35 : きみが、あまりにも綺麗に、泣くから。2
*シャナ視点です。
夜の訪問は、橋の修繕が終わりを見せるまで続いた。その根気強さには正直、感嘆する。諦めの悪さには呆れた。
そして、明日にも王都に出立しようかというとき、クロのことで気持ちが逸っていたシャナに領主はまたも問題を吹っかけた。シャナが目にかけている商人で画家の、ハーレン・リスタンを招いたというのだ。近くまで来ているというハーレンから連絡が入り、是非にシャナと逢いたいということらしい。嘘とは思えなかったが本当のことだとも思えなくて、どうしようか迷われた。
「橋の修繕を急がせましたので、ご協力してくださった殿下の兵も疲れているでしょう。少し休ませてはいかがでしょうか」
領主の言うことは間違っていない。本来の仕事ではないことをさせてしまった兵たちは、それぞれ疲れた顔をしていた。ここから王都までは一週間というところだが、その行程は急がせるつもりであったシャナとしては、どうしたものかと躊躇われたのだ。
「殿下、クロさま回復の一報は届いておりません。臥せっておられるのであれば、ここは急がれるべきでは」
エリオンからの進言も、その通りだった。クロが倒れたという早馬の知らせののち、回復したという一報は届いていない。ノエという精霊騎士は置いているからだいじょうぶだとは思うが、それでも心配だからシャナは気が逸っていたわけで、急いで帰りたいところである。
だが、まさか連れてきた兵をここに置いて、シャナだけが先に帰るということはできない。疲れている兵たちを労わるのもシャナの仕事だ。
だから、一日の猶予を作った。休むには充分であろうし、ハーレンがこちらに向かっているという情報の確認もそれなら取れる。エリオンは最後まで渋ったが、それが領主への警戒であることはわかったが、シャナの立場はエリオンがよく把握している。一日の猶予を、エリオンも諾とした。領主は嬉々とした。
「けっきょく、日数的には当初の予定通りになったわね」
「身も蓋もありませんが、仕方のないことです」
「本当に身も蓋もなく言うわね、エリオン」
「領主が焦っているのが目に見えているからです。殿下、今日明日は本当に、お気をつけください。わたくしどもも警戒は厳にしますが、殿下こそがそういう姿勢でなければ意味がありません」
「わかっているわ。今日明日ばかりは、バラットとシアンに扉番をしてもらいましょう」
控えている男女の騎士に目配せし、想定外のことをさせることを詫びたが、無言でふたりは目礼して部屋を出ていく。騎士ふたりに夜番をしてもらうので、交代できない代わりに日中は休まなければならない。もう少し考慮して騎士を連れてくるべきだったと、それはもう今さらだ。
「怒っているわね、特にシアンは」
「当たり前でしょう」
「あなたもね、エリオン」
「殿下を寝不足にさせている領主の息子に、腹を立てるなというほうがおかしいでしょう。ここにクロさまがおられたなら、確実に、あのお方は剣を手に取られたと思いますよ」
「どうかしら」
「おわかりかと思いますが、あなたになにかあっては、国だけではありません、クロさまがお嘆きになるのです」
クロを悲しませるようなことがあってはならない。それはシャナも承知のことだ。クロがどれだけあの城で癒しを与え、幸福の笑みを与えているか、シャナが一番よく知っている。だからこそ、シャナは身を護らなければならない。
「とにかく、今日明日が山場でしょう。できるだけ領主親子には近づかないほうがいいですね……街へ降りましょうか、殿下」
「それがいいわね」
領主館に王女が滞在しているという話は街に浸透しているものの、大仰な視察巡行にしていないのが幸いし、旅人に扮してしまえば騒がれることもない。危険がありそうであれば身分を明かすのも危険回避手段になるので、エリオンが言う「領主親子が焦っている」という状態から少しでも離れているためにも、出立するそのときまでできるだけ接触を避ける方法として街にいるのはいい策だ。
シャナは着替えを済ませると、エリオンとリグだけを連れて、街に降りた。賑やかな街は、それだけで、クロが心配でならないシャナの心を少し、軽くした。
だから、油断はなかったはすだった。
警戒は怠っていなかった。
護衛の騎士ふたりも、エリオンも、リグも、常にシャナのそばに在る者たちは、まるで戦時中にあるかのごとくぴりぴりとしていた。
「……まさか、こんな方法に出るなんて、ね」
ため息は幸せが逃げるからとクロがいやがる。だからため息がでないように心がけ、またため息が出るようなこともこのところは起きていなかったのだが、今回ばかりはつくづく仕方ない。
「強硬手段も、ここまでくると……殿下、挿げ替えるべきです」
「考えるわ」
善政を心がけ、努力している領主の姿は、どこへ消えてしまったのか。
いや、これは領主の意図とは別の、なにかしらの目的があるのだろう息子の単独行動、かもしれない。
「わたしを後宮に召し上げてくれませんか、シャルナユグ殿下」
確か、ジェット、という名だったと思う。領主の息子は、すらりとした剣を手に、その切っ先をシャナと、シャナを背に庇ったエリオンとリグに向けた。
「物騒なものを向けられての願いは、脅迫、と言うのよ」
「頼んでいるのです。わたしを、後宮に召し上げて欲しい、と」
「わたしにその気はないわ。そもそも、わたしにはあなたに、その意志も見えないのだけれど」
領主はなにくれとなく「わが息子を」と促してきたが、当人は夜にシャナの許へ来る以外、接触しても来なかった。それが今、扉番の騎士ふたりを出し抜き、堂々と侵入してきたから驚きだ。
「目的が別にあるのでしょう? わたしに剣を向けるくらいだもの、相当な覚悟よね」
「あなたに惚れている」
「手慣れた嘘ね」
「あなたのそばにありたい」
「命を脅かされる告白なんて、初めてだわ」
領主の息子の言葉が、これがクロから発せられたものであったなら、シャナは間違いなく頬を朱に染めていた。年甲斐もなく、恥らってさえいただろう。
だが、ここまで白々しい愛の告白は、クロの直球な言葉を初めて受けたときにさえ思わなかった、あまりにもバカらしいという呆れを喚起させる。嘘で愛を語る人間は嫌いだ。
「目的を言いなさい、ジェット・ラプレツィア。いつまでもそうしていられないことはわかっているでしょう。わたしの騎士が戻ってくるのは、あなたが思う以上に早いと思うわよ」
「後宮に上がること、それがわたしの目的だと言っています」
「剣をわたしに向け、脅しているのに? わたしの言質を取ろうなんて、無駄とは思わないのかしら。ここにあなたの味方は、今はあなたしかいないのよ」
「方法としては、これが一番だと、思っているからこうしています」
いったいどんな覚悟があって、シャナに剣を向けているのか。出し抜かれたふたりの騎士を考えれば、そして剣を持っていることを考慮すれば、領主の息子の目的が後宮に上がることではないと知れる。
だいたいにして、である。
領主の息子だというジェットは、最初に紹介されたときにも思ったが、確かに秀麗な顔をしているが、その目がとても冷めている。なにを考えているのか、今はわからないが、シャナが紹介されたときは考えることを放棄しているような目をしていた。言ってしまえば、クロがたまに見せる横顔に似ている。クロがそういう横顔を見せることは少ないが、そういう顔をしているときはだいたい、クロは身体の調子が悪くて不貞腐れていた。
ふと、ひらめく。
もしかしたらジェットは、そんなときのクロのように、不貞腐れているのではなかろうか。
「……だから剣をわたしに向けているのかしら」
クロはシャナに八つ当たりなどしないが、代わりにものすごくしつこく甘えてくるのだが、ジェットの場合は極端な方向に思考が働いているのかもしれない。
「殿下、なにやら見当違いなお声でしたが」
エリオンが呆れたように、ちらりと見やってくる。シャナは唇を歪めた。
「クロに似ているのよ」
「は、クロさまに?」
どこが、というエリオンに、シャナは苦笑する。
「自棄になるのはやめなさい、ジェット・ラプレツィア。言っておくけれど、わたしも伊達に歳を重ねているわけではないのよ。生憎と少女の時代なんて、もう随分と前に終わっているわ」
だから剣を下しなさい、とシャナは続けた。
「それは、わたしには無意味だわ。効力もないのよ」
「……冷静であれることが、特技であると?」
「そうね、そうとも言うかしら。けれどね、もっとも大事なことがあるわ」
「大事?」
シャナは一歩前に踏み出し、前に出るなと牽制してくるエリオンを宥め、下がらせた。
「わたし、あなたから殺気を感じないの」
脅迫されているけれども、その気迫を感じない。切羽詰まったようなところも、感じられない。
不貞腐れているのでは、と当たりをつけたら、そんないろいろなものが見えてきた。歳のせいだろうか。
「冷静なわけではないわ。殺されることはないだろうと、それだけははっきりとしているから、どうすればいいか考える余裕があるのよ」
「余裕……ときましたか」
「ええ、だから言うの。わたしにその剣は無意味だわ」
怖い、と思わないわけではないけれども、確実な安全に心当たりがあるわけではないけれども、この場を切り抜けられるなにかがあるはずだと思うことができる。どうやってこの状況を打破するか、シャナには考える余裕があった。
だから訊く。
ジェットの目的は、シャナに媚びることで得られる富ではないはずだ。
「答えなさい、ジェット・ラプレツィア。あなたの目的はなに?」
詰め寄られているのはシャナであったが、ジェットのそれを感じてある意味で開き直ったシャナは、場の雰囲気を逆転させて問うた。
ゆらり、とジェットの剣が揺れる。
「わたしは……」
ジェットが口を開いたその瞬間だった。
「おれのシャナになにをしている」