この世界が好きだ。
*アオ(精霊)視点です。
人間は稀に、産まれたその瞬間からの記憶を持っているというが、それは精霊にも当てはまる。
「アオ」
漸く固い卵から出られた風の精霊は、アオと名付けられた。名づけの意味をわかっているのだろうか、とアオはその瞬間に思ったが、産まれたばかりなのにそんなことを考えられる自分に疑問はなかった。
アオは考えることができる。世界をいくらか知っている。世界について考え、想い、今を理解することができる。当たり前なことを疑問に思う者などいない。
アオの目の前にいたのは、夕焼け色の双眸をしていて、月明りのような銀色の髪をした、優しそうな人間だった。だから名づけられても不快ではなかった。むしろ契約したいくらい惹かれる人間だったが、残念なことに天恵を授かっていないようであったから、契約は諦めた。代わりに、この人間が死ぬまでそばにいよう、と思った。
人間の名を、クロネイ、と言った。
「ねえシンくん、アオ知らない?」
「サンジュンです。……頭の上にあるのはなんでしょうか」
「え、頭?」
産まれて三日めには、アオはクロネイの頭の上がお気に入りの場所となった。さらさらでふわふわの銀髪は触り心地がよく、滑りがよいのがたまに傷であるが、乗り心地は最高で、クロネイの姿勢が綺麗だから安定している。ただ、アオが頭の上を占拠していてもクロネイが気づかないので、気づいたときの反動で落とされてしまう。
今日もアオの居場所に気づいたクロネイに落とされてしまったが、慣れたものでサンジュンという騎士がアオを手のひらに拾ってくれた。クロネイの頭の上の次に、アオはサンジュンの手のひらがお気に入りの場所だ。
「なんでおれの頭の上にいるかなぁ」
「居心地がよいのでしょうね」
「重さがあれば気がつくんだけど」
「軽いですからね、アオは。風の精霊だからでしょうか」
「そもそもどうやって頭の上に? それもやっぱり風の精霊だから?」
「でしょうね」
サンジュンの手のひらから、クロネイの手のひらに移動する。クロネイの手のひらもなかなか居心地はいいが、ここにいるよりやはり頭の上がいい。ふわふわ柔らかくて暖かくて、安心する。
「あ、飛んでる。飛べるんだね、アオ」
「こうやって移動しているのでしょうね」
「はあ……精霊だねぇ」
「……精霊ですね」
「……また頭の上に乗っちゃったよ」
「だいぶ気に入られているようですね」
「なんか複雑……」
再びクロネイの頭上に移動してみたが、よい眠りを邪魔されたせいか眠気が飛んでしまって、眠る気にもなれない。だから今度は自分からそこを離れ、クロネイの肩に乗ってみる。頭の上にいるときよりも安定は悪いが、ここもなかなか居心地がいい。
「……猫なのに」
「飛ぶ猫ですね」
「どこに羽があるのかな」
「猫ですから羽はないと思います」
「生えてくるかも?」
「そうなったら猫ではなくなると思いますが」
「そもそも精霊?」
「……。精霊とは不思議な生きものですね」
アオは精霊だ。けれども外見は、この世界で言うところの猫である。自分がそういう生きものであることを、アオは産まれたときから知っている。こうして考えごとができるのも、クロネイやサンジュンの言葉が理解できるのも、自分が精霊ゆえであることを知っている。
いつかクロネイとは語らいたいものだ、とふと思い、なんだか年寄りくさいなと思う。産まれたばかりではあるが、世界がどんなものであるかもわからないような状態ではなく産まれたことには感謝している。年寄りくさくても仕方ない。それだけの知識がある。ただ、産まれたばかりなのは確かだから、身体はまだ幼い。不自由だ、と思わなくもないこの頃だ。
「みゃ」
言葉を扱えるようになるまで、もうしばらくかかりそうだ。
「アオは喋るのかな」
「その気はありそうですね」
「精霊ってよくわからない」
「同じく」
「ノエは初めて逢ったときからあれだからなぁ」
「参考になりませんね」
「精霊って不思議」
「はい」
ゆらり、と視界が揺れた。クロネイが歩き始めたのだ。振り落とされることがないよう、少し爪を立てて小さな身体を支える。
「どちらに?」
「シャナのとこ。そろそろお茶の時間にしていいだろ?」
「そうですね」
そういえばクロネイには、シャルナユグという伴侶がいる。こちらもアオにとってはとても居心地がいい空気を持つ人間で、契約できそうな人間だった。契約してもいいかな、と思わなくもないが、あちらにはその気がないようであるから、話を持ちかけられたら頷こうと思う。シャルナユグの膝はクロネイの頭の上にいるときのように心地がいい。
「シャナ、お茶にしよー?」
「そろそろ来る頃だと思ったわ、クロ」
シャルナユグは地の女神アヌの恩寵を授かった人間だ。風の神ミストの恋慕する女神の恩寵だから、もしかしたらアオにもその効果があるのかもしれない。
「アオも一緒ね。アオ、いらっしゃい」
呼ばれたので、アオはふわりと身体を浮かせ、自らシャルナユグの膝に移動する。けれども、シャルナユグの膝にいられる時間は至極短い。クロネイがそこは自分の場所だと言って、なかなか譲ってくれないからだ。
「シャナの膝はおれの」
いつも少ししかいられない。仕方ないから、シャルナユグの膝を枕にしたクロネイの頭に乗る。それでも、またそこから移動させられるのが常だ。
「おまえがそこにいたらシャナが見えないだろ」
クロネイは本当に、本当に、伴侶のシャルナユグが大好きだ。ほんのちょっとでも居心地のよさを分けてはくれない。シャルナユグに対しては心が狭くなるのは、番いだからまあ当然だ。クロネイがいないときにシャルナユグの膝を堪能するしかない。
「アオは飛べたのね」
「おれもさっき知った。飛べるようになったのか、それとも初めから飛べたのか……精霊って不思議」
「精霊だもの」
「だって猫だよ? 羽ないよ?」
「精霊だもの」
「……それだけで済ませるシャナってすごいね」
首根っこを掴まれていたので、ぱたぱたと手足を動かして離してもらうと、アオは今度はサンジュンの頭の上に移動する。クロネイの頭上ほどではないが、ここもわりと好きだ。
ふと、自分には居心地の悪い場所なんてないのではなかろうか、と思ったが、一つだけ存在することに気がついた。
「ああノエ、お茶ちょうだい」
「自分で淹れろ」
「おれの侍従だろ、騎士だろ」
「そもそも精霊だ」
「そうだった……気紛れ精霊だった……」
しょぼ、と項垂れたクロネイに、クロネイをいじめるのは許さない、と思ったが、いじめるそいつがアオは苦手だ。だから、サンジュンの頭上を少し移動して、そいつの視界から逃げる。
「それ、借りるぞ」
え、と思った。
「アオがどうかした?」
「ちょっとな」
むんずと掴まれたときには、逃げそびれたことに気づきもしなかった。
気づけばアオは、抱っこという表現には程遠い持ち方をされ、居心地のいい場所から遠ざかっていた。
「おい、おまえ」
びくっ、とする。目の前に苦手なそいつがいれば、驚いて当然だと思う。
「レスだな、おまえ」
なんですか、それは。
と、思えたらよかったのだけれども、生憎とアオは「レス」の意味を知っていた。
「レス」とは、精霊位の一つだ。
「いつまで無知を通すつもりだ、レス」
そんなつもりはないのだけれども。
無知というよりも、産まれたばかりなのは確かなので、まだ上手く言葉を喋られないだけなのだけれども。
「なんでそんな姿を選んだ」
選んだ、わけではないが。
クロネイの感情や、クロネイに想いを向けるシャルナユグがいたから、アオはその形を取ることになっただけで。
「……セスに近いな、おまえ」
「セス」も、精霊位の一つだ。
「まあとにかく、姫……シャルナユグからその話を持ちかけられる前に、自分から言えよ」
なにを、と思ったが、それが契約のことに対してだというのはすぐにわかった。
アオが苦手なそいつ、ノルイエ・レスは、シャルナユグと契約している。
「おれはセイエンと約束したことがある。だからクロを優先して護る。だが、おまえはシャルナユグの願いを優先しろ」
なぜ自分が、と半眼してノルイエを見たが、まあ悪くない話だ。ここは居心地がよく、クロネイが死ぬまではそばにいようと思うくらいに、気に入っている。
「みゃ、みゃ、みゃ」
「……なんだ、まだ話せないのか」
「みゃみゃ」
口が、いや舌が、上手く動いてくれないのだ。わかって欲しい、まだ産まれたばかりだということを。
「まあ、そういうことだ。おまえ、シャルナユグと契約しろよ」
契約しろ、と言われて人間と契約するものではないが、いやだとは思わないから頷いておく。シャルナユグと契約すれば、もう少し長くその膝にいられるだろう。
「あと、ミストはどこにいる。またアヌのところか?」
風の神ならいつだって地の女神のそばにいる。叶わぬ恋だとわかっていながら、それでも風の神は地の女神から離れようとしない。
「みゃあ」
「呼んだぁ?」
「みゃ」
身体がふわりと浮いたとき、アオは風の神ミストの手で、やはり抱っことは程遠い持ち方をされていた。
「いたのか」
「この子がいなくなっていたから、どこにいったのかなぁと。クロネイが孵したんだね」
「ああ。姫が、それを望んだからな」
「あの姫羨ましい……僕のアヌから愛されて……僕も愛されたい」
「あんたのことはどうでもいい」
「うわぁ、きみはひどいねぇ。いくら僕がきみのところの神さまではないにしても、僕は神さまだよ? 風を統べる王だよ? 少しくらい敬ったらどうなの」
「あんたは人間の身で、風の神という天恵を授けられただけだろう」
「そういえば人間だった頃もあったねぇ」
持ち方を変えられ、目の前に風の神の顔がくる。淡い金色の髪と、空色の瞳は、アオにとって親みたいな存在であるせいか、眩しく見えても懐かしさが込み上げる。
「みゃあ」
「うん、久しぶりだね。アオ、と名づけられたようだけれど、きみには似合いだ」
「みゃ、みゃ」
風の神は優しい。優しさの塊でできている。アオが、居心地良く産まれてくることができたのは、風の神がここに運んでくれたからだ。ありがとう、と礼を言うと、風の神は美しく微笑んだ。
「アヌの故郷は綺麗だろう。ここがきみにとって居心地が悪いなんてこと、あるわけがないんだよ。だって、アヌの故郷なのだから」
「みぃあ?」
「アヌとどうなったかって? ふふ、アヌが僕のことをどう思っていようが、僕には関係ないよ。僕がアヌを愛しているだけだからね」
相も変わらず、風の神は自由奔放に地の女神を愛している。
「そう、僕はアヌを愛している。アヌの故郷に僕の分身を散らすくらいに、僕はアヌのすべてを愛している」
「分身? おい、分身ってあんた……まさか」
「おや、今頃気がついたのかい、水の精霊」
「ちっ……おれがシャルナユグと契約すると、読んでいやがったのか」
「ついでにこの子が、姫と契約するだろうことも。だって、姫はアヌの恩寵を授かったのだもの。アヌが愛するものを、僕も愛するのは当然だろう」
ふらっと、視界が揺れる。風の神が動いたのだとわかって、アオはその身を慌てて宙に浮かせ、風の神から離れる。ふよふよと宙を漂いながら振り向くと、風の神は空へと舞いあがるために真っ白な羽を広げていた。
「僕が愛するのはアヌのいる世界。アヌが僕のすべて。よかったね、水の精霊、僕がアヌを愛しているからクロネイは生きていられる」
「あんたの手のひらの上で、おれたちは踊らされていたわけか」
「そうでもない。なぜなら僕は、アヌのことしか想えないのだから」
風の神の話を聞いていると、まるでクロネイがシャルナユグと結ばれるのは当然のことだったようで、そういうふうにしたのも風の神だと言っているようにしか思えない。いや、事実そうなのだろう。
風の神の、地の女神への愛は、それほどまでに強いのだから。
「……永遠にそれが続くと思っているのか」
「僕が僕である限り、アヌがアヌである限り、僕が愛しているのはアヌだけだ」
くすくすと笑いながら、風の神は空へと羽ばたいていった。ノルイエは、まるで恨みごとでもあるかのように睨んでいたけれども、あれが風の神だということを知っているアオはただ見上げて見送った。
「……不愉快だ」
そう言ったノルイエに、アオは小さくため息をつく。
あれが風の神ミストだ。地の女神アヌのことしか、考えていない。
「よくあんなのを慕っていられるな、おまえ」
そう言われても、それならアオだって、水の神に対してノルイエに「よくあんなのを」と思ってしまう。いや、水の神には未だお逢いしたこともないので、言えることなどなにもないのだけれども。
「みゃ、みゃーう」
「水の神? ウィンスに逢いたいなら水面に姿を曝せ。ミストと同じで、ウィンスもどこにでも現われる」
いずれ逢うこともあるだろう。アオは精霊だ。人間たちが信じることのない存在を、見ることもあれば接することもある。
「……おい」
「みゃ?」
「シャルナユグと契約しろよ」
風の神に踊らされたくないだろうに、それでも、居心地の良さをノルイエも知っている。
アオはいずれシャルナユグと契約する。風の神に運命づけられたのだとしても、アオはその居心地の良さを手放すことができない。そもそもアオは風の精霊で、風の神の眷属なのだから、風の神が愛するものを愛さないわけがない。
アオはこの世界が好きだ。
「おーい、アオー? ノエー?」
名づけられたその意味が消失しても、アオがこの世界を嫌いになることはない。
そうやって生きろ、と言われたわけではないけれども。
そうやって生きろ、と教わったわけでもないけれども。
「みゃ、みゃー」
生まれ落ちた先がここでよかったと、思うことができて幸せだ。
楽しんでいただけたら幸いです。