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優しさの処分

掲載日:2026/03/08

優しい男は嫌われない。

ただ、選ばれない。

これは、自分はもう誰にも求められないのだと結論づけた男の話。

 優しい人だよね、と言われたことがある。


 褒め言葉ではあったのだろう。たぶん。

 けれど、その言葉はいつも冷えていた。使いやすい場所に置かれた便利な道具みたいに、手触りだけが残って、中身はどこにもなかった。


 その夜も、彼女は言った。


「ほんと、優しいよね」


 居酒屋の照明は暗かった。テーブルの上だけが白く浮いていた。枝豆の殻、油の冷めた唐揚げ、水滴のついたジョッキ。四人席。向かいに座る彼女はよく笑っていた。僕にではなく、斜め前の男に向かって。


 同じ会社の別部署の男だった。名前は知っていた。中身は知らない。背が高く、声が軽く、笑うときだけ少し首を傾ける。そういう種類の男だった。


 彼が何か言うたびに、彼女は笑った。大したことは言っていなかった。ありふれた愚痴。雑な冗談。どこにでもある会話だった。けれど、そういう男は、それを軽く見せる術を持っている。中身ではなく、空気で押す。内容ではなく、雰囲気で通す。


 彼女は、それにきれいに反応していた。


「いや、ほんと助かるよ。こういう人が彼氏なら安心だよね」


 僕は笑った。笑う以外にやることがなかった。


 安心。

 ちゃんとしてる。

 優しい。

 怒らなそう。

 浮気しなそう。


 そういう言葉は、ずっと僕のまわりを漂っていた。仕事でも、友人関係でも、こういう場でも。


 便利だと思った。

 使いやすいと思った。

 安全だと思った。


 そういう意味でしかないことを、もう知っていた。


 彼女がまた笑う。


「でもさ、やっぱ話してて楽しい人がいいよね」


 そのあと、あの男が何を言ったのかは覚えていない。覚える価値がなかった。彼女が笑ったことだけが残った。肩が触れそうな距離で、目を細めて、少しだけ前のめりになっていた。


 僕は烏龍茶を飲んだ。氷が鳴った。


 たぶん、何も起きていなかった。恋が始まる瞬間だったわけでもない。ドラマみたいな決定的な場面でもない。


 ただ、方向が決まっていただけだった。


 誰に心が向くのか。

 誰がただの安全圏で終わるのか。

 その程度のことが、もう決まっていた。


 帰り道、駅までの歩道はまだ濡れていた。昼間の雨が乾ききらず、街灯の光を鈍く返していた。


 彼女とその男が前を歩いていた。並ぶ速度が同じだった。会話の間が短かった。沈黙が苦になっていないのが見て取れた。恋人ではない。ただ、そうなる側の歩き方だった。


 僕は少し離れて後ろを歩いた。


「今日はありがとね」


 駅の手前で彼女が振り返った。


「いや、こちらこそ」


「また飲もうよ」


 また。

 便利な言葉だと思った。

 二度となくても成立する約束だ。


 僕はうなずいた。彼女はもう僕を見ていなかった。


 電車に乗って、窓に映る自分の顔を見た。ひどく普通だった。整ってもいないし、崩れてもいない。善良そうで、つまらなそうだった。


 優しい男が好き。

 浮気しない男がいい。

 顔はそこまで気にしない。

 話が合えばいい。


 そういう言葉を、僕は何度も聞いてきた。


 嘘だとは思わない。

 たぶん本当に、そう思っている瞬間はあるのだろう。


 けれど、選ぶときは違う。


 安心できる男と、欲しい男は違う。

 傷つけなさそうな男と、近づきたい男は違う。

 話の合う男と、目で追う男は違う。


 それだけのことだった。


 誰かひとりの問題ではない。

 ひとりなら偶然で済んだ。

 二人なら相性で済んだ。

 三人を超えたあたりから、もう法則だった。


 僕は自宅に戻った。鍵を開けて、電気をつけて、上着を椅子に掛けた。流しには朝のコップが置いたままだった。洗濯物も干したままだった。生活はいつも同じ顔をしている。裏切らない。感情もない。ただ、やれば返る。


 冷蔵庫の水を飲んだ。ぬるかった。


 スマホが震えた。


 彼女からだった。


『今日はありがと! また相談乗ってね!』


 相談。

 そういう役なのだろうと思った。


 選ばれる男ではない。

 残される男だ。

 何かが終わったあとで、都合よく呼ばれる側だ。

 優しいから。ちゃんとしてるから。傷つけないから。


 僕は返信画面を開いた。閉じた。もう一度開いて、また閉じた。

 結局、短く返した。


『こちらこそ』


 送ると、部屋は静かになった。


 僕はベッドに腰を下ろして、天井を見た。白かった。何もなかった。模様も、意味も、感情もない。見上げる価値のない面だった。


 負けた、と思った。


 誰かに告白して振られたわけではない。

 奪われたわけでもない。

 勝負を挑んだ記憶すら、まともにはない。


 それでも、負けたと思った。


 僕はずっと、人としては扱われてきた。信頼もされた。頼られもした。優しいと言われた。安心すると言われた。


 ただ、男として欲しがられたことだけがなかった。


 それだけだった。


 それだけのことで、人はかなり長く壊れるのだと思った。


 窓の外で電車の音が流れた。酔った笑い声が一瞬だけして、すぐ消えた。誰かの夜が続いていた。僕の夜とは別の場所で。


 スマホの連絡先を開いた。名前が並んでいた。友人、同僚、仕事の相手。必要なときに繋がる相手たち。穏やかに付き合っていける人たち。


 その中に、僕を欲しがる未来はひとつもなかった。


 僕は画面を閉じた。


 何かを諦めるというより、処分する感じだった。

 ずっと手元に置いていたが、実際には一度も使われなかったものを、ようやく捨てる感じに近かった。


 誰かに求められること。

 男として選ばれること。

 欲しいと思われること。


 僕には、もうそういうことは起こらないだろうと思った。


 年齢の問題でもない。

 運の問題でもない。

 相手が悪いわけでもない。


 ただ、僕はそういう側の人間ではなかった。


 そこにようやく気づいただけだった。


 今までは、どこかで勘違いしていたのだと思う。

 静かに生きていれば、いつか見つけてもらえるのではないか。

 誠実でいれば、どこかで報われるのではないか。

 ちゃんとしていれば、最後には選ばれるのではないか。


 何ひとつ、なかった。


 ちゃんとしている男は便利だった。

 優しい男は安全だった。

 話を聞く男は都合がよかった。


 それで終わりだった。


 部屋の隅の観葉植物は、水をやりすぎて葉先が黒くなっていた。放っておけばそのうち枯れるだろうと思った。立ち上がる気にはならなかった。


 手をかける価値があるものと、もうないものがある。

 全部を生かす必要はない。


 僕も同じだった。


 もう、自分の中のその部分には手をかけない。

 期待しない。

 勘違いしない。

 待たない。


 そう決めた。


 翌朝、目覚ましの前に目が覚めた。カーテンの隙間から薄い光が差していた。昨日の続きみたいな朝だった。


 歯を磨いて、シャワーを浴びて、スーツに着替えた。鏡の中の僕は、相変わらず普通だった。何も変わっていなかった。これから先も、たぶん大きくは変わらないのだろうと思った。


 それでよかった。


 会社に行けば、また誰かに優しいですねと言われるだろう。頼りになりますと言われるだろう。そうやって、穏やかで安全な人間として扱われていくのだろう。


 その先は、ない。


 僕はもう、自分が誰かに求められることはないだろうと結論づけた。

 男として欲しがられることも、選ばれることも、もうない。

 この先にあるのは、役に立つことと、迷惑をかけないことだけだ。


 それで十分だと思うことにした。


 いや、違う。

 十分かどうかは、もう関係なかった。


 それしか残っていないのだ。


 靴を履いて、玄関のドアを開けた。廊下の空気は少し冷えていた。


 僕は振り返らなかった。


 ひとりで生きることを選んだわけではない。

 もう、自分は誰にも求められないのだと結論づけた。

 ただ、それだけだった。

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