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花咲く歌を夜明けにつなぐ。  作者: 津森太壱。
【歌う花に幸あれ。】
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05 : 想われたい。2





「ねえアーシェ、なにか思い違いをしているようだから言うけれど……わたしはアーシェが思っているほど、優しい生きものではないよ」


 真っ直ぐに、じっと見つめてくる夕焼けの双眸に、嘘だ、とアーシェは心の裡で呟く。

 ネフィスは優しい。腹心の部下の遺言に世間一般的には最高の形で応え、今こうしてアーシェを様々な視線から護っている。結婚を間近に婚約者を失ったアーシェに向けられるはずだったものは、ネフィスによってすべて遮断されたのだ。いや、ネフィスがいなくても、婚約者だった伯爵のあの人望を考えれば、アーシェはひどい状態には陥らなかっただろう。新たな婚約者も現われていたかもしれない。だがそうなっていたとしても、それはきっとネフィスの口添えがついていたはずだ。

 けっきょくのところアーシェは、ネフィスに多方面に渡って助けられる立場にあって、それはつまり、アーシェは恵まれた環境のなかにあるということだ。


「……あなたは、優しいです」


 本当は、いくらあの伯爵が人望の厚い人であっても、だからといって皇太子であるネフィスがその婚約者を救う必要はなかった。そうか、残念なことだったね、とその言葉をかけるだけでも充分だったはずなのだ。

 今ならわかる。あの伯爵を失ったことは、この国にとって損害だったのだ。アーシェが伯爵に降りかかった災厄を引き受けるべきだった。

 今アーシェがここにいるのは、亡き伯爵の恩恵と、ネフィスの優しさだ。

 アーシェは本来ならここにいていい人間ではない。


「……アーシェ」


 はあ、とネフィスがため息をつく。少し呆れているようなそれに、不快にさせてしまっただろうかと不安に思うも、自分は優しくないと言ったネフィスのそれを否定したことに後悔はなかった。


「わたしが本当に優しい生きものであれば、アトナの死を利用することはなかったと思うよ」

「……え?」

「わたしはアトナの死を……ウェリエスク伯爵の死を、利用したのだよ」


 なんのことだろう、と思ったが、アトナとは、ウェリエスク伯爵とは、アーシェの婚約者だった伯爵のことだ。


「伯爵さまの、死を……利用?」

「そうだよ。わたしは、彼が病に侵されていることを、初めから知っていたからね」


 それこそ出逢ったときから、とネフィスは苦笑を交えて明かした。

 まったく話の先が見えなかった。なにを言われているのか、理解できなかった。


「急な病だったのでは……」

「悪化したのが急だった、のだよ。これはいつか話そうと思っていたことだから、ちょうどいいね、教えてあげよう」


 おいで、と言ったネフィスは、話が長くなると見越したのか、長椅子にアーシェを促すと自分もその隣に腰かけ、いない者として部屋の隅に控えていたラトウィックを呼ぶと、卓にお茶を用意させた。


 ネフィスが口を開いたのは、ラトウィックが用意したお茶が卓に並べられてからだった。


「ねえアーシェ、きみは本当に、アトナに興味がなかったようだね」


 切り出されたその言葉に、思わずぎくりとする。

 興味がなかった、というよりも、想う気持ちがなかった、と言うほうが正しいだろうけれども、それはけっきょくのところ興味がなかったということに繋がるだろう。アーシェは、多くの人を悲しませた伯爵の死に、心を乱されることがなかったのだ。婚約者であったにもかかわらず、である。


「そ、れは……」


 口籠り、蒼白になったアーシェを、だがネフィスは咎めなかった。


「アーシェはそれでいい。いつまでもアトナのことを忘れられないようでは、アトナがしたことは無意味になるからね」


 笑いさえしたネフィスは、卓に並べられた茶器を手にすると、ゆっくりと口に含む。こくり、と一口分が咽喉を通ると、茶器にたっぷりと残るお茶を見つめてさらに笑った。


「この味は変わらないのに、きみは気づかなかった。だから今となっては無意味ではないね」

「……え?」


 いったいいつお茶の話になったのか、伯爵の話をしていたのではないのか、アーシェは少々混乱する。


「いつ気づくのかと思って、黙っていたというのもあるけれど……この様子であれば、アーシェは一生、気づかなかったかもしれないな」

「……なんのこと、ですか?」

「アーシェが気づいたら、折りをみて話そうと思っていた、という言い訳だよ」

「言い訳?」

「わたしは優しい生きものではないからね」


 にこりと笑う、その姿はいつものネフィスで、笑い方も変わらない。けれども、言っていることは随分と、人を欺いている。


「アトナはね、初めからそういう設定だったのだよ」

「は……?」

「病に侵されている、だがしかしそれを隠し続け、そしてある時期に病状が悪化し、急逝する。そういう設定だった」


 とんでもないことを聞かされている、とこの瞬間に思い知った。


「設定……」

「そう、設定。つまり、茶番劇だ」


 はっと、アーシェは息を呑む。ネフィスが嘘を言っているのなら、冗談を口にしているのなら、この場でアーシェは笑い飛ばすことができただろう。だが、できない。ネフィスが冗談や嘘を言っているように思えなかったからだ。

 茶番劇。

 ネフィスがそう言うなら、伯爵が急逝したあれらは、そうなのだ。そこでアーシェは踊らされていたのだ。


「すべて、偽りのこと……なのですか」

「そうだよ」

「では……伯爵さまは、生きておられる?」

「アトナ・ウェリエスクという人物は死んでいる」

「……どういうことですか」


 意味がわからない。なんの話をしていたのか、話を見失ってしまったのか、アーシェは思考を巡らせるが思うように動いてくれない。


「アトナの設定は茶番劇ではあったけれども、必要なことだったからね」

「必要な……なにへ?」

「解放」


 かちゃり、とネフィスが手にしていた茶器が卓に戻される。


「アトナの死は、偽装してでも、やらなければならないことだった。でなければ解放されないから、このままにはしていられなかったから」


 琥珀色の液体を見つめるその双眸は、そのときばかりは、悲しげに揺らいだ。

 アーシェの婚約者だった伯爵の死は、そういう設定に基づく茶番劇ではあったけれども、必要なことで、そしてネフィスに悲しさを思わせるものらしい。


「……どういうことかきちんと説明してください」


 声が震えた。だがそれは、ネフィスが用意した舞台で巻き込まれるように踊らされたことへの憤りを感じたからではなく、ただ純粋に、どうしてそんなことをしたのかという疑問と、ネフィスに悲しい目をさせることへの不安だ。遠回しな言い方をされたくない。

 アーシェを振り向いたネフィスは、夕焼けの双眸に、ひっそりと影を沈めた悲しみを秘めていた。


「アトナは偶像だ」

「偶像?」

「だが、この世に存在していないわけではない」

「……偶像なのに、存在している?」


 矛盾した説明に、理解が追いつかなくて悔しい。


「わたしは、伯爵さまにお逢いしたことがあります」

「存在しているからね」

「偽者だったのですか?」

「いいや。アトナは偶像、実在しない」

「……意味がわかりません」

「アーシェが逢っていたのは、アトナを演じていた者だよ」


 ああそうか、と漸く意味が理解できた。あの伯爵が偶像なら、それを演じていた人物は確かにいるのだ。アーシェが、数えるほどにしか逢っていなかった伯爵も、伯爵を演じていた人物だということだ。


「アトナ・ウェリエスクという伯爵は、存在しないのですね」

「そう。けれど、アトナ・ウェリエスクとして存在していた人物はいるよ」

「……なぜそんなことを?」

「解放を願ったから、わたしがそれを受け入れたから」

「なにからの解放を願われたのですか?」

「柵、かな。壊れた環境のなかにいたアトナは、とても、疲れていたからね。わたしが気づいたときには、もう感情がどこかに消えていたよ」


 ネフィスが悲しげな、寂しげな目をしていたのは、伯爵を演じていた人物への想いからのようだった。


「だから、必要なこと、だったのですね? 伯爵さまが、亡くなられることが」

「アトナが消えることで、救われる命があったからね」


 救われる命、とは、つまり伯爵を演じていた者だろう。偽りの姿を演じ続けることで、自由を、解放を願い、そしてそれはネフィスによって叶ったのだ。ネフィスが用意した演劇の舞台で、堂々と、知らしめるように。


「そのお方は、今どうしておられるのですか?」


 気になる、のは当然だろう。偶像だったにしても、アーシェは婚約者として接していたのだ。アーシェの心に伯爵が響かなくとも、ネフィスが語る彼のことには、心に響く。ネフィスが気持ちを傾けた人物を、ネフィスに心を攫われたアーシェが気にならないわけがない。


 問うと、ほろりとネフィスは微笑んだ。


「もともとが能天気でね。感情がどこかに吹き飛んでいても、その性質が変わったわけではないから、すべてが終わると漸くふつうに笑うようになってくれたよ」


 まるで、近くで見ているかのような言葉だった。


「そう、ですか……お元気なのですね」


 ほっと息をつけば、ネフィスは苦笑した。


「怒らないのかい、アーシェ」

「……なにを怒るのですか?」

「アトナは偶像、その婚約者にされていたのに」


 これは怒るべきことなのだろうか、とアーシェにしてみれば悩むところだ。


「殿下がおっしゃったとおり、わたしは、伯爵さまに興味がありませんでした。この方と結ばれるのかと、ただ流されておりました。そんなわたしが、殿下の舞台でどう踊らされようとも、文句は言えません」


 今を考えれば、アーシェにはなんの被害もない。ネフィスの舞台に、いてもいなくてもいいような配置にあったと言えよう。むしろ、ネフィスを想う気持ちが心を占めている今、もっとも近くにいられる場所を得たアーシェは本当に恵まれているのだ。


「怒っていいのに……なぜわたしは偶像の婚約者だったか、とね」

「疑問には思いますが……」

「わたしは言ったね、アトナの死を利用した、と」

「……そういえば」

「アーシェには重要なところなのに、そういえばって……きみね」


 少しだけ呆れてみせたネフィスは、小さく笑いながら困っていた。アーシェが怒ることを期待していたようだ。


「アトナの設定は必ず実行されることだったから、そこにわたしはアーシェを組み込んだのだよ」

「……組み込む?」

「アトナに、誰にも文句を言われないだけの人望を持たせることで、アトナが死したあと、アーシェがこの手に入るようにした」


 明かされたそれに、アーシェは瞠目した。嘘や冗談に聞こえなかったからなおさら、理解に時間がかかった。


「わたし、を……え?」


 もしネフィスが言ったことが本当なら、アーシェとしては、少し嬉しいことだけれども。いや、少しどころか、喜びを期待するだけの価値があることだけれども。


「これは賭けでもあったわけだけれど……アトナがきみを愛するか、きみがアトナを愛するか……好き合うようであれば、アトナの正体を明かして死を偽装したあと、わたしの権力を振りかざしてふたりを迎えようと思っていたね」


 考えが変わったというか、やはりそれはいやだなと思ったのはいつだったか、とネフィスは朗らかに笑う。


「アーシェを見つけたのはわたしだからね。誰にも奪われたくなくて、けれどどうしたらいいのか当時はわからなくて……ほら、わたしは産まれたときから皇太子だったから」


 ネフィスは生まれ落ちたその瞬間から、皇帝になることが決まっていた。皇太子であることは当然だった。その環境のなかで、自由になることとならないことと、ままならないことが多くあったのだろう。


「今いる側妃を考えれば、わかるだろう? わたしに婚約者がいなかったのも、すべては、わたしがこの国の象徴で、駒の一つで、国を護るためだけの存在だから……手に欲しいと思ったものは、これがなかなか、手に入らないものでね」


 持ち得た権力を、必要なこと以外に揮わないのが、ネフィスというトワイライ帝国の皇太子だ。ネフィスの発言一つで国は容易に動くのに、それを恐ろしいと感じるネフィスだから、この国は平穏を約束されたようなものだろう。いや、そういう皇族に、この国は恵まれているのだ。

 その皇族で、皇太子で、皇帝となるネフィスが、望んだもの。


「……わたしを、欲しいと……?」

「アーシェ以外に心から欲しいと思ったものはないなぁ」


 さらりと言うネフィスに、恨めしいと思うと同時に歓喜が沸き起こる。

 想われたいと、願ってしまったアーシェに、あっさりと返事をするネフィスが憎たらしかった。


「……本当に、わたしを?」

「すべての種明かしをしたのに、それでもまだ、わたしを疑うのかい」

「疑っているわけでは……ただ、信じられなくて」

「わたしはアーシェに選択肢を与えたつもりだったよ。アトナを選ぶか、それともほかの人物を選ぶか……今ここにアーシェがいることが、答えだと思っている」


 ああ本当に、今日ほどネフィスを恨めしく思ったことはない。

 今日ほどネフィスを、いとしく思ったことはない。







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