優しさの処分
優しい男は嫌われない。
ただ、選ばれない。
これは、自分はもう誰にも求められないのだと結論づけた男の話。
優しい人だよね、と言われたことがある。
褒め言葉ではあったのだろう。たぶん。
けれど、その言葉はいつも冷えていた。使いやすい場所に置かれた便利な道具みたいに、手触りだけが残って、中身はどこにもなかった。
その夜も、彼女は言った。
「ほんと、優しいよね」
居酒屋の照明は暗かった。テーブルの上だけが白く浮いていた。枝豆の殻、油の冷めた唐揚げ、水滴のついたジョッキ。四人席。向かいに座る彼女はよく笑っていた。僕にではなく、斜め前の男に向かって。
同じ会社の別部署の男だった。名前は知っていた。中身は知らない。背が高く、声が軽く、笑うときだけ少し首を傾ける。そういう種類の男だった。
彼が何か言うたびに、彼女は笑った。大したことは言っていなかった。ありふれた愚痴。雑な冗談。どこにでもある会話だった。けれど、そういう男は、それを軽く見せる術を持っている。中身ではなく、空気で押す。内容ではなく、雰囲気で通す。
彼女は、それにきれいに反応していた。
「いや、ほんと助かるよ。こういう人が彼氏なら安心だよね」
僕は笑った。笑う以外にやることがなかった。
安心。
ちゃんとしてる。
優しい。
怒らなそう。
浮気しなそう。
そういう言葉は、ずっと僕のまわりを漂っていた。仕事でも、友人関係でも、こういう場でも。
便利だと思った。
使いやすいと思った。
安全だと思った。
そういう意味でしかないことを、もう知っていた。
彼女がまた笑う。
「でもさ、やっぱ話してて楽しい人がいいよね」
そのあと、あの男が何を言ったのかは覚えていない。覚える価値がなかった。彼女が笑ったことだけが残った。肩が触れそうな距離で、目を細めて、少しだけ前のめりになっていた。
僕は烏龍茶を飲んだ。氷が鳴った。
たぶん、何も起きていなかった。恋が始まる瞬間だったわけでもない。ドラマみたいな決定的な場面でもない。
ただ、方向が決まっていただけだった。
誰に心が向くのか。
誰がただの安全圏で終わるのか。
その程度のことが、もう決まっていた。
帰り道、駅までの歩道はまだ濡れていた。昼間の雨が乾ききらず、街灯の光を鈍く返していた。
彼女とその男が前を歩いていた。並ぶ速度が同じだった。会話の間が短かった。沈黙が苦になっていないのが見て取れた。恋人ではない。ただ、そうなる側の歩き方だった。
僕は少し離れて後ろを歩いた。
「今日はありがとね」
駅の手前で彼女が振り返った。
「いや、こちらこそ」
「また飲もうよ」
また。
便利な言葉だと思った。
二度となくても成立する約束だ。
僕はうなずいた。彼女はもう僕を見ていなかった。
電車に乗って、窓に映る自分の顔を見た。ひどく普通だった。整ってもいないし、崩れてもいない。善良そうで、つまらなそうだった。
優しい男が好き。
浮気しない男がいい。
顔はそこまで気にしない。
話が合えばいい。
そういう言葉を、僕は何度も聞いてきた。
嘘だとは思わない。
たぶん本当に、そう思っている瞬間はあるのだろう。
けれど、選ぶときは違う。
安心できる男と、欲しい男は違う。
傷つけなさそうな男と、近づきたい男は違う。
話の合う男と、目で追う男は違う。
それだけのことだった。
誰かひとりの問題ではない。
ひとりなら偶然で済んだ。
二人なら相性で済んだ。
三人を超えたあたりから、もう法則だった。
僕は自宅に戻った。鍵を開けて、電気をつけて、上着を椅子に掛けた。流しには朝のコップが置いたままだった。洗濯物も干したままだった。生活はいつも同じ顔をしている。裏切らない。感情もない。ただ、やれば返る。
冷蔵庫の水を飲んだ。ぬるかった。
スマホが震えた。
彼女からだった。
『今日はありがと! また相談乗ってね!』
相談。
そういう役なのだろうと思った。
選ばれる男ではない。
残される男だ。
何かが終わったあとで、都合よく呼ばれる側だ。
優しいから。ちゃんとしてるから。傷つけないから。
僕は返信画面を開いた。閉じた。もう一度開いて、また閉じた。
結局、短く返した。
『こちらこそ』
送ると、部屋は静かになった。
僕はベッドに腰を下ろして、天井を見た。白かった。何もなかった。模様も、意味も、感情もない。見上げる価値のない面だった。
負けた、と思った。
誰かに告白して振られたわけではない。
奪われたわけでもない。
勝負を挑んだ記憶すら、まともにはない。
それでも、負けたと思った。
僕はずっと、人としては扱われてきた。信頼もされた。頼られもした。優しいと言われた。安心すると言われた。
ただ、男として欲しがられたことだけがなかった。
それだけだった。
それだけのことで、人はかなり長く壊れるのだと思った。
窓の外で電車の音が流れた。酔った笑い声が一瞬だけして、すぐ消えた。誰かの夜が続いていた。僕の夜とは別の場所で。
スマホの連絡先を開いた。名前が並んでいた。友人、同僚、仕事の相手。必要なときに繋がる相手たち。穏やかに付き合っていける人たち。
その中に、僕を欲しがる未来はひとつもなかった。
僕は画面を閉じた。
何かを諦めるというより、処分する感じだった。
ずっと手元に置いていたが、実際には一度も使われなかったものを、ようやく捨てる感じに近かった。
誰かに求められること。
男として選ばれること。
欲しいと思われること。
僕には、もうそういうことは起こらないだろうと思った。
年齢の問題でもない。
運の問題でもない。
相手が悪いわけでもない。
ただ、僕はそういう側の人間ではなかった。
そこにようやく気づいただけだった。
今までは、どこかで勘違いしていたのだと思う。
静かに生きていれば、いつか見つけてもらえるのではないか。
誠実でいれば、どこかで報われるのではないか。
ちゃんとしていれば、最後には選ばれるのではないか。
何ひとつ、なかった。
ちゃんとしている男は便利だった。
優しい男は安全だった。
話を聞く男は都合がよかった。
それで終わりだった。
部屋の隅の観葉植物は、水をやりすぎて葉先が黒くなっていた。放っておけばそのうち枯れるだろうと思った。立ち上がる気にはならなかった。
手をかける価値があるものと、もうないものがある。
全部を生かす必要はない。
僕も同じだった。
もう、自分の中のその部分には手をかけない。
期待しない。
勘違いしない。
待たない。
そう決めた。
翌朝、目覚ましの前に目が覚めた。カーテンの隙間から薄い光が差していた。昨日の続きみたいな朝だった。
歯を磨いて、シャワーを浴びて、スーツに着替えた。鏡の中の僕は、相変わらず普通だった。何も変わっていなかった。これから先も、たぶん大きくは変わらないのだろうと思った。
それでよかった。
会社に行けば、また誰かに優しいですねと言われるだろう。頼りになりますと言われるだろう。そうやって、穏やかで安全な人間として扱われていくのだろう。
その先は、ない。
僕はもう、自分が誰かに求められることはないだろうと結論づけた。
男として欲しがられることも、選ばれることも、もうない。
この先にあるのは、役に立つことと、迷惑をかけないことだけだ。
それで十分だと思うことにした。
いや、違う。
十分かどうかは、もう関係なかった。
それしか残っていないのだ。
靴を履いて、玄関のドアを開けた。廊下の空気は少し冷えていた。
僕は振り返らなかった。
ひとりで生きることを選んだわけではない。
もう、自分は誰にも求められないのだと結論づけた。
ただ、それだけだった。




