22 : 現実を否定した。8
出血のわりに、傷そのものは大したことはないと、医師アイルアートは言った。問題は、傷の場所だった。
「心の臓に近く……或いは血の管に傷があるやもしれません」
銃の傷を治療するのは初めてで、明確なことは言えないと、アイルアートは肩を落とした。そのアイルアートを庇うように、なぜか治療に立ち会った金髪の青年が、アイルアートの治療は的確だと言う。
「小型も小型の銃は、それほど威力がない。だが、弾丸が貫通していた。体内に鉛が残っていなければ、傷は剣でつけられたものと同等だと思っていい」
銃に詳しいらしい金髪の青年は、そういってアイルアートを励ましたあと、小型の銃を隠し持っていたデイラン国の王子カルトの尋問に立ち会うと言い、部屋を出て行った。
シャナは、ただじっと、祈るように俯いていた。
涙はこぼれない。泣きたいとも思っていなかった。泣いても、この状況が変わることはないのだ。
「……姫、ちょっといいですか」
騒ぎ立てることなく沈黙していたシャナに声をかけてきたのは、同じように沈黙を護っていたノエだった。返事をすることなく耳を傾ければ、俯くシャナの視線に合わせるようにノエは膝をつき、椅子に座っているシャナを見上げてくる。
「まだ、おれの声が、聞こえますね」
もちろんだ。さまざまな声が、シャナの耳を通っては、抜けて行く。だからアイルアートの謝罪も、金髪の青年の言葉も、きちんと聞こえていた。ただ返事をする気力がなかっただけだ。
「……姫、泣いてください」
ぼんやりとノエを見つめたシャナだったが、ノエのその言葉に、ぴくりと眉を震わせる。
「あなたが泣かないと、なにも始まらない」
ゆるりと、シャナは首を傾げる。
なぜ自分が泣く必要があるのか、それでなにが始まるというのか、わからなかった。
「なんのために、あなたはおれと、契約したんですか」
そっと静かに、ただ穏やかに、ノエは問うてくる。
「いったい、なんのためですか」
責めるふうでもない、そっとした問いに、シャナは拳を震わせた。
「……くろ、が」
「クロが、なんですか」
「くろが……ひつようなの」
全身を包む強張りが、声を出すのに必要以上の力を欲する。発せられた声は、情けなくも引き攣っていた。
「ほしい、の……わたしを、ひつようとしてくれる、くろ、が」
思い返せば、たかだか数十日間のところで、シャナの心はクロのことでいっぱいに満たされた。するりと入り込んできたクロという存在を、拒絶しようにも拒絶できなくて、そして受け入れた。その気持ちは徐々に膨れ上がり、愛されることに喜びを見出し、気づけば戻ることもできない場所まで来てしまっていた。クロに振り回されるその日々を、いとしく思うように、なってしまっていた。
だから、ノエと契約した。
努力で得られた恩寵を差し出すことに、躊躇いもなかった。
「すき、って……っ」
引き攣った咽喉に、懐かしいような感覚がする。じわじわと昇ってくるそれに、けれども矜持が立ちはだかって、シャナは息を詰めた。
泣いても始まらない。
泣いても、クロの怪我がなかったことには、ならない。
「……姫、いいんですよ」
見上げてくるノエが、ただ真っ直ぐ、シャナの双眸にその姿を映す。
「あなたは、泣いていいんです」
微苦笑したノエには、シャナのちっぽけな矜持など、無駄だと思うものなのだろう。だが、それでも、シャナが唯一クロに対して卑屈に思ってしまうそれを、簡単に手放すことはできない。
ぐっと唇を噛み、シャナは深く俯く。
くっと、ノエが咽喉を鳴らして笑った気配がした。
「頑固だなぁ……クロは、思いっきり泣いて、ネフに切れられたってのに」
それは、とシャナは城門でのやり取りを思い出す。シャナが肩に受けた怪我のことだろう。瞳が潤んでいたが、やはりあのとき、シャナが少し意識を手放していた間、クロは泣いていたのかもしれない。
ちっぽけな矜持、もはや意地でもあるそれに拘って、涙を流さない自分は、薄情だと思われるだろうか。
「いや、でも、それが姫の本来あるべき姿なんだろうけどな。クロは、あいつはただ甘やかされて、皇子の教育なんてほとんどされてなかったから、我儘だ」
くつくつと笑いながら、ノエは立ち上がったのか、シャナの頭上に影を作った。
「姫、おれはクロと約束がある。セイエンに、クロと約束したことは死んでも護れと言われた。だからおれは、クロとの約束を優先させるぞ」
それまでシャナを敬っていた口調は消え、気紛れな精霊がそこにはいた。
ふと顔を上げれば、ニッと笑う精霊がいる。
「……の、え?」
「あんたはクロに世界を見せる。おれが、そうさせる。そのためにおれはあんたと契約した。だがまだ契約は完全じゃない」
「なにを……」
「血だ」
「え?」
「クロが流した分の血を、あんたからもらう。それで契約は完全なものとなる。まあ、多少強引な方法だが、おれから持ちかけた契約だからな。融通はきく」
ノエはシャナに手を伸ばすと、握りしめていたシャナの手のひらをやんわりと解いた。
ノエの言葉を理解できずにいたシャナだったが、考えようとする暇もなく、急激に視界が歪んだ。それがなんのかもわからずに、傾いだ身体が椅子から落ちそうになる。
「王女殿下!」
部屋に残っていた医師アイルアートが、焦ったように大きな声を出した。シャナはその声を聞いていたけれども、返事をすることはできなかった。
床に落ちた身体が、叩きつけられる前に、ノエによって助けられる。
「……のえ、なに……を」
「血は、水の部類に入る。操るなんて造作もない。おれは、水の精霊なんでね」
なんだか恐ろしいことを言われている。そう思ったが、急な眩暈は治まる気配がなく、シャナは耐えきれず瞼を閉じ、ノエに身を任せた。
「ノルイエどの、殿下にいったいなにを!」
「姫が」
「は……っ?」
「泣かないから、強硬手段に出た。泣きたくても泣けないんだから、仕方ない、おれが折れた。それだけだ」
「……、殿下になにをしたのです」
アイルアートとノエが、なにか会話をしている。それを聞きとることはできるのに、身体が動かない。少しすると思考する力まで遠ざかっていき、シャナは、気づくと意識を手放していた。