10_ヤギは飼っていません
その夜、ウィンターはユアンに借りていた本を返しに、彼の部屋を訪れた。
コンコン、と扉をノックをし、「お兄様、入っていい?」と声をかけると、中から「どうぞ」と返事が返ってきた。
「お邪魔します」
部屋の中に入ると、ユアンは机で本を読んでいた。白いシャツにスラックスというラフな格好で、入浴後のまだ少しだけ湿った髪が、色気を引き立てていた。彼は読みかけの本を机に置き、こちらを振り返った。
「何?」
「借りてた本、返しに来たの」
ウィンターが持ってきたのは、本……ではなくゴミの残骸。
「返しに来たって……めちゃくちゃ破れてるんだけど。何したらこんなにボロボロになるの?」
「ロッカーに入れてたらそうなりました」
「ロッカーでヤギでも飼ってんの?」
「…………弁償します」
「弁償はいいよ。ていうか妹がシビアないじめに遭ってて普通に心配だよ」
「もう慣れたから大丈夫。そんなことより研究テーマ決まったよ」
ユアンは椅子から立ち上がって、ウィンターが抱えるゴミを取り上げてゴミ箱に捨てた。
ちなみに、ユアンが読みかけていた本のタイトルは、『美しいものは壊したくなる』という、かなり需要が限られていそうなものだった。
本棚には、『支配者の心得』、『服従の美学』など、いかにもなタイトルが並んでいたが、とりあえず見なかったことにした。
「ふうん、フェアドロね……。その人、知ってるよ」
「そりゃあ有名人だし」
「じゃなくて、直接会ったことあるから」
「その話詳しく」
「あー、肩が凝ってるんだよね」
「揉みます、むしろ揉ませてください!」
こちらも成績がかかっているので必死である。
ウィンターが前のめり気味に言うと、彼は面白くなさそうに答えた。
「あのさ、あんまり乗り気だとかえって興が冷めるんだけど」
「ドSはいいから、ほら座って」
半ば強引にユアンをソファに座らせて、肩を揉んでいく。このくらい、朝飯前だ。
ユアンの肩はウィンターよりも分厚くて、筋肉質。洗い立てのシャツから、香料の甘い香りがした。
「百年……いや、もっと前だったかな。ルクティアヌスが神界の掟を破って、力を半分取り上げられたことがあったんだ」
「何の罪を犯したの?」
「もうちょっと右。そこより上」
「御意のままに」
ユアンに指図され、ウィンターは揉む位置を調整した。
彼は話を続ける。
「まぁ、簡単に言えば愛しすぎた罪、かな」
「愛しすぎた罪?」
「ルクティアヌスは、地上でフェアドロを拾って世話を焼いてたんだ」
「え、神託を降ろしたんじゃなくて?」
「ううん、直接会ってた。恋愛感情があったかは分からないけど、今の――ギノと君みたいな特別な関係だったと思う」
ルクティアヌスは気まぐれに孤児のフェアドロを拾った。
彼はフェアドロを特別扱いし、他人よりも多くの恵みを与え、災いから守り続けた。
その結果、フェアドロはルクティアヌスに心酔し、二百五十体の神像を作り替えてしまったのである。
「本来公平であるべき神がひとりの人間に特別な愛を与え、堕落させた罪を問われ、ルクティアヌスは力を奪われるだけじゃなくフェアドロに関わることも禁止された」
「そんな……」
「フェアドロのことを知りたいなら、本人に直接聞いてみるといいよ」
「…………」
ウィンターは肩を揉む手を止めた。
「ギノ様は? 私が神界の意にそぐわないことをしたら、ギノ様にも迷惑がかかる?」
「まぁ、なんらかの制裁を受ける可能性はあるかも」
「そう……なんだ」
「手、止まってる」
「ごめん」
フェアドロとルクティアヌスの事件が、他人事には思えなくなってくる。
ウィンターの行動のせいで、ギノも責任を問われるかもしれないのだ。
(ルクティアヌス様がフェアドロを大切に想っていたことも、罪なのかな)
ウィンターには、何が正しいのかよく分からない。
確かに一度、ルティアヌスはフェアドロを堕落させたかもしれないが、更生しているし、彼はたくさんの素晴らしい作品を後世に残した。
「教えてくれてありがとう。ルーク様のところに行ってみるよ。もしかしたらあんまり話したくないかもだけど」
「話してくれると思うよ。大事な信者との思い出だし」
「…………」
「で、ペアの子とうまくやれてるの?」
「うん。順調だよ」
「ふうん。今日も楽しそうに一緒に歩いてたよね。結構距離も近めで」
するとユアンは振り向き、ウィンターの肩を押してソファの上に押し倒した。彼はウィンターを組み敷きながら、淡々とした声で言う。
「無防備すぎじゃない?」
「お兄様……?」
「一応さ、僕たちは血が繋がってない兄妹って設定でしょ。のこのこ部屋に入ってきて、マッサージまでして。襲われても文句、言えないよ」
手首を抑えられて、身動ぎすらできない。けれど、恐怖心はなかった。
ウィンターはまっすぐに彼を見つめて言う。
「でもしないでしょ。お兄様は私がほんとに嫌がることはしないって、分かってるから」
彼は毒気が抜けたように息を吐き、身を起こした。
「……そんな風に信用されてるとは思わなかったな」
ユアンは意地悪だが、境界線を見ているタイプだ。乙女ゲームでは、ヒロインが彼の心の壁を指摘し、踏み込んでいくシーンがあった。
ウィンターも時々、意図的に距離を取られていると感じることがある。心の奥に触れられないように、分厚い壁を作っているような感じ。
「ギノ様が、神様にも心の支えが必要って言ってた。お兄様は誰かを好きになったりしないの?」
「さぁ、どうだろうね。少なくとも今の神界は、特定の人間を愛してはならない空気感だから。僕はそれに従う。でもほんの少し、君とギノが眩しく見えるよ」
ユアンは、神界の掟に忠実だ。けれどどこか、寂しそうに見えた気がした。
◇◇◇
翌日、ウィンターは聖女の仕事で王宮に行ったついでに、ルークに会うことにした。
ルークの部屋に向かう途中、廊下で割れた皿を片付けているメイドを見つけた。
「手伝います」
その場にしゃがみ込んでそう声をかけると、メイドは顔を上げた。
「ありがとうございます、聖女様……!? いけません、聖女様のお手を煩わせるわけには……」
「気にしないで。ふたりでやったほうが早いでしょ」
ウィンターはにこにこしながら、皿の破片を片付けていく。すると、メイドが「痛っ」と指を抑えた。皿の破片で、指を切ってしまったのだ。
「大変、血が出てる。治癒魔法で……」
治してあげる、と言いきる前にウィンターの声は途切れた。
ウィンターを聖女として覚醒してから、一度も治癒魔法を成功できていない。覚醒前なら小さな切り傷を治すことはできていたのに、それすらコントロールできない。ウィンターはポケットからレースのハンカチを取り出して、メイドに渡す。
「これで止血して、あとで医務室で手当てしてもらってね」
聖女の力をものにできない自分が、ふがいなく思えた。
「……ありがとうございます」
「ハンカチは返さなくていいから。あの…… ひとつ聞いてもいいかな」
「なんでしょうか?」
「ステラがどこにいるかって、知ってる?」
ステラはウィンターを瘴気溜まりに突き落としたことで、終身刑となった。これまで聖女候補として国家に仕えてきた功績は一切無視され、どこかの牢獄に閉じ込められている。
その場所は、ウィンターには知らされていない。だが、この国の情報の中心である王宮にいるメイドなら、噂を耳にしているのではないかと思ったのだ。
「あまり大きな声では言えませんが……」
メイドは口の横に手を添えて、そっと耳打ちした。
「使用人たちの噂では、この王宮の――地下牢に投獄されているとか」
それを聞いたウィンターは、ぐっと喉の奥を鳴らした。




