44 : その努力はあるのに。
*サンジュン視点になっております。
クロがシャナから逃げ回る。
それは、常にない光景だった。
「バカじゃないですか」
「ばっ! バカってなんだよっ」
「産むのはあなたではなく、シャナ殿下です。あなたが動揺してどうするのですか」
「べべべっ、べつにどぅようなんて」
「噛み過ぎです」
アイルアートに冷静に突っ込まれながら、しかしクロは挙動不審だ。
サンジュンは天井を見上げる。上の階にシャナがいたからなぁと、のんびり思った。シャナを避けまくっているくせに、近くにはいたくて、同じ建物内には必ずいるクロである。物陰からこっそりシャナを見ているのは、この一週間ですっかり見慣れた姿だった。
「シャ、シャナが元気なら、それでいいんだよ」
「当たり前です。シャナ殿下は、悪阻に悩まれる以外、至って健康です」
「おれ具合悪くなってきた……」
「あなたは感化され過ぎです」
「うう……シャナ、だいじょうぶかなぁ」
「ですから、母子ともに健康であると、幾度言えば納得してくださるのですか」
「だって具合悪そうだし……顔色、あんまりよくないし」
「今のあなたのほうがひどいですがね」
悪阻に悩むシャナを見ただけでばったり倒れるクロが、シャナのそばにいることができるわけもなく、この一週間はそれに悩まされている。シャナを避けてはいるが、避けたくて避けているわけではない、ということである。シャナが具合悪そうにしていると、クロまで具合を悪くするのだ。
「いい加減、慣れなさい」
ぱしん、とアイルアートに容赦なく頭を叩かれても、クロはしょんぼり項垂れて反撃もしない。
「あなたが悪阻に悩んでどうするのです。つらいのはシャナ殿下のほうなのですよ。健康に害はありませんがね」
「だって……だって」
「いい加減になさい、クロさま」
「だって……おれみたいな子だったら、どうしよう」
「あなたみたいな?」
「おれ、ほんと脆弱で……情けないけど、弱っちくて……おれのせいでシャナが具合悪くしてるかもしれないし」
「はぁぁ…………ですから、母子ともに健康ですと、わたしは申し上げているのですが」
「それ、本当? 本当に、シャナも子どもも、元気?」
「当然です」
アイルアートは、シャナの懐妊がわかってからずっと、クロに言い続けている。サンジュンも、カラミアも、ジェットでさえ、しつこいくらいに「母子ともに健康だ」とことあるたびに伝えているのだが、なぜかクロはなかなか納得しない。シャナが悪阻でつらそうにしている姿を目撃しているせいか、どこをどう信じたらいいのかわからないらしい。
「そんなに心配なら、そばで支えてあげたらいいでしょう。こんなところにいないで、シャナ殿下のおそばで、背中を撫でて差し上げたらいかがですか」
「……おれ、邪魔になるだけだし」
「その邪魔も殿下には必要であると、なぜわかってくださらないのです?」
いくら説得すれば、クロは納得するのだろう。理解しようとする努力はあるのに、なぜか、言い聞かせてもクロはなかなか首を縦に振らない。
「クロネイ殿下」
サンジュンはクロの前に進み出ると膝を折り、しょぼくれているクロを下から見上げる。
「シン……」
「なにが……そんなに、怖いのですか?」
クロは怯えている。なにかに、恐怖を抱いている。アイルアートが言っていたように、それはサンジュンにも感じられたことだ。アイルアートはもはや呆れているが、まずは根本にある恐怖を取り除いてやらなければ、クロの場合は駄目だろうとサンジュンは思っていた。
「シャルナユグ殿下が御子をお産みになることですか。クロネイ殿下の御子を宿したことですか。それとも……御子が、産まれることですか」
まっすぐと、逸らすことなく目を合わせ、夕焼け色の双眸の変化を見つめる。ゆらりと揺れた双眸は、恐怖と不安、歓喜と安堵、いろいろな感情が渦巻いていた。
「クロネイ殿下、どうかそのお心を、シャルナユグ殿下にお聞かせください」
「……シャナ、に?」
「あなたの動揺は、シャルナユグ殿下の動揺でもあります」
「え……」
「むしろあなた以上に、シャルナユグ殿下は戸惑い、不安に思い、恐れていることでしょう。あなたはお支えする立場にあるのです。そのあなたが揺らいでいては、シャルナユグ殿下も安心できないのです」
サンジュンなどが、言えたことではないけれども。
もし、と考えてみたことは、ある。
「わたしには、親がいません。自分がどう産まれてきたのかなんて、知ることはできません。それでも、望まれて産まれたのだと思って、これまで生きてきました。これからも、その思いが変わることはないでしょう。だから思うのです。生命の誕生に、これ以上の喜びはないのだと」
「……シン」
「シャルナユグ殿下もおっしゃられました。あなたとの子だと、こんなに幸福なことはないのだと。あなたは、シャルナユグ殿下のその幸福を、否定なさるのですか」
悲しいことを、思う必要なんてない。どこにも怖いことなんてない。あるのは喜びだけなのだと、それは幸福なのだと、クロには思って欲しい。誕生する生命に、泣きたいくらいの喜びを感じて欲しい。
「おれは……おれの身体が、正常に働いてくれたことに、ホッとした」
「……はい」
「こんなおれでも、義務を果たせることに安心した」
「そうですね」
「でも、おれは、どうしたって脆弱で……っ」
悔しい、とクロは拳を握った。
「もしおれとシャナの子が、おれみたいな子だったら……おれが弱いから、その子まで……苦しめるかもしれないって」
今まで、そこまで考えたことはなかったのだと、クロは言った。シャナに子ができたと言われるまで、思い至ることもなかったのだと言った。
「どうしておれは、こんなにバカなんだろう……っ」
万に一つの可能性も考えておくべきだったと、クロは握った拳で己れの膝を叩いた。
「おれがいいと言ってくれたシャナを、おれは、裏切ることになるかもしれない……っ」
後継者問題を、誰も、考えていなかったわけではない。シャナの婚姻にホッとした者たちは、さらなる次世代のことも視野に捉え始めている。それは現時点では解決したと言ってもいいが、クロが心配し恐れるように、もしクロのように脆弱であったなら、それは問題として大きく膨れ上がるだろう。それはせっかく誕生しようとしている生命の将来に、重い不安となる。
はあ、とアイルアートがため息をついた。サンジュンも、まさかそんなところを考えているとは予想もしていなくて、唇を噛んだ。
「そこまで考えていたのですか、あなたは」
「ふつうは考えるだろっ? だっておれ、シャナに選んでもらえたんだよっ? こんな身体なのに、おれがいいって、シャナに言ってもらうことができたんだよっ?」
「クロさま、それはご自身を卑下し過ぎです」
「シャナのそばにいるためには、シャナ以外にもおれを受け入れてもらわないと駄目だろ!」
細く、弱く、白く、いつ儚くなってもおかしくはない華奢な身体が、必死に虚勢を張り、震えながら訴えてくる。
「そんな……そんなことに、今さら、気づいて……っ」
「……クロさま」
「シャナに振り向いてもらえたことだけで、幸せを感じてた…っ…シャナは王さまになる人なのに」
本当に今さら、その重みを、その期待を、思い知ったのだと、クロは身体を丸めながら震わせた。
「アルアの言うとおりだ……おれ、なんて、バカなんだろ……っ」
王の配偶者、という意味を、サンジュンも考えたことなんてないけれども、皇子だったクロも、考えたことはなかったのだろう。期待されたこともなければ、いつまで続くかわからない命を抱えていたのだから、誰もクロにそんな話をしたこともなかっただろう。
クロが恐れ、不安に思い、怖がるのは、当然のことなのかもしれない。ましてクロの身体は脆弱で、人並みの生活を送れているわけではないのだ。
「……一つ、いいだろうか」
ふと、それまで黙って控えていた、侍従官になったばかりのジェットが口を開いた。
「けっきょく、あなたは、御子をどう思っているんだ」
それは、クロだけでなくサンジュンやアイルアートをもハッとさせる、それでも単純な、問いだった。
「まずはそれを、シャルナユグ殿下にお伝えするべきでは、ないのか」
なぜそれをしないのだ、と不思議そうにするジェットに、クロが大きく息を呑みこんだ。