41 : これで終われる。
*ジェット視点です。
医師だというアイルアートと、上司となった侍従チェルザから、それぞれ小一時間ほど説教されたあと、護衛騎士のふたりにもくどくどと文句を言われたジェットは、クロネイという皇子が丸くなって眠る寝台の横に置かれた椅子に座り、はあ、と今までになく重いため息をついた。
王女シャルナユグにしたことに後悔はない。極端だと言われる手段に出たことに対しても、悔いはない。
ただ、方法は違くともジェットのように命を投げ出すような行いをした虚弱な皇子が、思った以上にたくさんの人から心配されていて、もしかしたら自分もこうした心配を周りにかけていたのかもしれないと、ふと友であるハーレンを思い出した。
ジェットは、親に愛されたことがない。愛される前に、どちらも亡くした。代わりに伯父であるラプレツィア伯爵が、ジェットを慈しんで育ててくれた。それには恩義を感じている。妹夫妻の息子だからと、引き取ってくれただけでも充分であるのに、教育まで施し、いずれ外に出てもひとりで食べていけるようにとしてくれたのだ。親代わりであるラプレツィア伯爵には、感謝しても感謝し足りない。
それでも、とたまに思う。
ラプレツィア伯爵のように、ジェットを心配する人なんていなかった。ハーレンのように、ジェットを気にする人なんて多くなかった。すべてが彼らのような人とは限らないのが、ジェットの育った場所だった。
「……重くて長いため息だな」
声にふと顔を上げると、眠っていたクロが目を覚まし、じっとジェットを見ていた。
「……だいじょうぶですか」
「取ってつけたような言葉は要らないよ。そもそも、感情のない口先だけの言葉なんて、誰も要らないと思うけどね」
表面上だけのことなんて、クロには通じないのだと思う。初めて見たときから、それはわかった。この国にはない夕焼け色の双眸に、なぜか、敗北を感じた。なにに対して敗北を感じたのか、今でもわからない。
「……たくさん、心配されていましたよ」
「そりゃね。自分で言うのも悲しいことだけれど、おれは虚弱だから。無理をすれば当然、おれが世話をかけている人たちは心配するよ」
「なぜ当たり前のように言えるのですか」
「おれは生きることを諦めないと決めたから」
ハッとする。
敗北を感じたのは、これだと思った。
「その顔……漸く思い知ったところかな」
唇の端を上げたクロが、ゆっくりと身体を起こした。
「きみは、よくもまあ、簡単に命を投げ出したけれど……それって、おれに対する冒涜なんだよ?」
足を組んで座り、膝の上に置いた腕で頤を支えたクロが、夕焼け色の双眸を細めて、ともすれば睨んでいるかのようにジェットを見つめてくる。その妙な威圧感に、ジェットは顎を引いた。
「冒涜……ですか」
「可愛く言えば、嫌味や皮肉だね。簡単に言うと、おれをバカにしてんの? ってことにもなる」
「わたしは……」
クロに対して、不敬に値するようななにか思ったことなんてない。なにかを冒した憶えも、つもりもない。大国の皇子が嫁いできたと聞いたときも、こうした今も、クロに対してクロが不快に思うようなことを考えてみたことなど一度もない。
けれども、ジェットが知らぬまに、それは起きていたらしい。
「わたしが、なにをしようとなにを言おうと、あなたに関係はないはずです」
「直接的には関係なくとも、間接的には関係あるよ。だってきみは、ものすごく簡単に命を放り投げた。おれはこんなに、生きたいと望んでいるのに」
「それはあなたの望みであって」
「きみは」
わたしのものではない、と言おうとした口が、クロの意外にも強い真摯な眼差しに止められた。
「どうしてそんなに、命を軽んじることができるの?」
「……軽んじているわけでは」
「軽んじているよ」
ふざけるな、と夕焼け色の双眸が言っていた。
「生を手放すことが、面倒ごとから逃げられる唯一の手段だなんて、なんでそんなことがあるの? 面倒ごとなんて、その先にある幸福への第一歩だよね。乗り越えようと思えば乗り越えられるものだよね。どうして、きみはその道を進んでみようと思わないの?」
クロの言いたいことはわかる。だがジェットのそれは、もはや生来からの性分だと言ってもいい。クロとジェットでは、育ってきた環境も違う。その違いは大きいものだ。
ジェットは、順風満帆に、この生を歩んでいるわけではない。
「あなたに、わたしの想いなど理解できないでしょう」
「できないことはない。理解しようとする、その努力はできるよ」
「屁理屈です」
「そうであろうと、なかろうと、おれはきみを理解しようと努力している。だからこうして、おれが疑問に思うことを訊いているんだよ」
答えろ、とクロは促してくる。
なぜ、どうして、そんなふうになってしまったのだと。
それは確かに、クロがジェットを理解しようと努力している姿だった。
「……伯には、とてもよく、してもらっていた」
はあ、と息をつきながら、ジェットはそれを口にする。
「実子でもないわたしを、本当にわが子のように、伯は育ててくれた」
「……うん」
「兄や妹……従兄妹たちも、わたしのことは本当の兄弟のように、思ってくれていた」
「いい人たちでよかったね」
「ああ。だが……それをよく思わない者たちは、多くはないが、いるんだ」
「きみは随分と優秀なようだからね。妬まれたのかな」
ふっと、ジェットは自嘲気味に笑う。
「ただ妬まれるだけなら、耐えられただろう」
「……耐えられないほどのことが、あったわけか」
先を促すように発せられた言葉に、ジェットはできるだけ平静を心がけた。
「なにかと気にかけてくれる兄が、ただただ慕ってくれる妹が……わたしのせいで危うく、殺されるところだった」
「……、どういうこと?」
本当はもう、思い出したくもないことだったけれども、一度思い出してしまったそれを声にしてしまったら、押し殺していた感情が一気に溢れてきた。
「なにも考えていなかったわけではない。わたしには、わたしなりのやり方がある。わたしを次代伯爵にと押す者はいたが、そんな声にわたしは耳を傾けるつもりはなかった。わたしは……恩を返したかった」
恩着せがましいことかもしれなかったけれども、想いに、嘘はなかった。今も、想いに後悔することなんてない。
「伯や兄の気持ちを裏切るようなことが、わたしにできるわけなどないのに……それでも、あれらは、わたしのその想いを邪魔する」
腹が立つから、苛立つから、許せなくて殺意まで湧き上がるから、その感情はどうにか抑え込んでいる。その結果が、もしかしたら命を軽んじていることかもしれない。
だが、それがどうした、と思う。
ラプレツィア伯爵や兄や妹に、自分のせいでなにかあることのほうが、ジェットには耐えられない。この命が存在しなければ幸福だと言うのなら、喜んで天に差し出そう。慈しんでくれた人たちが幸福であるなら、ジェットは充分に、幸福の中にあると言えるのだ。
「……ああ、そういうことか」
みなまで言うことなく、クロがジェットのそれを察し、それに対してか忌々しそうに目を細めた。
「ラプレツィア伯爵は、見たところ人が好さそうだったけれど……そう、そういう裏事情があったわけか」
覚えがあるのだろう。クロ自身、ジェットのような思いを抱えたことが、過去にあったのだろう。
ふっとそらされた視線が、悲しそうだった。
「そういう人って、意外と身近にいるんだよね。どうしてそんなことができるんだろうって、幾度も考えてみたけれど、けっきょくおれはそういう人たちを理解することはできなかったよ」
努力はした、けれども無理だった、それはクロの誠意だと言えるだろう。
「……あなたの言うように、わたしは命を軽んじているのだろう。だが、わたしの命など、伯や兄たちに比べれば価値もない」
覚えのあることなら、ジェットが抱いた感情も理解できるだろう。結果的に命を軽んじた行為も、経緯がわかれば理解も容易い。
なるほど、とジェットは息をついた。
話せば理解も得られるものだ。理不尽に責め立てられることもない。相手に理解する努力が見られるならなおさら、想いはどこかで伝わるものらしい。
「ねえ、きみは、どうしたい?」
「……どう、とは?」
「きみには悪いけど、おれは一時の感情できみをここまで連れてきた。それはきみにとって想定外なことではなかったと思う。シャナに、たとえ伯からの頼みがあったとしても、後宮入りを望んだくらいだからね」
命のことはともかく、あそこから離れたかったのだろう、とクロは夕焼け色の双眸を真っ直ぐジェットに向けてきた。
「ねえ、どうしたい?」
それを訊かれても困る、というのがジェットの素直な気持ちだ。
ジェットはもともと、生きてここに来ることは、想定していなかった。想定外なことではないだろうとクロは言ってきたが、違う。
「……わたしはもう、なにも望まない」
ラプレツィア伯爵のところには、もう二度と、戻れない。あそこはもう、ジェットにとって帰る場所ではなくなった。王女に剣を向けたときに、その覚悟はもうできてきた。むしろ、居場所を失うために、王女に剣を向けた。命を、投げ出した。
帰るところなんて、戻れる場所なんて、もうジェットにはない。
「……そう、わかった」
頷いたクロに、ジェットはほっとする。
これで終われる、と思った。
あの想いから、あのつらさから、あの悲しさから、あの寂しさから、漸く解放されると思った。
けれども。
「それならきみは、今日この日から正式に、おれの侍従兼護衛騎士だ」
思いもよらない言葉、だった。
「わたしは……っ」
ラプレツィア伯爵のことを想えば、クロからの申し出は名誉なことだ。だがそれは同時に、要らぬ期待や思惑が、ラプレツィア伯爵のもとで飛び交うということでもある。ジェットのせいで、あの人たちの幸福が失われる可能性が増したと、そういうことでもある。
それは許せるところではない。
「だいじょうぶ」
ふとクロが、唇を歪める。
「おれが、黙らせるから」
ゾッとする笑みに、ジェットは言葉を噤んだ。
「きみは、おれの侍従だ。おれが決めたことだ。誰も、文句なんて言えないよ」
もしかしたら自分は、地獄に堕ちることよりももっと恐ろしい場所に、連れてこられたのかもしれない。
「おれに従え、ジェット・ラプレツィア。その誠意を、その忠義を、おれに誓え」
真摯な双眸は、自分より遥かに歳下である者にも関わらず、絶対的な強さがあった。
誰だろう、この皇子が脆弱だなどと言ったのは。
そんなのは嘘でしかなく、まやかしではないか。
「おれがあるじだ」
この強さは、ラプレツィア伯爵にはないものだ。この強さが彼にあったなら、ジェットはどんなものにも耐えられたかもしれない。
だから。
気づけば、ジェットは安堵を感じていた。
「……わかった」