37 : きみが、あまりにも綺麗に、泣くから。4
*シャナ視点です。
ハーレンの釈明で、シャナはよくよく問題を吹っかけてくれた領主の実像を、漸く把握した。
領主は遠回しな言い方でシャナにジェットを後宮に上げるよう言い続けていたわけだが、それはそのことによって得られる富が目的なわけではなかった。領主は純粋に、わが子の将来を考えていたらしい。
ジェットは今のところ領主の下で働いているが、領主の後継者ではない。ジェットは領主の妹夫婦の子で、事故で亡くなった妹夫婦の代わりに、領主が引き取って実子のように育てていたのだ。
その境遇だけ聞けば、ジェットの苦労はわかる。実子のように育てられたにしても、その立場は、あまりよくなかったはずだ。その性格が形成されてしまったのも、仕方ないと言えるかもしれない。
「疎まれたわけじゃないんですよ。むしろ、領主さまにはかなり可愛がられています。あいつ、頭だけはいいですから、やっかまれたのはそっちですかね。その優秀さで領主さまに可愛がられるから、それを快く思わない奴らが、影であいつのこと虐めたりして……いろんなことに自棄を起こすようになったのは、最近のことなんですよ」
ハーレンは苦笑しながら、ジェットという幼馴染のことを語った。
「自棄で命を投げ出すなんて、よほどね」
「領主さまに汚名を被せるつもりはなかったんでしょうけど、そうすることで縁が切れてしまえばいいとは、思っていたでしょうからね」
「可愛がってくれる、親代わりの人なのに?」
「領主さまは純粋にあいつが可愛いんですけどね、甥だから。でもあいつは……ジェットは、それがわからないんですよ。同情されているだけだとか、優秀だからだろうとか、そういうふうに考えるんです」
「……そうすることで、逃げているのかしらね」
「かもしれません。領主さまだけが、ここではあいつの味方ですから」
苦笑するハーレンは、そんなジェットだから放っておけないのだと言った。友として、できることをしてやりたいと言った。
「おれとしては、クロ坊のそばにいればあいつも変わるんじゃないかと思って、それを下心にクロ坊を連れてきたんですが……なんかちょっと、すれ違った出逢い方をさせてしまいましたね」
「そうね……」
ちらりと、シャナは奥の扉を見やる。
予定では明日、王都に帰還するが、あとから追いかけてきたアイルアートとチェルザに奥の寝室に連れて行かれたクロは、どうやらまだ体調を回復させていなかったらしく、このままであれば予定は遅らせることになる。
なんだかとても、なにもかも、心配だ。
「すみません」
「え?」
「クロ坊……いえ、クロネイ殿下を連れてきてしまって」
「なぜあなたが謝るのかしら」
「体調を崩されているとは、知らなかったもので……無理をさせました」
「それは仕方ないわ。クロは隠すのが上手いから……わたしだって、倒れたのなんて嘘じゃないかしらと、来てくれたときに思ったもの」
クロが倒れた、という一報は嘘などではなく、回復したという一報が届くことがなかったのも当然だった。シャナ逢いたさに、それだけで城を飛び出したクロは、ハーレンを欺いていたのだ。
あとから追いかけてきたアイルアートとチェルザは、ハーレンの配慮ない行動に激怒して説教したが、言ってしまえば隠していたクロが悪いので、ハーレンに非はない。そもそも、ハーレンはクロの虚弱さを知らされていなかったのだから、クロのそれに気づけるわけもない。
「あの、殿下……」
「なにかしら」
「クロネイ殿下は、まさか、噂の通りなんですか?」
「噂、というと?」
「……お身体が弱い、と」
王城内で聞いたのだろう。別に隠しているわけではない。ここの領主が知っていたように、囁かれた言葉は留まることなく、広がってもいる。
「漸く婿を迎えたというのに、その婿が……と、皆は思うのでしょうね」
「そんな」
「でも、お願い。そんなことで、クロを否定しないで」
ぎゅっと、拳を握る。
「わたしが……わたしが、無理をさせているの。わたしのせいで、苦しませているの。それでもわたしが、手放せないのよ」
今も、クロがどんな状態でいるか、気になって仕方ない。それでも、アイルアートに部屋に入るなと言われてしまったから、どうしようもない。ここでこうして、入室の許可が下りるのを待っていることしか、できない。そのもどかしさには、身の置き場すらなかった。
「否定なんて、しませんよ。ただ……だからおれは、ジェットにクロネイ殿下を、出逢わせたかったのだと思います。あいつ、面倒ってだけで、命を放り投げるような奴ですから」
出逢い方は予定と違えど、出逢わせてよかったと、ハーレンは言う。
それは確かに、とシャナもちらりと思う。
「クロは、怒ったものね……あんなにひどく怒ったクロは、初めて見るわ」
いつでも明るく、朗らかなクロだけれども、その身体を疎ましく思い、悔しいと、悲しいと、泣かないわけではない。ただ強がって、元気でいられるうちの一瞬一瞬を、クロは大いに楽しもうと努力している。
だから、クロは怒った。命を投げ出したジェットを、自分が持たないものを持っていながら努力しないジェットを、クロは許せなかったに違いない。
「怒られて当然ですよ、ジェットは。その手段はいただけませんでしたが、おれはこれが好機に思えて仕方ない。そう思うことを許してください、殿下」
「……あなたも、苦労しているわね」
「ジェットがこれで変わるなら、その苦労も報われます」
はは、と笑ったハーレンに、少し複雑な気持ちを持て余しながら、シャナも微笑んだ。
ジェットの荷造りを手伝ってくる、と言ったハーレンが立ち去り、しばらくひとりでぼんやりしていたシャナは、手許が陰ったことで顔を上げた。
「休んだらどうですか」
精霊騎士ノエが、シャナを労わるように眉尻を下げながら、シャナの前に屈んだ。
「……言わなくてもあなたならわかるでしょう」
「クロが心配で休むこともままなりませんか」
「心配しないほうが、おかしいわ……」
「だいじょうぶですよ。あれは、時期的なものですから」
「時期?」
「秋から冬に変わるこの季節は、暖かかったり寒かったり、寒暖の差が激しい。クロの場合、天候に左右されることが多いんです。春から夏に変わるときも、あいつは調子が悪かったでしょう」
「……そういえば」
「だから、だいじょうぶですよ。べつに無理をしたわけじゃないですし、おれも無理をさせたつもりはありませんからね。単に、季節の変わりめがクロと相性が悪いだけです」
沈んでいるシャナを励ますように教えてくれるノエに感謝しながら、シャナはほっと息をつく。
「ほんとうに、だいじょうぶなの?」
「明日には王都に帰るんでしょう? これからおれがクロの中に入りますから、だいじょうぶ、少しずつ回復しますよ」
落ち込まなくていい、シャナは悪くない、そう言ってくれるノエに、シャナは漸く微笑みを浮かべる。ノエも、シャナが微笑むのを見てニッと、唇の端を上げた。
「ねえ、ノエ」
「なんです?」
「以前から聞こうと思っていたのだけれど……クロの中に入って、あなたはだいじょうぶなの?」
「うん? どういう意味ですか?」
「クロの生命を支えているあなたは、つまりあなたの生命力をクロに分け与えているのでしょう?」
「あー……はい、たぶんそういうことになるんでしょうね」
「たぶん?」
「おれもよくわからないんで」
ノエは自身のことをよくわかっていないことが多いが、クロの命を支えていることまでまさか曖昧であったとは驚きだ。
「おれは最初、セイエンに、クロを死なせないでくれと頼まれたんですよ。おれならできるだろうって」
「……それで?」
「だからそのまま、クロを死なせないようにしているだけなんですよ」
「……つまり、そう、思っているだけなの?」
「極端に言えば、そうなります。精霊ってのは、存在そのものが力の塊みたいなもんですからね」
なるほど、と思う。
これまでノエ以外の精霊と接触したことがないシャナにとって、精霊の世界というのは未知だ。極端な感情しか持っていないというのは聞いたことがあるものの、知っているのはそれくらいで、精霊がなにをできるのかもよくわからない。
ノエとのつき合いは一生のものであるのだから、少しずつでも知っていく必要があるだろう。
「あなたと契約しているわたしも、あなたの力を使える?」
「姫の場合、おれを使うことが、天恵の力です」
「となると……わたしはあなたのように水を操れるわけではないのね」
「水を操ってみたいですか?」
「そういうわけではないわ。ただ、あなたのように力を使えるなら、わたしでもクロの命を支えられるのかと思って」
「姫は充分、支えていますよ」
「そうかしら?」
「姫だから、おれと契約できたんです。おれは天恵者か、或いは姫のような恩寵者でなければ、契約できませんからね。おれがいたって、クロの命を支えられるわけではないんですよ」
「あ……だからクロ自身とは契約ができないのね?」
「クロは天恵者じゃないですからね」
精霊との契約はいろいろと面倒なんですよ、とノエは苦笑した。
「精霊は気紛れで、気難しいものね」
「おれは器がでかい精霊ですけどね」
「本当にそうね」
くすくす笑うと、ノエも同じように笑う。
「だから、おれはだいじょうぶですよ。契約者が、国の恩寵者である姫ですからね」
「それならよかったわ。なんだか……いつもあなたには苦労させている気がして、申し訳なかったの」
「なに言ってんですか。忘れてますね、姫。おれが最初に、契約を持ちかけたんですよ」
「そうだけれど……最終的にわたしが願ったことだわ」
「それはおれにとって好都合だったんですよ。あなたのおかげでセイエンとの約束を護れている」
「セイエンさまと、どんな約束をしたの?」
「もちろん、クロを死なせるな、ですよ。永遠にってわけじゃないですけど」
人間の寿命を侵してまでやることではない、と言って、ノエは立ち上がった。
「おれも姫に訊きたいことがあるんですけど、いいですか?」
「なにかしら」
「そこにいる奴の面倒も、おれが看ていいですか?」
「え?」
そこ、とノエが指差したのは、シャナ自身で。
「精霊には人間が嫌いな奴もいますけど、おれは人間好きだし。クロに手ぇかからなくなったら、なんかつまんないんですよね」
「……。ノエ、え? どういうこと?」
「クロと姫の子どもなら、おれ、面倒看たいんですよね」
あまりにもさらりと、そしてなにごともなく言うものだから、その理解にはしばらく時間がかかった。
「いいですか、姫?」
当たり前のように問うてくるノエに、シャナは、顔を真っ赤にした。