07 : 崩れていく、壊れていく。2
シャナの付き添いにクロがつく。腕を絡め、並んで歩くさまは、さぞや仲睦まじく見えたことだろう。
夜会の席は、王女の婚姻を心から喜んでいた。待ち望んでいた王女の婚姻だ。たとえクロの素性に疑念を抱く者がいようとも、それらは夜会の雰囲気に呑まれ、影を小さくする。
王や王妃も、クロの挨拶には満面の笑みを浮かべ、祝辞を述べた。
誰もが、喜びの中にあった。
国の安泰を、安寧を、喜んでいた。
「クロ」
「ん……?」
臣下の家族と懇談中のシャナから少し離れ、クロは壁を背にして、シャナの後ろ姿を眺めていたところだった。そこにノエが、見かねたように声をかけてくる。
「その顔、どうにかしろ。ばれるぞ」
「……笑っているつもりだが」
「目が、笑ってないんだよ」
さすがはノエだ。完全に演技できていると思っていたのに、あっさりと目許の真実を見抜かれる。
「十秒、時間をやる。どうにかしろ」
そう言ってノエが、クロの姿が誰からも見えないように、隠してくれる。深呼吸して目を擦れば、もうその顔は完璧な嘘に塗り替えられた。
「気が、抜けた。ごめん」
「なんで気が抜けるんだ。緊張するとこだろ、ここは」
「いや、シャナが……」
「シャナ姫?」
「可哀想だなと、思って」
「……今さらだろ、そんなの」
もともと目つきも悪ければ愛想も悪いノエは、不機嫌そうな顔をしていても誰にも咎められない。それがたまに羨ましいクロは、笑みを張りつかせたまま、そっと溜息をつく。
「……いいのかなぁ」
「それこそ、今さらだ。おい、また顔が……いい加減にしろ、クロ。隠せないならもう部屋に戻れ」
「あれ? 笑ってない?」
演技は完璧のはずなのに、どうも、上手く仮面を被っていられないようだ。
どうしても嘘が見える目許を手のひらで隠すと、クロはさらに場所を移動し、人目を避ける。
「いったいどうした、クロ」
「いや、だから、シャナが……」
「覚悟してただろ。今さら後悔してんのか」
「後悔はない……けど」
「けど?」
「シャナを幸せにしたい」
「すればいいだろ。そのために国を出たはずだ」
「そう……そうだ、おれは、国を出た」
目許を隠しながら、クロは、その姿を探す。柔らかな笑みを浮かべ、凛としたその姿を見つけると、なぜだろう、涙が出そうになる。
「シャナ……」
綺麗だと、思った。初めて逢ったその瞬間から、眩しくてならなかった。触れるのが怖くて、けれども逢いたくて、仕事の邪魔をしてまでも毎日通った。
まさか自分が、そこまで囚われるとは、思いもしなかったけれども。
今この瞬間が、真実なのだろうと思う。
「……シャナ」
ごめんなさい、という言葉が、あなたを傷つけるだろう。
許して、という言葉が、あなたを失望させるだろう。
「おい、クロ」
「ノエ、おれは、シャナにひどいことを、しようとしている」
「クロ」
「幸せにしたいのに……な」
崩れていく。
これまで、ばかみたいに笑っていた、その虚勢が。
壊れていく。
どうしたらいいだろう。
どうすればいいだろう。
身体から、力が抜けていく。
「いい加減にしろよ、クロ。顔がヤバいって、言ってんだろ」
崩れ落ちそうになった身体を、ノエに腕を掴まれて、強い力で引っ張られた。
ハッとする。
「あ……悪い。また気が抜けた」
「それやめろ。緊張しろ、頼むから。無理なら部屋戻れ」
「いや、まだシャナのそばに……夜会も終わってないし、シャナと踊りたいし」
「なら顔をどうにかしろ。色も真っ蒼だぞ」
自分ではどうも、その不調に気づけない。ノエがいてくれて助かったと、正直に思う。
そのとき。
「どうしたの……」
シャナが、こちらに気づいていた。すぐ近くまで来ていたシャナから、ふわりと漂った優しい香りに、胸が疼く。
瞬間的にふっと微笑んだ。
「……シャナ」
「どうしたの、クロ」
淡い色はもう似合わないからと、濃紺の礼装をまとうシャナに、白の紗と白の靴を履かせたのは、シャナには淡い色も似合うと思ったからだ。きつく見えてしまうその姿を柔らかく見せるために、金に輝く髪も細かに編み込んで大胆な形にした。
思った通り、シャナの姿は変わった。予想以上に、美しくなった。
シャナは綺麗だ。
「……シャナ、踊ってくれる?」
「え?」
「おれと、踊ってくれる?」
ちょうど、緩やかで静かな音楽が奏でられたところだ。人々は思い思いに、連れ添いと手を取り合って中央に移動し、踊り始めている。その輪の中に、クロはシャナを誘った。
「待って」
「ん?」
「顔色が悪いわ……駄目よ、休みなさい」
心配そうな顔をしているシャナに、誘いを断られてしまう。それだけでなく、近くの椅子にまで座らせられた。
「シャナと踊りたい」
「この先いくらでも機会はあるわ。今は我慢なさい」
「……この先、いくらでも?」
「ええ」
「おれが、下手くそでも?」
「練習すればいいわ。わたしも得意ではないのよ」
隣に腰かけてくれたシャナは、ほんの少しだけ、優しく微笑んでくれる。
つと感じた罪悪に、胸が痛んだ。なんて都合のいい罪悪感だ。こうなることは、始めからわかっていたはずなのに。
「立場上、わたしは最後までここにいる必要があるの。あなたは先に部屋へ戻っていたほうがいいかもしれないわね」
「……ここにいるよ」
「よくなるものも悪くなるわ。いいから部屋に」
「久しぶりに大勢の人に囲まれたから、人に酔っただけだよ。だいじょうぶ」
「けれど……」
「ああほら、呼んでる。おれはここにいるから、だいじょうぶ、行ってきなよ」
シャナに声をかけたそうにしている貴婦人がいたので、クロは誤魔化すようにシャナの注意を反らすと、背を押しだした。
「……我慢できなくなったら、部屋に戻るのよ?」
「そのときはちゃんとシャナに言うから」
心配してくれるシャナを送り出すと、はあ、とこっそりため息をついた。幸せが逃げる、というのはシャナに対しては言うものの、自分に対してはどうとも思わない。
「うー……心臓痛い」
ああもう本当に痛い、とクロは胸を押さえながら身を丸めた。いっそ気絶できたらいいのに、と思うが、そう都合よくはいかない。
「踊るんじゃなかったのかよ?」
そう、ノエに言われて。
「踊るよ、シャナと。けど……」
この先いくらでも、その機会はある。シャナはそう言ってくれた。クロが下手くそでも、自分も得意ではないから一緒に練習してくれると言った。
「未来を、望んで……いいのかな」
それは本当に望めることだろうか。
ごめんなさいと言うことが、シャナを傷つけるのに。
許してと言うことが、シャナを失望させるのに。
それは、いつかは、話さなければならないことだった。知られて拙いわけではない。むしろ一番に知らせるべきことだ。それを黙っていたのは、クロが、自分が思った以上に、シャナという存在に囚われてしまったせい。
崩れていく。
壊れていく。
国を出るとき、それは覚悟し、決めたことだったのに。
「おれの、宝……は」