13 : 気紛れな精霊。2
「皇子……いえ、クロネイ殿下のご容態ですが、この、脇腹の骨にヒビが入ったようでございます。ご負担のないよう固定しましたので、しばらくは安静にしてください」
「骨にまでいっていたの?」
デイランの王子に腹部を蹴られたクロを診察した医師に、シャナは眉をひそめた。
「こう申すのはなんともいやなのですが、当たり所が悪かったのだと思われます」
「当たり所って……なんてこと。最悪だわ」
「ごもっとも。それから」
「まだあるの?」
「はい。肩と背に打撲、腕と足に擦り傷がございます。ですが、こちらはすぐに治りますのでご安心ください」
「……満身創痍だわ」
怪我だらけではないかと、シャナは項垂れながら椅子に腰かける。寝台にはクロが、少し息苦しそうにしながら眠っていた。
「本当にだいじょうぶなの?」
「今晩から明日、明後日は熱が出ます。感染症などの危険がございますので、こちらのほうで完全看護とさせていただきとうございます」
「命に関わることは?」
「今のところはございません」
だいじょうぶです、と医師は言うが、クロの身体は特殊だ。怪我で臥せっている間に、ノエの契約が切れてしまう可能性だって低くはない。
「早く治して。お願い」
「は……ですが、それにはクロネイ殿下の体力の問題も」
「お願いよ」
「姫……こればかりは」
「クロに苦しい思いをさせたくないの。お願い」
「……、承知いたしました」
無理なことを言っていると、無茶なことをさせていると、そう思っても、クロのことを考えると言わずにはおれない。
「わたしがそばにいても、なにもできないけれど……だからお願いね、アイルアート」
「御意」
医師アイルアートにその場を頼むと、シャナは座ったばかりの椅子を離れ、寝室をあとにした。
胸中はざわめき、悔しさに押し潰されそうだ。
廊下に出ると、いつかシャナがそうしてしゃがみ込んでいたように、ノエが不貞腐れたように壁際の床に座っている。
「ノエ」
呼びかけながら歩み寄り、ノエに視線を合わせてシャナも屈む。
「礼を言うわ、ノエ。国の体面を考えてくれて、ありがとう」
「礼を言われるようなことはしちゃいませんよ」
「とても助かったわ。それから、ごめんなさい。クロに怪我を負わせてしまったわ」
「それこそ謝られちゃ困ります。騎士としての立つ瀬がないでしょう」
「いいえ。これはわたしの責任よ。デイランの王子に、クロを逢わせてしまったのだもの」
ごめんなさい、と改めて謝ると、ノエは複雑そうな顔をした。
「上の者が下の者に謝るのは、どうかと思いますよ」
「あなたは精霊だもの。人間のそれには、関係がないはずよ」
「まあそうですが……気分は騎士なんで、そう扱っていいですよ」
人間として生活している時間が今も続いているから。ノエはそう言って、肩を竦める。
「あなたは変わった精霊ね」
「レスなんで」
「レス?」
「高位、という意味です。最高位は、セス」
「それは人間で言うところの、貴族階級みたいなものかしら?」
「似たようなもんですね。精霊位ですから。まあ、人間ほどごちゃごちゃした関係じゃありませんがね」
精霊界にもさまざまな秩序、理があるようだ。
「……ねえ、ノエ」
「なんです?」
「あなたの力は、どれくらい大きいの?」
レス、というのが高位で、セス、というのが最高位だというなら、レスの位にあるノエの力は、上から二番にあるということだ。それはかなり大きな力を持つということではないだろうか。
「おれの場合は器が大きいだけですよ」
「器?」
「おれっていう精霊の、ね」
ニッと笑うノエに、そういうことではない、とシャナは脱力しながら首を左右に振る。
「精霊が契約主のそばを離れて行動するなんて、考えられないわ。だから、それほど大きな力を持っているということでしょう?」
「ああ……おれは命令されているからセイエンのそばを離れて行動できるだけですよ。もともとおれはクロのためだけに召喚された精霊ですし、そう命令されてもまあクロならいいかなと思ったんで。だから器が大きいんですよ、おれは」
冗談で器のことを言っていたわけではなかったらしい。
「命令……けれど、おばあさまは亡くなられたわ」
「そうです。だから、その命令に従う義務はない。命令が契約内容なんでね。今おれが力を使ってるのは、クロを気に入ってるからです。赤ん坊の頃から知ってるし」
つまりクロは、気紛れな精霊のそれだけで、生きているということになる。それはなんと危うい均衡かと、シャナは僅かに眉をひそめた。
「ノエ、前に提案があると、言ったわね?」
「ん? ああ、そういえば言いましたね」
「わたしがそれを理解できるまで、待てると言ったわね?」
「姫ならわかると思ったんで。わかったんですか?」
わかるようで、わからない。以前ノエが提示したものは、シャナならそのうち理解できると言ったものだが、あれから数日経った今でもよくわかっていない言葉だ。
ただ、一つだけ言えることがある。
「わたし……クロを失いたくないの」
その気持ちに気づいてしまった。その想いを、大切にしたいと思うようになってしまった。だからなんとしてでも、ノエの提案というものを理解しなければならない。
「姫、答えは目の前ですよ」
「わからないわ。どうすれば、わたしはクロを失わずに済むの?」
「だから目の前なんですよ」
「……目の前?」
比喩ではないのか、とシャナはじっとノエを見つめる。
こうして見ると、ノエはどこかクロに似ていて、夕焼け色の双眸などはそっくりだ。ただ、クロほど眠そうな顔ではなく、精霊だというのにそれらしくない、騎士の顔をしている。こんなに人間味溢れる精霊も、世界には存在するらしい。
ふと、閃いた。
そうだ、ノエだ。
「あなたならクロを助けられるわ」
「そうですね。おれはそういう精霊ですから」
「ノエ、お願い。わたしはまだクロのことを半分も知らないの。もっとクロを知りたいの。そのための時間を、わたしにちょうだい」
時間が欲しい。クロがクロだから、こういう気持ちになったのだ。これがクロ以外の人であったなら、シャナは心を開くこともなかっただろう。シャナを好きだと言い、ごめんねと謝るクロに、シャナは真正面から向きあいたい。
「じゃあ姫、気紛れな精霊と契約しましょうか」
にこりと笑んだノエが、そう言った。
「ただし、条件があるんですけどね」