14 : 気紛れな精霊。3
常々「走るな」と注意される廊下を、誰かが走っている。なんだか騒々しい。なにかあったのだろうか。デイラン国が、なにかしらの動きを見せたのだろうか。
「騒がしいわね」
書類から顔を上げて首を傾げると、補佐官フィルも一緒になって首を傾げる。
「今日は特に議会が招集されるようなこともなかったと思いましたが……ちょっと見てきます」
「お願い」
静かに午後の政務に勤しんでいるのは、シャナの周りだけなのか。
フィルが部屋を出て様子を見に行ってくれたが、まもなく戻ってくる。
「フィル?」
「殿下、クロネイさまが……っ」
クロの名にどきりとしながら、なにごとかとシャナは立ちあがる。
熱が下がってからのクロは、安静を言い渡されておとなしく部屋で休んでいた。シャナとお茶をしたいというから、その時間になるとシャナのほうから出向くようにし、できるだけクロを動かさないようにと気をつけたのはつい最近のことである。怪我も順調に癒え、無理さえしなければ悪化するようなこともないと、医師アイルアートからの言葉もあった。
「クロがどうしたの」
「シャナ!」
それは気圧されるほどの、声だった。
フィルを押し退けて部屋に入って来たのは、寝間着のまま部屋を飛び出してきたらしいクロで、固定されている脇腹を押さえながら息を乱している。まだ動いてはならないクロがここにいることに、シャナは瞠目した。
「な……にを、しているの、クロ! 部屋に戻りなさい!」
「シャナ、ノエになにを言ったんだ!」
「! ノエに……?」
「ああもう…っ…なにがどうなってこんなことに」
やり場のない感情に戸惑っている様子のクロが、頭を抱えてふらりとよろめく。倒れそうになったところで、シャナは慌ててクロに駆け寄りその身体を支えた。それなりの重さを覚悟していたのだが、思った以上にクロは軽く、力が余ってしまったので急いで往なす。その反動で、けっきょく床にふたりして転んだ。
「軽過ぎるわ、クロ。こんなに痩せていたなんて……ちゃんと食事しているの?」
「それどころじゃないよ。ああでもこの体勢は美味しい。シャナのふかふかの胸……、じゃなくて!」
どさくさに紛れて抱きつかれているが、それはクロ本人も無意識のうちにしていることのようで、ぐっとシャナに顔を近づけると上目遣いに睨んできた。
「ノエになにを言った? それとも、ノエになにか言われた? どっち?」
「……クロを部屋から出さないように、とは言ったわ」
「違う! いや、違わないけど……そうじゃなくて、あの話をされたんじゃないのか?」
「あの話?」
なんのことかしら、と思ったのは、誤魔化そうとしたからではなく、本当にわからなかったからだ。
「契約だよ。おばあさまがノエとそう契約したように、シャナにもって……そういう話をされたんじゃないのか?」
「ああ……」
「したのか!」
決起迫るようなクロの姿に、シャナの目が丸くなる。そんなにすごい話ではないのに、むしろクロには喜ばしい話なのに、なにがいやなのか怒っているように見えた。
「どうして! シャナには天恵がないから、しないと思ったのに……っ」
「天恵はないけれど、わたしには恩寵があるのよ」
「え……っ?」
「この国の王女として産まれ、国を背負う者としての、恩寵があるのよ」
それは、運命、と言うのかもしれない。
シャナはセムコンシャスという王国に、王女として産まれ落ちた。シャナのほかに子に恵まれなかった王家は、これもまた運命だと受け入れ、シャナを幼い頃から統治者として育て、国を護るすべを教えた。シャナには天から恵まれたものがない、それでも、そういう恩寵は与えられたのである。天恵とは神から与えられた特別な力だが、国から与えられる恩寵もあるのだ。
「地の力、だそうよ」
「地?」
「地の女神アヌさまは、わたしのそれを、認めてくださったそうなの」
ノエから聞かされた話を、未だ信じられないところはある。それでも確かに、シャナはノエと、契約をすることができた。
「わたしがあなたの命を護りたいと思うことは、そんなに、おかしいこと?」
「……ノエと、契約……したのか」
「したわ」
してはならないことを、したとは、思っていない。クロを失えないと思ったからこそ、信じられない話を確証もなく受け入れた。けれどもそれは、クロを思ってのことではない。自分自身が、クロを失ったらどうなるかわからなくて、怖かったからだ。
「なんで、そんなこと……おれはシャナに、そんなことをさせるつもりなんか、なかったのに」
「わたしが望んだことよ。あなたを……失えないの」
「シャナを失えないおれの気持ちも考えろよ!」
そう怒鳴られて、吃驚する。
「なんでそんな無茶するんだ。おれが、死ぬために国を出たって、そう言ったから? ノエがいないとだめだって、もう命数が尽きるんだって、そんな……そんな保身を、言ったからか?」
「クロ……待って、どうしてそうなるの? わたしは言ったわよ? あなたを失えない、これはわたしが望んだことだって」
「おれはシャナに、おれのことで振り回されて欲しくない!」
思わず、カッとなってしまう。
「わたしを好きだと言ったのはあなたよ! 振り回されて欲しくない? もう充分だわ。あなたのその言葉に、わたしがどれだけ振り回されていると思っているのよ!」
「シャナが好きだから、それはもうどうしようもないだろ! おれだって、予想外だったんだから!」
「だったら国から出なければよかったでしょう! そうすればわたしはあなたに出逢うこともなく、ノエと契約することもなかったわ!」
「生き長らえたくなかったんだよ!」
圧倒される言葉に、反論の余地を失った。
「おれの身体は、命数を延ばしているだけだ。脆弱なこの身体を治すことはできない。ミストだって治せなかったんだ。神さまにも見放されたこの身を、ミストは、だから気に入ったと嘯いておれを友と呼んだんだ。同情で神さまに気にかけてもらっていただけなんだよ!」
「クロ……」
「だから…っ…だから国を出たんだ!」
シャナに抱きついていた身体が、ふっと離れていく。
「クロ!」
きらきらと光るものが、宙に飛んだ。それがクロの涙だと、気づけないわけがない。
「クロ、待って!」
追いかける手のひらが、届かない。走り去る姿を、自分がしたことに後悔を感じないシャナは、追いかけることもできない。
ふと、ノエの言葉を思い出した。
「走らないで、クロ! お願いよ、お願いだから、身体を大事にして!」
そう叫んだときには、もうクロの姿はなかった。
『ただし、条件があるんですけどね。ついでに、理解してもらいたいことも、一つだけあるんです』
『……なに?』
『まずは条件から話しましょうか。国の恩寵があるあなたの力を、少しばかりわけてもらいます。おれに、ではなく、クロに、です』
『わたしの恩寵? わたしに天恵はないわよ?』
『姫はあるんですよ。神からの恩寵ではなく、国からの恩寵が。だから姫は、将来この地の王となる。とはいえ、それは一重に姫の努力の結果です。姫が国を護ろうと必死に勉強しなければ、国からの恩寵は得られなかったでしょう』
『国からの……わたしは国に必要とされている?』
『その恩寵が証明しています』
『そうなの……それで、その恩寵をどうやってクロに?』
『姫にある恩寵でおれと契約したら、クロを夫にしてください』
『……それだけ?』
『それだけ、なんて言わないでくださいよ。これが重要なんですから』
『クロを王族に迎え入れることは、もう決定しているわ』
『姫には重要ですよ。クロを王族に加えるというのは、あなたの夫とするということなんですから』
『? そうよ?』
『あー……わかっていませんね、姫。おれは、姫に、クロを夫に迎えろと言っているんですが?』
『迎えるわよ?』
『……姫、おれがセイエンの命令でクロを護っているのは、クロがセイエンの孫だからです。血縁にあるからです。姫とクロの場合、血縁にはないんですよ。それなのに、どうやっておれは姫の命令を聞いてクロを護ればいいんですか?』
『契約主の言葉には絶対ではないの?』
『そうだったらよかったんですけどね、生憎と精霊位が高位までくると、これがかなりの自由があるんです。絶対的ではありません』
『気難しいわね……』
『精霊とはそういうもんです。だから、血に縛られたりもするんです。セイエンはそれを利用したわけですよ』
『わたしの場合、クロを夫に迎えることで、ノエにその命令を聞かせることができるのね?』
『そこです、姫。意味、わかってます?』
『それは……つまり……』
『赤くなるってことは、わかってくれましたね。じゃあそうしてください。これで名実ともにクロはあなたの夫、あなたの血族です。おれはあなたの命令に従う。条件はそれだけです。まあ人間世界でも、一度契れば永続的でしょう。どんなに後悔しても、クロはあなたのものだ』
『そ……そうすることで、クロを失わずに済む、のね?』
『はい。そこで発生するのが、さっきも言いました理解してもらいたいことです』
『一つだけあると、言っていたわね』
『ええ。一つだけ、理解してもらいます』
『なに?』
『クロの病が治るものではない、ということです』
瞬間的に思い出したノエとの会話に、シャナは唇を噛む。
「ノエ、あなたの言う通りだわ」
両手を組み、祈るようにそこに顔を埋める。
「クロの苦しみは終わらない……命を、命数を、延ばしているだけだもの」
クロは、ノエの力で生きている。いや、生かされている。だから死ぬことはない。
けれどもそれは、長い苦しみを、クロに与えている。
クロの病は治ることはない。脆弱な身体を、健康にすることはできない。怪我をしてすぐに治ることもなければ、風邪を引かないなんてこともない。
ただ、命数を延ばしているだけ。
どれだけの苦しみがクロを蝕んでいることだろう。クロは、それから解放されたかったのかもしれない。
「ごめんなさい、クロ……それでも、わたしはあなたを失えないのよ」
好きだ、と。
思ってしまった。
失えないと思ったときに、それが愛だと、気づいてしまった。
クロと出逢う前の自分には、もう戻れない。
『人間てのは、いつの時代も、愛に葛藤するもんですね』
気紛れな精霊の言葉に、その通りだと、シャナは苦笑した。
だから、これは悟られてはならないのだ。
ノエとの契約は成った。けれども完全ではない。ノエにその命令をするまで、なにかに気取られてはならない。
婚礼まで残り僅かな日数、その日が待ち遠しい。
「ごめんなさいね、クロ……わたしはあなたを選んでしまったわ」
その苦しみを半分、背負うから。
その悲しみを半分、背負うから。
すべてを分かち合って、生きよう。
それがシャナに、唯一できること。