契約の夜
数日のあいだ、フランメはひっそりと小屋に引きこもっていた。
仕事も外出もせず、ろくに食事もとらず、ただ魔素の気配が残る道具類を磨き、沈黙の中で自問を繰り返していた。
「終わったはずだ。……あれはもう、渡していない。忘れろ。忘れろ……」
だが、そんな願いが通じるはずもなかった。
「いたぞ。おい、フランメ!」
その声が、破れかけた扉の向こうから聞こえたのは、日が沈みかけた黄昏どきだった。
フランメの全身が一瞬で硬直する。
誰だ? なぜ名を……?
扉を勢いよく開けて入ってきたのは、ぼろマントの男だった。あの、裏路地で“薬”を渡した男――だが、その目は別人のように輝いていた。
「“あれ”、お前が作ったんだろ? 昨日の粉。混ぜてたが、一部は明らかに異常だった。俺は今まで独学でエルヴァインを作ってきたが――あんなもん、他じゃ見たことねえ!」
「……知らない。何の話か、わからな――」
「ごまかすな。名前も知らねぇ薬だ。どこにも出回ってねぇってことは、誰かが密かに作ったってことだ。そして、その誰かってのが……お前だ。違うか?」
フランメは目を伏せ、椅子に崩れ落ちる。
「……あれは、気の迷いだった。二度と作らない。忘れてくれ……」
だが、男――ザスは笑った。感嘆と興奮の混ざった顔で、ずかずかと近づいてくる。
「やっぱり、そうか……。やべぇな、お前、本当にやべぇ才能持ってる。おれが今まで見てきたやつらと全然違う」
「才能? 冗談じゃない。俺はただ、手順通りに混ぜただけだ。配分を精査して、魔素の揺れ幅を抑えただけ……それだけのことだ……!」
「だからすごいんだよ!」
ザスは、机を叩いた。
「お前、調べさせてもらったがどっかの研究者だったろ? 錬金術師ってやつか? 細けぇ作業、俺はできねぇ。でも、それができるお前と、売り場を知ってる俺……組めば最強だ」
「組む……?」
「ああ。お前が製造、俺が販売。ちょうどバランスがいい。……名前もつけようぜ。あの薬、なんかこう……ほら、黒くて、深くて……」
フランメは、無意識に呟いた。
「……月、のようだった。だが、夜を照らす光じゃない。沈んだ、暗い……月の裏側」
ザスは目を見開いた。
「“裏の月”……レヴルナ……か。いいな。響きがいい。もう決まりだな、それで」
沈黙が落ちる。
「……ふざけるな。俺は薬を作るためにここにいるんじゃない。娘が病気で……その治療費を……」
「それだけ稼げりゃ、十分だろ。お前の薬、5倍の値段でも欲しいってやつ、いるぞ。いや、マジで。こんなにやばいのは、ねぇ」
ザスはゆっくりと腰を下ろした。
「なぁ、フランメ。お前、どうせ今、何者でもねぇだろ?」
その一言が、フランメの胸を突いた。
過去の記憶が、脳裏に浮かぶ。
――研究所では、目立たなかった。派手な理論を打ち立てる同僚の影に隠れ、実験の精度は誰にも勝っていたが、論文には名前も残らない。“器用貧乏”。そう呼ばれたこともあった。
それでも誇りがあった。だが、誤作動事故で――濡れ衣を着せられて――その誇りすらも奪われた。
「……お前さんの薬は、“ただ効く”んじゃない。“他と違う”んだ」
ザスの声が静かに響く。
「怖いのはわかる。だがよ、誰にも評価されなかった錬金術が、初めて『すげぇ』って言われたんだぜ? なあ、フランメ。本当に、このままでいいのか?」
答えは出ていた。ほんの僅かだが――フランメは、心のどこかで満足していた。自分が作ったものが、誰かを圧倒したことに。
「……わかった。条件がある」
「おう、何でも言ってみろ」
「製造場所の確保。高純度の薬を作るには、設備と環境が要る。適当な道具じゃダメだ。……俺が作るなら、完璧なものしか作らない」
ザスはにやりと笑った。
「任せとけ。俺の名はザス、金も、人脈も、いくらでも用意してやる。……俺たちで、“レヴルナ”を広めようぜ」
こうして、1人の元錬金術師と、1人の裏通りの売人が手を結んだ。
その日が、ラニラリー王国に“漆黒の月”が昇った瞬間だった。