08 : 罪悪感に負けた。1
明日消える光りなら、今ある自分を光りの中に埋めよう。
朝陽を迎えられない運命なら、月夜の中で太陽を見つけよう。
たとえすべてを失っても、己の中に小さな灯火があれば、それは取り戻すことができるだろうから。
「ん……」
「起こしてしまったかしら?」
「……シャナ?」
「ええ。気分はどう?」
「平気……ええと?」
「夜会が終わってすぐ、部屋に戻ったとたんに倒れたのよ。憶えてない?」
「そう……だったかな?」
「医師が言うには、疲労が蓄積していたのでしょうねって。あなた、実はかなり緊張していたのね?」
ぼんやりと見やった先には、濡れた布を絞ってクロの額に置こうとしているシャナの姿があった。
「緊張、というか……まあ、どうしたらシャナに好いてもらえるかなって、ずっと考えごとはしていたよ」
「冗談はやめてちょうだい」
額に置かれた布の冷たさに、クロはほっと息をつくと微笑む。ああいいなぁと思ったのは、シャナに看病されていることだ。
「本当だよ。おれは、シャナのお婿さんになりたくて、ここにいるんだから」
「わたしに、今でもその気持ちがないとしても、そう言えるの?」
「だから、好いてもらえるように、いろいろと考えている」
「……まったく、諦めの悪い子ね」
嘘は言っていない。クロには、そういう下心がある。シャナに好いてもらう必要が、ある。予想外だったのは、自分が逆に、シャナを好いてしまったことだ。
まったく人間とは、人間の心とは、一様にならない。予想通りに動いていくれない。
なんて、厄介だろう。
「シャナ?」
「なにかしら」
真っ直ぐな瞳を寄こされて、ずくりと、胸が痛んだ。けれどもそれは、シャナに知られてはいけない。
「……クロ?」
「今度……」
「ん?」
「今度こそ、おれと踊ってくれる?」
「ここで?」
「夜会では踊れなかったから」
額に置かれた布を取り、クロはゆっくり身体を起こすと、寝台から足を下ろした。立ち上がろうとしたらシャナに止められて、ふと顔を上げる。
「疲れているのよ。もう少し休みなさい」
「もうだいじょうぶだよ?」
目もぱっちりしているし、気分もすっきりしているし、そもそも倒れたという自覚すらクロにはない。肩を押してくるシャナの手を掴むと、逆に押し返しながら立ちあがった。
「クロっ」
「ねえ、シャナ、踏み出しは? トワイライとは、違うでしょう? 教えて」
「え、ちょ、待って」
「トワイライはこっちから。はい、シャナ」
音楽も、観客もない。静かな部屋で、クロはシャナを無理やり促して踊る。自分が憶えた型でない踊りにシャナは戸惑い、しかしそれでもクロの誘導についてくる辺り、苦手とはいえかなりの練習をしたのだろうと思われる。
「あはっ、シャナ、トワイライの踊れるんだ?」
「む、昔、少し、習ったから」
「誰かと踊った?」
「そんなことあるわけないでしょ……っと」
「おれが初めてか……いいね、初めて」
シャナのすべてが、初めてだったらいいのに。そう思っていると、シャナも徐々に踊りに乗ってきて、ふたりの波長が合ってくる。そうしているうちに、どちらも真剣になってきて、音楽もないのに足音だけで気分が盛り上がってきた。
「上手いね、シャナ」
「クロこそ」
「じゃあ次はセムコンシャスの踊り! シャナ、おれを誘導して」
「病み上がりが無茶しないの」
「だいじょうぶだよ」
ほらほら、とシャナを促して、トワイライの型からセムコンシャスの型へと踊りを移行していく。やはり音楽はないが、気分だけでそれは充分で、シャナもいつのまにか楽しげに踊っている。
「ふはー……っ」
飽きるまで踊ろうと思っていたが、さすがに疲れて寝台に転がったときには、呼吸が少し乱れて苦しくなっていた。もちろんシャナも、肩で息をしている。
「久しぶりに真剣に踊っちゃったわ……しかも病人相手に」
「おれは病人じゃないよ」
「似たようなものよ」
「おれはもうだいじょうぶだよ。あー楽しかった! シャナは?」
「もう……楽しかったわよ。踊るのが楽しいだなんて、初めて思ったわ」
「初めて? うわぁ……やっぱり初めてっていいなぁ」
誰かの始めてをもらえるというのは、意外にも嬉しいことだ。もしかして夜のほうもおれが初めてになるのかな、などと考えて、それも嬉しいと顔が綻ぶ。
「なに笑ってるの?」
「なんだか楽しくて」
「楽しい?」
「外がこんなに楽しいところだったなんて、予想外だ」
「……そと?」
「おれは国から出たことがなかったから」
生きていた中で、こんなにも楽しいと言えるなにかが、あっただろうか。そう考えて、出てくる答えは一つもない。今このときを除いて、楽しいと言えたなにかが、クロにはない。
「今がある……そのことが、嬉しいなんて……初めてかな」
これが「幸せ」というものなら、ずっとこの中にいたいと思ってしまう。そんなことは無理だとわかっていても、望んでしまう。それが生きている人間だということなのだろう。
「あなたはいつも笑っていて、なにが楽しいのかよくわからなかったのだけれど……そんなふうに考えていたのね」
「ん?」
「遅れて到着したのは、初めて出た外の国が、珍しかったからなのでしょう?」
「んー……まあ、二度とあることではない、からね」
「そんなことないわ」
ふと見やったシャナは、クロが想像していた以上に、真摯な瞳をしていた。
「……シャナ?」
「二度もない、なんてことは、ないわ。あなたは今ここにいて、こうして生きている。願いを、望みを、抱くことができる。それは確かな、あなたの想い。想いは大切にしなければだめよ」
思わず、息を呑んだ。それはシャナに気づかれることのないほど小さな仕草だったが、クロはシャナの言葉に驚いていた。本当に、と訊き返しそうになって、かろうじてそれが音になることを防げたのは、ずくりと痛んだ罪悪感からだろう。
クロは閉口し、シャナを見つめた。
美しい人だと思う。この人が自分の妻となるなど、信じられない。けれども自分は確かにこの人の夫となるべくして国を出、認められるべくして行動している。
自分はいつまで耐えられるだろう。
「クロ、あなたの願いはなに?」
ああ、耐えられないかもしれない。
この罪悪感を。
欺くというこの行為を。
この願いを。
好いてしまった人に隠し続けることは、できないのかもしれない。
「……予想外だよ」
「え?」
「おれはきみが好きだ」
想いを大切に。
そう言われてしまったら、言わずにはおれない。
「……冗談はよして。たった数日で、わたしのどこが好きだというの。いいのよ、無理しなくて。わたしは国の体面を保つために、大国であるトワイライ帝国からの縁談を受け入れたのだから」
冗談なものか。そう言ったところで、シャナは聞き入れないだろう。それはわかっている。
それでも。
「おれがきみを……シャナを愛しているという事実は、おれにとって、大切な想いだ」
「上手い冗談ね」
笑って、流されそうになったとしても。
動かない現実と、偽れない真実がある限り、それは否定しようがない。
「……シャナ」
「なにかしら」
「どうか、悲しまないで欲しい」
「え?」
寝転んでいた身体をゆっくりと起こしながら、クロは、呼べばどこからでも現われる風のような騎士を呼ぶ。
「ノエ、やっぱりやめるよ。すごく、心臓が痛いから」
寝室には、クロとシャナのほかに、ひっそりと控えている侍女や侍従がいたが、それ以外に人気はない。あるのは静寂、そして人ならざるもの。
「言うの早過ぎだな、おい」
ノエは、隣室の壁を通り抜けて、その姿を現わした。