23 : 大切なひと。
シャナの初恋は、七つになったばかりの頃だった。相手は母方の従兄、ヴィアンナ・セナ・カフマ、その当時十八歳の美丈夫である。
なぜヴィアンナに恋したのか、はっきりとした理由はない。ただ、ずっと一緒にいられる人であり、シャナはヴィアンナを夫に迎えるのだと、漠然とだが思っていた。もちろんヴィアンナの優しさや逞しさ、シャナに向ける温かな微笑みには憧憬にも似た感情を抱いていたし、そういうところが好きだったのだから、けっきょくのところ全体的にヴィアンナに恋していたと言えるだろう。
ヴィアンナは好意を寄せるシャナを邪険に扱うことはなかった。ヴィアンナ自身も、シャナの夫になるのだろうという漠然とした思いがあったのだろう。どんなに忙しいときでもシャナのところへやって来て、他愛もない会話をしては笑う人だった。
「とてもやんちゃな人だったわ。運動神経があまりよろしくないのに、木登りをして見せて、足を踏み外して木から落ちて。騎士と試合をしては必ず負けて、悔しがるどころか大きく笑って……かっこいいところなんて一つもなかったわね。極めつけはあれね、剣を鞘から抜こうとして、丸ごと手から離して陛下の顔面に直撃させたことかしら。鞘が抜けなかったから惨事にはならなかったけれど、ひどく怒られていたわ」
ヴィアンナのことを思い出せば、言葉になるものがたくさんある。シャナにとってヴィアンナは兄であり、家族であり、とても大切な人だった。
「好き、というよりも……そうね、お兄さまだったから、ずっとお兄さまでいて欲しくて、夫婦にはなりたくないと思っていたわ。兄妹であれば、ずっと一緒にいられると思っていたの」
恋には、恋だったと思う。それでも、恋だと思いたくなくて抗った。一緒にいられればそれでよかったのだ。
けれども。
あの日。
ヴィアンナは死んだ。
シャナが十歳を迎えた冬、ヴィアンナは二十一歳だった。
「運動はてんで駄目な人だったけれど、とても賢い人だったの。だから、毎年僅かに数字が合わない財政について、陛下の勅命を受けて調査していたわ。それで明らかになったのが、デイラン国と密約を交わしていた高官……ヴィアンナはその高官の罪を暴いた。公の場で糾弾された高官は、開き直ったうえに逆上し、陛下に襲いかかったわ。ヴィアンナはそれを庇って、死んだのよ」
あの日は珍しく、ヴィアンナは帯剣していた。使うことがなければいいけど、と言いながら、シャナにその勇士を見せていた。行ってくるよ、と笑ったヴィアンナを見送った記憶が、鮮明に蘇ってくるほど、その日のヴィアンナはシャナにとってとても逞しく映った。
「最期まで、剣を抜かなかったらしいわ……なんというか、ヴィアンナらしい姿ね。剣を抜く、その意味を、彼はよくわかっていたと思うの」
犯した罪への贖いを、ヴィアンナは求め続けた。その正義が、結果、ヴィアンナを死に至らしめたと言えるだろう。確かにヴィアンナは剣が得意ではなかったかもしれない、けれども、それは剣が人の命を奪うこともあるのだと知っていたからだと、シャナは思う。
ヴィアンナは、人が人と争う世界を、嫌っていた。戦争を否定していた。いつでも、言葉を交わし合えば相互理解できると、言っていた。
「わたしは、駄目ね……あなたが傷つけられて、黙ってなんていられなかったのだから」
ヴィアンナはシャナとは違う。シャナは戦争を受け入れた。たくさんの命が犠牲になると知りながら、その衝動を、抑えられなかった。
今も、その衝動は、漸く抑えているような状態だ。
「ねえ、ぜんぶ、話したわよ。ヴィアンナのことが、知りたいって……言ったのは、あなたでしょう?」
握った手のひらは、仄かに温かい。僅かな赤味が戻った頬は、それでもまだ白い。いつも微笑んでいる口許は緩く閉じられ、軟らかく細められる双眸は今きつく閉じられている。
「お願い、クロ……起きて」
シャナを庇って銃弾を身に受けたクロは、あれからずっと眠り続けている。ヴィアンナのことが知りたいと言っていたから、だから聞かせたのに、それでもクロは目覚める気配がない。
わたしはまた、大切な人を失うのだろうか。
あの日、あのとき、ヴィアンナの冷たい姿を前に無力さを思ったように、またあの思いを、抱くことになるのだろうか。
ヴィアンナを失ったシャナは、今度こそ大切な人を護れるようにと、戦争を受け入れたはずだ。この手で大切な人を護りたくて、あのときのようにはなりたくなくて、それで、戦争を受け入れたはずだった。
「けっきょくわたしは、大切な人を、護れないの……?」
戦争しようがしまいが、どちらにせよ、大切な人を護れない。それならいったいどうすれば、シャナは、大切な人を護れるというのだろう。
「王女殿下、よろしいでしょうか。陛下がお呼びです」
補佐官フィルの声に、シャナは振り向く。
戦争が起きたからと言って、日々の執務を怠るわけにはいかない。むしろそれのあとだからこそ、より多く増えた執務を疎かにはできない。休むことなく働いてくれているフィルに、シャナは小さく頷いた。
「クロのそばに、誰か」
「承知しております」
「ありがとう」
クロが目覚めないからといって、心配だからそばに居続ける、などということは王女たるシャナにはできない。
ノエが言っていた。クロだって、それは望まないだろうと。クロは、シャナの働く姿に、惚れたのだからと。泣くだけ泣いたら、あとは、この精霊を信じみても、任せてみてもいいだろうと。
この契約がある限りクロは死なない、ノエはそう言ったのだ。
「……ノエ」
今は姿を見せることもできない状態にある精霊に、シャナは声をかける。
「早く、わたしにクロを返して」
シャナはそっとクロの頬を撫でると、部屋をあとにした。