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深淵への入り口

プロローグの続きです

第1話:深淵の入り口

フランメ=レヴィルは、小さな旅行鞄を片手に、王都セレディアの裏通りをあてもなく歩いていた。


「出張だ。数週間で戻る」


そう妻に告げたのは、今朝のことだ。嘘だった。

彼はもう、王立魔導錬金研究庁の研究員ではない。


“追放処分”。研究記録の改ざんを疑われ、調査も不十分なまま言い渡されたその裁定は、突然にして容赦がなかった。魔力適正は中の上、華のある成果もなかった彼をかばう者は、誰一人いなかった。


「……ったく、何が“研究不備”だ。そんなミス、絶対にしてない」


噛みしめた唇から、血の味がした。


家には戻れない。生まれたばかりの娘・リリィの顔を見れば、すべてが崩れてしまいそうだった。

娘の病気――「魔素制御異常症」は、体内の魔素を自力で扱えないという難病だ。治療には高額な調合薬が必要で、王家の財政補助もあってようやく支払っていた。


もう無理だ。

このままでは、娘を救えない。


街の空気は湿っていた。夏の終わりの匂いが、焦げた金属のように鼻をついた。王都の裏通り――陽の差さぬ場所には、絶望と腐臭だけが満ちていた。


「兄ちゃん、浮かない顔してんな?」


突然、背後から声をかけられた。


振り向くと、ボロ布のようなマントを羽織った若い男が、薄笑いを浮かべて立っていた。

目が笑っていない。何かを試すような、狩人の目だ。


「これ、やるよ。最近流行りの“栄養剤”ってやつだ。活力が出て、気分も上がる。……危険なもんじゃねえさ、少なくとも今すぐ死んだりはしねえよ」


そう言って男は、銀色の小瓶を手渡してきた。

中には、紫色の粉末がひとさじ。かすかに甘い香りがした。


「……いらない。俺は、そういうのは――」


言いかけたが、男はにやりと笑った。


「まぁまぁ、タダだよ。使うか捨てるかは自由だ。じゃあな、兄ちゃん」


そのまま、トカゲのように路地裏へと消えていった。


フランメは小瓶をしばらく見つめたまま、深く息を吐いた。


「これは……エルヴァイン、か」


違法薬物――エルヴァイン。

魔素を活性化させる高揚感を取り除き、嗜好目的に特化させた禁断の錬成物。

紫樹苔、幻獣の灰、霧花。この三種を組み合わせることで生まれるが、霧花は王国の法律で栽培も流通も厳禁とされている。


だが――


(この香り、分離の工程が甘い。魔素の混在率が高すぎる。もっと低温で、濾過を二段階にすれば……)


無意識に錬成手順を組み立てている自分に気づき、フランメは目をそらした。

ふざけるな。こんなもの、作るわけが――


そう思いながらも、彼の足は古い山小屋へと向かっていた。


その夜、フランメは手持ちの錬金術道具を広げ、作業を開始していた。


まず、古い瓶から紫樹苔を煮出し、幻獣の灰を加える。気泡の立ち方、蒸気の色、微細な変化を一つ一つ確認する。

そして、最後に霧花――かつて研究所で密かに保管していた数グラムを加えると、液体は漆黒に変わった。


「……できた、のか?」


析出された粉末は、暗黒そのものだった。

一般的なエルヴァインは紫がかった銀色だが、これは吸い込まれるような黒。

フランメは、かすかに震える手で粉末を瓶に入れた。


仄かに漂う香りは、毒とも香ともつかない、官能的な甘さ。

手元の錬金測定盤で魔素含有量を調べると、測定限界値を超えて針が振り切れた。


「……ああ、やっちまった」


これをもし売れば、莫大な金になるだろう。だが同時に、それは重罪。

家族を守るために始めたはずの行動が、真っ逆さまに破滅への階段を滑り落ちていく。


だが――


「リリィ……お前の治療費を、絶対に手に入れる」


その言葉は、祈りではなかった。

闇に踏み出す決意だった。


小瓶の中の黒い粉は、今、名を持たぬ“逸品”だった。

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