可能であった。そして、型板ガラスの窓からは、室内の電灯が点いていることだけは分かった。
公星がふと気配を感じて後を振り返ると、いつの間にか槿花がそこに立っていた。
「皆さん慌てて、どうかしたの?」
「あ、いや・・・、何かがあったというのではありませんが、ただ気になるものが・・・」
と、公星が指で足跡を指し示す。
「お父様が付けたのかしら?」
「もしそうだとすれば、夜中に一度こちらに来られたことになる。それも雪が止むよりも前にね。そして雪が止んだ後に向こう側へと戻られた」
「祝賀会を終えて東屋に戻った後は、こちらの本館には来ていないと思いますけど・・・。それに・・・」
不安そうに、槿花が呟く。
「想像ばかりしていても埒が明かない。誰か連絡は取れないのか?」
槿花の様子に居た堪れなくなったのか、萩高が声を上げた。
「お父様!聞こえますか?」
槿花が、彼女なりの大声で呼び掛ける。しかし反応はない。
「静かなままです・・・」
「電話をしてみたらどうだ?」
「そうですね」
槿花が携帯電話を取り出してナンバーをクリックすると、東屋の方から極く微細な音量で着信メロディーが聞こえた。
耳に当てたままの姿勢をしばらく続けていた槿花が、やがて首を横に振った。
「出ません・・・」
「やはり何かの異変が起こったのかな」
萩高が顎に手を添えて呟いた。
「こうなったら、確かめるしか手がないだろう」
そういうと、雪の上に一歩進み出そうとした。
「ダメです。待って!」
公星が慌てて、萩高の腕を掴んで引き止めた。
「いいですか、この足跡が後になって重要な意味を持つことも考えられます。だから、この周辺には一切影響を与えないように細心の注意を払うべきだと思います」
「何があったのかは別にして、何かがあったとしても大丈夫な行動をしろということだな」
「そのとおりです。短絡的にここから真っ直ぐに行くのではなく、まず一旦は左方向にと進んでから、数歩だけ行ったところで右折すると、そこから真っ直ぐに歩いて行けば縁側に到着することになります。少々の段差はありますが手摺りを掴んで縁側に上るのは簡単なことでしょう」
東屋には地上から60cm程度の位置にぐるりと周回する縁側が設けられており、渡り廊下の突き当たり部分を除いて木製の手摺りが付けられている。渡り廊下の先は3段の階段になっていて、足跡はその階段の下まで続いているのであった。
東屋に行く人数は極力抑えた方が良いだろうということになり、萩高と黴原がその役目を負うことになった。
2人は計画通りに縁側に辿り着き、手摺り掴んで渡り廊下にと上がった。その場で2人は靴を脱ぎ、壁際伝いにドアに向かって歩み寄った。
ドアに手を当てて力を込めると、鍵は掛かっておらず静かに開いた。
2人が中を覗き込む。電灯が点いているので、室内の様子は想像していた以上の明瞭さで見て取れた。
最初の印象は、そこが、ほぼワンルームと称しても良い空間で、書斎と寝室を兼ね備えたような大部屋と、その奥にある洗面所とバスルームによって構成されているようだということだった。
あらためて観察する。書斎らしきエリアには応接用のセットが据えられているのだが、その椅子の上に男の姿があった。見覚えのある白髪混じりのその男は・・・首を左に曲げたままの姿勢で微動だにせず座っているのだった。そして、前髪の隙間からは赤黒く乾いた出血痕が確認できた。
「死んでいる」
どちらからともなく、最悪の言葉が出た。
「この様子だと、自殺ではないだろうな・・・」
萩高が呟いた。
「誰かに殺されたということか」
黴原が問い返す。
「そう考えるのが妥当だろ。が・・・そうだとすれば、犯人はこの甲羅館に居る誰かという可能性が高いな」
萩高の推理に反応したのか、黴原がドアに歩み寄って本館を振り返る。いつの間にか、渡り廊下の向こう側には、この邸内に留まっているほぼ全員が集結していた。
「この中の誰かが、その犯人なのだ」
再び、萩高が断言するように言った。
東屋の中を隈なく調べ終えた萩高達が、先ほど歩いた道筋を逆に遡って甲羅館側に戻り、目撃してきた一部始終を報告すると、誰に憚ることなく嗚咽を漏らしながら、槿花がその場に崩れ落ちた。
5
執事の矢木がすぐさま警察に通報した。ところが、ここに至る林道が積雪のために未明から通行不能となっており、復旧する見込みである午後にならないと到着できないという、空しい返答が返ってきた。付け加えて、可能な限りの現場保存を施しておくようにと、逆に依頼されるといった始末。
矢木の指示で、殺害現場である東家のドアを閉めて、常時2人以上の見張り役が立つことにした。謎の足跡については、できるだけさまざまな方向から写真撮影をしたうえで、上からブルーシートですっぽりと覆うことになった。
渡り廊下は、コンクリート叩きの上に欅で造られた幅1間ほどの長いスノコが置かれているといったもので、従来は吹き曝しであったものを、最近になって屋根を取り付ける工事が始められた矢先であった。既に躯体部分までの作業は終えており、柱と小屋組みだけがスケルトン状態で組み上がっていた。
次の作業段階に必要とされる資材が本館側の壁に立てかけられていたが、完成後においても壁は造られない設計であるその廊下は、吹き込んだ雪によって約10cmの雪が積もっていた。
その新雪の上に左右ジグザグに付けられた足跡は、全部で6歩分が残されていたのだ。
渡り廊下の長さは凡そ5m。ということは歩幅が約70cmだという計算になる。雪上の歩行だということを考えると、この点だけから身長を推測するのはかなり難しいのかも知れない。
とりあえず、最初の見張り役を黴原と盛本に任せて、他の者はロビーに戻ることにした。警察からの指示を受けた矢木の口からは、なるだけ一室に居るようにして単独行動は慎むように・・・という注意がなされた。
「どう思います?」
公星が、萩高に尋ねた。
「どうと言われてもなぁ。まぁ、少なくとも、犯人は我々の中に居るのではないだろうか、ということくらいかな」
「東屋の中を調べてみて、何か気付いたことはなかったのですか?」
「そうだな・・・。主様の傷の位置から考えると、犯人は背後から殴ったのではないだろうかと思う。頂頭部がぱっくりと裂けていて、そこから額にまで流れ出た血がどす黒く固まっていたからな」
「凶器はあった?」
「あの時間内では、そこまでは分からなかった」
「足跡は向こう側に向かって歩いたと思われるものだけだったよね? だとしたら犯人はまだあの室内に居るのではないだろうか?」
「いや、黴原とふたりで室内に誰かが隠れてはいないだろうかと調べたし、一応トイレも風呂も中を覗いてみた。だが、猫の子一匹隠れて居なかったさ」
「では、あの足跡を付けたのはいったい誰なのだろう」
当然なことであるが、足跡が付けられたのは雪が止んだ後ということになる。止む前に付けられたのであれば、その後の降雪によって足跡は埋もれることになるからだ。綺麗に残されていたあの足跡が広之進のものであったとすれば、犯人はまだ雪が降っているうちに東屋に潜伏していたか、或いは、何らかの理由で広之進が一旦は甲羅館にやってきて、雪が止んだ後で再び東家に戻ったということになる。また、足跡が広之進のものでなかった場合は、あれは雪が止んだ後で犯人が東屋に行ったときに付けた足跡だということになる。しかし、そのどちらであったにせよ、殺害後に犯人が出て行くためには、既に降り積っていた雪の上を歩いて行くしかなかったはずなのだ。
一方、東屋の中に被害者以外の存在を確認することはできなかったと、萩高達は証言している。
「犯人は空中歩行をして出て行ったとでもいうのか?」
公星は、誰にともなく呟いた。