31 : 初恋だったのですね。
*アイルアート視点です。
途中からなんかおかしいです。
本日夕暮れどき、騎士カラミアが医務室に駆け込んできた。
「クロさまが」
その一言だけで、アイルアートは持てるだけの医療道具を鞄に詰め、カラミアに持たせた。
「ヒストレカ、あなたも来なさい」
助手で薬師の妻ヒストレカもまた、今日は偶然にもアイルアートの医務室にいたので、一緒に連れて行く。
セムコンシャス王国王女シャルナユグの婚約者クロネイは、大国の皇子という身でありながら非常に虚弱な皇子だった。アイルアートがもっとも優先すべきお方である。
名が告げられれば用件など考えなくてもわかった。妻ヒストレカも承知している。
カラミアの案内で、小走りにクロの自室へと向かった。
「だから、おれはだいじょうぶだって。幾度も言わ……なんでアルア呼んだの!」
扉を開けるとすぐ、近くの長椅子ではなくそのすぐ下の床に膝をついたクロの姿が目に入った。
顔色が悪い。
カラミアがアイルアートを呼びに来たのは、もうひとりの騎士サンジュンがクロをどうにか長椅子に座らせようとしていたからのようだ。アイルアートを見て安堵している。
「なにをしているのです、クロさま。椅子にお座りください」
「おれはだいじょうぶだ、なんともない、なんでアルアが来るんだ、おれは呼んでない」
クロはアイルアートを、「アルア」とか「アルアトル」とか、意味不明な愛称で呼ぶ。サンジュンのことは「シン」、カラミアのことは「ラミアン」、ちなみに妻ヒストレカを紹介したときはおかしな愛称をつけなかった。
だから耳が悪くて聞き取りがおかしいわけではない。
医療的にいろいろと考えてしまうのは、アイルアートが医師だからだろう。
「呼ばれる理由はご自分でも承知のことでしょう。立ち上がれないのですか」
「ちがう、だいじょうぶだ、おれはなんともない」
青褪めた顔で、懸命にだいじょうぶだと言うクロに歩み寄り、その前で膝をつく。手を伸ばして熱を確認しようとすると逃げた。
「……サンジュン、カラミア、クロさまを押さえてください」
「な…っ…なんだよ、アルア、おれはだいじょうぶだって」
「隠しても無駄です」
逃げようとするクロは、しかしその抵抗力も些細なもので、カラミアが手を貸すこともなく、サンジュンひとりで軽く押さえてしまう。
額に手のひらを乗せると、クロの怯えた瞳がアイルアートを見つめた。
「だいじょうぶ、だって…っ…言ってる、だろうが」
「……微熱ですね。吐き気は? 眩暈は?」
「だい、じょうぶだって、ば……っ」
「ヒストレカ、薬を」
「いらないっ」
いやだ、いやだ、と気持ちだけは逃げ回るクロに、ヒストレカが調合した薬を飲ませるのは大変だった。押さえつけて飲み込ませようとされるのだから、クロも必至だ。
「いやだ、のまない、いやだ……っ」
口周りが散々な状態になっていったが仕方ない。これから夜にかけて、そして朝方までクロは熱に嘔吐に眩暈に痛みにと、苦しむのだ。今のうちに薬を飲ませておかなければ、それはもっとひどいことになる。
クロが受けた治療の診断書を呼んだとき、なにがなんでも薬は飲ませなければならないと思った。治る類いの病ではないから、日中に元気そうでも、いきなりクロはそれに襲われる。精霊騎士が生命力を分け与え、支えていなければ、クロの命は風前の灯だ。今ここに、王女の婚約者としていることもなかっただろう。
「いやだ、って、言った、のに……っ」
汚してしまった衣装を着替えさせながら、アイルアートはクロの恨みごとを聞き流す。
ほぼ涙目で泣きそうになっているが、そこは意地で泣かないクロだ。本当は今すぐこの身体を投げ出して大泣きしてしまいたいだろうに、意識あるうちはそんな姿を見せないクロに天晴れさを思う。
「今よりつらくなると、おわかりでしょう」
「明日! 明日、やっと、やっと…っ…シャナと、結婚、できるのに」
「ええ、明日です。待ちに待った婚姻式典です。だからこそ、今できることをしておかなければならないでしょう。式典の最中の倒れたいのですか。式典が延期されるという、そんなあってはならない事態を招きたいのですか」
「いやだ、いやだ…っ…明日、おれ、やっとシャナのこと」
少し頬に赤味が出た。こんなでも、やはり男なのだ。
「わかっております。だからこそ、今のうちに、手は打つべきです」
「……おれ、明日、シャナのこと抱ける?」
はあ、とアイルアートは小さく息をつく。
「医師としては、お止めしたいところです」
「抱く! 抱きたい」
「臣下としては、早く御子を、と申し上げるところですがね……あなたにそれを望むのは無謀かと、思うわけですよ」
「抱けるもん!」
「もん、て……あなたね」
「ずっと触りたかった……シャナ、軟らかいし、いい匂いするし」
ずっと箱入りの状態で甘やかされて育ってきたからか、言葉はともかく純情だと思う。この皇子にそれを手解きできた輩がいたとも思えない。それでも、クロの中にはそういった感情がしっかりとある。その気持ちだけでもだいじょうぶだろうが、そもそも虚弱な身体が耐えられるかという問題がある。
「やっと、抱けるんだ……シャナをおれひとりのものにできるんだよ。だから、元気でいないと……」
「気持ちはわかります。ですが、ご自身の身体も気遣ってください」
「抱く……シャナを抱く。おれのシャナだ。誰にもやらない」
「ええ、あなたさまの殿下です。ですから」
「アルア」
「……はい」
夕焼け色の双眸が、懇願するようにアイルアートを見つめてくる。
「諌めないで、応援してよ。協力してよ。ちゃんと子ども作るから、おれの役目は忘れたりしないから、シャナを……おれにシャナを、ちょうだいよ」
この皇子は、と思う。
皆に愛されてきた分、愛されるということはよくわかっている。愛する喜びも知っている。だが外界との接触は少なかった。それはきっと、初恋もなかっただろうという可能性も出てくる。初めて家族ではない者を、愛する者として受け入れた反動か、ひどくいとしくてならないらしい。
初恋だったのですね、とアイルアートは苦笑する。
実らないものとして有名である初恋は、しかしクロには実るものであった。
「なにも、あなたに御子を作ってもらうためだけに、わが国はあなたを迎え入れたわけではありません。あなたに、わが王女殿下を、愛していただくためです。それは間違えないでください」
「おれはシャナを愛してるよ。こんな……こんな気持ち初めてだ。シャナがいとしい……すごく、いとしいんだ」
「それを殿下にお伝えください」
「聞き流される」
「それは仕方ありません。なにせあの歳になるまで、仕事一辺倒であられたお方ですからね」
クロが来てからというもの、その王女も少しずつ変わってきている。執務室をクロのために、寝転べる仕様にしたのもアイルアートには驚きだ。押しかけるクロを邪険にしつつ、それでも休憩と称してお茶会をしているのだから、それはもう丸くなったとしか言いようがない。
可愛い姪っ子が婚期にも目を向けないことを、これでもアイルアートは心配していた。それがどうだろう、クロのおかげで王女は婚姻を漸く視野に捉え、しかもきっちりと愛を育んでいる。政略的なものが強いとはいえ、相性が悪ければそこに愛は生じない。
愛し合っている姪夫婦に、アイルアートは喜ぶばかりである。
「根気強く口説いてください」
「……そうする」
薬がいくらか効いてきたのか、興奮気味だったクロもいくらか落ち着き、しかしそれでも立ち上がることはできないのか、アイルアートの手を借りて漸く長椅子に腰かける。
そういえば、いつのまにか床に絨毯が広がっている。部屋の隅から隅まで、軟らかな敷きもので埋められていた。
思わず自分の足許を見てしまう。今日は外に出ていないが、埃だらけの城内は歩いた。申し訳なくなってくる。
「この部屋はいつから土足厳禁に?」
「え? いや、そういうわけじゃないけど、おれがよく寝転ぶから、シャナが敷きものを用意してくれたんだ。すぐ移動することになるけど」
「そうでしたか……」
王配の居室に移動したら、そこは土足厳禁になるだろう。クロに寝転ぶ癖があるのは、虚弱さからくる本能的なものだ。王女はよくクロを見ている。
「少しは落ち着きましたか、クロさま」
「う……ごめん。だって、明日、式典だし……このままだとヤバいし」
「心配せずとも、明日だけでなく明後日まで、わたしがどうにかあなたの体調をお支えしますよ」
「ほんと?」
「ええ。ですから、薬はお飲みください。ヒストレカの薬はよく効くのです。信じなさい」
「……うん」
漸くクロの顔に笑みが戻る。
ほっとした。やはりクロには笑っていてもらわないと、こちらも身がもたない。
「ねえ、アルア」
「はい」
「その……誰に訊けばいいかわかんなくて、とりあえずノエに訊いたんだけど、人間のことはわかんないって言われて……シンに訊こうと思ったら逃げられて、ラミアンに訊こうと思ったらシンに邪魔されて、未だ訊けないでいる疑問があるんだけど、ついでに訊いといていい?」
ピンときた。
なるほど、アイルアートは医師だ。訊くならアイルアートがいいだろう。しかし、医療的に応えられても困るのはクロだ。まあそれでもいいだろう。
「……。ヒストレカ、あなたは先に帰りなさい。調合した薬はわたしの部屋に置いといてかまいませんから」
「わたしも参加したいです、アイルアートさま」
「おそらくクロさまの身体がもちません。あなたのそれは、もう少し段階を経てからのほうがよいでしょう」
「わたしのほうが詳しく説明できると思うのです」
「クロさまが耐えられません。わかりなさい」
つまらない、という顔をした妻ヒストレカを帰らせてから、やっと答えを得られると目を輝かせたクロに視線を目指し、やはり純情なお方だと思う。いったいどうして、こんな瞳をする人に教授できるだろう。
いやな役回りだが仕方ない。これもクロと、可愛い姪のためだ。
「サンジュン、あなたは残りなさい」
「え……いえ、わたしは」
「責任はあなたにもあります」
「カラミアに説明させればよかったのですかっ?」
真っ赤になったサンジュンもまた、純情なほうらしい。カラミアといえば、楽しそうだ。
「あたしが手取り足取り教えてあげたいところだけど、クロさま皇子だしねぇ。むしろあんまり知らないなんて、あたし吃驚よ。誰も教えなかったのかしら。まあいいわ、サンジュン、頑張ってねぇ」
「おいカラミア!」
カラミアも廊下の警備に出たところで、はあ、とアイルアートはため息をつき、失礼して向かいの長椅子に腰かけた。
「お、おま、お待ちくださいファルム医師、わたしも外に」
「いなさい」
「……はい」
しょぼくれたサンジュンを一喝したあと、期待に目を輝かせたクロの体調がよくなるだろうことを考えながら、アイルアートは口を開いた。
*下品かも……?
ゴメンナサイ。
クロは健全です。虚弱ですけど。某魔導師みたいにしっかり者です。