牙の街
王都の北区、かつて鉱山町として栄え、今は廃墟寸前の雑居通り。
ここに、王都でも名を知られた裏組織《黒鱗》の根城がある。王国が表で取り締まれない闇取引、密売、奴隷売買、エルヴァインの流通も。そんな場所に、ザスは堂々と足を踏み入れていた。
「……さてと。殺されねぇといいがな」
小声で呟き、上着の内ポケットを叩く。そこには、25000ガリオンが入った重い革袋。三人家族が5ヶ月どころか1年暮らせる大金だ。だが、今のザスにとってはただの“仕入れ代”に過ぎなかった。
目的は、霧花――
かつて戦争末期に魔素活性剤として使われたが、強すぎる副作用と依存性のため、王国により流通が完全に禁止された。今では、“重罪級の禁制品”。
それでも、レヴルナには必要不可欠な材料だった。
◆
ボロボロの扉を開けると、中には数人の無骨な男たちがいた。目を合わせただけで刃物が飛んできそうな空気。ザスは表情を変えず、ど真ん中に座っている男に声をかけた。
「……俺はザス。酒場でお前の手下に頼んだ通り、霧花の受け取りに来た」
男は、長身でがっしりとした体格。そして、両目にかすったような大きな傷跡――名前はリービッヒ。《黒鱗》の幹部で、王国騎士団が10万ガリオンの懸賞金をかけているほどの大物だ。
リービッヒはザスをじろじろと見た。値踏みするような、あるいは嗅ぎ回る犬のような目つきだった。
「……ああ。霧花の取引か。」
彼はゆっくり立ち上がり、背後の帳の奥に声をかけた。
「例のブツ、持ってこい」
すると、2人の手下が木箱を抱えて現れた。蓋を開けると、中には紫と銀がまだらに混ざった乾燥花弁が敷き詰められていた。ザスは一瞥し、確認する。
間違いなく、本物だ。
「量はちょうど指定通り。だが――」
リービッヒがザスの顔を見据えた。
「……こんな量、普通の売人じゃ捌けねぇ。ましてや“使う”なんてな。何に使うんだ?」
「……調香だよ。近頃、強い香料を求める連中が多くてな」
ザスは涼しい顔で言ったが、内心では汗が滲んでいた。
リービッヒは眉をひそめたが、しばらくして鼻で笑う。
「まぁいい。25000ガリオンだ。金を出せ」
ザスは金袋を卓上に置いた。手下が即座に計数し、リービッヒが頷く。
「取引成立だ。とっとと消えろ」
「感謝するよ」
ザスは木箱を抱えて建物を出た。外の空気は、ひどく重く、そして安堵を含んでいた。
殺されなかった――
それが何よりの成果だった。
◆
その背中を、リービッヒは窓越しにじっと見つめていた。
「……あの男。どこかで見た顔だ」
手下の一人が言う。
「ザスっつってたな。ちょっと前から、西区の連中が“黒いエルヴァイン”の話をしてる。まるで魔素を吸い込むような、強烈なやつだってな」
「……レヴルナか」
リービッヒの声が低くなる。
「あれは出回ってる数が極端に少ない。流通ルートも不明。だが――確実に、俺たちのシマを荒らしてる」
そして思い出した。
リービッヒはしばらく沈黙したあと、ふっと呟いた。
「……あの顔、見たことある。数日前、西区の密売現場で見かけたな。あの時も妙な粉を持ってた……」
手下が訊く。
「黒いやつっすか? 最近噂になってる“レヴルナ”とかいう――」
「ああ、それだ。こいつは売人だな。だが、こいつが作ってるとは思えねぇ」
「じゃあ、裏に“製造屋”がいるってことか」
リービッヒはニヤリと笑った。
「面白ぇじゃねえか。そっちの本丸を突き止めりゃ、新しいルートごと奪えるってわけだ」
リービッヒは静かに手を握った。
手下たちの視線が鋭くなる。これまで“支配してきた”エルヴァイン市場が、知らぬうちに侵食されている。それが一介のチンピラだったら? 許されるはずがない。
「奴の名前を調べろ。住所、仲間、全てだ」
王都の闇は、今まさに牙を剥いた。