34 : きみが、あまりにも綺麗に、泣くから。1
*前半少しクロ視点、後半はシャナ視点となります。
前話から数か月後の話となっています。
夜明けの空気を感じて、のそりと動く。冷え込むようになってからというもの、動くのがとても億劫で仕方ない。
今日はどうしようか。
ぼんやりと、天幕の隙間から覗く陽光を眇め、クロは長々と息をつく。
「お目覚めですか、クロさま」
衣擦れの音と人の気配に、ゆっくりと首を動かすと、陽光が見えていた反対側の天幕が開けられた。
「チェッサ……?」
「はい、クロさま。おはようございます」
老官の侍従チェルザが、その威厳溢れる眼差しを崩し、心配げな顔を見せる。このところのチェルザはこんな顔しかしない。申し訳なくて、クロは唇を噛んだ。
「おはよう、チェッサ。あと……ごめん、動けない」
あるだけの気力を奮い立たせ、これくらいはと思って寝台から身を起こしてみたものの、思った以上にこれが一苦労だった。途中からはチェルザに支えられ、ふんわりと柔らかい枕を幾重も置いてもらって、漸く上半身を支えられた状態だ。
「ご気分は……」
「うん、昨日と変わらない……だから悪いけど、食事も少なめに。食べられるかもわからないけど」
「栄養価の高いものを用意しております。少しでもかまいません、お召し上がりくださいませ」
濡れた布を渡され、顔や手を拭う。ひどく緩慢なその動作は、ふつうなら待っているのも苛立つだろうに、チェルザは急かすこともない。起きろ、と促すこともない。寝台から起きることも、起きて着替えることも、このところのチェルザは促さなかった。
それもこれも、寝台から離れることはおろか、自分ひとりで動くこともままならないクロのせいだった。
「シャナが帰ってくる前に、どうにかしないと……」
はあ、と情けない自分にため息が出る。いとしい妻が、今ほどそばにいなくてよかったと思ったことはない。こんな姿、情けない以上に格好悪くて、見せられたものではない。
「わたくしは一刻も早いお帰りを願いますよ」
「やめてよ、チェッサ」
「クロさまが徐々に萎れていく姿を目にしているのです、願って当然でしょうや」
「うー……」
まあ確かに、妻である王女シャルナユグがそばにいるから、虚弱な身体も元気でいられるところはある。
地方の巡行視察に出かけたシャルナユグ、シャナは、その行程に一月をかけているため、帰還はもう少しあとだ。クロも本当は同行する予定であったが、クロが遠出をする際は医師アイルアートも同行させる必要があり、しかし今回はそのアイルアートが王都を離れられない事情があったために、クロは留守番の身となった。
こうして寝台から動けない今の状態を考えれば、シャナの巡行に迷惑をかけずに済んだと考えることができるから幸いであるが、それでも己れの虚弱体質を嘆かないわけがない。
「おれ、ほんと、かっこ悪い……」
がっくりと項垂れると、チェルザに苦笑された。
「早く元気になってくださいませ、クロさま」
「……頑張る」
季節の変わりめは苦手だ。ただでさえ虚弱な身体が、その期待に応えてクロから根こそぎ気力を奪う。動くことはおろか、眠るという本能にさえ億劫になって、生きることを投げ出したくなる排他的な思考に囚われる。そんな自分はいやだと、こんなことばかり考えているのはいやだと、そう拒絶したところでその先から気力を削ぎ落とされるから最悪だ。
さっさと冬になってしまえばいいのに、と思う。
過ごしやすかった秋は終わった。
クロの身体にはきつい冬がやってくる。
それでも。
その冬さえ越してしまえば、シャナに出逢って一年が経つことになる。
「……シャナ」
柔らかな枕に身を預け、クロはいとしい妻を想って瞼を閉じた。
国境にほど近い地方へ赴いたついでに、そのまま国境を越えて聖国へ、世話になったお礼をしに訪問する予定であったシャナだが、早馬の知らせで急きょ、その後の予定をすべて変更することになった。
王都、王城からの早馬は、早馬とは言っても、王都からこの地方へは通常十日はかかる道程であるから、最短でも八日前の知らせである。
シャナの夫クロが、倒れた。
早馬のその知らせに、シャナは予定を変更せざるを得なかった。幸いにも必要な視察は済ませているし、聖国への訪問は最後の予定であったから、事情を記した書簡を持たせた使者を聖国へ送り出したあとは、真っ直ぐ帰途についた。
しかし、急いでいるというのに、そういうときに限って邪魔は入る。
渡る筈だった橋が、数日前の雨の影響で破損し、修繕しなければ渡れなくなってしまったのだ。迂回するよりも橋の修繕を急がせたほうが帰還には早いために、連れていた兵たちにもそれを手伝わせ、シャナ自身も立ち会ってついでに橋を改良することになったのだが、重なるときは重なるという問題の連鎖まで起きた。
橋がかけられている街の領主館にシャナの一行は世話になったのだが、その領主がまた、シャナが頭を抱えたくなるような人物であったのが悪かった。問題の連鎖が起きたのは、領主に責任があったからにほかならない。
急がば回れ、とはよく言ったものである。
だが、これはないだろう。
「ご夫君はお身体が弱いそうで……いかがでしょう、わが息子は」
世話になった初日に、シャナはうんざりすることになった。
こういうのがいやだから、この歳になるまでひとりを貫き、そしてクロが夫となるからそれをどうにか許容できたというのに、まだ解放されないのかと思った。
ただ、シャナには頭を抱えたくなるような人物であっても、街の住民からしたらとても立派である領主は、確かに善政を心掛け努力する伯爵であったから、それがさらにシャナの頭を悩ませた。
どうしたらいいかと、随行させていた補佐官エリオンに意見を求めたところ、笑ってやり過ごすのが一番だと言われたので、とりあえず当たり障りのない会話で誤魔化し、橋の修繕を急がせた。幸いにも大きな橋ではないので、シャナが連れてきていた兵たちの手伝いが入れば、予定の日数を大幅に下回るだろうことがわかっていたので、とにかくシャナは領主のそれを我慢すればよかった。クロがいなかった頃のような立ち振る舞いをしていればいいのだから、我慢などは容易い。
しかし、とここでまた続く。
最少人数で視察巡行していたシャナは、身を護らせる騎士をふたりしか連れていなかった。それが悪かったとは言わない。むしろ充分であったと言おう。騎士はふたりしか連れていなかったが、兵は一個小隊を連れていたのだ。充分過ぎる人数でシャナは視察巡行していたし、目的の最中はまったく問題など起きなかった。
橋の修繕という、予想外なことさえ組み込まれなければ、これからもその問題は起きなかっただろう。
それは橋の修繕が半ば完了し、領主の言葉を笑って誤魔化し我慢していたときの、深夜も遅くに起きた。
「……殿下」
「なにかしら、エリオン」
この日の夜は、橋の修繕という本来の仕事ではないことをさせられている兵を少しでも休ませるため、エリオンがその役目を果たしていたわけであるが、武官ではないエリオンだけでは心配もあるので、武の心得がある女官も一緒にいた。
なにを警戒していたかは言うまでもない。警戒していたからこそ、シャナはどんなときでもひとりにはならなかったし、エリオンや女官、侍女もシャナをひとりにすることはなかった。
「やはり、来たようです」
エリオンがそう言いながら、扉を見やる。シャナは響いてきた頭痛に目頭を押さえた。
「まさかとは思っていたけれど、あなたが予想した通りだったわね」
幸せが逃げるからとクロがよく言うからため息は押し殺したが、それでも心情的にはそれも無理があって、どうしても肩が落ちる。
「リグ、明かりを消してちょうだい。蝋燭を持ってわたしのそばに。エリオン、鍵を閉めてくれるかしら」
気配を絶ち、眠りに落ちたと思わせるのが、侵入を阻む唯一の方法だろう。シャナの護衛が薄くなっていることは、領主館の者たちには知れている。
女官リグが蝋燭の小さな明かりだけを残して証明を消し、エリオンが部屋の鍵を閉めて近くに控えたすぐあと、窺うような扉を叩く音が部屋に響く。リグがそばに来たので蝋燭の明かりも消し、息を潜めるようにして様子を見たが、しばらく扉は窺うように叩かれた。
扉を叩いているのは、考えるまでもなく、領主の息子である。来るだろうとエリオンが言っていたが、その通りで笑える。領主は遠回しな口先だけで、シャナにわが息子の後宮入りを懇願していたわけではなさそうだ。
既成事実でも作ってしまえば、と思ったのだろうか。
なんて可哀想なことを、と思う。
「後宮なんて、開くつもりはないのよ……」
この歳までシャナがひとりだったことを考えれば、シャナが後宮を開くわけもないと想像も容易いだろうに、クロという大国の皇子を受け入れたからか、閉じられている後宮が開かれる可能性を貴族たちは少なからず持ったらしい。それはここの領主も同じなのだろう。
「シャナさま……」
「ごめんなさいね、リグ。そうね、このまま今日は眠りましょうか」
武の心得がある女官リグは、シャナが幼い頃からそばに置いている幼馴染にも近い。眠れない夜に、他愛もない話をして気を紛らわせてもらったことは、いくらでもある。今日も、そんな世話をかけてしまう。
「エリオン、リグを借りるわね」
「……。なぜわたしに断りを入れるのですか」
「あなたの奥さんだからよ」
「リグはあなたのそばにある女官です」
おかまいなく、と言ったエリオンは、扉の近くに椅子を寄せて座った。そこで夜を明かすつもりらしい。
「あなたの旦那さまからお許しはもらったわ。リグ、今日は一緒に眠りましょう」
「はい、シャナさま」
リグの世話になるのは今日ばかりではなくなりそうだが、扉を叩く音が聞こえなくなるまでは、それも仕方ない。これもあと数日の我慢だと自身に言い聞かせ、シャナは寝台に潜り込んだ。
楽しんでいただけたら幸いです。




