03 : その気軽さで。
恋をしている。
それはきっと、間違いなく、勘違いでもなく、そして一過性のものでもなく、人生をかけた長い恋だ。
「アーシェ」
「はい」
「ちょっと、出かけてくるね」
「わかりました。お気をつけて」
「帰ったら、アーシェとも出かけたいな。いいかい?」
「はい、喜んで」
散歩にでも行ってくるような気軽さでネフィスが出かけたあと、アーシェは末皇子が出奔した話を聞いた。教えてくれたのはラトウィックだ。
「クロネイ殿下が……?」
「皇太后さまの葬儀のすぐ、そのままご出立されていたそうです」
「そんな……ではもう一月も前に?」
「ええ。その話をネフィス殿下も先頃聞いたばかりでして……どうやら邪魔されると思ったクロネイ殿下が、陛下に口止めを頼んでいたようです」
アーシェの前を、あっちへこっちへと行き来しながら、ラトウィックは呆れた顔をしている。
「まさかすぐにでも動くとは予測していなかったもので、さすがのネフィス殿下も油断していましたね。そもそも殿下は、クロネイ殿下が縁談を受け入れるとは露ほどにも思わなかったようでしたから」
「けれど、決まっていたでしょう?」
「ネフィス殿下は賛成していなかったのですよ」
「まぁ……そうなの?」
「あの弟ばかが、国からその弟を出すと思いますか?」
「……思い難いくらいに溺愛なさっているわね」
「デイラン国ときな臭い状態になっていても、デイランの銀山をクロネイ殿下にあげようかな、とか言うくらいですからね。筋金入りですよ、あれは」
ラトウィックの動きは忙しないが、仕草はのんびりとしていて余裕がある。あちらこちらへとアーシェの顔が動くのを面白がるくらいの余裕もあって、行なっていた作業が一段落すると仁王立ちした。
「そういうわけなので、僕はこれからネフィス殿下を追いかけます。あのひと、暇そうだからっていう理由で聖国の王陛下を引っ張っていく頭はあったのに、僕を忘れて行きましたからね」
「置いて行かれたの、ラトウィック?」
「まあ僕にアーシェさまへの説明をさせるために、自分はその時間を惜しんだのでしょうね。僕は殿下のところに飛べますし」
ラトウィックは、単身で行ってしまったネフィスのためにまとめた荷物を前に、深々とため息をつく。宿の手配だとか、経路の情勢だとか、一週間程度とはいえその旅路に必要なものを無視して、ネフィスは出かけてしまっていたらしい。
「散歩にでも行くような口調だったけれど……」
「あー……散歩みたいなものでしょうね。迷子を回収しにいく保護者かな」
「クロネイ殿下を連れ戻すおつもりなの?」
「その心づもりではあるでしょうが、さて、どうでしょうねぇ」
「ラトウィック?」
どこか言葉を濁すラトウィックに、アーシェは首を傾げる。
「ああいえ、あの人間もどきは、もどきなだけあって腹が読めませんから、ちょっとね」
「……人間、もどき?」
「クロネイ殿下の騎士、見たことありませんか?」
「終始そばにいた騎士のことかしら?」
「その騎士、実は精霊なんですよ」
少し、吃驚する。
アーシェのそばには、天恵者はいても、精霊を連れて歩いている人はいない。
トワイライ帝国はそもそも、天恵者の数が圧倒的に少なく、精霊と契約までできる天恵術師ともなれば、王宮でも数え切れるくらいにしかいなかった。それでも世界三大国に名を連ねていられるのは、大きな戦力となる天恵術師が少なくとも、それを補えるくらいの兵力が鍛えられているからで、また国民は飢餓をほぼ知らない豊かな生活が得られるくらいに、国土が潤っているからだ。天恵者や天恵術師に頼らなければならないほどのことは、滅多に起きない。大地の男神とその娘である女神の恩恵であると、古くから言われている。
そんなトワイライなので、アーシェは天恵者や天恵術師だけでなく、精霊にももちろん、免疫が少ない。
「クロネイ殿下は天恵者……いえ、天恵術師でいらしたの?」
「まさか」
「え?」
「クロネイ殿下のそばにいるあの精霊騎士は、ちょっと特別なんですよ。皇太后さまが拉致ってきたらしいです」
「ら、拉致?」
「あの皇太后さまならやりますよ」
亡くなった先の皇太后のことは詳しくないが、そういう人であったと、たびたび耳にする。そういう人、というのはつまり、破天荒なことをする人、である。その辺りが、皇太后が多くの人々から愛された所以でもあった。
「どういう理由でクロネイ殿下のそばにいるのか、僕は聞いていませんけれど、とにかく人間に興味があって動いているのは見て取れましたからねぇ」
「だから、ちょっと?」
「はい。クロネイ殿下と一緒に行ったのはあの精霊騎士だけのようですから、ちょっと、思うところがあるわけです」
「……悪いひとには見えなかったけれど」
「精霊は気紛れです。ネフィス殿下は、あの精霊騎士の気質から、彼を信じていないのですよ」
「あなたも?」
「属性のない天恵者としては、なんとも言いようがありませんね」
はあ、と息をついたラトウィックは、ぱちん、と指を鳴らした。直後に、ラトウィックの前にあった荷物が一瞬で消える。ラトウィックの天恵だ。
「……相変わらず不思議な天恵ね?」
ラトウィックが神出鬼没で、気配もなく現われるのは、この空間を移動する天恵によるものだ。『天地の騎士』という名称の天恵で、ネフィスやラトウィックは「飛ぶ」と表現する。
「疲れるから簡単に使わせないで欲しいと、いつも言っているのですがねぇ」
「そう見えないのだもの」
「僕が単身で飛ぶ分には問題ありませんが、そうでない場合は負担がくるんですよ。現に、だから殿下は、僕とあまり飛びませんでしょう?」
「そういえば……見かけないわ」
「殿下から派生した天恵みたいなものなので、殿下にも負担がくるんですよ。運動したときの疲労とは比べものになりませんからね……」
今回はネフィスが飛び出して行ったようなものだから、仕方なくラトウィックは「飛ぶ」ようだ。
「帰りはこの天恵を使うことになるのかと思うと……本当は追いかけたくないですよ」
「でも、殿下をおひとりで行かせるわけにはいかないわ」
ネフィスは本当に単身で、暇そうにしているからという理由で聖国からの賓客である王を伴ってはいるが、自身に護衛もつけずに出かけてしまっている。いつもならきちんとラトウィックを連れて行くのに、それをしなかったくらいに焦っているというのは、言われなくてもわかることだ。
「お優しい妃殿下のためにも、ネフィス殿下を無事に連れて帰ってくるとしましょう」
苦笑したラトウィックは、そろそろ行きますねと言って、指をぱちんと鳴らした。
「気をつけて」
アーシェがそう言ったときには、もう目の前からラトウィックは消えていた。