後戻りの代償
薬品の匂いが染みついた小屋の片隅で、フランメ=レヴィルは目を覚ました。寝台などない。積まれた古布に背を預け、夜を越した。天井の梁から染み出す雨音が、不気味なリズムで鳴り続けている。
「……やってしまった……」
喉の奥から漏れた声は、かすれていた。昨晩、怒りと絶望のままに精製した“それ”。――魔素活性剤。いや、“エルヴァイン”。
戦時下に開発されたそれは、今では違法薬物として王国法で禁じられている。しかも、フランメの作った粉末は、他のどのエルヴァインとも違っていた。深い漆黒の色彩。吸った瞬間に表れる、魔素の乱舞と高揚感。あれは――間違いなく“効く”薬だった。
「……娘が……もし知ったら……」
自嘲するしかなかった。研究者としての矜持も、父親としての倫理も、すべては昨日の夜、酒と怒りの中で溶けて消えた。あの薬を――路地裏のあの男に渡してしまったのだ。
消さなければ。
フランメは鉛のように重たい足を引きずり、外へ出た。
市場の端。人通りの少ない裏通りに、あの男は今日もいた。黒ずんだマントの下に、言葉を失ったような若者が立っている。
「……なぁ、少しでいい。何か……気分が晴れるものを、くれねぇか……」
「おう、あるぜ。昨日、上物が入ったんだ。気に入ると思うぜ?」
フランメの心が、凍りつく。
“あれ”を、また誰かに使わせる気なのか――もう誰かが、中毒になるかもしれない。
フランメは震える手で、マントの裾をつかんだ。
「おい……話がある」
男が振り向いた。思ったより早く再会したことに驚いたような顔をする。
「おう、兄ちゃん。もう一本か? 気に入ったろ、あれ」
フランメは、首を振った。
「……すまない。私には、家族がいる。こんなものには……もう手を出せない」
そう言って、小さな革袋を男に差し出す。
「これは、千ガリオン。薬の代金……そして、昨日のぶんだ。忘れてくれ。……私にあれを渡したことも」
袋の中には、昨日渡された栄養剤と、フランメ自身が作った“漆黒の粉末”を慎重に混ぜて入れてある。完全に分離はしていない。証拠を隠滅しつつ、薬としての体裁も整えた。罪は消えない。それでも、せめて、爪痕だけは消せるはずだと信じていた。
男は袋の重みを確かめ、不審そうに眉をひそめた。
「……妙に多いな。中身、昨日のと同じか?」
「……ああ」
フランメは目を伏せた。
「……わかった。兄ちゃん、俺は何にも見てねぇし、誰にも渡してねぇ。安心しな」
そう言い残し、男は袋を懐にしまい、裏通りの闇へと消えていった。
フランメは、その場にしばらく立ち尽くしていた。吐き気と罪悪感が、じわじわと喉を満たす。
「……もう、終わりにしよう。これで終わりに……」
だが――その願いは、叶わない。
数時間後、夜。男の隠れ家。
薄汚れたランプの光の下、男は袋を開けた。
「へへ、千ガリオン……こりゃ豪遊できるな」
指先に少量の粉を取り、灯火にかざす。
「……ん?」
黒い。昨日と同じ、あの異様な漆黒。ただの紫色じゃない。いや、紫ですらない。
「こりゃ……混ざってんな」
慎重に粉末を分け、匂いを嗅ぎ、指で舐める。脳の奥に、かすかな痺れ。反応速度、瞳孔の開き――そして、胃の奥から駆け上がるような陶酔感。
「……これ、マジかよ……」
男は椅子に崩れ落ちた。
「……とんでもねぇ……これ……どこにもねぇ……」
目を見開いたまま、震える声で呟く。
「これ……売れる。間違いねぇ……ってか、これ……やべぇぞ……」
“あの兄ちゃん”――フランメ。ただの素人かと思った男が、実はとんでもない代物を作ったことに、男はようやく気づいた。
これはただのエルヴァインじゃない。目の前の粉末は、裏通りで売られているどの薬とも桁違いの“純度”だった。
こうして、男の脳裏にはっきりと刻まれる。
あの薬には、名前が要る。普通のエルヴァインじゃない。まるで、“闇の月”のように禍々しく、美しく、沈んでいる。