魔素の流れる世界
この世界――ラニラリー王国を含む四つの大陸国家では、「魔素」と呼ばれる力があらゆる生命体の体内に流れている。
人は生まれながらに魔素を持ち、それを制御し、使いこなすことで魔法や錬金術といった“術”を編み出してきた。魔素の量や質は人によって異なり、特別な訓練や才能がなければ、その大半は無自覚に消費されていくにすぎない。
だが、魔素を意図的に“活性化”させることで――人は、通常の限界を超える力を手にできる。
魔法であれば火球は嵐の炎となり、氷は空間を凍てつかせる。錬金術においては、素材の分解・再構築が極限まで精密化し、通常ではありえない変換や調合が可能となる。その代償として、活性化された魔素は術者の精神に強烈な“快楽”を与える。
まるで、血が熱に浮かされるかのような陶酔感。それは、戦場において戦士たちを狂気へと導き、術者たちに破壊の快感を植えつけた。
――やがて、その“快感”だけを抜き出した薬物が生まれた。
その名は、エルヴァイン。
もともとは戦時下に開発された魔素活性促進剤の副産物であり、兵士の士気向上と魔法威力の強化を目的とした錬金薬だった。しかし、戦争が終わりを迎えると、その副作用――快感作用だけを利用する者たちが現れた。
魔素の強化も、術の威力も、必要ない。ただ、気分が高揚し、世界が美しく見えるだけの薬。肉体的依存は少ないが、精神への中毒性は凶悪。一度でもその“黒い快楽”に触れた者は、二度と普通の魔素状態には戻れない。
現在、王国ではエルヴァインの製造・所持・売買は重罪とされており、原料となる三種の物質のうち、特に幻覚性が強い霧花は完全な禁制品として指定されている。
とはいえ――エルヴァインの製造方法そのものは、特別なものではない。
紫樹苔、幻獣の灰、霧花。この三種を正しい比率で混合し、魔素を込めながら変性を促せば、誰でも“それらしい”粉末を作ることができる。だからこそ、流通しているエルヴァインの大半は不純物まみれの劣悪品だ。
精製には、繊細な魔素操作と錬金手順の理解が必要とされる。だからこそ、“高純度”のエルヴァインは、裏社会でも別格とされている。
そして今――ラニラリー王国に、ある逸脱者が現れようとしていた。
かつて「凡庸な職人」として忘れ去られた男。精密な錬金術操作だけを取り柄とした、哀れな中年研究員。
その手が創り出す“黒き薬”は、やがて王都を揺るがす存在となる。
誰もまだ、その名を知らなかった。レヴルナ――“魔素の闇夜”と呼ばれるその薬は、今まさに、誕生の時を迎えようとしていた。