04 : 望む、望まない。2
はあ、と王女シャルナユグは憂い顔でため息をつく。誰もが目を奪われるその姿に、しかし困ったようにクロネイが苦笑している。
「あの、シャナ?」
遠慮がちにかけられた声に、シャナはどうにか気を取り直して顔を上げる。
「今のお方が、風の神であると?」
「ミストです。風と水を司る神だと、自分で言っていました」
先ほどまでのことを思い出すと、またため息がこぼれる。
「ああ、そんなにため息をついたら、せっかくの幸せが……」
クロネイの心配に、今はそれどころではないと、気が滅入る。
シャナの話に疑問を持った騎士ノエが、クロネイに「呼べるか」と問うて呼び出したのは、風と水を司るという神、風水神ミストだった。お伽噺のような神の存在を、そんなにも簡単に、あっさりと呼び出されて、平然としていられるわけがない。
神の声を聞いたこともなければ、姿を見たこともないシャナには、かなり衝撃的なことだった。
「この衝撃をどうしたらいいのかしら……」
「そんなに驚かせてしまいましたか?」
「神という存在を信じていないわけではないけれど、いきなり目の前に現われたお方に対して、わたしに驚くなと?」
「ああ……そうですよね、すみません。ミストはおれの友人みたいなもので、昔からああやって突然現われるもので」
突然なにかしらの気配が現われることに、驚くことがあまりないのだと、クロネイは暢気にも笑う。そういえば、クロネイも気配なく動くようなところがある。ノエはそれに驚くことがない。彼らは本当に慣れているのだろう。
「それにしても……本当にあのお方は、神であられると?」
「自分でそうだと言っていましたから、そうだと思いますよ」
「……翼のある人間など、いませんからね」
突然現われた翼のある神は、来たかと思えばすぐにどこかへ飛んで行ってしまった。
『アヌの故郷かぁ……久しぶりだからちょっと遊んでくるね』
と、神というには軽い調子で、飛んで消えたのである。
シャナが知る神話の風水神は、確かに翼のある神であったから、調子が軽くともあれは神なのかもしれない。
「なぜ……なぜ、風の神があなたの呼びかけに、応えるの?」
「呼んだのは今回が初めてですよ」
「え?」
「ここでは、という意味ですよ、もちろん。シャナもご存知のとおり、帝国もセムコンシャス王国も、アヌ神とラグナ神を信仰しますでしょう? ミストは、ごく一部の限られた土地で信仰される神で、この地には縁もゆかりもありません。が、呼んでみたら来てくれたので……どうやらアヌ神とお知り合いのようですね」
シャナが訊きたかったのはそういうことではないのだが、クロネイが言うことは間違っていない。風水神は、この地では信仰されていない神だ。
「おれがいたのが、そのごく一部の土地でしたから、まあそこで知り合ったといいますか……気に入られたといいますか」
「……あなた、なに者?」
いったいクロネイは、なにがどうあって、神と知り合いなどという間柄になったのか。天恵者ではないというのは、これでは嘘になる。神の声を、直接に逢って聞くことができるのだ。
クロネイは、にこりと微笑んだ。
「おれは、シャナの婿ですよ」
銀の髪が、さらりと風に流される。それはきらきらと光っていて、シャナは眩しさに目を細めた。
「なぜ笑うの?」
「シャナが好きだなと、思うからです」
「……そんなこと、軽々しく言うものではないわ」
なんなのだろう、この皇子は。
神と知り合いだというくせに、その天恵はなく、しかし恩寵を受け、それがさもふつうだとばかりの態度を取る。平然とシャナに求婚し、婿だと言い、好きだなどと言う。
ここへ来るまでに二週間もの時間をかけ、まるで逃亡しているかのように、遅れて現われたくせに。
なんだか不愉快だ。
シャナは、国のためと思って大国の皇子との縁談を受け入れはしたものの、気持ちはそれに追いついていない部分がある。クロネイのような皇子でなければ、到着したその日に追い出してやっていたところだ。シャナは婚姻など、受け入れたくもない。
「わたしと出逢ったのは、つい最近のことでしょうに……っ」
「……時間が必要なのですか?」
「わたしは断ったはずよ! 皇子を婿に迎えるつもりはないと……今後も、誰とも婚姻しないと!」
「知っていますよ」
だからなんだ、とばかりにクロネイが苦笑する。
不愉快でならない。
なぜ、クロネイは笑うのだろう。
なぜ笑えるのだろう。
シャナは受け入れないと、そう言っているのに。
「もういいわ……っ」
儀式的にクロネイとの面会はしていたものの、それも今日までにしようと、シャナはお茶の席を立った。
望んで受け入れた縁談でもない、クロネイとは友人のような関係が築けられたらいい、その思いは変わらない。クロネイがなに者であろうと、それはシャナには関係ないことだ。神と知り合いだろうがなんだろうが、天恵があろうがなかろうが、シャナが気にかける必要はない。
それを。
「シャナ」
クロネイが、止める。手を取られ、近くに引き寄せられた。
「なにするの……っ」
「シャルナユグ」
引き寄せられた先には、クロネイの玲瓏な顔がある。まるで、ひとり腹を立てているシャナを宥めるかのような、そんな微笑みにシャナは不覚にも囚われてしまう。
「おれを受け入れられなくても、おれは、シャナの婿です」
「そん……なこと、わかっているわ」
「シャルナユグ」
「なによ」
真摯な双眸が、じっと、シャナを見つめてくる。あまりの真っ直ぐな瞳に、シャナはいたたまれなくなって視線を反らした。
「シャナ、あなたがおれを受け入れられないのも、わかります。おれのような人間が、皇子だとは思えませんものね。それでもおれは、あなたの婿になりたいです」
「そんなに繰り返さなくても、この縁談はもう白紙にはできないわ。わかっているわよ」
「……ごめんなさい」
「? なぜあなたが謝るのよ」
視線をクロネイに戻したら、なんだか泣き出しそうな顔をしたクロネイが、それでも笑おうとしていた。
この皇子は表情が豊かだ。感情の一つ一つに表情があって、さまざまな顔を見せる。それでも、その夕焼け色の双眸だけは、いつもどこか暗い。
「おれみたいなのが、あなたの婿になろうなど、無礼だと承知しています……それでも……それでもおれは、シャナの地盤で在りたい。だからシャナ、おれがあなたの後ろにいることを、許してください」
「……許すもなにも……わたしに対して無礼とはなに? わたしは確かに王女よ。けれど、わたしの国はあなたの国には及ばぬ小さな国。無礼と言うなら、わたしのほうよ」
許しを請うたクロネイに言い返すと、泣きそうな顔をしながら笑おうとしていたクロネイが、本当に無理やり笑った。
なにもそんなに無理をして笑うことはないのに、なにが彼をそうさせているのか、不思議でならない。
「あなたの婿に選ばれて、おれは幸せですよ」
「……幸せ?」
こんなおばさんを娶ることの、どこが幸せだというのか。花盛りも過ぎ、あとはただ緩やかに老いていくこの身は、シャナよりも若いクロネイには不相応だ。
シャナは望んでいない、それなのにクロネイは望んでいる、その関係にシャナは眉をひそめた。
「わたしはあなたより、十も歳上なのよ」
「九つですよ」
「適齢期も過ぎた、おばさんなのよ」
「素敵なご令嬢ですよ」
「あなたを幸せになんてできないわ」
「幸せですよ、おれは、充分に」
クロネイがわからない。
ノエは言っていた。国を出られて万々歳、と思うくらいには、この縁談をクロネイが受け入れていると。果たしてそれは、どういう意味だったのか。幸せだと言うその口で、本当はなにをどう思っているのか。
「……式までにもう時間がないわ。帰るなら今よ」
「いやですよ」
帰らない、と言ったクロネイは、それまで掴んでいたシャナの手を離し、帰るものかと言わんばかりに身を引く。拗ねたような顔までして、そっぽを向いた。
「……帰る場所なんて、おれにはない」
「え……?」
ひらりと身を舞わせて欄干を超えたクロネイは、帰る場所がないという言葉に少し驚いたシャナを振り返ると、「帰らないから」と繰り返して、そのあとすぐ庭を走り抜けていった。
「あー……あほめ」
ノエはクロネイを追いかけることなく、呆れた顔で見送っている。
「姫」
と、ノエがシャナを呼ぶ。
「あいつ、わりと素直なんで、だいじょうぶですよ」
笑ったノエは、シャナの不安を和らげるようにそう言って、漸くクロネイを追いかけて走り去った。
「帰る場所がないって……どういうことよ」
最後にそんな大きな疑問を残していくなんて、胸中がもやもやする。
あの皇子は、いったいシャナを、どうしてこうも振り回すのか。
「もう……っ」
ちょっとした苛立ちに、シャナは拳を握って欄干を叩いた。手が、ただ痛むだけだった。