24 : 精霊のように。
いつまでそうしている気だ、とどこからかノエの声が聞こえてきた。クロはその声に、笑って返す。
「帰りたくても帰れないんだ。どうすればいいかな」
「おまえに帰る気がないだけだ」
「おれは、シャナのところに帰りたいと思っているよ」
「本当に?」
「ひどいな、ノエ。おれは帰りたいよ。帰りたいと思うようになったんだよ」
見ていればわかっただろう、とクロはくすくすと笑う。今も脳裏に浮かぶのはシャナのことで、シャナのこと以外は考えられない。
「なら、立て」
「立ってるよ」
「前に進め」
「進んでる」
「振り向くな」
ノエの声は、どこから聞こえてくるのだろう。そして自分は、なぜこんなところを歩いているのだろう。
今さらそんなことを疑問に思いながら、クロは歩き続ける。不思議なことに身体は疲れず、息が上がることもない。
「ノエ」
「なんだ」
「おれは、どうしてまた、ここにいるのかな」
この場所には見憶えがあった。幾度か彷徨ったことの在る場所だ。けれども、どこかはわからない。一面が真っ白なのか、それとも黒いのか、それすらもわからない場所だ。ただ、自分は立って歩いているという感覚がある。そう、しいていうなら、感覚だけがこの場所にある。
「おまえは迷子になり易い」
「迷子?」
「道を作ってやる。それを辿って、帰れ」
「道……そんなものがここにあるの?」
「在る」
そのとき、どくん、と強く心臓が鼓動した。どくどくと、断続的にその感覚がクロを襲う。
不意に、なにかが気になった。
「あ、れ……?」
気になるものがなにかわからない。けれども、気になる。
クロは手を伸ばし、気になるそれを掴もうとした。だが掴むことができない。身体をもっと前に進めなければ、それには届きそうもなかった。
「進め、クロネイ・エイブン・セムコンシャス」
ノエの声で、よりいっそう強く、心臓が脈打つ。苦しいくらいの鼓動に眩暈にも似たものを感じた。それでも、クロは気になるそれを掴むため、前に前にと足を進める。
なにが気になっているのだろう。なにが、こんなにも気を惹かせるのだろう。自分はシャナのことしか考えられないのに、もしかするとそれはシャナなのだろうか。
シャナが、呼んでいるのだろうか。
「しゃ、な……?」
シャナを呼んだ声は、なぜか掠れた。さっきまでノエとふつうに会話していたのに、いきなり声が出なくなってクロは戸惑った。けれども、そんな動揺も気を惹かせるものを前にしてはどうでもいいと思う。
「しゃる、なゆぐ……」
呼ばれているのかもしれない。シャナに、ここにおいでと、誘われているのかもしれない。だから気になるのだ。
「そうだ。そのまま進め」
ノエが促してくる。
クロはとにかく身体を前に前にと運び、そうしてふと、その姿を見つける。
「しゃな……っ」
やっぱり、気になったのはシャナだ。
シャナがそこにいるから、気になったのだ。
シャナはその報告を執務室で聞き、瞠目した。
「クロ、が……いなくなった?」
「はい。アイルアート医師が怪我の具合を診に窺ったところ、その身はどこにもなく……寝台はまだ温かかったそうですので、すぐにお探ししたのですが、近くでは見つけられず、現在も捜索中です」
なんてことだと、シャナは持っていた書類を卓に叩きつける。
「もっと人を増やしなさい! クロは大怪我を負っているのよ」
「殿下の騎士隊が捜索に加わっております」
「誘拐の可能性は?」
「形跡はございませんでした。ご自身で部屋から出られたものかと、アイルアート医師はおっしゃっております」
「そんな……昏睡状態にあったのに、すぐ動けるわけが」
誘拐されたとしか思えないクロの失踪に、シャナはわれを失う勢いで動揺する。こんな姿は誰にも見せられない、などと冷静に思っている部分もありながら、報告してきたエリオンに自分も探しに行くことを告げた。
「本当に、誘拐の可能性はないのね?」
「部屋は密室に近く、また不審者の目撃もありません。意識のないクロネイ殿下を部屋から連れ出すのは、警備の状況から見ても難しいかと」
「そう……わかったわ。クロの行動範囲はくまなく捜索なさい。わたしも近くを探すわ。それから……ネフィス殿下」
シャナの執務室には、客人として改めて招かれたクロの兄ネフィスがいる。シャナの仕事ぶりを眺めるついでに、さまざまな意見を出し、また相談していたのだ。
「お心当たりがありそうなお顔をしていらっしゃいますね」
ネフィスは笑っていた。くすくすと、まるで弟の遊びに呆れているような笑い方だ。
「心当たりと言うか、まあ、なんというか……もはや本能なのかと、思ってね」
「本能?」
「あれは、実は天恵にも似たような感覚を持っていてね」
「……クロが?」
「唐突に動き出すことがある。それは突き動かされているとしか思えない行動でね。おそらく、まともな思考が働いていないのだろう」
「? どういう意味ですか」
冷静なネフィスは、どうやらクロの失踪に心当たりがある。
「クロを呼んでみなさい」
「はい?」
「廊下に出て、クロを呼んでみなさい。そうすればわかる」
さっぱり意味がわからなかった。だが、ネフィスは断定的に言ってくる。クロを呼んでみろと、そうすればわかると言うのだから、ネフィスには経験があるのだろう。
シャナはとりあえず、言われたとおりに部屋を出て、廊下を見渡した。
「クロ……?」
どこにいるの、と囁くように、廊下の隅から隅まで、確認するように視線を動かす。
クロの姿はどこにもない。
だが、なにか感じる。
「……近くにいるの?」
広く細かく、視線を流してクロの姿を探す。
執務室からネフィスが出てきて、同じように周りを見渡した。
「いるねぇ……」
「本当に?」
「あれはノルイエという精霊に好かれているからね。ああ、天恵にも等しいものを持っているというより、存在そのものが精霊に近いのかもしれないな」
「精霊……クロが、精霊」
「あれは精霊に生かされていると言っても過言はないからね」
確かに、と思う。
クロはノエの力で生きている。ノエに見捨てられたら生きられない。人間としての生命力が薄いと言えるだろう。それなら、精霊に近くなっていても不思議ではない。
「クロ、どこにいるの?」
もしクロが精霊なのだとしたら、ノエがそうであるように、するりと姿を見せることができるだろう。気配なく歩くのだって、剣の嗜みがあるからというよりも、精霊のように生きているからできることだろう。
呼びかければ、探すまでもなくクロのほうから、現われるかもしれない。
「クロ……わたしはここよ」
目覚めたのなら、ここに来なさい。
わたしのところに、帰ってきなさい。
強く祈りながら、命じながら、クロを待った。
そのとき。
「しゃ、な……?」
背後から、声がした。
「しゃる、なゆぐ……」
その声に振り向く。
必死な顔をしたクロがすぐ後ろにいた。
「しゃな……っ」
いきなり現われたクロに、驚くとかそういうことの前に、シャナは涙を浮かべた。
クロが目覚めたのだ。
クロが帰ってきたのだ。
「クロ!」
両腕を広げ、倒れ込むように収まったクロの身体を、強く抱きしめた。