26 : 花咲く歌を夜明けにつなぐ。1
夜、クロが熱を出した。体調が万全ではないせいだと医師アイルアートは診断したが、クロは熱にうなされながらも胸を押さえていた。
「殿下、お訊ねしたいのですが」
アイルアートは確認するように、シャナにそろりと訊いてくる。
「クロネイ殿下は、胸に……病を抱えておられるのでは?」
クロのそれに、医師たるアイルアートが気づかないわけがない。知っておいてもらう必要があるだろうと、シャナはクロの病について説明した。ネフィスに頼んで、クロがそれまで受けてきた治療の記録は取り寄せてもらったので、それもアイルアートに見せた。
「……そう、でしたか」
クロの治療記録に、アイルアートは渋い顔を見せた。治療記録はシャナにはよくわからない内容が多かったが、アイルアートが言うには、治療らしい治療ではないと言う。
「たとえば苦しまれているときに、その苦しみをいかにして取り除くか……痛みをいかにして取り除くか……これは薬に頼るほかありませんが、使われている薬は一時的なものです。特別なものは使われておりません」
「一時的、というと……」
「完治させるための薬ではありません」
それは、治す気がない、とも捉えられるが、そうではないらしい。以前ノエが言っていたように、クロの病は治るものではない。治す気がないのではなく、治せないから、一時的に取り除く方法しか用いられなかったのだ。
「殿下、これはあまり言いたくはないのですが、今後のためにも、どうかそのお耳を汚すことをお許しください」
「……いいわ」
「覚悟はなされてください」
「どういうこと?」
「クロネイ殿下は、たとえそのお命をノルイエどのに支えられているとしても、このように倒れられることが多くございましょう。無理をすればした分だけ、身体に返ってくることでしょう。それは確実に、クロネイ殿下を疲弊させます」
アイルアートが言うことは、わかって、覚悟していることだった。クロに苦しみを与え続けることだと、わかっていることだった。改めて言われると心が挫けそうになる。
それでも、失えない。
大切にしたい。
そう想うから、覚悟を決めた。
「アイルアート」
「はい、殿下」
「あなたには苦労させると思うわ。けれど……頼みたいの」
苦しみも悲しみも、分かち合うと誓った。クロの苦しみはシャナのものだ。アイルアートにはこれまで以上に手を煩わせることになるが、それでも、シャナはクロと共に在り続けたい。
「殿下にその御心がありますれば、わたしに否やはございません」
「ありがとう、アイルアート。クロのこと……あなたに一番、頼ることになるわ」
「承知いたしております」
真剣な面差しで頷いてくれたアイルアートにホッとし、シャナは漸く微笑む。
クロが確実な死を迎えることはないといっても、どうしたって永続的にアイルアートの存在が必要だ。それを強いる自分の非情さと、それでも一緒にいられるという安堵感とでは、安堵感のほうが強い。この罪悪感は、一生抱えていくことになるだろう。
「殿下、もう一つだけ、よろしいでしょうか」
「なにかしら」
「敢えて、言わせていただきます」
わざわざ居住まいを正したアイルアートに、少し緊張する。
「クロネイ殿下を大切になさってください」
それは、シャナにとって思いがけない言葉だった。
「甘やかしではありません。大切に、想っていただきたいのです。クロネイ殿下がおられなかった頃には、もう戻れませんでしょう? 今ある大切なものを、殿下もわれわれも、護らなければならないと思うのです」
「……あなたにとっても、クロは失えない存在?」
「殿下にとてもよい嵐を起こしてくださったお方にございますれば」
クロを「嵐」と表現したアイルアートに、それは一歩間違えれば不敬とも取れたが、シャナは笑った。
「そうね、わたしはクロにとても振り回されているわ」
「とてもよいことだとわたしは思います」
アイルアートもにこりと微笑み、だからこそ大切に想ってください、と繰り返した。
「……想いは伝播するものなのね」
「わたくしどもは殿下を愛しておりますから」
シャナはクロにとって苦しい選択をした。けれどもそれは、結果的にたくさんの笑顔と幸せを招くことができたと思う。クロを大切に思うのはシャナだけでなく、アイルアートを始めとしたシャナの部下たちも、クロをとても大切に思ってくれている。
「ときには苦しい選択も必要なのだと……そう思っていいのかしら」
「クロネイ殿下の笑顔をお護りすればよいのです。わたしはその努力を惜しみません」
「……ありがとう、アイルアート。今日はあなたに励まされてばかりね」
「殿下のお役に立つことは、わたしの誉れにございます」
ゆっくりと深く礼をしたアイルアートに、シャナはもう一度、ありがとうと口にした。
目を覚ますと、このところいつもそこに、アイルアートという医師がいる。丸眼鏡を鼻にかけ、水色の双眸を僅かに陰らせ、ヒヨコみたいな黄色い頭が目印の、細身の青年である。
「おや、お目覚めですか」
「……アルア?」
「アイルアートです。まあ好きに呼んでくださってかまいませんが」
失礼しますよ、と言ったアイルアートは、目覚めたばかりのクロの額に手を置き、体温を確認する。そのあと脈を取られ、目の状態を確認するのが、いつのまにか恒例となっているアイルアートの行動だ。
「まだ少し熱がありますので、今日もできるだけ安静にしてください」
「熱?」
「はい」
「……昨日の夜、シャナがいた気がする」
「ええ、あなたさまが熱を出されましたので、その報告をしましたら様子を窺いにいらっしゃいました」
「……おれ、眠ってた」
「残念でしたね」
よしよし、と頭を撫でられた。ものすごく子ども扱いされている気がして、クロは顔を引き攣らせた。
「おれは子どもじゃないよ」
「わたしの半分も生きていない子どもに、子どもではないと言われましても」
「……。えっ?」
「はい?」
「若づくりもほどほどにしたらっ?」
「……。診断を誤りました。侍従を呼びますから着替えて昼食にしてください」
安静にしていろと言った口で寝台を追い出そうとするアイルアートに、こんな人だっただろうかと少し驚かせられながら、なんだかんだ言いつつ着替えを手伝ってもらって寝台を出た。いや、寝室を追い出された。
「おれ安静にしてなくちゃいけないんじゃないのっ?」
「少々の微熱は身体を動かして発汗させることにより解消されます」
「肋骨まだ痛い!」
「大声を出すからです」
未だ完治していない肋骨の怪我は、固定以外に治療法がないという。アイルアートのそれが本当のことかわからないが、とりあえず大声を出すのはやめようと思う。そもそも疲れる。
「肩のあたりもまだ痛い……」
「全治一月、でしょうかね」
「そんなにかかるの?」
「銃創はわたしも初めてですので確かなことは言えませんが、聖国からのお客さまによればそのくらいであると」
「……怪我はするものじゃないね」
「以後お気をつけください」
満身創痍なんて初めてだ。胸の病でよく床につくが、怪我をすることはなかった。怪我の前に病に忙しかったのだ。
「って……昼食?」
「ああ起きたのか、クロ」
「あ、ノエだ」
寝室の隣は居間になっている。そこでノエが、卓に食事を並べていた。量からしてふたり分の食事は、おそらくクロが目覚めることを想定して用意されたのだろう。
「アルアもここで食べるの?」
「ついでですから。お嫌でしたら下がりますが」
「いやじゃないよ。いつもひとりだから、むしろ一緒に食べて欲しい」
「では、同席させていただきます」
ノエは精霊だから、人間の食事はしない。たまに口に運んでいるが、味はよくわからないらしい。だから食事はいつもひとりで食べていたので、一緒に食べてくれる人がいるのは素直に嬉しい。できたらシャナと一緒に食事したいところだが、婚姻式を終えるまではまだ無理だ。書類上では夫婦であっても、この前のように戦時中で一緒に行動している場合を除いては、式典という通過儀礼が王族には必要とされるので仕方ない。
「ノエ、いつのまに出てきたの?」
「少し前だな。姫に呼ばれたから」
「シャナに?」
「おまえ以上にこき使ってくれるよ、姫は」
半眼したノエは、どうやらシャナに精霊という特性を上手く使われているようだ。いやそうではなく楽しそうだから、使われることに文句はないだろう。
はは、と笑いつつ、少しふらふらしながらクロは用意された食事の席につき、向かいにアイルアートを促した。病後には優しそうな食事は、なぜか久しぶりに食事をした感をクロに思わせる。祖国にいた頃は祖父母と食事をすることが当たり前だったせいか、久しぶりに誰かと一緒というのがクロにそう思わせたのかもしれない。
あまり空腹を感じていなかったクロだが、アイルアートと食べ始めると自分が随分と空腹であることに気づき、ゆっくりとだが黙々と皿を空にしていく。その食べ方にアイルアートが首を傾げていたが、とくに会話らしい会話にはならず、静かに食事は進んだ。
「万遍なく食されるのですね」
食後、漸くアイルアートが首を傾げていた理由を口にした。
「どういうこと?」
「偏食であるなら、と思っていたのです」
注意されるところであったらしい。
「食べられないものならあるけど」
「たとえばどのような?」
「魚は平気だけど、貝類は発疹がでるから食べられないよ」
「貝類ですか……ほかには?」
「それくらい。発疹がでなければほんとは貝類も食べたいくらいだね」
「嫌いなものがないのですか」
食べものに嫌いなものはない、とクロは頷く。
「珍しいですね」
感心された。王侯貴族には偏食家が多いらしい。
そもそもクロの場合、食べものに文句を言える立場ではなかった。貧弱な身体は、とにかく栄養を取らせ続けなければならないからだ。そのために豪華さよりも栄養の均衡を大事にされた。それはセムコンシャスに来てからも続いている。
「こちらに来てから、食したことのないものもありましたでしょう」
「あったけど、食べられた。味はトワイライとあんまり変わらないからね」
食事に関しては、そういえば困ったことにはなっていない。ノエが事前に確認しているから、というのも前提にあるが、食べものに関して文句を言うクロではない。
「おれは食事ができる立場にあった。毎日、毎食、欠かさずにね。世界のどこかでは飢えている人もいるのに、それは幸せなことだ。食事ができることに感謝しないと」
「……よい心がけです」
「はは。幸せを手放したくない我儘だよ」
そんな大層なことはしていない、と苦笑すると、丸眼鏡の奥にあった水色の双眸が細くなり、眩しげにクロを見つめてきた。
「なに?」
「あなたをお迎えできたことは、わが国にとって大変な幸福であると、つくづく思いまして」
「……。いきなりなに」
「お身体のこと、ノルイエどののこと、シャルナユグ殿下からお聞きしました。わたくしアイルアート・フォロン・ファルムは、全力であなたをお支えする所存にございます」
唐突な宣言に、思わず沈黙してしまう。なにやら忠誠を誓われた気がするのだが、聞き間違いだろうか。
「……って、え? ファルム? アルア、ファルム公爵となにか……」
「父です」
「……。シャナの叔父さんっ?」
宣言よりも、アイルアートがシャナの叔父であったという事実のほうが、クロには重大なことだった。