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五年付き合った彼氏が、私の妹を婚約者だと言うので、ライバル会社に転職して彼の会社を潰しました

作者: 熾星
掲載日:2026/09/13

 

会社の慰労パーティーで、神谷システムの会長夫妻は、私の妹――水野美咲の手を親しげに握っていた。


「本当にきれいなお嬢さんね。拓海がしょっちゅうあなたの話をするのも分かるわ。いつか本当に家族になってくれたら、私たちも安心なんだけど」


 五年間、社内では交際を隠してきた恋人の神谷拓海は、美咲を見ながら笑っただけだった。訂正することも、私のほうを見ることもなかった。


 一方、三か月近く深夜まで働き続け、ASTERを企画書一枚の段階から会社最大のプロジェクトに育ててきた私は、会場の隅でスタッフを手伝っていた。開始直前にサービス担当者が一人抜け、運営が回らなくなったため、たまたま私がワインのボトルを預かっていただけだった。


 それでも、拓海と美咲を囲んで社員たちが祝福している中に立っていると、私だけがこのパーティーとは何の関係もない人間のようだった。


 しばらくして、私は社員用の休憩室で拓海を呼び止めた。


「さっき、どうして何も言わなかったの? 私が彼女だって分かってるよね。お母さんはみんなの前で、美咲を将来あなたと結婚する相手みたいに扱ってた。それでも黙ってるつもり?」


 拓海は冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、何でもない話でもするようにキャップを開けた。


「美咲は入社したばかりだし、いきなりASTERに入ったことでよく思ってない奴もいる。親父と母さんに気に入られてるって分かれば、社内でも変に当たられなくなるだろ。美咲は澪の妹なんだし、俺が助けるのは澪を助けるのと同じだよ。ASTERの第二フェーズが落ち着いたら、俺たちのこともちゃんと話す」


 その言葉を聞くのは初めてではなかった。五年前、付き合い始めた頃には「会社を立ち上げたばかりだから」と言われた。三年前には資金調達が大事な時期だから、もう少し待ってほしいと言われ、一年前にはASTERの立ち上げが終わるまでと言われた。


 いつも、あと少しだった。


 休憩室の外から、美咲の声がした。


「拓海、お父さんたちが呼んでるって。取引先の人もほとんど来たみたい」


 私に向けていた苛立った表情が、声を聞いた途端に少し緩んだ。


「分かった。すぐ行く」


 拓海は私の横を通り過ぎた。廊下では美咲が待っていて、そのまま二人並んで会場へ戻っていった。


 私はしばらくその背中を見つめたあと、スマートフォンを取り出した。


 LINEには、三か月前から返事をしていない相手がいた。


 東雲テクノロジーの社長、朝比奈修司。


 三か月前、彼から転職の誘いを受けた。


 あの時は断った。


 けれど今は、迷わなかった。


「朝比奈社長。以前お話しいただいた件、お受けします」



1



 メッセージを送ってから少し休憩室に残り、気持ちを落ち着けてから会場へ戻った。


 メインテーブルの周囲は、さっきよりもさらに賑やかになっていた。


 拓海の母、神谷理恵は神谷システムの取締役でもある。その理恵が小さなジュエリーケースを開き、真珠のネックレスを美咲の前に差し出していた。


「これはね、私が結婚した時に拓海のおばあさまからいただいたものなの。普段使いするものじゃないけれど、これから大事なお客様に会う時には使えるでしょう。持っていて」


「そんな、大切なものを私がいただくわけには……」


 美咲は口では断ったものの、ケースを押し返そうとはしなかった。


 拓海が横から蓋を閉じ、そのまま美咲の手元へ戻した。


「母さんがくれるって言ってるんだから、もらっとけばいいだろ。これから顔を合わせる機会も増えるんだし、いちいち遠慮しなくていいよ」


 近くにいた若い社員たちが笑い始めた。


「やっぱり美咲さんと神谷社長って、そういう関係だったんですね」


「入社してすぐASTERに入ったのも、それでか」


「ずっと噂だけだと思ってた」


「そのうち本当に社長夫人になったりして」


 美咲は照れたように俯いた。


 拓海も否定しなかった。


 私は少し離れた場所に立ち、まだワインボトルを持っていた。


 五年間、私たちの交際は会社では秘密だった。拓海に「今は会社に余計な噂を持ち込みたくない」と言われ、それを受け入れてきた。会社ではただの社長とプロジェクト責任者で、食事会でも隣には座らず、退勤時間が重なっても別々に帰ることさえあった。


 神谷システムがまだ十数人しかいなかった頃から、私は拓海と一緒に働いてきた。提案書を作り、顧客を回り、開発チームとの調整もした。ASTERも、最初は十ページにも満たない構想書しかなかった。


 製品設計、運用モデル、テスト工程、顧客導入の流れまで、チームと一緒に一つずつ形にしていった。


 三か月前、ASTERが初めて大口顧客の本番環境で動き始めた時、祖母は入院していた。昼間は病院に顔を出し、夜は廊下の端でノートパソコンを開いた。熱を出したままオンライン会議に出た日もあったが、顧客テストの日程だけは遅らせなかった。


 そのASTERが、今年は当初予測の何倍もの売上を生む見込みになっていた。


 なのに今、拓海は私の妹の隣に立ち、周囲の勘違いを訂正しようともしなかった。


 理恵がこちらに気づいた。


「澪、そこで何してるの? 美咲のグラス、空いてるでしょう。ついでに注いであげて」


 周囲の会話が少し静かになった。


 美咲が慌てたように立ち上がった。


「大丈夫です。澪さん、最近ずっと企画で忙しかったので、まだ仕事のことで頭がいっぱいなんだと思います」


 美咲は私のところまで来ると、周囲に聞こえないよう声を落とした。


「お姉ちゃん、お願い。今日はみんな楽しんでるんだから、こんなことで変な空気にしないで」


 私は動かなかった。


 すぐに拓海もやって来た。


「澪、今日は会社のパーティーだし、親父たちも楽しんでる。美咲のグラスに一杯注ぐだけだろ。言いたいことがあるなら、帰ってから聞くから」


 私は拓海を見上げた。


「これはできない」


 拓海の表情が変わった。


 理恵もグラスをテーブルへ置いた。


「飲み物を注いであげるだけでしょう? 数年会社にいるからって、少し勘違いしてない?」


 私は持っていたボトルをテーブルに置いた。


「自分がいなければ会社が困るなんて言ったことはありません。ただ、今日はASTERの成功を祝うパーティーですよね。企画から顧客導入、第一フェーズの立ち上げまで、ASTERを担当してきたのは私です。誰かに仕事を与えてもらったから、ここに立っているわけじゃありません」


 理恵が眉を寄せた。


「でも美咲から聞いたわよ。ASTERの最初のアイデアは美咲が出したんでしょう? あなたは資料の整理と、その後の進行を担当したって」


 私は美咲を振り返った。


 彼女の目がすぐに潤んだ。


「澪さんがすごく頑張ったのは分かってる。でも最初の方向性は、私と拓海で話して決めたものだよ。入ったばかりの私が成果を主張するのも嫌だったから、今まで言わなかっただけ。昇進のことが気になってるなら、二人で話せばいいじゃない。こんなところで言わなくても……」


 私は美咲から目を離し、拓海を見た。


「拓海。ASTERをゼロから作ったのは誰?」


 彼はすぐには答えなかった。


 私から視線を外し、少し間を置いてから口を開いた。


「その話はあとにしよう。今日は取引先も来てるんだ。これ以上ややこしくするな。とりあえず美咲に謝って、続きは帰ってから話せばいい」


「私が謝るの?」


「澪、いい加減にしてくれ」


「じゃあ答えて。ASTERは誰が作ったの?」


 拓海は私の手首をつかんだ。


「いつまで続ける気だ? 今日のパーティーを全部台無しにしたいのか?」


 会場警備のスタッフが二人、こちらへ近づいてきた。


 理恵が彼らに視線を向けた。


「申し訳ないけれど、少し外に出してもらえる?」


 スタッフが私の両側に立った。


 身を引いた拍子に、テーブルの端に置いてあったワインボトルが落ち、鈍い音を立てた。


 私は拓海を見た。


「今日のこと、覚えておいて」


 拓海は冷たい目をしていた。


「このまま続けるなら、明日から会社に来なくていい」



2



「明日まで待つ必要ない。今辞める」


 警備スタッフから離れ、胸元の社員証を外して拓海の足元へ投げた。


 プラスチックのケースが床に当たり、端に亀裂が入った。


 会場が静まり返った。


 拓海は明らかに驚いていた。


 私が本当に辞めるとは思っていなかったのだろう。


「本気で言ってるのか? ASTERはこれから第二フェーズに入るんだぞ。こんなタイミングで抜けた責任者を、他の会社が簡単に評価すると思うか?」


 少し間を置き、いつものように私を諭す口調で続けた。


「今の転職市場がどうなってるか分かってるだろ。ここなら役職も給料も顧客との関係も安定してる。神谷システムを出て、すぐ同じ条件の仕事が見つかると思ってるのか?」


 私は彼を見た。


「それは神谷社長に心配していただくことではありません」


 会社で使っていた呼び方を、初めて二人の間でも使った。


 拓海の顔がわずかに強張った。


 理恵は苛立ったように言った。


「辞めたいなら辞めればいいわ。一人抜けたくらいで会社は止まりません。美咲、ASTERの仕事は拓海からきちんと教えてもらいなさい」


「はい。頑張ります」


 私はそれ以上何も言わなかった。


 ホテルを出ると、夜風が頬に当たった。自動ドアが閉まった途端、握りしめていた指がまだ震えていることに気づいた。


 五年。


 恋愛も、仕事も、ほとんど全部を拓海と神谷システムに使ってきた。ASTERのためなら休日も削ったし、祖母が入院している時でさえパソコンを病院へ持ち込んだ。


 それなのに最後は、自分の成果が誰のものなのか、人前で証明しなければならなかった。


 涙が落ちた時、スマートフォンが震えた。


 朝比奈社長からだった。


「歓迎します。条件は以前お話しした通りです。明日午前九時、本社でお待ちしています」


 私は涙を拭いた。


「分かりました」


 翌朝、正式な退職手続きと引き継ぎのため、神谷システムへ向かった。


 プロジェクト部門のドアを開けた瞬間、足が止まった。


 私の机はすでに空になっていた。


 コーヒー、クッション、小型加湿器、三年間育ててきた観葉植物、引き出しに入れてあった私物まで、段ボール箱にまとめて壁際へ置かれている。


 代わりに机の上には、ピンク色のぬいぐるみや香水、化粧品が並んでいた。


 美咲が私の椅子に座り、限定品のマグカップで飲み物を飲んでいた。


 私を見ると、わずかに顔を上げた。


「澪さん、まだ来たんですか? 昨日、拓海にもう来なくていいって言われてましたよね」


 私は歩み寄り、彼女の手からカップを取って自分の段ボール箱へ入れた。


「それ、私物だから」


 美咲が立ち上がった。


「何するんですか? この席、今は私が使うように言われてるんですけど」


 周囲の社員たちが仕事の手を止めた。


 総務人事課の佐藤課長がこちらへ歩いてきた。


「澪さん、ちょうどよかった。今朝の役員会で、美咲さんが当面ASTERの責任者代行を務めることになりました。退職日は本日付で処理します。ただ、現状のリスク一覧、顧客対応の進捗、システム権限については今日中に引き継いでください」


 私は美咲を見た。


「美咲にASTERを?」


 佐藤課長は少しだけ表情を固くした。


「上の決定です」


「第二フェーズで同時に切り替えられない顧客がどこか、分かってるんですか? 今どのインターフェースが監視対象なのかも?」


「退職後の運営は会社側で判断します。澪さんは必要な引き継ぎをお願いします」


 そこで私は、もう一つ確認しなければならないことを思い出した。


「先月のASTER合同テストで、会社の支払いが間に合わなかった分、財務責任者の承認を取って私が立て替えた百五十万円があります。精算申請はもう通っていますよね。支払日はいつですか?」


 佐藤課長の視線が一瞬揺れた。


「その件は……今、財務で止まっています」


「どうして?」


 横から美咲が笑った。


 髪を肩の後ろへ払うと、首元に新しいブルガリのネックレスが見えた。


「澪さん、会社にお金がないと思ってるんですか? 拓海が、ASTERは今資金を残しておきたい時期だから、立替金は少し待ってもらうって。手続きは終わってるんだから、あとでちゃんと戻るでしょ?」


 美咲はネックレスに触れた。


「私は責任者代行になったばかりで、これからお客様に会うことも増えるからって、拓海が買ってくれたんです」


 百五十万円前後するモデルだった。


 祖母の手術後のリハビリや、その後の生活費のために残しておいた金だった。


 拓海もそれを知っていた。


 私は段ボール箱をその場に置き、社長室へ向かった。



3



 ノックもせずにドアを開けた。


 拓海はデスクの向こうで電話をしていた。私を見ると、眉を寄せた。


 通話が終わるのを待ち、デスクの前まで歩いた。


「私の百五十万円、どうなってるの?」


 拓海はスマートフォンを置いた。


「何の話だよ。それより、入るならノックくらいしろよ」


「ASTERの合同テストで立て替えた百五十万円。経費精算は終わってるのに、どうして振り込まれてないの? 美咲は同じくらいするネックレスをつけてるけど」


 拓海は少し驚いたあと、露骨に面倒そうな顔をした。


「その話か。会社が払わないって言ってるわけじゃない。ASTERの拡大で一時的に資金を残しておきたいだけだ。ここで何年も働いてきたんだから、数日くらい待てるだろ」


 私は彼を見た。


「どうして急いでるかも知ってるよね」


 拓海は眉間を押さえた。


「おばあさんのほうだって、今日明日で百五十万全部必要なわけじゃないだろ。手術は終わってるんだし、これからはリハビリだ。順番に払っていけばいい」


「私への返金は待たせて、美咲にはその日にネックレスを買えるんだ?」


「何でも美咲と結びつけるなよ。あれは俺が個人的に買ったものだ。会社の精算とは別の話だろ」


「金額はほとんど同じだけど」


「だから何だよ?」


 拓海は椅子の背にもたれた。


「美咲はASTERの責任者代行になったんだ。これから顧客の前にも出る。ちゃんとしたものを一つくらい持ってたっていいだろ」


 創業直後、会社に金がなかった頃、私は何度も賞与の支払いを待った。テスト機材の予算が間に合わなかった時には、自分のカードで先払いした。拓海自身の生活費が足りなかった時期には、私の貯金から出したことさえある。


「会社にお金がなかった頃、私のボーナスは何度も後回しになったよね。テスト費用も私が立て替えた。拓海自身が生活に困ってた時だって、私は何も言わなかった。今になって、自分のお金を返してほしいって言っただけで、私が細かいみたいに言うの?」


 拓海の顔が曇った。


「昔の話まで持ち出すなよ。あれは澪が自分でやったことだろ」


 私は黙った。


 拓海は続けた。


「おばあさんのリハビリがいつまで続くかなんて分からない。そこに全部の貯金を入れ続けるつもりか? 美咲は今、会社の重要なプロジェクトを任されてる。顧客の前で責任者らしく見せるために使う金なら、会社にとっても意味がある」


 祖母は、私を育ててくれた人だった。


 気づけば、手が上がっていた。


 けれど頬に届く前に、横から手首をつかまれた。


 いつの間にか、理恵が社長室へ入っていた。


 次の瞬間、頬に鋭い衝撃が走った。


 耳の奥が鳴り、口の中に血の味が広がった。


「拓海に手を上げるつもり?」


 美咲もその後ろから入ってきた。


「やめてください。澪さん、最近お金のこともあって余裕がないだけだと思うんです。おばあちゃんのこともありますし……」


 理恵はバッグから白い封筒を取り出し、テーブルに投げた。


 中から数枚の一万円札が滑り落ちた。


「十万円入ってるわ。私個人からの餞別だと思って持っていきなさい。今日中に退職手続きを済ませて、これ以上拓海にも美咲にも関わらないで」


 私は床に落ちた紙幣を見下ろした。


 五年の交際。


 神谷システムが苦しかった時期を一緒に乗り越えた四年間。


 ASTERに費やしてきた時間。


 それら全部が、机の上に散らばった十万円と並べられているように見えた。


 私はゆっくり紙幣を拾った。


 理恵が鼻で笑った。


「最初からそうしていればいいのよ」


 拓海の声も少しだけ柔らかくなった。


「澪、もういいだろ。金を持って帰れよ。美咲にこれ以上当たるな。おばあさんのことで本当に困ったことがあるなら、病院くらい紹介できる」


 私は紙幣を封筒へ戻した。


 そして、そのままテーブルへ投げ返した。


 封筒が角に当たり、中身がまた散らばった。


「その十万円、自分たちで使って」


 理恵の顔色が変わった。


 私は口元の血を拭った。


「立て替えた百五十万円は、正式な手続きで全額返してもらう。それと、今日から私は神谷システムとも、拓海とも、個人的な関係は一切ない」


「澪、そこまで言うことないだろ」


「そこまでしたのは、そっちだから」


 私は背を向けた。


 後ろから理恵の声が飛んできた。


「警備に連絡して! 今後この人を勝手に会社へ入れないで!」


 振り返らなかった。


 その日のうちに引き継ぎを終え、パソコンも入館証も返却した。システム担当者が私名義の権限を停止するところまで確認し、最後に機器とデータの返却確認書へ署名した。


 部屋へ戻り、自分のパソコンを開いた。


 そこに神谷システムのソースコードや社内資料は一つもなかった。


 私は朝比奈社長へ電話をかけた。


「明日から正式に出社できます。一つだけ先に伝えておきます。神谷システムのコードや内部資料を東雲へ持ち込むことはありません」


 電話の向こうで、朝比奈社長が笑った。


「三か月前に声をかけたのは、神谷システムの資料が欲しかったからじゃありません。欲しかったのは、水野さんの経験と実力ですよ」


「分かりました」


「明日九時。待ってます」



4



 三日後。


 霞ノ宮市のロイヤルホテルでは、神谷システムのASTER第一フェーズ完了を祝う大規模なパーティーが開かれていた。


 同じ夜、拓海は美咲との交際も公にする予定だった。


 午後からInstagramには二人の写真が次々と投稿されていた。高価そうなドレスを着た美咲が拓海の隣に立ち、理恵も取材用の写真で満足そうに笑っている。


 私は東雲テクノロジーの新規事業部で、LUMINAと名づけた新しいプロジェクトの打ち合わせを終えたところだった。


 スマートフォンに拓海からLINEが届いた。


「今夜来い。みんなの前で美咲に謝って、この前は嫉妬して感情的になっただけだと認めれば、百五十万円はすぐ会社から振り込ませる。これが最後だ。これ以上意地を張るな」


 読み終えると、そのままブロックした。


 神谷システムを退職したことは、引き継ぎの一環として主要取引先にはすでに会社経由で通知されていた。


 それでも長年直接やり取りしていた担当者から、個別にメールや電話が入った。


 最初に連絡してきたのは、青山製作所の担当者だった。


「水野さん、本当に退職されたんですね。今日、神谷システムと第二フェーズの打ち合わせをしたんですが、新しい担当の方が技術面の質問にほとんど答えられなくて。ASTERはこのまま進められるんでしょうか」


「私はもう神谷システムの社員ではないので、ASTERについてお答えする立場ではありません。今後は新しい担当者へ直接確認してください」


「今は東雲に?」


「はい」


「もし新しいサービスを担当されるなら、その時は一度資料を見せてください」


「東雲の営業窓口から正式にご案内します」


 似たような連絡が、その日だけで何件か続いた。


 その夜九時近く、元同僚から動画が送られてきた。


「澪、これ見たほうがいい」


 ロイヤルホテルの会場だった。


 拓海はステージの中央に立ち、美咲はその隣で笑っていた。


 司会者がASTER第一フェーズの成功を祝ったあと、拓海は小さなリングケースを取り出した。


 美咲が右手を差し出した。


 その直後、メインテーブルにいた神谷正臣会長のスマートフォンが立て続けに鳴った。


 間もなく宮本が慌ててステージへ上がった。


「社長、青山、北川を含む複数社から、ASTER第二フェーズをいったん停止するという連絡が来ています。それ以外にも再審査を求める会社が出ています」


 拓海が振り返った拍子に、手の中のリングケースが傾いた。


 指輪が床へ落ち、小さな音を立てた。


 さっきまで拍手していた人たちが手を止め、前方の取引先担当者たちは次々とスマートフォンを確認し始めた。後方でも小声のやり取りが広がっていった。


「どういうこと?」


 理恵が立ち上がった。


「ASTERは順調だったでしょう?」


 宮本がタブレットを差し出した。


「法務にも正式な通知が届いています。以前の統括責任者が退職して以降、技術責任者が誰なのか分からないまま打ち合わせが続いていることを、各社がリスクと判断しています」


 拓海は画面を見たまま動かなかった。


 やがてスマートフォンを取り出し、何度も電話をかけ始めた。


 私の電話は鳴らなかった。


 番号はすでにブロックしてあった。


 美咲が腕を取ろうとした。


「拓海、落ち着いて。お姉ちゃん、まだ怒ってるだけだよ。少ししたら――」


 拓海は反射的に腕を引いた。


 美咲がよろめき、近くのテーブルへ手をついた。


 そのまま拓海は宮本と一緒に会場を出ていった。


 指輪は、美咲の指には入らなかった。



5



 翌朝、東雲テクノロジーの一階ロビーで騒ぎが起きた。


 朝比奈社長と会議を終え、エレベーターへ向かっていた私は、背後から呼ばれた。


「澪!」


 振り返った。


 拓海だった。


 目は充血し、ネクタイも曲がっていた。昨日と同じスーツは、ひどく皺になっている。


 受付の制止を振り切り、こちらへ歩いてきた。


「もういい加減にしろ。何社も契約を止めてるんだ。今すぐ戻って、顧客にASTERは問題ないって説明してくれ」


 以前と同じように、私の腕をつかもうとした。


 手が届く前に、警備員が間へ入った。


「離せ。俺は神谷システムの社長だぞ」


 朝比奈社長が私の横に立った。


「神谷社長。ここは東雲テクノロジーです。予約もなく来社して、うちの社員に手を出そうとするのは困りますね」


 拓海は朝比奈社長へ向き直った。


「これは神谷システム内部の問題です。澪はASTERの機密情報を大量に扱っていた。退職直後に東雲へ移って、同時に顧客が離れ始めた。何も疑うなというほうが無理でしょう」


 朝比奈社長は表情を変えなかった。


「水野の入社時には、情報管理部門と法務が確認しています。神谷システムのソースコードや内部資料は、東雲には持ち込まれていません。権利侵害があるとお考えなら、法務同士で話しましょう」


 拓海が私を見た。


「じゃあ、どうして顧客が止まるんだよ」


「顧客に聞けば?」


「澪」


「引き継ぎは全部終わらせた。ASTERもサーバーも資料も、全部神谷システムに残ってる。美咲が自分で作ったプロジェクトだと言うなら、今こそ彼女に任せればいい」


 拓海の顎が強張った。


「最初から、美咲じゃ無理だと分かってたのか?」


「美咲がASTERを作っていないことは知ってた」


 朝比奈社長が腕時計を見た。


「神谷社長、こちらはこのあと予定があります。ご用件があるなら、会社を通してください」


 警備員がもう一歩前へ出た。


 拓海はその場に残るしかなかった。


 その日の夜、高橋さんから電話が来た。


 ASTERを立ち上げた頃から一緒に働いていた、ベテランのエンジニアだった。


「澪、今日、神谷社長と会った?」


「来たよ」


「やっぱり。戻ってきてから、すごい顔してたから」


 高橋さんは疲れたように息を吐いた。


「それより美咲さんだよ。今日、初めて一人でASTERのアップデートを担当したんだけど、プロジェクトチームが二時間止まった」


「何があったの?」


「エンジニアが原因を調べていったら、そもそもアップデートが始まってなかったんだよ。責任者用の権限申請が終わってないのに、本人はずっと『認証キーはどこですか』って聞いてた」


 少し間を置き、高橋さんが言った。


「澪が毎回最初に確認してたことすら、知らなかったよ」



6



 数日後、高橋さんからまた電話があった。


 その日の午後、ASTERのプロジェクト会議に出ていたらしい。


 美咲の前には複数の異常レポートが並び、エンジニアたちは技術的な影響をすでに説明し終えていた。


 けれど、最終判断だけが出なかった。


 高橋さんはとうとう美咲に言ったという。


「ASTERを最初から作ったっていうなら、まとめて答えてください。今、三つのインターフェースで同時に遅延が出ています。どの条件ならロールバックするのか、顧客の優先順位はどうするのか、なぜ青山と北川を同時に延期できないのか。そこが分からないと、こちらは動けません」


 美咲は何度も資料をめくった。


 それでも、まともな答えは出なかった。


「その辺は……あとからお姉ちゃんがかなり変えてるから」


 その日に限って、理恵も差し入れを持って会社へ来ていた。


 プロジェクトが混乱していると知ると、すぐスマートフォンを取り出したという。


「澪が辞める前に何かしたんじゃないの? もしそうならSNSで公表するわ。業界中に何をしたか知らせればいい」


 ちょうど東雲から戻ってきた拓海が、母親の手を止めた。


「母さん、やめろ」


「どうして? こんなことまでされて黙ってるの?」


 拓海は答えず、美咲の前にレポートを置いた。


「美咲。ASTERの最初の企画も、自分が考えたって言ってたよな。じゃあ、まとめて答えてくれ。ロールバック条件、顧客の優先順位、第二フェーズの収益モデル。どうして青山と北川は同時延期できない?」


 美咲は俯いたまま、何ページも紙をめくった。


 やがて小さな声で言った。


「後半の技術とかモデルは、ほとんどお姉ちゃんがやってたから……」


 理恵が美咲を見た。


「あなた、ASTERは自分が徹夜して考えたって言ってたわよね?」


 美咲の目に涙が浮かんだ。


「最初のアイデアには関わったよ。でも、途中からお姉ちゃんが色々変えたの。私はただ、会社でちゃんと評価されたくて……みんながずっと褒めてくれたから、今さら違うって言いづらくなって……」


 拓海はしばらく黙っていた。


「結局、どこまで自分でやったんだ?」


 美咲は答えられなかった。


 翌日、一社目から正式な停止通知が届いた。


 三日後には、さらに二社が第二フェーズを延期した。


 月末には銀行からASTERの売上予測と資金計画を出し直すよう求められた。


 採用予定は凍結され、いくつかの部署で予算が削られた。


 契約が一つ止まり、予定していた入金が一つ消える。そのたびに資金繰りは少しずつ苦しくなっていった。



7



 数か月後、ASTERの第二フェーズは何度も延期され、主要顧客二社が更新を取りやめた。


 神谷システムは資金を作るため、いくつかの投資資産や不要設備を処分し始めた。


 東雲では、LUMINAの最初の顧客テストが始まっていた。


 もともと東雲と取引のあった企業に加え、以前ASTERを利用していた会社からも問い合わせが来た。そうした企業には、東雲の営業と一緒に改めて提案を出した。


 三か月ほど経ったある夕方、会議を終えて地下駐車場へ車を入れた。


 停車した直後、柱の陰から人影が出てきた。


 拓海だった。


 外は強い雨だった。肩も髪も濡れ、シャツまで肌に張りついていた。


 彼は運転席の窓を叩いた。


「澪。少しだけ開けてくれ」


 私はドアをロックしたまま、窓をわずかに下げた。


「ここ、東雲の社員用駐車場だけど」


「外で待ってて、車が入った時に一緒に……そんなことはどうでもいい。話がしたい」


 拓海は窓の縁に手を置いた。


「美咲のこと、全部分かった。俺が間違ってた。あいつの言うことを信じたのも、澪なら絶対に離れないって勝手に思ってたのも、全部俺のせいだ」


 雨水が頬を流れていた。


「もう一度やり直せないか? 美咲はASTERから外す。親父たちにも本当のことを話す。会社でも、もう俺たちの関係を隠したりしない」


「やり直す?」


「俺は本当に澪が好きなんだ。ずっとそばにいることに慣れすぎて、何をしても離れないと思い込んでた。悪かった」


「私が待ってると思ってたの?」


「そういう意味じゃない」


「じゃあ、どういう意味?」


 私は拓海を見た。


「美咲を信じた時、私には何も聞かなかった。ASTERを渡した時も聞かなかった。会社が私の立替金を止めてる間に、美咲にはネックレスを買った。それでも今、会社が苦しくなったから戻ってこいって?」


「百五十万はもう財務に処理させた」


「弁護士を通して返してもらった」


 拓海が黙った。


 私は窓を閉めようとした。


「待ってくれ」


 拓海が手を出した。


「白凪町に、親父たちが老後に住むつもりで買った家がある。名義は俺だ。澪が戻ってASTERを立て直してくれるなら、あれを譲ってもいい」


 私はしばらく拓海を見た。


「それ、ご両親の家でしょ」


「会社が立ち直れば、また買える」


「数か月前、百五十万円を返してって言った私に、細かいって言ったよね」


 拓海の顔が強張った。


「俺がここまでしても駄目なのか? 東雲で役職について、いい車に乗るようになったら、そんなに金のことばかり気になるのかよ」


 私は窓を少しだけ下げた。


「お金?」


 拓海を見た。


「祖母のために残してた百五十万円を返さずに、美咲にはネックレスを買った時は? あなたのお母さんが十万円を机に投げて、これで出ていけって言った時は? あの時は、お金の問題じゃなかったの?」


 拓海は何も言えなかった。


「神谷システムが今こうなってるのは、私がやったことじゃない」


 窓を閉めた。


「私が助ける理由もない」


 アクセルを踏み、車を出した。


 タイヤが水たまりを通り、拓海の足元に水が跳ねた。


 バックミラーの中で、彼はその場に立ち続けていた。



8



 神谷システムが資金繰りに追われ始めると、使っていない設備やサーバーまで売却候補に入った。


 ところがIT部門と財務が機器を確認した際、高性能GPUサーバー数台がなくなっていることが分かった。


 記録を追うと、美咲が「テスト環境変更」の名目で社外へ移動させていた。


 さらに財務から、別の異常が見つかった。


 会社に残っていた三千万円の運転資金が、「外注開発の前払い」として、設立から半年も経っていない会社へ送金されていた。


 申請記録には美咲の電子承認が残っていた。


 翌朝には、美咲の自宅から大きな荷物が消えていた。


 電話もLINEもつながらなくなった。


 宮本から後で聞いた話では、拓海は一週間ほど美咲を探し続けたらしい。


 最後に彼女が見つかったのは、霞ノ宮市内の会員制ラウンジだった。


 宮本も一緒に行ったという。


 美咲は黒いワンピースを着て、ASTERの外注先にいた年上の男性と酒を飲んでいた。


 拓海が近づくと、美咲は驚いたものの、すぐに表情を戻した。


「本当にここまで来たんだ」


「三千万はどこだ」


「何の話?」


 拓海が送金先の会社名を口にすると、美咲はしばらく黙った。


 やがてグラスをテーブルに置いた。


「会社、もうほとんど持たないんでしょ。あのお金をそのまま置いておいて、何になるの? 私だって自分のことを考えなきゃいけない」


「会社の金だぞ」


 美咲は笑った。


「今さら『会社のお金』なんて言うんだ?」


 隣にいた男が眉をひそめた。


「美咲、この人は?」


「前の会社の社長」


 拓海の顔から表情が消えた。


「前?」


 美咲は彼を見た。


「神谷システム、もうほとんど終わってるじゃない。まだ昔みたいに『神谷社長』でいられると思ってるの?」


 拓海が美咲へ手を伸ばしたところで、店のスタッフが間へ入った。


 押し合いになり、拓海はテーブルの角に肩をぶつけた。


 最後は店の外へ出されたという。


 その夜は冷たい雨が降っていた。


 宮本によれば、店を出たあと、拓海はしばらく軒下から動かなかったらしい。


 ちょうどその頃、私が出演した経済番組のインタビュー動画がネットで公開されていた。


 宮本が何気なくスマートフォンを開くと、その動画がニュースサイトのトップに表示されたという。


「水野取締役。以前お勤めだった神谷システムが、ASTERの遅延と顧客離れで厳しい状況にあると言われています。どう見ていますか?」


「中核事業を特定の人間の経験だけに依存させ、引き継ぎやチェック体制も整っていないなら、担当者が変わった時に問題が表面化します。退職した一人に責任を押しつけても、会社の仕組みそのものは変わりません」


 宮本が画面を見せると、拓海は黙ったまま最後まで動画を見ていたという。


 美咲が店の外へ出てくることはなかった。


 数日後、資金の流れを追っていた警察が美咲を確保した。


 その後の捜査と裁判を経て、業務上横領や詐欺などで実刑判決が下された。



9



 美咲の事件が表に出ても、神谷システムの資金問題は消えなかった。


 契約違反に伴う支払い、銀行借入、売上減少が重なり、会社は債務整理と資産処分へ進んだ。


 拓海が個人保証に入っていた不動産や車も処分対象になった。


 白凪町の家も残らなかった。


 その頃、理恵が脳梗塞で倒れた。


 治療後も後遺症が残り、長期のリハビリが必要になった。


 拓海自身も、会社の資金をつなぐために高金利の短期融資へ手を出していた。


 最初は電話だけだった催促も、やがて郵便や直接の連絡に変わった。


 宮本が病院へ見舞いに行った日、駐車場で拓海が二人の男に呼び止められているところを見たという。


「五百万、いつ返すんだ」


「もう少し待ってください。母が入院していて、資産も処分してる途中です」


「こっちには関係ない。来週までに返済案を出せ。無理なら、次の勤務先まで行く」


 数日後。


 昼休みの東雲テクノロジーのロビーに、拓海が現れた。


 私は管理職との会議を終え、社員食堂へ向かうところだった。


 受付付近が騒がしくなり、振り向いた。


 警備員を振り切った拓海がこちらへ来た。


「澪」


 次の瞬間、彼はその場に膝をついた。


 硬い床に膝が当たり、鈍い音がした。


 周囲の社員たちが足を止めた。


 数か月前よりさらに痩せ、顔にはまだ古い傷が残っていた。


「頼む。五百万だけ貸してくれ」


 拓海は顔を上げた。


「母さんはこれから長期のリハビリに入る。会社の借金と個人保証で家の金はほとんどなくなった。短期で借りた金も返せてない。五年も一緒にいたんだ。頼む、一度だけ助けてくれ」


 私は彼を見た。


 頭に浮かんだのは、神谷システムの社長室だった。机に投げられた十万円と、祖母のリハビリにいつまで金を使うつもりなのかと言った拓海の声だった。


「祖母が入院してた時、自分が何て言ったか覚えてる?」


 拓海が俯いた。


「覚えてる。あの時は俺が最低だった」


「そうだね」


 彼が顔を上げた。


「だったら――」


「貸さない」


 拓海はしばらく何も言わなかった。


「お母さんが病気になったことを笑うつもりはない。でも、リハビリのことも借金のことも、相談する相手は他にいる。病院や弁護士に相談すればいい」


 私は彼を見た。


「私のところへ来ることじゃない」


 拓海はしばらく黙っていた。


「五年も一緒にいたのに、本当に何も残ってないのか?」


「昔付き合ってたってだけで、何度でも助けてもらえると思わないで」


 私は警備員を呼んだ。


「お帰りいただいてください。今後、私用で来ても取り次がないでください」


 警備員が拓海を立たせた。


 拓海の眉が歪み、声が急に大きくなった。


「俺たちが全部失えば満足なのかよ。ここまでなっても、何とも思わないのか?」


 私は振り返った。


「私が祖母のことで困っていた時、あなたたちは私のその後なんて気にしなかったよね。今、自分が助けてほしい立場になったからって、私にそれを求めないで」


 警備員へ視線を戻した。


「お願いします」


 拓海は出口へ連れていかれた。


「澪! いつか後悔するぞ!」


 声がロビーの奥まで響いた。


 私はエレベーターへ向かった。


 ドアが閉まると、外の声も聞こえなくなった。



10



 半年後、LUMINAは東雲テクノロジーで最も成長率の高い事業になった。


 会社は大型の資金調達を完了し、本格的な上場準備へ入った。


 さらに一年半後、東雲テクノロジーは東京証券取引所グロース市場へ上場した。


 私は新規事業責任者から取締役CTOになっていた。


 上場当日、東京本社では小さな祝賀会が開かれた。


 朝比奈社長がシャンパンを持って私のところへ来た。


「澪、お疲れさま」


「朝比奈社長も、お疲れさまでした」


「もう取締役なんだから、いつまでそんなにかしこまってるんだよ」


「社長は社長ですから」


 朝比奈社長が笑ってグラスを上げた。


「じゃあ、次のステージに」


「次のステージに」


 グラスが軽く触れた。


 美咲の裁判も、その頃には判決が確定していた。


 会社資金の横領や虚偽の外注契約、設備の不正処分などが認定され、数年間服役することになった。


 理恵は脳梗塞のあと長くリハビリ施設で暮らしていたが、以前のようには戻らなかった。


 拓海は神谷システムの経営から完全に離れた。


 再建後も以前の立場へ戻ることはなかった。


 上場から一か月ほど経った頃、私は霞ノ宮市内で顧客との打ち合わせへ向かっていた。


 道路工事のため、ナビに指示されて古い住宅街へ迂回した。


 そこは、昔拓海と一緒に暮らしていた場所からそれほど遠くなかった。


 信号が赤になった。


 何気なく窓の外を見た。


 商業施設の裏口で、清掃会社の制服を着た男が大きなごみ箱を坂の上へ押していた。


 以前よりずっと痩せていた。


 髪にも白いものが混じっていた。


 配達用の自転車が水たまりを踏み、泥水が男のズボンに跳ねた。


 男は足を止め、袖で汚れを拭った。


 拓海だった。


 以前の同僚から、神谷システムの再建後、拓海が施設管理の外注会社で働いていることは聞いていた。


 個人保証の債務が残り、以前と同じ業界の管理職へ戻ることも難しかったらしい。


 信号はまだ赤だった。


 拓海がふと顔を上げた。


 道路を挟んで、視線が重なった。


 彼の手が止まった。


 持っていた清掃用具が少し傾き、地面に当たった。


 唇が動いた。


 窓越しでは何も聞こえなかった。


 私は窓を開けなかった。


 信号が青に変わった。


 後ろの車が小さくクラクションを鳴らした。


 助手席のアシスタントがスケジュールを確認した。


「澪、次の打ち合わせ、今出れば十五分前には着けます」


 私はナビを次の目的地へ切り替えた。


「うん。そのまま行こう」


 車を発進させた。


 バックミラーの中で、拓海の姿は少しずつ小さくなり、次の角を曲がる頃には見えなくなった。


 ナビが新しいルートを表示した。


 目的地までは、あと二十三分だった。


(完)





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