25 : 迎えたかった終わり。
デイランを陥落させたトワイライは、名をデイラン公国と改めさせたのち公国を属国にし、王侯貴族には刑として下位の貴族位を与えた。もちろん優秀な臣は対話ののちトワイライの王宮に召し上げられ、腐っていた中枢は取り除かれた。
「と、いうことで、銀山の所有権はトワイライがいただくよ」
「はい、かまいません。取引はしてくださるのでしょう?」
「細工に関してはセムコンシャスに敵わないからね。むしろ優先的にそちらへ銀を送るから、加工に力を入れてくれ」
「承知いたしました」
「ただ、銀山は無限資産ではない。いつか底をつく。加工技術をさらに上げなければ、生き残れないと知っておくんだよ」
起きた戦争の片づけを終える頃、デイランが所有していた銀山の権利についても決着し、トワイライがその所有国となることで世界情勢は安定した。
一番の問題であった銀山が片づけばあとは微々たるもので、セムコンシャスも漸くいつもの姿を取り戻す。
「もういいですか、ネフ。おれにシャナを返してください」
「寝台から離れられない怪我人が、満足に王女の相手もできなかろう」
「な…っ…ネフには関係ありません!」
「いやいや、しばらくはわたしに任せなさい」
「ちょ、ま…っ…義姉さんに言いつけますよ!」
「ああそれはかまわない。アーシャは側妃推奨派だ」
「シャナはおれの妻です!」
他愛もない兄弟喧嘩はよくシャナの前で繰り広げられ、最終的にはクロが大敗してシャナに泣きついてくる。
今日も今日とて兄ネフィスに口で勝てず、揶揄されまくり、とことん遊ばれたクロは、本気で泣きながらシャナにしがみついてきた。それを可愛いと思ってしまうから、シャナは笑いながら兄弟喧嘩を黙って見守っていた。
「しゃ、しゃなは、おれのおくさん、です……っ」
ネフィスが本気で言っているわけがないのに、本気に受け取って泣くクロは可愛い。
「そうね、わたしはあなたの奥さんね」
くすくす笑いながらクロの好きにさせると、ネフィスに取られまいと嫉妬しながらしがみついてくるから少し楽しい。うっかりシャナもクロで遊んでしまう。
「ところでシャルナユグ殿下」
「なんです?」
「ノルイエとの契約についてお訊ねしたいのだが、そろそろいいかな?」
クロで遊び終わったらしいネフィスは、それまで訊かずにいたこと、精霊ノルイエとシャナの契約について訊いてきた。このことにはクロも関係しているので、涙を止めると睨むようにネフィスを見やる。矛先が違う、とクロを宥め、シャナは口を開いた。
「本来なら、血縁にある者であれば、契約は簡単だったそうです」
「……やっぱりね」
はあ、とネフィスはため息をつく。
クロで遊ぶネフィスは、本当にクロを可愛がっている。そのネフィスを置いて、シャナがノエと契約するというのは、とても面倒で遠回りなことだった。ノエはクロの祖母と契約してクロの生命を支えていたが、それは血縁という関係があったからできたことなのだ。まったく血縁のないシャナが契約するよりも、ネフィスと契約したほうが、クロの生命は危ぶまれないということである。
「なぜノルイエは、わたしよりもあなたを選んだのだろうね」
「それは……」
シャナが答えようとした矢先、シャナから少し離れたクロが、その口を手のひらで塞いできた。
「おれがノエに言ったんですよ」
「おまえが?」
「おばあさまが亡くなられて、少しして……ノエが訊いてきたんです。どうするかって」
「……。それで?」
「おれは、もう少し世界が見たいと答えました」
クロの口から語られるそれは、おそらくはシャナ以外に初めて明かされる話だ。
「世界を見たいと言ったおれに、ノエは条件を出してきました」
「条件?」
「国を出ろ、と」
いくらか真面目な顔をしてクロの話を聞いていたネフィスが、ぴくりと眉を動かして少しだけ剣呑そうにする。それはクロを愛しているがゆえの、ノエに対する怒りなのかもしれない。
「国を出なければ世界を見ることなんてできない。ノエの言うことは間違っていません」
「そうだね……」
「だから国を出る決意をしました」
「わたしに黙って国を出たのは、なぜかな」
「ネフやほかの兄上、姉上たちでは、おれを国から出そうともしません。だから黙って国を出ました」
「協力したのは先王かい?」
「脅したんです。おばあさまが亡くなった以上、おれの命は遅かれ早かれ消えるでしょうと」
「最期の願いだと聞いた……と、先王や父上は言っていたね、確かに」
つまり、と続けたネフィスが、少し怖い顔をする。
「おまえは騙したのかい、先王を、父上たちを、わたしを」
ネフィスは怒らせてはならない、とクロは言っていたが、その通りだ。ネフィスから発せられる冷気は、ひどく冷たくて寒気がする。ただ見つめられているだけなのに、心臓が止まりそうになる。
けれども。
「おれは、生きていたくなかったんです」
ネフィスに怖気づくことなく、クロはその本音を口にした。
とたんにネフィスから発せられていた冷気は薄れ、息を詰める気配が伝わってくる。
「……なにが……なにが不満だったんだい」
「不満なんてありません。おれは、幸せでした」
「なら」
「幸せを抱えたまま、終わりを迎えたかったんです」
ひどく傷ついたような顔をしたネフィスに、クロが申し訳なさそうに少し俯く。
小さく震えている拳に、シャナはそっと手のひらを添えた。
「わたしたちは、そこまでおまえを、追いつめていたのか」
「そうではありません。ただおれは……もうみんなに、心配されたくなかったんです。その心を煩わせるようなことは、したくなかったんです」
「おまえを愛しているからみんなおまえを心配した。当然だ。おまえはわたしたちの小さな弟なんだぞ」
「もう成人しました。こんな大きな子どもが、いつまでも兄たちに頼って生きるなんて、できませんよ。それに、世界を見渡せばおれみたいな子はたくさんいます。王族だからという理由でその子たちと違う待遇を受けるには、おれはあまりにも、甘やかされ過ぎています」
苦笑したクロは泣きそうな顔をしていた。さっきまでネフィスに遊ばれて本気で泣いていたから、涙はすぐ出てくるだろう。同じような顔で、ネフィスも静かにクロを見ていた。
「おまえはどんなに大きくなっても、わたしの可愛い弟だ」
「そう言ってもらえるから、その幸せのまま、終わりを迎えようと思ったんです」
クロはネフィスの気持ちをよく理解していると思う。だからこそ、その気持ちを抱えたまま、消えてなくなりたかったのかもしれない。そっと静かに、思い出になりたかったのかもしれない。
「だからおれは、ノエにそう言いました。ノエは頷いてくれました。最期までつき合うと、言ってくれました」
「ノルイエがわたしたちに契約を持ちかけなかったのは、おまえの願いが、それであったからということか」
「そうなります。ですから、そこから先のことは、ノエが判断したことで……おれもまさか、ノエがシャナと契約するなんて、思ってなかったんです」
ふたりの視線が、一気にシャナへと向けられる。同じ色の双眸に見つめられると、違いを見つけたくなるのは仕方ない。ネフィスはクロとよく似ているし、瞳と髪の色はまったく同じだ。性格も似ていると思う。違うのは、持って生まれた身体、くらいではないだろうか。
もしクロが健康的に育っていれば、きっとネフィスのような青年になっていただろうし、シャナと出逢うこともなかった。
クロがクロでよかったと、シャナは思う。
「大切にしたい、と思ったのよ」
シャナはそのときのことを思い出しながら、温かな気持ちに微笑む。やはり後悔はどこにもない。ノエと契約してよかったと思う。
「この想いを、大切にしたいと思ったの。それはクロを失いたくないということを、同じだったわ」
「……シャナ」
「わたしは言ったわね、クロ。想いを大切になさいと。だからわたしも、想いを大切にしたのよ」
自分からクロに言っておきながら、自分がそれを護らないなんてことは、あってはならないと思う。
だからシャナは、想いのまま、ノエと契約することを選んだ。
そしてノエは、シャナがそうすることを予想していた。むしろ初めから、シャナの想いとは関係なく、契約しようとしていた。クロが予想もしていなかったノエのそれは、クロを気に入っているノエの自己判断だ。
騙していたというなら、それはクロではなく、ノエが周りを騙したと言えるだろう。本当に、気紛れな精霊だ。ノエがそう動いてくれなかったら、今頃シャナは、どうしたらいいかわからなくて途方に暮れていた。クロも、シャナへの想いに苦しみながら儚くなるところだった。
「……ノルイエとの契約の経緯は理解したよ。どうやらノルイエに一杯喰わされたね」
「今ではそう思います。ですが……ノエの優しさに、わたしは救われました」
「精霊は、精霊位が高いほど、気難しい。ノルイエがノルイエであったから、おばあさまも救われたことだろう。もちろんわたしも、クロもね」
シャナのノエとの契約を、クロが結果どう思っているかはわからないが、受け入れてくれた様子はある。それは生きたいと思ってくれた証拠で、死にたくはないと言ったクロのそれを確かなものとしている。
「そのノルイエは、さて、どこにいるのかね」
「ああ、今はおれの中に」
「おまえの?」
「疲れたとかで」
「……おまえは精霊の巣になっているのかい?」
「ノエの力を直で受けているので、休むにはおれの中が一番いいそうなんです。どういう理屈かは、ノエ自身も説明できていませんでしたよ」
「わたしにもその理屈はわからないね……」
命が危ぶまれるほどの怪我をしたクロを、ノエがシャナとの契約のもと助けるには、シャナがクロを名実ともに夫として迎える必要があった。だがそれには時間がなく、ノエは自身の契約だからと強引な手段に出、結果クロを目覚めさせた。その強引な手段のせいで、ノエは随分と疲弊したらしい。クロが目覚めてから、ずっと姿を見せない。どこにいるのかと思っていたら、クロの中にある棲処で休んでいるようだ。
「シャナの中でも休めると言ってました。まあ、許しませんでしたけど」
「……。おまえは意外と心が狭いね」
「シャナはおれの奥さんです」
「ノルイエは男性体だが、精霊だから雌雄はないのだがね」
「それでも許せません。シャナはおれのです」
はっきりと、迷いなく断言するクロが、恥ずかしい。けれども、そう言ってもらえるのは嬉しい。
「シャルナユグ殿下」
ふと、ネフィスに呼ばれる。
「こんな弟だが、よろしく頼む。わたしの可愛い弟だ」
ネフィスにはもともと反対する気持ちなどなかったと思う。クロが黙って国を出たのも、実はそんなに怒っていないはずだ。むしろ、クロが国を飛び出したことを一番に喜んでいるのはネフィスではないかと、シャナは思っている。でなければ、こんなに優しい笑顔にはならない。
「ありがたく、そのお言葉を頂戴いたします」
微笑んで返事をしたシャナに、満面の笑みを浮かべてついでにしがみついてきたのはクロで、おまけとばかりにネフィスの目の前で口づけされた。
「そういうことはわたしが見ていないところでなさい」
ばしん、とネフィスに頭を叩かれていたが、クロは、とても幸せそうに笑った。